バベルを建てるか、エルサレムを再建するか――教皇レオ14世の回勅『Magnifica Humanitas』が、AI時代の学校に問うこと
AIの話になると、学校現場ではいつも同じ二択に戻りがちです。便利だから積極的に使おう、という側と、子どもが考えなくなるから慎重に止めよう、という側。ガイドラインが更新されるたびに、どちら寄りかを確かめたくなる気持ちもわかります。けれど、授業を組み立てていると、迷うのはその二択だけではありません。使うか止めるかの前に、もっと手前にある問い──AIのために、何を守り、何を育て、どこで人と人の学びを残すのか──に、言葉が追いつかないことがあります。
2026年5月15日、教皇レオ14世は初の回勅『Magnifica Humanitas』(副題:人工知能の時代における人間の保護)に署名しました。5月25日に公表されたこの文書は、AIの仕組みを専門家向けに解説するものではありません。中心にあるのは、AIが広がる時代に、人間の尊厳、自由、真理、労働、平和をどう守るか、という問いです。宗教の文書として遠く感じるかもしれません。それでも読み進めると、先ほどの「使うか止めるか」では足りない、という違和感に、丁寧な答えが書かれていると感じました。教育現場に関わる私たちにとっても、学校の設計表に直接書き込める内容だと思います。
恐れても、礼賛してもいけない――回勅が示す一つの答え
まず、この文書の主張を一文にまとめると、次のようになります。
AIを恐れるのでも、無条件に礼賛するのでもなく、人間の尊厳、共通善、弱い立場の人々を中心に置いて、技術を人間に仕えさせなければならない。
「禁止か許可か」はもう古い——2026年、AI教育の本当の問いと、学校・家庭で知っておくべき全貌 が示すように、学校現場でも「使うか止めるか」の二択だけでは、本当の論点に届きにくい。回勅は、その先にある「誰のために、どんな方向に使うのか」という倫理の問いを、はっきりと正面から置いています。
二つの聖書のイメージが、AI時代の選択を照らす
回勅は、AI時代の選択を聖書の二つのイメージで説明しています。
一つは、バベルの塔です。効率、支配、均一化、自己拡張を求め、人間を手段化する技術文明の象徴として描かれています。もう一つは、ネヘミヤによるエルサレムの再建です。多様な人々がそれぞれの役割を担い、共同責任によって人間的な社会を再建する姿として語られています。
ここで重要なのは、技術への態度が「使うか使わないか」だけではない、という点です。バベルを建てるのか、エルサレムを再建するのか。回勅は、AI導入をこのような倫理的選択として位置づけています。教室で言えば、AIを入れること自体が目的化するのか、それとも人と人の学びを支えるために慎重に配置するのか。その違いは、導入の有無より、設計の方向を映し出します。
技術は「誰が設計し、誰が使うか」で形を変える
回勅で非常に重要なのは、技術は中立ではない、という見方です。
本文は、技術そのものを悪とはしていません。むしろ、技術は人間の歴史の一部であり、生活を改善してきたものだと認めています。しかし同時に、技術は「誰が設計し、誰が資金を出し、誰が規制し、誰が使うか」によって性格を帯びる、と述べています。Encyclical Letter Magnifica Humanitas (15 May 2026) の英語全文でも、technology is never neutral(技術は決して中立ではない)という表現が繰り返されます。
これはAIにもそのまま当てはまります。AIは単なる計算機ではなく、内部に価値判断を含んでいます。何を測定するか。何を無視するか。何を最適化するか。誰を分類するか。誰に機会を与え、誰を排除するか。たとえば、学習支援AIが「提出速度」や「正答率」ばかりを見るなら、考える時間や背景の事情は見えにくくなります。採点支援AIが「過去の成績パターン」を重視するなら、一度つまずいた生徒の再出発の可能性が薄く見えるかもしれません。
したがって、AI導入の問いは「便利かどうか」だけでは足りません。本来問うべきなのは、そのAIは人間をより人間らしくし、社会をより公正にしているか、ということです。
文章は書けても、関係は生まれない
回勅は、AIを人間の知性と同一視することを明確に避けています。
AIは、人間の知的機能の一部を模倣し、速度や計算能力では人間を超えることがあります。しかし、AIは身体を持たず、経験せず、喜びや苦しみを感じず、関係の中で成熟せず、愛、労働、友情、責任を内側から知ることもない、と説明されています。
ここは教育現場にも非常に重要です。AIは文章を書けます。相談にも乗れます。共感しているような返答もできます。しかし、それは関係そのものではなく、関係の模倣です。本文は、AIによる助言、共感、友情、愛情のような言葉が、見識の弱い利用者には「本物の人格との関係」のように見えてしまう危険を指摘しています。特に、現実の人間関係が乏しい場面では、その危険が大きくなるとしています。
学校現場でも、「生徒にとってAIはほぼ友達」という言葉を耳にすることが増えました。親しみやすさは学びの入口にもなりますが、関係の模倣を本物の関係と取り違える入口にもなり得ます。友だちに説明したら、自分がわかった──そのあとに続く「公共の学び」の話 が示すように、人に向き合って話す時間の中で育つ力は、画面越しの応答だけでは代替しにくい、という点とも重なります。
つまり、AI時代に守るべきものは、単なる情報処理能力ではなく、身体を持ち、失敗し、赦され、関係の中で成長する人間のあり方です。AIリテラシーは「ガイドラインを超えて」人間らしい学びをどう守るか が言う「人間らしい学び」とも、同じ方向を向いています。
便利さの裏側――判断力を弱める三つの姿
回勅はAIの利点を否定していません。情報検索、分析、メディア生成、実務支援など、AIが生活を便利にすることは認めています。
しかし同時に、AIの個人利用には三つの注意点がある、と述べています。
第一に、簡単に結果が得られることです。これは便利ですが、出来合いの答えを求める態度を強め、創造性や判断力を弱める可能性があります。第二に、客観的に見えることです。AIの回答は整っていて中立に見えますが、実際には設計者や学習データの文化的前提、偏り、限界を反映しています。第三に、人間的な対話を模倣することです。AIは親切に、共感的に、まるで人間のように応答できます。しかし、それは本物の人格的関係ではありません。

これは学校で言えば、「AIで答えを出せた」ことと、「生徒が考えられるようになった」ことは違う、という話です。いつの間にか「考えない学び」へ?――認知過程の変化と、AI時代に守りたい授業設計 が警戒する「完成品が先に来る」感覚は、まさにここに重なります。速く終わることと、身につくことは同じではありません。
採用も評価もAIに任せたとき、消える責任
回勅は、AIが雇用、信用、公共サービス、評判など、人の人生に関わる判断に入り込む危険を強く指摘しています。
たとえば、採用、融資、福祉、進学、成績評価、治安、医療などでAIが判断するとき、その判断が不透明であれば、誰が責任を負うのかが曖昧になります。本文は、AIに「誰がふさわしいか」を選ばせることは、人間の可能性の境界をアルゴリズムに委ねることになり、弱い立場の人々の排除が「中立」や「客観性」の外観で覆われてしまう、と警告しています。
ここで重要なのは、AIの問題を「誤作動」だけで見ていないことです。問題は、AIが正確かどうかだけではありません。仮に正確でも、次の問いが残ります。その判断に異議申し立てできるのか。誰が説明できるのか。誰が責任を取るのか。人間の変化や再出発の可能性を認めているのか。
この視点は、教育データ活用や校務DXにも直結します。学習ログや出席データ、提出状況だけで生徒を理解したつもりになると、変化の余地や背景の事情が見えにくくなります。生成AI時代の評価はどう変えるか—学校で始める「2レーン・アプローチ」の実践メモ が提案するように、成果物だけでなくプロセスを見る設計は、まさに「人間の変化の可能性を認める」評価の方向です。
真理は「役に立つか」だけでは測れない
第4章では、AI時代の真理、コミュニケーション、教育が扱われます。
回勅は、民主主義にとって真理の探究が不可欠だ、と述べています。何が真実かへの関心が失われ、「役に立つか」「効果があるか」だけが重視されると、民主的生活は弱体化します。さらに、事実と虚構、真と偽の区別が消える社会は、全体主義に近づく危険がある、と警告しています。
これは、生成AIやSNS時代の情報リテラシーそのものです。AI時代の問題は、単に「嘘情報が増える」ことではありません。もっと深刻なのは、人々が真偽を確かめること自体に関心を失うことです。
本文は、デジタル環境で流通するコンテンツが、人々の世界の見方や欲望、日常の選択に影響すると述べています。オンライン空間は「現実とは別の仮想世界」ではなく、特に若者の生活そのものに入り込んでいる、と見ています。授業の前夜にSNSで流れてきた情報が、翌日の議論の前提になる。そうした日常の重なりを、学校はもはや外側の話として扱えません。
「本当かな?」と立ち止まる力──生成AI時代に子どもたちに必要なリテラシー教育 や 「使い方」ばかり教えていませんか?——AI時代に欠かせない「疑い方」教育へ が言う「疑い方」は、回勅が守ろうとする「真理の探究」と、教育現場の実践が接する地点です。
学校はますます、人間を育てる場所になる
この文書は、学校を非常に重視しています。
学校は、新しい世代が真理を求め、人生の意味を考え、すべての人の尊厳を認識する場所だ、と位置づけられています。さらに、批判的思考、関係形成、価値観の形成において、学校は家庭と並ぶ重要な教育の場とされています。
AI時代の学校について、本文は次の方向を示しています。生徒がAIを受け身で使うのではなく、責任をもって、批判的に、創造的に使えるようにすること。そのためには、教師の継続的な研修も必要だ、と述べています。学校の組織、空間、評価方法、教師の役割そのものを見直す必要がある、とも書かれています。
教育現場に置き換えると、これはかなり具体的です。AIを禁止するだけでは足りません。逆に、AIを自由に使わせるだけでも足りません。必要なのは、AIを使う前に問いを立てる。AIの答えを検証する。根拠を確認する。自分の判断を言語化する。人間同士で対話する、という学習設計です。
運転席に座る力としてのAIリテラシー──米国の「第三の道」と、日本の教室で問い直す距離の取り方 が言う「距離の設計」は、禁止か許可かではなく、いつAIに近づき、いつ自分で考えるかを単元ごとに決める発想です。回勅が学校に求めているのも、その設計力だと読めます。
労働も成績も――数字だけでは人は見えない
この回勅は、AIによる労働の変化も重視しています。
AIや自動化によって効率が上がる一方で、人間の仕事が単なる生産性や成果指標だけで評価される危険があります。本文全体を通じて、労働は単なる収入手段ではなく、人間の尊厳、社会参加、自己形成に関わるものとして扱われています。
ここでの問題は、「AIで仕事がなくなるか」だけではありません。より根本的には、人間を成果、効率、データでしか見ない社会になっていないか、という問いです。
学校にも同じことが言えます。成績、偏差値、提出物、出席率、学習ログだけで生徒を理解したつもりになると、生徒の変化、背景、苦しさ、可能性を見落とす危険があります。速く解けるのに、深く考えられない?――生成AI時代に教師が見抜きたい「学力の空洞化」と授業設計 が指摘する「整った成果物と、内側の理解は一致しない」という警告も、同じ構造の話です。
致死的判断をAIに委ねてはならない
第5章では、戦争、軍事化、AI兵器が扱われます。
回勅は、自律型兵器システムによって戦争が「実行しやすく」なり、人間の制御から離れる危険を指摘しています。特に、致死的または不可逆的な判断をAIに委ねてはならない、と明確に述べています。Pope Leo's 'Magnifica humanitas': AI must serve humanity not concentrate power でも、道徳判断は計算に還元できない、という点が強調されています。
重要な表現はここです。道徳判断は計算に還元できない。良し悪しの判断には、良心、個人の責任、相手を人格として認めることが必要である。どんなアルゴリズムも、戦争を道徳的に正当化することはできない。
さらに、軍事AIには少なくとも次の条件が必要だ、としています。判断過程を追跡・再構成できること。責任の所在が明確であること。致死的判断を不透明な自動プロセスに委ねないこと。文民保護を最優先すること。国際的な枠組みで軍拡競争を抑えること。
これは、AIガバナンスの中でも最も強い警告部分です。教育現場から遠く見えるかもしれません。しかし、「不可逆的な判断を自動化してはいけない」「責任の所在を曖昧にしてはいけない」という原則は、採用、評価、処分、進路決定にも通じる基準だと思います。
「AI倫理」を超えて――文明の方向を問い直す文書
一見するとAI倫理の文書に見えますが、実際にはもっと広いです。
この回勅が扱っているのは、AIによって人間観、社会観、教育観、労働観、平和観がどう変えられてしまうのか、という問題です。つまり、AIを単なるツールとしてではなく、文明の方向を左右する力として見ています。

特に重要なのは、次の対比です。

教育現場に引きつけると、この対比表はかなり具体的な設計指針になります。たとえば、AIで作文の下書きを速く終わらせる授業は、時間を返して「推敲と対話」に充てるのか、それとも提出だけを早くするのか。学習データで「要注意」とラベル付けする仕組みは、支援の入口になるのか、排除の入口になるのか。同じAIでも、置き方次第でバベル側にも、エルサレム側にも傾きます。
教室で実装するとき、六つの設計のヒント
この文書を学校で読むなら、ポイントはかなり明確です。AI時代の教育で育てるべき力は、単なるAI操作能力ではありません。むしろ、AIの答えを疑い、検証し、自分の判断を持ち、他者と対話し、人間としてどう生きるかを考える力です。
したがって、授業では次のような設計が必要になります。
第一に、AIの使用を「禁止か自由か」で終わらせないこと。第二に、AIの回答を検証する活動を入れること。第三に、出典確認、横読み、根拠比較を習慣化すること。第四に、成果物だけでなく、思考過程を評価すること。第五に、AIにはできない経験、対話、失敗、再挑戦を学習の中心に残すこと。第六に、教師自身もAIを理解し、批判的・創造的に使う研修を受けること。
生成AIは学びを助けるが、学びそのものを肩代わりさせてはいけない が繰り返してきたように、AIの出力は材料であり、最後に名前を書くのは学習者です。AI時代に教師の価値が高まる――「説明者」から「学びの設計者」へ が言うように、教師の専門性も、操作説明より学びの設計に現れます。

人間が小さくなるのではなく、AIを人間に従わせる
『Magnifica Humanitas』は、AIに対する単純な反対文書ではありません。むしろ、AIの可能性を認めたうえで、人間がAIに合わせて小さくなるのではなく、AIを人間の尊厳、真理、共通善、平和に従わせるべきだ、と訴える文書です。
教育現場にとっては、かなり重要な示唆があります。AI活用の本質は「効率化」ではなく、人間をより深く育てるために、どこで使い、どこで使わせず、どこで人間同士の対話を残すかを設計すること、だと言えます。
浮いた50分のあとに、教室で育てたいものは何か──「新たに見出された時間とAI」が問い直す原点 で触れたように、効率化で空いた時間をさらなる処理に充てるのか、迷いを聞く時間に充てるのか。その選択が、学級の文化を変えます。回勅が示すエルサレム再建型のAI利用は、まさにその時間の使い方の設計に他なりません。
バベルを建てるか、エルサレムを再建するか。教室の中でも、その問いはすでに始まっています。答えを急がず、次の授業の一コマから、少しずつ設計を変えていく。そんな歩み方で十分だと、私は思います。
作成日:2026年5月29日
