ウルトラシリーズと『裸の王様』と、「出来る」と「出来ない」の表裏一体
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論理を突き詰める上で、一つ気になったことがあります。
物事には、出来ることと出来ないことが表裏一体になっていること、それを見落としている例があることです。
ウルトラシリーズと『裸の王様』も踏まえて、それを考察します。
注意
特撮テレビ番組
『ウルトラマン』
『ウルトラセブン』
『帰ってきたウルトラマン』
『ウルトラマンコスモス』
『ウルトラマンネクサス』
『ウルトラマンオーブ』
『ウルトラマンジード』
『ウルトラマンタイガ』
『ウルトラマンZ』
特撮映画
『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』
『ウルトラマンコスモス THE FINAL BATTLE』
『ULTRAMAN』(2004)
小説
『ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント』
予想以上のことが「出来る」ために「出来ない」こと
まずウルトラシリーズは、自分と異なる出自の相手にどう接するかかが重要なテーマとなります。
しかし、ウルトラシリーズでそれを扱う場合、批判する側とされる側のどちらが悪いのかを判定するときに、避けられない問題があります。
まず、「言いがかり」と表現される批判には、「出来ることを出来ないかのように言う」、「出来ないことを出来るかのように言う」要素もあるようです。
ところがウルトラシリーズには、単純に、「宇宙人や怪獣は武器を捨てて丸腰になれない、なっても証明出来ない」、「武器を捨てて互いの安全を確保して利益を両立させることが出来ない宇宙人もいる」ことが重要になります。
体そのものに武器がある場合、武器を捨てられない場合などがあります。
『帰ってきたウルトラマン』における、被差別者としてしばしば扱われる例として、メイツ星人がいます。彼を警戒して殺そうとした地球人達の正当化の根拠の一つに、「そいつは何をするか分からない」というのがありました。
皮肉にも、彼と共に暮らして擁護していた佐久間良も、「おじさんに何かすると大変なことが起きるぞ」と反論し、事実として、メイツ星人を警官が射殺したことで、むしろ彼の(良以外へも含めてかは分かりませんが)善意で封印していた怪獣のムルチが目覚めました。
ちなみに、メイツ星人は人間を超能力で投げ飛ばしたり、良に仕掛けられた番犬を爆殺したりしています。
つまり、「相手が何をするか分からない」は、宇宙人が人間の理解以上の超能力や予想外の科学技術を持つため、「武器を捨てて丸腰になれない、どんな武器を持っているか分からない」とも、「自分にどんな善意を持っているか、どのような効果をもたらすかも分からない」とも言えるのです。
善意か悪意かは議論から除いても、人間の知識の範囲を超えた相手には、多くの場合に、「出来る」ことがあり、さらに「出来ない」ことがあります。
『ウルトラマン』のメフィラス星人、『ウルトラマンコスモス THE FINAL BATTLE』のウルトラマンジャスティス、『ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント』のカナタのように、人間を巨大な宇宙人からすれば「アリ」、「シロアリ」とたとえる場合もあります。
しかし、仮に人間が知能を持つハチのような種族に「武器を捨てろ、丸腰になれ」と言われても、体が大き過ぎる以上は、「出来ないし、出来ても相手に証明出来ない」でしょう。といってその種族が「正当防衛」として針で攻撃してくるかもしれません。ハチと人間は、強さと弱さが噛み合わないため、互いの安全を確保出来ないのです。
人間とハチが、怪獣と人間のように対応していると言えます。
「乗っ取れる」が「その他に出来ない」
また、ウルトラシリーズの宇宙人などには、「出来る」ことと「出来ない」ことの両者があるからこそ、相手を深く傷付けざるを得ない個体や種類もいます。
『ウルトラマン』のバルタン星人や『ウルトラセブン』のゴース星人、『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』のチャイルドバルタン、『ウルトラマンオーブ』のギャラクトロン、『ウルトラマンタイガ』のゴース星人、『ウルトラマンZ』のバロッサ星人はそれぞれ、人間の体を乗っ取らなければ会話出来ない体質がありました。
ただしこの議論で、乗っ取ることで不可逆的に、命に関わる害をもたらす可能性の高い『ウルトラマンネクサス』のダークザギや2004年の実写映画『ULTRAMAN』のビースト・ザ・ワンのような例は除きます。
重要なのは、「会話するためだけに、医学的な害は与えずに乗っ取るだけで、そうせざるを得ない」宇宙人などがおり、それらによる乗っ取りは認められるか、ということです。
『ウルトラマン』のバルタン星人に最初は初代ウルトラマン=ハヤタも交渉の価値を見出していました。『セブン』で人質を操ったゴース星人に対しても、人間は人質の体を乗っ取ったこと自体には深く触れていません。
チャイルドバルタンや『タイガ』のゴース星人と、『オーブ』のギャラクトロンと『Z』のバロッサ星人は、前者より後者の振るっている暴力が大きいのが明確です。
しかしそれを除いて、乗っ取ること自体がどこまで悪いのかが、議論のし尽くされないところがあります。
たとえば、異次元ロボット「ギャラクトロン」は地球文明の残酷さや他の生命を利用する食物連鎖を批判していました。そこに人間のジェッタは、仲間のナオミを会話の仲介にしていることを挙げて「自分だって人間を利用しているじゃないか」と反論しました。
しかし、単純な暴力を除いて、会話の仲介、話すために避けられない仕掛けだけを捕食並みに悪いとすると、ある程度穏健に接したバルタン星人も『タイガ』のゴース星人もチャイルドバルタンも同列になってしまいます。
こういった場合、強者を責めて弱者を助けるべきという倫理が働くのでしょうが、ここに挙げた宇宙人やロボットは、「人間を乗っ取れる」強さと「乗っ取る以外に話せない」弱さが混ざり合っているのです。
「出来る」ことと「出来ない」ことが表裏一体なのです。
人間とハチもその例です。
特に『Z』の海賊であるバロッサ星人は、人間の頭を握り潰せるほど密着した状態でなければ会話の仲介に出来ない状態の個体がおり、端的に言えば「離せば話せない」のです。そのバロッサ星人に仲間のヨウコが捕われたのを主人公のハルキが「離せ!」と要求したのは、強者の暴力を止めるとも、弱者から会話の手段を奪うとも言えます。
『ウルトラマンジード』のシャドー星人は、かつて他の星を侵略していたことに関して、「我々は奪わなければ生きられなかった」と話しています。
バロッサ星人も、「自分達海賊は奪わなければ生きられない。会話の手段も恵まれた相手から奪えば良い。それで批判するなら相手が悪い」という教育をして、相手の言葉を学ぶ機会を減らしているのかもしれません。
「丸腰になれない」強さと弱さ
『ウルトラマンZ』の防衛組織のストレイジの隊長であるヘビクラショウタが、宇宙人のジャグラスジャグラーとして敵か味方か曖昧な態度を取りました。
そして明らかな敵であるセレブロに追い詰められ、最終回冒頭で上層部のいる基地に入って本来共通して戦うべきだったときのことです。
上層部のユウキに撃たれそうになり、攻撃を命じられたその現場の人間が「丸腰です」とためらうと、ヘビクラはジャグラーとしての姿を現してなぎ倒しました。
しかしユウキは、ヘビクラが、ウルトラマンに匹敵する大きさの特空機のウルトロイドゼロが倒れ込んだところの胸に乗っているのをそれ以前に目撃しています。
つまり、ユウキの知る範囲で、ヘビクラは数メートルの高さまで登れるのです。跳躍か浮遊か瞬間移動かは「分からない」としても、ユウキには、「ヘビクラはどのような移動手段を持っているか分からない」ことは「分かる」のです。
そのヘビクラが地上で数メートルまで接近した以上、ユウキにしてみれば、射程距離の分からない銃を向けられたも同然です。自分の身の危険以前に、基地に迫っている以上は、誰でも対応すべき事態になっています。
バロッサやヘビクラは、「出来る」と「出来ない」が裏と表になっているため、虐げる強者にも、言いがかりを付けられる弱者にもなっていると言えます。
ただし、ウルトラマンも多くの場合は、「丸腰になれない、なっても相手に証明出来ない」存在です。
ユウキは「自分は相手に関して分からないことがある」と認めれば済んだとも言えますが。
「見える」ために「見えない」
また、『裸の王様』を踏まえれば、これも重要な部分があります。
愚か者には見えない服という言葉で王さえも惑わせたのは、ウルトラシリーズに関わります。
映像の合成と異なり、服というのは、見えなければすり抜けるのですから、逆に下が見えるはずです。
たとえば『ウルトラマンコスモス』の怪獣「ヤマワラワ」(妖怪ともされますが)は、純粋な子供にしか見えないとされました。
また、宇宙から来た敵のウイルス「カオスヘッダー」がその近くに来ていました。
カオスヘッダーは怪獣の体内に潜むこともあります。
しかし、ヤマワラワの性質を逆手に取れば、ヤマワラワの陰や体内に隠れた敵がいたとき、純粋な子供には逆に見えなくなります。
むしろ、ヤマワラワの見えない人間が、そこに潜む敵を見分けられる可能性を秘めています。
「出来る」からこそ「出来ない」ことがあるのです。
単純な見落とし
これは単純な論理で、当たり前かもしれません。しかし何故これをわざわざ書いたかと言いますと、物語においては、悪役が事態を理解出来ない場合、「正しい」人を傷付けることが出来る場合に責めることが物語にある、ということが一つです。それは、「出来る」ことと「出来ない」ことが表裏一体になっていることを見落としていると言えます。
現実には主人公とも悪役とも決まっている人間はおらず、それぞれに出来ることと出来ないことが混ざり合っているのです。
悪役に「出来ない」ことを怠慢と責めて、「出来る」ことを暴力だと責める場合もありますし、主人公達に「出来ない」ことを窮状であると扱い、「出来る」ことを手柄であると扱うこともあります。しかし、それはウルトラシリーズなどでは逆転し得る部分があります。
物語では、「バロッサ星人は人の体を乗っ取って虐げる強者である」、「相手の言葉を学ぶこともしない」というように責めたり、ある意味バロッサに近いヘビクラの「丸腰になれない」強さと弱さを「言いがかり」であるかのようにヘビクラが「悪かったな」と返したりするのは、主人公などに有利に「出来る」ことと「出来ない」ことを切り分けているとも言えます。
それを考慮して、「出来るからこそ出来ないことがある」、「出来ないからこそ出来ることがある」という論理を詰める必要があります。
まとめ
「出来ない」からこそ「出来る」こともあり、その逆もあります。これはパラドックスではなく、単なるトートロジー(同語反復)なのでしょうが、それが強者と弱者の要素を混ぜ合わせて、異なる相手を批判する難しさを生みます。
参考にした物語
特撮テレビ番組
樋口祐三ほか(監督),金城哲夫ほか(脚本),1967,『ウルトラマン』,TBS系列(放映局)
野長瀬三摩地ほか(監督),上原正三ほか(脚本),1967 -1968,『ウルトラセブン』,TBS系列(放映局)
東條昭平ほか(監督),上原正三ほか(脚本),1971-1972,『帰ってきたウルトラマン』,TBS系列(放映局)
大西信介ほか(監督),根元実樹ほか(脚本) ,2001 -2002,『ウルトラマンコスモス』,TBS系列(放映局)
小中和哉ほか(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2004 -2005,『ウルトラマンネクサス』,TBS系列(放映局)
田口清隆ほか(監督),中野貴雄ほか(脚本) ,2016,『ウルトラマンオーブ』,テレビ東京系列(放映局)
坂本浩一ほか(監督),安達寛高ほか(脚本) ,2017,『ウルトラマンジード』,テレビ東京系列(放映局)
市野龍一ほか(監督),林壮太郎ほか(脚本),2019,『ウルトラマンタイガ』,テレビ東京系列(放映局)
田口清隆ほか(監督),吹原幸太ほか(脚本),2020,『ウルトラマンZ』,テレビ東京系列(放映局)
特撮映画
飯島敏宏(監督),千束北男(脚本),2001,『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』,松竹(配給)
北浦嗣巳(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2003,『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』,松竹(配給)
小中和哉(監督),長谷川圭一(脚本),2004,『ULTRAMAN』,松竹(配給)
小説
『ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント』
朱川湊人,2013,『ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント』,光文社

