苦虫の味 〈森商店シリーズ〉
小さなリュックサックが、私の隣の隣にぽつんと座っていた。
蛍光灯が、その周りを躍る小さな羽虫の影を揺らして、駅のホームの椅子に座る私の赤い顔と、リュックサックと、その周りだけを白く照らしている。
リュックサックには、なに戦隊だかわからぬ五人衆の写真がプリントされている。見る角度によって別のシーンに変わるはずの加工が、古さで両方のシーンが同時上映されて、カラフルな阿修羅の軍団のようになっている。
こんなに使い込まれた子供用のリュックは、初めて見る。
ファスナーに残った塗料からすると、元の色はまっ青だったのかもしれないが、褪色してしまって、水色がかった鼠色の、小ぶりなリュックサックにしか見えない。
もはや不審物ですらなく、朝から夜まで一人でここにずっといたような、寂しいながらも、ふてぶてしい横顔を晒している。
なんだか目が離せない。
恐る恐る手を伸ばし、背面を確認してみると、マジックで書かれた四つの塊が見える。漢字が滲んでいて判別できないが名前であろう。
ちょっと、開けてみてもいいだろうか。もう触ってしまったのだし。
すこしだけ持ち上げると、中で、ごろりとした塊が転げ、リュックの底をぼそっと叩いた。林檎だろうか。
「あのう」
はっとして、体が固まった。
小さな足が視界に入る。子供の運動靴だ。
ゆっくり顔を上げると、
くたびれた緑のジャージを着た、小さな老人が立っていた。
わなわなと震える小さな口をつぐんで、潤んだ瞳でこちらを見ている。
子泣き爺だ。
リュックから手を離す。
ごとんと、中のものが椅子を叩く音がした。
子泣き爺は、ひょっとリュックサックをひったくり、その胸に大事そうに抱いた。
左手に、まだ開けていない缶のコーヒーをにぎって。
こちらを上目使いでじっと見ている。
ジャージ姿の妖怪は、はげ頭の真ん中がべっこりくぼんででいる。
頭ばかり見ては失礼かと、胸の辺りに目線をやる。
——リュックサック、ジャストサイズだ。
「中、見た?」
「見てはない、悪かった」
そう言った私を見つめて、彼がリュックサックを隠すように、背中を向ける。
彼の体が硬直しはじめた。まずい。
「ちょっと」
声をかける。
「なんでしょうか」
ゆっくりこちらを向いた。
よかった。
石にさせてしまったら、放っておくわけにも行かなかった。
「いい、カバンだな」
彼は、何も言わない。
「つい、気になってしまって」
質問の真意を測りかねたのか、もぞもぞとリュックを抱え直している。
はげ頭の窪みに、汗が溜まっている。
「あの…りんごです。これは、りんごです」
言い訳のように、小声で呟いて、そそくさと立ち去っていった。
しまった。
私がリュックを触っているのを、少し離れて見ていたのだろうか。
私こそ、だいぶ不審に思われてしまった。
まもなく、電車が到着する。
同じホームの離れたところで、子泣き爺が背中を丸めて電車を待っているのが見えた。
こちらを見ないようにしながら、缶コーヒーを啜っている。
申し訳ないことをしてしまった。
大きな赤鬼が自分の荷物を触っていたのだから、さぞ、生きた心地がしなかったろう。
鬼の鈍感さが嫌になる。
すっかり林檎が食べたくなってる自分も嫌だ。
もう食べないと決めたばかりで、これだ。
——どうせ、青林檎だ。
鼻でため息をつく。
唾を飲み込む。
立ち上がると、目の前に蛍光灯が見える。
羽虫たちはまだ、踊っている。
やりきれない気持ちで、そこに集った羽虫をひとつまみ、口に入れてみた。
やはり、うまくはない。
電車に揺られながら、窓の外を見る。
暗闇に、私の赤い顔が写っている。
遠くを見たくても、自分の顔ばかり見てしまう。
こんな日は、早く寝るに限る。
アナウンスが、私の最寄駅の名前を呼んでいる。
突然、窓の外が白くなった。
窓に映った私の顔が消えた。
一反木綿が、電車の私をゆっくり追い越していった。
〈了〉
