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顔がないカメラ

富士フイルムのカメラは顔がない。

X-Pro1を見たときからそう思っていた。GFX100RFの製品写真を見て、またかと思う。クルマやバイクと同じように、たいていのカメラには顔がある。別に目鼻口に相当する機構があるわけではない。それでは機関車トーマスになってしまう。ここで言う顔とは、顔に象徴されるフロントマスクとしての存在感だ。

前面にメーカーロゴや機種名が入っているカメラは、フロントマスクに顔を感じる。ペンタ部もカメラをカメラたらしめる重要な要素と言えるだろう。

では、メーカーロゴとペンタ部がカメラの顔なのか?

富士フイルムの一部の機種(端的にはX-Proシリーズ、X100シリーズ、そしてGFX100RF)はメーカーロゴとペンタ部がなく、結果としてカメラとしての顔を感じない。しかし、それが決定的な要因でないことは、SIGMA BFというカメラが実証している。同機はノッペラボウのフロントマスクだが、カメラとしての顔を感じる。

もう少し突き詰めると、富士フイルムの一部の機種からは“不在”を感じるのだ。カメラとして本来あるべきものがない。そういう感じ。この“不在”を感じさせてしまうカメラには既視感がある。

そう、OEM製品だ。

OEMとは、製造した製品を自社で売るのではなく、他社ブランド名をつけて供給することだ。もちろん販売するブランドロゴがしっかりと入っているのだが、何かを“欠いた”印象がある。

特に薄利多売型のOEM製品はその傾向が強い。

昭和の時代、日本のレンズメーカーが安くてそこそこちゃんと写るレンズが作れるようになると、海外ブランド名を冠した日本製OEMレンズが大量に販売された。ブランド名こそ入っているが、デザイン的に詰めが甘く、写りも中庸で、安さ以外にあまり取り柄がない。こうした薄利多売型OEM製品は、やはり何かを欠いていた。

なぜ、富士フイルムのGFX100RFに顔がないと感じるのか? 何が不在なのか?

富士フイルムがライカになりたがっている話は有名だ。2024年3月期の決算説明会で代表取締役社長が、高付加価値路線という意味でライカを目指したい、という発言があった。この発言を持ち出すまでもなく、X-ProシリーズとX100シリーズの外観はM型ライカを想起させるし、新機種のGFX100RFはライカQっぽいと話題だ。レンジファインダーライクな撮影機能も含め、富士フイルムはライカになりたいのだなとしみじみ思う。

富士フイルムはライカをそのまま真似ているわけではないが、ライカ的な何かを孕みつつ、ライカにあるべきものがない。たとえばM型ライカの赤バッジ。M型ライカから赤バッジを消すと、X-ProシリーズやX100シリーズの外観になる。現在のデジタルM型ライカには赤バッジのないモデルがあるが、そうした機種は赤バッジの代わりに大きなスクリューがある。

このわずかな違いが、カメラの顔や不在の理由になる。

ライカ社の考えるM型ライカのデザインとは、あの場所に“何かがある”べきなのだ。それがライカの考える完成したデザインなのだろう。しかし、富士フイルムの一部の機種は、ライカを意識しつつ、ライカと直接的にかぶらないために、赤バッジのある場所を“不在”にした……。

Fと書かれたバッジをつけず、なぜブランクにしたのか?

GFX100RFに赤バッジ的なものをつければいい、という話ではない。本物を意識するあまり、本来の力が出せない。模倣は本物を前に萎縮する、ということを言いたいのだ。

Light Lens Labというオマージュレンズを作っている中国レンズメーカーがある。ライカの銘玉を復刻するという点で、富士フイルムの一部の機種と似た模倣を感じる。しかし、Light Lens Labのレンズには“不在”を孕んだ印象がない。おそらくあのメーカーが、オマージュではなく、本物を作ろうとしているからだろう。レンズ構成どころかマテリアルやコーティングに至るまで、徹底した再現を試みる。

コピーなのに遠慮がない。

模倣の分際で本物を目指すなど、それは不遜な態度かもしれない。しかし、追いかける側が一線を超えるために必要な覚悟のようにも思える。

どうすれば本物になれるのだろう。少なくとも、憧れを抱いているうちは無理だと思う。

ちなみに僕は、X-Pro1、X100、GFX50S II、X-S10などを所有してきた。けっして富士フイルムのアンチというわけではない。ただ、ライカを意識するあまり、カメラの顔がないのは寂しい気がするのだ。

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澤村 徹 記事がおもしろかったら応援していただけると幸いです。オールドレンズ、デジタル赤外線写真、AIアートなど、記事や作品制作の活動費して使わせていただきます。