「気持ちを分かれ」と表現するときに、見落としていること
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注意
これらの作品の重要な展開を明かします。
テレビアニメ
『新世紀エヴァンゲリオン』
漫画
『新世紀エヴァンゲリオン』
『地球へ…』
小説
『少年時代』(トルストイ)
はじめに
2022年4月27日閲覧
「気持ちを分かれという言葉は、多くの場合、悪い奴は良い奴の気持ちを分かって良い奴に近付けという意味であり、その善悪の前提が崩れるときもある。その前提を先に議論すべきである」と書きました。
これをさらに突き詰めたところ、「気持ち」とは「論理の前提」の一種であり、論理の構造から分裂も起こし、その「気持ち」をさらに考える「気持ち」もあり、議論の混乱を招くと考えました。
「混乱を招くから言ってはいけない」とまでは言えませんが、混乱を整理することは視野に入れました。
「気持ちを分かる」の程度
まず、『新世紀エヴァンゲリオン』テレビアニメ版で、頼れる大人として描かれることの多い加持がシンジに「相手の気持ちを完全に分かることは出来ない。自分だって怪しい」と話していました。
内向的なシンジは、それを覚えていたようです。
それとはかなり展開の異なる漫画版において、シンジは終盤で「人は分かり合えない」というゲンドウの言葉を聞きながらも、レイに「少しだけなら、心を通わせることが出来るんじゃないかな」と話しています。
多くの場合で、「人の気持ちは分かる」というときは、「全部は分からない」と前後して確認しておくことがあります。それが閉鎖的な人間には「分かっていなかったときに責められないようにするための保険だろう」あるいは「そうして安全を図る時点で分かっていない」と反論されるかもしれません。
「気持ち」の無限の連鎖反応
しかし、こと「気持ち」において、「人物aが人物bの気持ちを分かるか」と問われれば、「分かる部分」と「分からない部分」が存在しているとき、それを「分かる部分は表面的なものであり、分からない部分こそが肝心なのだ」と解釈して「分かっていない」と批判する権利は、b自身にとってはaではなくbにあるのでしょう。何故なら、「気持ちのうち、どれを分かってほしいのか」を選り分けて判断するのもまた「気持ち」だからです。
そして、「分かる部分」より「分からない部分」を優先すれば、「そんな人間に分かる部分を認めたくない」という「気持ち」も発生し、「何も分かっていない」という主張も生まれます。
トルストイの『少年時代』において、「自分は何を考えているのか、自体を考える」という連鎖がありました。
この小説を参考にしますと、aがbの「気持ち」を考える上で、bの気持ちには、「aに分かるbの部分」、「aに分からないbの部分」、「その2つのどちらを重視するかを考えるbの気持ち」の、少なくとも3つの部分が生まれるのです。
考えた時点でその3つに分割されるのですから、必ず「分からない」部分は生じます。
数学と矢と「気持ち」
数学者のカントールは、「無限集合」の定義を考え、「全体に必ず一部が対応する集合」だとしています。「自然数に対して、必ずその一部である平方数が1つずつ対応する」ようにです。
これが厳密に正しいかは私には数学的に判定し切れませんが、「気持ち」も考えた瞬間「気持ちを考える気持ち」、「ある気持ちに対応する気持ち」の分裂が発生しているので、無限に広がり、どこまでいっても「分からない部分」が生じるのです。
「自分の気持ち」もまたそうです。考える行いを「矢を射る」にたとえますと、「矢を射る自分」と「的になる自分」は、矢を撃っている間は別なのですから、既に別の相手になっているのです。
仏教やユング心理学では、意識や無意識の種類が考察されているようですが、それも近いかもしれません。
「言わない台詞」を「気持ち」と呼んでいるとき
また、「気持ち」を漫画などの「テレパシー」で表現するときは、冷静に考えますと、「その場の特定の条件では言わないけれども、別の条件でならば言う台詞の1つ」であることがほとんどです。小説の地の文や、漫画や映像作品のナレーションならば、また別ですが。
仮に石につまずき転んで「痛い」と言わなかったとして、超能力者がテレパシーで「痛い」という台詞を聞き取ったとしても、「痛い」という台詞は「痛み」そのものではないのでしょう。
また、経験のない負傷の痛みを、「痛い」という台詞を聞いて理解したかは、「分かる」の定義が曖昧です。
漫画や映像作品のナレーションも、主人公などの限られた人物の目線でのみ描かれ、全てを認識出来ないように工夫されているとも考えられるときがあります。
テレパシーの使えない人間の気持ちは、使える人間には分からない
『地球へ…』原作では、人間から偶発的に生まれる超能力者「ミュウ」が、人間の感情を読む、あるいは相手に伝えることが可能であり、また超能力者自身は「ガード」という能力の設定でその情報の流出を防げます。ミュウの指導者であるジョミーは、さらに別の拒絶を出来るようです。
しかしミュウは自分達を超える超能力者「ナスカの子」が現れたところ恐怖し、ジョミーが、「ガード」していたか曖昧ですが、「ナスカの子」に「心の声」を読まれると「気味の悪そうな顔」をしたことがあります。
ミュウが人間に与えた恐怖を、ナスカの子がミュウに与えたとも言えます。
ミュウは自分が読まれるまで、人間の心を一方的に読める上に読ませない能力を持つからこそ、読まれる恐怖を理解していなかったのです。すなわち「恐怖」などの「理解出来ない気持ち」とは、自分の意思や行動では変えられない出自や立場や感覚の差異による「論理の前提の壁」なのです。ミュウに読めない「気持ち」もあるのです。
ちなみに、ミュウではあるものの、人間側に味方するのを迷いながらも続けたマツカは、唯一それを知る人間の上司のキースの友人が死んだとき、キースの悲しみが伝わりました。冷徹な言動の多いキースにそれまでマツカは反抗や憎しみの感情を持っていたものの、「彼に付いてきて良かったのだ。満足だ」と涙を流しました。
つまりミュウは「心の声」以外の抽象的な感情も受信出来るので、一般的な人間の「ミュウへの恐怖」も「受信」は出来たはずですが、それを「理解」はしていなかったのでしょう。
何故なら、マツカが「友人の死を悲しむのは良いことだ。人間であろうと同じだ」とキースの心を「良心」として受け入れたのに対して、一般的なミュウは「人間がミュウに恐怖するなど多数者、強者による差別だから悪い感情だ。分かってはならない」と考えていたのです。ミュウ自身が「ナスカの子」に対する「読まれる側」になるまでです。
つまり、読める感情への「理解」は、立場や体質などの、行動で埋められない「善悪観」の壁で阻まれていることがあるのです。それは「理解出来ない側」も「理解出来ないのを責める側」も認める「事実」です。「あんな立場や体質の存在には分からない気持ちがある」のは、どちらも認めることでしょう。
どの「気持ち」を取り出すか
あるいは、つまずいた人間の「何でこんなところに石があるんだ」、「自分が不注意だった」という台詞が聞こえたとしても、「何故その台詞を真っ先に言いたくなったか、何故言わないか」という「原因」を「気持ち」と解釈すれば、その人間の無数の記憶や体質が重なり合い、言葉で表現出来ない情報や、そもそも複数の情報となり、「気持ち」の取り出し方すら定義が難しくなります。
推理小説の地の文で人物の内面の描写があっても、それは一部の伏線に過ぎず、あえて過去の行動の全てを語っていないことはあります。
そう考えますと、自分で「気持ち」の原因を「忘れた」という自覚すらなしに、そもそも説明するつもりで「真意」を打ち明けたつもりでさえ、それは「気持ち」と呼べるかは分かりません。呼べるとすれば、自分と相手に共通の認識や情報だけで「真意」を組み立てられたときだけでしょう。
善悪の前提が一致するのを「分かる」
そして、「気持ち」を「善悪の前提」と解釈すれば、「気持ちは分かる」は「あなたは私にとって良い人格あるいは行動の見受けられる人物である」、「あなたの善悪の前提である立場や出自には私も似たところがある」、「あなたの行動を私は責めない」という意味なのでしょう。
「お察しします」あるいは「分かろうとする」というのは、「あなたのことを、論理を超えた前提のところで何となく気に入っている」というのも含みます。
結論
「気持ちは分かる」というのは、自分と相手の意思や行動では変えられない出自や立場や感覚の差異による「論理の前提の壁」によって阻まれており、「気持ち」が「言わない台詞」なのか「痛み」なのか「ある気持ちを分かってほしい気持ち」なのか「恐怖」なのかと無数の種類を持ち分裂可能である以上は、「分かる」と言い切る絶対の基準はありません。
参考にした物語
テレビアニメ
庵野秀明(監督),薩川昭夫ほか(脚本),GAINAX(原作),1995 -1996(放映期間),『新世紀エヴァンゲリオン』,テレビ東京系列(放映局)
漫画
カラー(原作),貞本義行(漫画),1995-2014(発行期間),『新世紀エヴァンゲリオン』,角川書店(出版社)
竹宮惠子,2007,『地球へ…』,スクウェア・エニックス
小説
トルストイ(著),原卓也(訳),1972,『少年時代』,新潮文庫
参考文献
富永裕久,2004,『図解雑学 パラドクス』,ナツメ社
足立恒雄,2000,『無限のパラドクス 数学から見た無限論の系譜』,講談社
C.G.ユング/著,小川捷之/訳,1976,『分析心理学』,みすず書房

