スクロールする前に、通知を見る前に、別のことへ逃げる前に。 ~「今、何に注意を使っているのか」を考えてみる~
世界があまりにも
騒がしいから
僕たちは
「自分の思考」を
聞けなくなった
散らばった注意を
ひとつずつ自分の手元へ
戻していく
▼はじめに
一度、自分の一日を
少し離れたところから
眺めてみてほしい。
朝、目を覚ます。
スマホを見る。
通知を確認する。
SNSを開く。
誰かの投稿を見る。
おすすめされた動画を見る。
仕事を始める。
少し難しいことが出てくる。
スマホを見る。
昼休み。
またスマホを見る。
帰宅する。
動画を見る。
次の動画を見る。
さらに次の動画を見る。
本を読もうと思う。
数ページ読む。
少し退屈する。
スマホを見る。
そして
一日の終わりに
「今日も、あまり
何もできなかった」
と思う。
もちろん、すべての人が
そうだとは言わない。
僕自身も、毎日
そんな生活を
しているわけではない。
それでも、少し
思い当たるところは
ないだろうか。
僕にはある。
かなりある。
だから、これは誰かを
批判する話ではない。
僕自身への
問いでもある。
僕たちは
「時間がない」と言う。
しかし
本当に
足りないのは
時間なのだろうか。
もしかすると
足りなくなっているのは
時間ではなく
「注意」なのではないか。
一日は24時間ある。
それは、昔も今も
変わらない。
しかし
その24時間の中で
自分が本当に
意識を向けられるものは
無限ではない。
何かを見ているとき
別のものは
見ていない。
何かを考えているとき
別の何かに使える
注意は減る。
誰かの話を
聞いているとき
スマホを見ていれば
その人の言葉に向ける
注意は分散する。
つまり
僕たちは毎日
「時間」だけではなく
自分の「注意」を使って
生きている。
そして、ここに
少し怖い
問いが生まれる。
その注意を
僕たちは本当に
自分で
使っているだろうか。
▼「集中できない」は
本当に
集中力の問題なのか
ゴハール・カーン
という人物を
今回初めて
知る人も多いと思う。
彼は教育系
コンテンツクリエイターであり
MIT卒業生である。
現在は「Gohar's Guide」
という名前で
勉強法、大学進学、学習
日常生活などについて
発信している。
本人の
公式プロフィールによれば
高校時代に
卒業生総代となり
アイビーリーグ6校
スタンフォード大学
MITから
合格を得た経験を持つ。
MITでは
コンピューターサイエンス
などを学び
流行り病による
大学生活の変化をきっかけに
SNSで情報発信を始めた。
現在は
「Next Admit」という
大学進学支援事業にも
関わっている。
つまり
「集中力について語る
謎のインフルエンサー」
という理解では
少しもったいない。
彼の活動の
中心にあるのは
学ぶこと。
そして
どうすれば人が
「自分の可能性」を
引き出せるのか
という問いである。
そんな彼が
2024年5月に
公開した動画が
「how to fix your attention span」
である。
このタイトルだけを
見ると
「集中力を改善するための
6つのテクニック」
くらいに思える。
実際、動画では
意図を設定する。
思考を受け流す。
誘惑を減らす。
感情的に入り込む。
タスクを分解する。
メディアを
意識的に消費する。
という、非常に実践的な
方法が紹介されている。
しかし、僕はこの動画を
何度か読み返して
別のものが見えてきた。
これは
「集中力を高める方法」の
話だけではない。
もっと根本的な
「自分の注意を
自分の手に戻す方法」
の話なのではないか。
そう考えると
一つひとつのTipsが
急に
違う意味を持ち始める。
▼あなたは
「気が散っている」
のではなく
「連れていかれている」
のかもしれない
ゴハールは、動画の冒頭で
映画館の場面を描いている。
友達と映画を観に行く。
ポップコーンを買う。
席に座る。
映画が始まる。
最初は普通に観ている。
ところが
30分ほど経ったところで
スマホを触りたくなる。
映画を観たい。
友達と一緒にいる。スマ
ホを見るべきではない。
それでも、手が伸びる。
SNSを開く。
スクロールする。
そして
刺激がやってくる。
この話が
妙に現実的なのである。
なぜなら
僕たちは日常的に
似たようなことを
しているからだ。
仕事をしている。
しかし、少し難しい
問題にぶつかる。
スマホを見る。
本を読む。
しかし、一文が
少し難しい。
別のページをめくる。
勉強する。
しかし、分からない
問題が出てくる。
動画を見る。
メールを開く。
SNSを見る。
つまり
「集中できない」
という現象の正体は
単純に
「集中力がなくなった」
ということではない。
「何かから、何かへ」
注意が移動している。
しかも、その移動は
いつも自分の意思で
起きているとは限らない。
通知。おすすめ。
新着情報。未読。
赤いバッジ。自動再生。
次々と現れるコンテンツ。
僕たちの周囲には
「次に見るもの」が
あまりにも大量に
用意されている。
だから
一つのものに留まるには
「集中しよう」という
意思だけではなく
環境そのものを
扱う必要がある。
ここが、ゴハールの話の
面白いところである。
▼集中力は
「強さ」ではなく
「設計」なのかも
しれない
ゴハールは
「100%
常にレーザーのように
集中することは不可能だ」
と話している。
この言葉は
地味だけれど
かなり重要だと思う。
僕たちは
集中できる人を
「意志が強い人」だと
思いがちである。
しかし
もしそうなら
集中できるかどうかは
本人の精神力だけで
決まることになる。
でも、現実は
そんなに単純ではない。
眠い。
疲れている。
仕事が曖昧だ。
机の上が散らかっている。
スマホが目の前にある。
通知が鳴る。
メールが届く。
複数のタスクが
同時に存在している。
そんな環境で
「集中しろ」と言われても
かなり難しい。
だから、僕は今回
集中力を
こう考えてみたい。
集中力とは
「誘惑に勝つ能力」
ではない。
「誘惑と戦わなくても
いい状態を
自分でつくる能力」
でもある。
これは、ゴハールの
6つの提案を貫いている
考え方だと思う。
▼①
「何をするか」を
決める前に
「なぜ今それを
しているのか」を問う
ゴハールが
最初に提案するのは
「Set your intentions」
意図を
設定することである。
これを、僕は単なる
「目標設定」だとは思わない。
もっと小さい。
もっと日常的な話である。
たとえば、仕事中に
スマホを手に取る。
「ちょっと調べ物をしよう」
と思う。
ここまではいい。
ところが、気づけば
SNSを開いている。
動画を見る。
コメントを見る。
別の投稿を見る。
そして、10分後に
「何をしていたんだろう」
となる。
このとき
最初の目的と
実際の行動が
完全に分離している。
だからゴハールは
「なぜスマホを
手に取るのか?」
と自分に
問いかけることを
勧めている。
これだけで、かなり
面白いことが起きる。
「調べ物をするため」なら
調べればいい。
「メールを返すため」なら
メールを返せばいい。
「暇だから」なら
暇つぶしをしている
自分を、自覚すればいい。
問題は、目的を
持っていないこと
ではない。
目的を持っている
つもりなのに
行動だけが別の方向へ
流れていくこと
なのだと思う。
そして、ここには
行動科学の知見とも
重なる部分がある。
「もっと頑張ろう」
という曖昧な決意より
「この状況になったら
こうする」
という具体的な
行動ルールのほうが
目標達成を支えやすい。
心理学では、こうした
「もし○○なら
そのとき△△する」
という形式を
実行意図と呼ぶ。
つまり
集中力を守るために
その場その場で
自分と交渉しなくても
いいようにする。
「スマホで
調べ物をするときは
調べる内容を
先に一文で決める」
「仕事中にSNSを
開きたくなったら
まず今のタスクを
一行進める」
「メールを確認したら
メール画面を閉じる」
この程度でもいい。
重要なのは
自分の未来の行動を
先に少しだけ
決めておくこと
である。
集中とは、その瞬間の
意志の強さだけで
守るものではない。
未来の自分が
迷わないように
現在の自分が
道をつくっておくもの
でもある。
▼②
頭の中に
浮かんだものを
「全部やらなくていい」
そして、ここからが
僕はかなり
重要だと思っている。
仕事中
突然、別の考えが
浮かぶ。
「あ、あれ返信しなきゃ」
「週末どうしよう」
「そういえば
あの商品欲しかったな」
「あとであの動画を見よう」
「そうだ
あの人に連絡しよう」
僕たちは、こうした
思考が浮かぶと
そのまま追いかけてしまう。
しかし、ゴハールが
提案しているのは
少し違う。
来てもいい。でも
ついていかなくていい。
思考は、浮かんでいい。
消えていい。
必要なら
メモすればいい。
でも、そこで
別の行動に移らない。
この考え方を、僕は
「注意の筋トレ」に近いと
思っている。
集中とは
「一度も
気が散らないこと」
ではない。
むしろ
気が散ったことに気づいて
元の場所へ戻ること
である。
これは、かなり
大きな違いである。
「集中できなかった。」
ではなく
「集中が外れた。
そして戻した。」
と考えられるからだ。
その小さな「戻る」を
何度も繰り返す。
それが、集中という行為の
実態なのかもしれない。
▼「注意残余」という
見えない置き忘れ
ここで、一つだけ
ゴハールの話をさらに
深く理解するための
研究を紹介したい。
心理学者の
ソフィー・ルロワは
2009年の研究で
「attention residue」
という概念を扱っている。
日本語では
「注意残余」などと
訳される。
簡単に言えば
ある仕事から
別の仕事へ移ったとき
身体は次の仕事に
移っていても
注意の一部が、前の仕事に
残ってしまう現象
である。
特に、前の仕事が
未完了のまま切り替わると
次の仕事への
パフォーマンスに
影響することが
実験によって示されている。
これを
日常に置き換えてみる。
メールを開く。
返信しない。
次に資料を書く。
でも、頭の片隅には
「さっきのメール
どうしよう」が
残っている。
資料を書く。
Slackを見る。
また資料に戻る。
スマホを見る。
また資料に戻る。
仕事は
一応進んでいる。
でも、自分の注意は
一つの場所にいない。
これが
「なんとなく一日中
仕事をしているのに
大したことを
した気がしない」
という感覚の一因に
なっているのかもしれない。
つまり、僕たちは
時間だけを細切れに
しているのではない。
注意まで
細切れにしている。
そして
一度
細切れになった注意は
「仕事に戻った瞬間」に
完全には
戻ってこないことがある。
これは、かなり
重要な話だと思う。
だから
「もっと速く切り替えよう」
ではなく
そもそも
切り替える回数を
減らせないか。
と考える。
ここから、ゴハールの
「タスクを分解する」
「マルチタスクを避ける」
という提案が
単なる
生産性テクニックではなく
「注意を一つの場所に
留めるための設計」
として見えてくる。
▼③
意志の強さより
「誘惑との距離」を
変える
ゴハールの
三つ目の提案は
「Remove Alternatives」
代替手段を
取り除くこと
である。
これは、一見すると
ごく普通の
スマホ対策に見える。
しかし、僕はここに
かなり重要な考え方が
あると思っている。
僕たちは
集中できないとき
自分を責める。
「意志が弱い」
「我慢できない」
「もっと
頑張らないといけない」
と考える。
でも、少しだけ
考えてみたい。
目の前に
仕事の資料がある。
そして、その横に
スマホがある。
スマホには
SNS。動画。ニュース。
メッセージ。ゲーム。
買い物。
あらゆる
刺激が入っている。
しかも、指一本で
アクセスできる。
この状態で
「絶対に触らないぞ」と
自分の意志だけで
戦い続ける。
それは、かなり
不利な戦いでは
ないだろうか。
だから、ゴハールは
「誘惑に勝て」とは
言わない。
まず
誘惑そのものを
遠ざける。
通知を切る。
スマホを別の場所に置く。
余計なタブを閉じる。
アプリの使用時間を
少しずつ減らす。
必要なら、画面を
グレースケールにする。
つまり
「自分を強くする」
のではなく
「自分が弱くても
大丈夫な環境をつくる」
のである。
これは、かなり
優しい考え方だと思う。
人間を、万能な意志の
持ち主として扱わない。
疲れることもある。
誘惑されることもある。
退屈することもある。
だったら、最初から
環境を変えておけばいい。
スマートフォンの存在
そのものと
認知能力の関係については
研究もあり
スマホを別の場所に置いた
条件のほうが、近くに置いた
条件より
ワーキングメモリ課題で
良い結果を示した実験もある。
もちろん、この
一つの研究だけで
「スマホは置くだけで
必ず脳を悪くする」
などと結論づけることは
できない。
研究には条件がある。
人にも個人差がある。
それでも
一つの示唆は得られる。
注意を守るために
注意力そのものを
鍛える必要はない
場合がある。
スマホを
机から離せばいい。
誘惑を
視界から外せばいい。
それだけでいい。
これは、人生にも
使える考え方だと思う。
「もっと我慢できる
人間になろう」
ではなく
「我慢しなくても済む
仕組みをつくろう」
と考える。
自分を変える前に
自分の周りを変えてみる。
これは
集中力の話でありながら
生き方の話でもある。
▼④
集中するために
「好き」を
使っていい
ここから
ゴハールの話は
さらに面白くなる。
四つ目の提案は
「Get emotionally invested」
その対象に
感情的に入り込むこと
である。
これは
「集中するなら
真面目にやれ」
という話とは
正反対である。
むしろ、少し
遊んでいる。
勉強する内容に合った
音楽を流す。
自分を
歴史的な発見を目前にした
科学者だと思ってみる。
物理や化学なら
『オッペンハイマー』の
サウンドトラック。
コンピューターサイエンス
なら
『ソーシャル・ネットワーク』
歴史なら
『ロード・オブ・ザ・リング』
少し大げさである。
少し恥ずかしい。
でも、僕は
こういう「遊び」が
実はかなり
大事だと思う。
なぜなら、集中とは
単に刺激を遮断すれば
生まれるものではないから
である。
向かいたくなる対象があれば
注意は自然とそこへ向かう。
子どもが
好きなゲームのことなら
何時間でも覚えている。
好きなスポーツの選手なら
細かいデータまで
覚えている。
好きなアーティストなら
新曲の発売日を覚えている。
「集中力がある」
からではない。
「興味がある」
からである。
だから
仕事や勉強に対しても
一つ、問いを
持ち込んでみる。
「なぜ?」
「もし逆だったら?」
「これをもっと
面白くするには?」
「この問題の本当の原因は
何だろう?」
「これを誰かに
説明するとしたら?」
興味は
注意を引き寄せる。
だから、集中力を
高めるために
いつも自分を
縛る必要はない。
時には
好奇心を
餌にしていい。
僕は、ここが
かなり好きである。
集中とは
「つまらないものに
耐える能力」
だけではない。
「面白さを見つける能力」
でもあるからだ。
▼⑤
「大きな仕事」は
脳にとって入口がない
五つ目は
「Break down tasks」
タスクを分解すること
である。
これは、僕自身が
文章を書くときにも
かなり
重要だと思っている。
「記事を書く」
という言葉は
実は仕事ではない。
大きすぎる。
何をすれば
「記事を書いた」
ことになるのか分からない。
テーマを決める。
情報を集める。
構成を考える。
タイトルを考える。
導入を書く。
本文を書く。
推敲する。
公開する。
これだけの仕事が
「記事を書く」という
一言の中に隠れている。
だから
始める前から疲れる。
そして
「何からやればいいんだ?」
となる。
そこで
もっと小さくする。
「タイトル候補を3つ書く」
「導入の最初の一文だけ書く」
「資料を一つ読む」
「見出しを一つつくる」
ここまで小さくすると
脳に、入口ができる。
僕は、ここに重要な
ポイントがあると思う。
集中できないのではなく
始める場所が
分からないだけ
という場合がある。
大きな仕事は
「山」に見える。
小さくすると
「階段」になる。
山は
眺めるだけで疲れる。
階段なら
一段目に足を置ける。
だから
「やる気が出たら始める」
ではなく
「始められる大きさまで
小さくする」
のである。
これは、かなり実践的だ。
そして、もう一つ。
ゴハールは
複数の部分を
同時に処理することを避け
一つずつ順番に
取り組むことを勧めている。
ここで、前半に出てきた
「注意残余」の話が
つながってくる。
仕事A。
仕事B。
メール。
SNS。
仕事A。
通知。
仕事B。
動画。
仕事A。
こんなふうに
注意を移動させ続ければ
「全部やっている」
ように見える。
でも、自分の注意は
そのたびに
移動している。
だから
僕はこう考えたい。
忙しいことと
集中していることは
同じではない。
タスクを
たくさん触ること
と
価値のある仕事を
すること
も、同じではない。
一つに向かう。
終える。次へ進む。
そのほうが
静かだけれど、強い。
▼⑥
「短い刺激」が
悪いのではない。
「選ばないこと」が怖い
そして、最後の提案。
「Consume media intentionally」
メディアを
意図的に消費する
ここは
今の時代において
かなり重要な話だと思う。
短い動画が悪い。
SNSが悪い。
YouTubeが悪い。
そんな
単純な話ではない。
僕も
短い動画を見る。
SNSも使う。
映画も観る。
何かを
楽しむこと自体は
悪いことではない。
問題は
「自分で
選んでいるのか」
ということだ。
自分が観たいから
観る。
自分が学びたいから
観る。
友達と楽しみたいから
観る。
それなら
何も問題はない。
でも
「次に何が出てくるか
分からないけれど
とりあえず
スクロールする」
となると、話が変わる。
そこでは、自分が
コンテンツを
選んでいるのではなく
コンテンツが
次に自分の注意を
どこへ向けるかを決めている。
だから、ゴハールは
長い動画や
ポッドキャストなど
「自分が考える必要のある
メディア」
を意識的に
取り入れている。
そして、さらに
重要なことを言う。
時には
何も消費しない。
散歩をしながら
何も聴かない。
ただ、歩く。
静けさを感じる。
自然の音を聞く。
これが、僕には
ものすごく重要に思える。
▼「何もない時間」は
無駄ではない
僕たちは
空白があると
すぐに埋めようとする。
電車を待つ。
スマホ。
エレベーターを待つ。
スマホ。
トイレ。
スマホ。
散歩。
イヤホン。
食事。
動画。
ちょっとした沈黙。
スマホ。
なぜだろう。
もしかすると
「何もしないこと」が
怖くなっているのかも
しれない。
退屈すると
何かを探す。
静かになると
何かを流す。
一人になると
誰かの声を入れる。
でも、その
「何もない時間」に
僕たちは、自分の思考を
聞くことができる。
これは
クリエイティブな仕事を
する人間にとって
かなり
重要なのではないか
と思う。
何かを入力し続ければ
当然、頭の中は
入力されたもので
満たされていく。
動画。ニュース。SNS。
広告。他人の意見。
他人の生活。他人の考え。
それ自体が
悪いわけではない。
でも
ずっと入力していれば
自分が何を
考えているのかが
分からなくなる瞬間がある。
だから
「何も入れない時間」が
必要になる。
自然の中での
注意回復を扱う研究領域では
自然環境への接触が
注意疲労や心理的な回復と
関連する可能性が
研究されている。
これも
万能な処方箋ではないが
「注意を休ませる」
という発想には
一定の研究的背景がある。
だから、散歩中に
何も聴かなくてもいい。
何かを学ばなくてもいい。
生産的でなくてもいい。
ただ、歩けばいい。
空を見る。風を感じる。
街の音を聞く。
それだけでいい。
▼集中力の問題ではなく
「人生の編集権」の問題
ここまで来ると
ゴハールの6つの提案が
全部つながってくる。
意図を設定する。
思考を追いかけない。
誘惑を減らす。
感情的に入り込む。
仕事を小さくする。
メディアを意識的に選ぶ。
一見すると
別々のテクニックである。
しかし、僕には
一つのことを
言っているように見える。
「自分の注意の行き先を
自分で決めよう」
ということである。
これは
生産性の話だけではない。
人生の話である。
僕たちの人生は
大きな決断だけで
つくられているわけではない。
今日、何を見たか。
何を読んだか。
誰の言葉を聞いたか。
何について考えたか。
何に夢中になったか。
何を無視したか。
それらの小さな選択が
少しずつ、自分という
人間をつくっている。
つまり
注意は
人生の編集権なのだ。
映画を編集するとき
何を残すかを決める。
何を切るかを決める。
どの場面を
長くするかを決める。
どこで視点を
変えるかを決める。
僕たちの人生も
少し似ている。
何に時間を使うか。
何を見ないか。
誰の意見を取り入れるか。
どんなことを
深く考えるか。
それによって
人生に残るものが変わる。
だから
「集中できない」
という問題を
単なる
仕事術の問題として
片づけたくない。
もっと深いところに
問いがある。
「あなたは
自分の人生に
何を残したいのか。」
その答えによって
注意を向ける対象も
変わってくる。
▼「注意を取り戻す」
という、小さな革命
もちろん、明日から
完全にスマホを
やめる必要はない。
SNSを全部
消す必要もない。
通知を全部
切る必要もない。
ゴハール自身も
短いコンテンツを完全に
否定しているわけではない。
大切なのは
極端になることではない。
選べる状態に戻ること
である。
SNSを見たいなら
見る。
映画を観たいなら
観る。
YouTubeを楽しみたいなら
楽しむ。
でも
「気づいたら見ていた」
を、少しずつ減らす。
「何となく」
を少しずつ減らす。
「次が出てきたから」
を少しずつ減らす。
そして
「私はこれを選んでいる」
を少しずつ増やす。
それだけでも
かなり違う。
集中力を取り戻すとは
鉄のような意志を
手に入れることではない。
誘惑を完全に
消すことでもない。
むしろ
自分が本当に
大切にしたいものへ
何度でも
注意を戻していくこと
なのだと思う。
▼おわりに
僕は
「集中できる人」
という言葉を
少し違う意味で
捉えるようになった。
集中できる人とは
一日中、一点を
見つめ続ける人ではない。
気が散らない人でもない。
雑念がない人でもない。
誘惑を感じない人でもない。
きっと
そういう人はいない。
むしろ
気が散ったことに
気づける人。
自分がなぜ
スマホを
触ろうとしているのか
問い直せる人。
誘惑を、自分の意志だけで
戦わなくていいように
環境を変えられる人。
大きな仕事を
小さな一歩に変えられる人。
面白さを見つけられる人。
そして
何もない時間を
何かで
埋めなくてもいられる人。
そういう人なのでは
ないだろうか。
だから、僕も
「もっと集中しなければ」
とは思わないようにしたい。
その代わり
こう問いかけたい。
「今、自分の注意は
どこにあるのだろう?」
そして、もう一つ。
「本当に、そこに
置いておきたいの
だろうか?」
もし、答えが
「違う」なら
戻ればいい。
一度で
戻れなくてもいい。
何度でも戻ればいい。
スマホから、本へ。
SNSから、仕事へ。
通知から、会話へ。
他人の人生から
自分の人生へ。
その
小さな「戻る」を
何度でも繰り返す。
それでいい。
なぜなら
僕たちは、毎日
自分の人生に
少しずつ注意を
投じているからである。
注意を向けたものは
やがて、記憶になる。
習慣になる。知識になる。
技術になる。価値観になる。
そして、人生になる。
だから、最後に
自分自身にも
この言葉を
残しておきたい。
時間を
大切にするだけでは
足りない。
その時間に
何を見ていたのか。
何を考えていたのか。
何に心を向けていたのか。
そこまで
大切にしたい。
あなたの注意は
あなたの人生の
一部である。
だから、それを
誰かに預けっぱなしに
しなくていい。
今日、30分だけでもいい。
スマホを置く。
一つのことをする。
静かな場所を歩く。
本を開く。
誰かの話を
最後まで聞く。
そして
その30分だけ
自分の注意を
自分で選ぶ。
たった
それだけのことが
もしかすると
「集中力を取り戻す」
という言葉より、ずっと
大きな意味を
持つのかもしれない。
僕たちが取り戻そうと
しているのは
集中力だけではない。
自分の人生に
自分の意識で
立ち会う権利なのだ。
