「人間ドール」第6話
7日目の朝になった。
「今日の夜、加藤様の家に送っていくから」
社長室に呼ばれ、冷たい口調で伝えられた。
「嫌です、お願いします。助けて下さい。お願いします」
泣きながら懇願しても、社長は冷めた目で私を見ている。
「社長、ナカタの中田社長がいらっしゃっています」
慌てた様子で白井さんが社長室に入ってきた。
ナカタの社長?
ナカタというのは自動車会社最大手のナカタだよね? 家にいる時は毎日CMを見たし、大学生の就職したい企業NO.1だ。
そのナカタの社長が来ている。私にとって最後で最大のチャンスがやってきた!
「社長、私を中田様の担当にさせて下さい」
社長の目を見て、真剣に頼む。
「中田社長の話を聞いてくる。もし社長が美沙さんを指名したいと言えば、美沙さんに任せるから」
社長はそう言うと、急いで中田社長のところに行ってしまった。
どうか中田様が私を選んでくれますように。頭の中で何度も神様に祈った。
15分後、社長が社長室に戻ってきて、私の手を握った。
「中田社長は美沙さんを指名した。美沙さん、必ず中田社長をドールハウスLの顧客にしてくれ。もちろん、君の顧客に出来たら、加藤様に事情を話して、加藤様の家には行かずにすむようにするから」
「わかりました!」
白井さんが、田中さんを呼んで、すぐに人間ドールになる為の準備が始まった。
中田社長は「いくら金額をかけても良いので最高に美しいドールにして欲しい」と言われたそうで、最高級のドレスを着る事になった。
中田様がドールハウスLの顧客になれば、自分の好みのドレスを衣装係にオーダーする事が出来る。そして、加藤様のように、自分の好みの専属の部屋を手に入れる事が出来る。
中田様はテレビで見た事があるけど、確か50代くらいで、品の良い優しげな男性だ。
もちろん、社長という立場だから、優しいだけでなく、厳しい面も持っていると思うけど、大石様や加藤様よりずっと好感を持てる。
準備が出来て鏡を見ると、今までの中で1番美しい私がいた。
これなら、中田様を虜《とりこ》にする事が出来るはず。
白井さんに注射を打たれる前に、『私は美しい、きっと中田様は私に夢中になる』と自分に暗示をかけた。
注射を打った瞬間の表情のまま固まってしまうので、注射を打たれる瞬間は最高の表情でなくてはいけないと気づいたのだ。
「美沙さん美しいです。では、中田様のところにお連れします」
白井さんに褒められ、自信がつく。
社長が中田様の為に用意したのは加藤様専用の部屋。
もちろん、社長は加藤様に了承をもらっているだろう。
この部屋を使わせるという事は、加藤様も中田様を顧客にしたいのだとわかる。
後は中田様が私を気に入ってくれれば良いだけ。
「中田様、アニをお連れしました。どうぞ、素敵な時間をお過ごし下さい」
白井さんが車イスを押して、私を部屋の中心まで運ぶ。
「ありがとう」
中田様がお礼を言うと、白井さんは身体を90度に曲げて礼をした後、部屋を出て行った。
たとえ、中田様に身体を触られようとキスされようと我慢しよう。加藤様の家に連れて行かれるよりずっとましだから。
中田様は私を愛しい人を見る様な目で見ながら、時々髪の毛を撫でる。
「私はねぇ、アニ。小さい時から車より人形が好きだったんだよ。だけど、将来、ナカタを継ぐものとして、そんな事は許されなかった。両親や祖父母は、小さい時はいつも車のおもちゃをプレゼントしてくれたし、大きくなっても車のプラモデルや車のパズルをくれたんだ」
ナカタの社長がそんな話を私に聞かせるなんて、少し驚いた。
「だけど、本当はずっと人形が欲しかったんだ。夜、可愛い人形を枕元に置いて一緒に寝たかった。人形の着せ替えをしたかった」
中田様が寂しそうな顔で、話を続ける。
「小さい時に叶わなかった夢を私は社長になったら叶えてみせると決心して、ビジネスに全力を尽くしたんだ。3年前、やっと社長になり、夢を叶える事が出来た。だけど、私は年を取りすぎた。小さい時に欲しかったリカちゃん人形なんかを見ても満足する事は出来なかったんだ。だから、世界中から人形を取り寄せたよ。世界中のドールコレクターとも交流する様になった。その人達から、ドールハウスLの事を聞いていたけど、なかなか来れる機会がなくて、やっと今日来たんだ。アニ、君に会えて嬉しいよ」
中田様は加藤様とは違う。本当にドールを愛しているのだと伝わってくる。
中田様の専属になりたい。
純粋にそう思った。
中田様はお喋りで、その後も、どれほどドールが好きかをずっと語っている。
こういう方は、沢山のドールを呼び、その中で1番気に入ったドールを専属にするのではないだろうか?
最終的に私を選んでくれるつもりがあったとしても、今日、中田様が私を専属にしてくれなければ、社長は私を加藤様の家に送るだろう。
それだけは嫌。
私が喋る事や身体を動かす事が出来れば、中田様に気に入られる努力が出来るのに、今の私は人間ドール。何も出来ない。
中田様が私を専属にしてくれます様に。と心の中で何度も願っている。
「アニ、君はいくら見ていても飽きないね。優しい目をしている。アニさえ良ければ、ずっと私の専属の人間ドールになってくれないか? 君を見ていると、小さい頃を懐かしく思い出すんだ。大切にするからね」
予約時間の2時間まで後10分になった時、中田様が私の目を見ながら、優しく言葉をかけてくれた。
嬉しくて嬉しくて、人間ドールでなければ、涙が溢れていたと思う。
加藤様の家に行かずにすむ事はもちろん嬉しいけど、中田様にこんなに大切に思われている事が何より嬉しかった。
大石様は唯ちゃんの代わりとして、加藤様は人間ドールというおもちゃとして、私を見ていた。
2人とも、私を意志を持った人間としてではなく、自分の為に私を人間ドールとして利用していただけだ。
だけど、中田様は違う。私を本当に大切に思って、必要としてくれている。
注射の効果が切れたら、中田様にお礼を言いたい。心から嬉しい気持ちを伝えたいと思う。
時間になるとドアがノックされ、白井さんが入ってきた。
中田様は白井さんに「アニを気に入ったよ。是非、私の専属人間ドールにしたい。今から契約出来るかな?」と聞いた。
白井さんは嬉しそうな顔になり、「すぐ社長に確認してきます」と慌てて部屋を出て行く。
良かった。これで私は助かる!
少しすると、社長が部屋にやって来た。
「中田様、アニを気に入ってくださった様で、私も大変嬉しいです。ありがとうございます。すぐにこの部屋で契約の手続きを行わせて頂きます」
社長が中田様に深々と頭を下げる。
「アニはさみしそうな目をしているね。私がアニを幸せにしてあげたいと思っているよ」
「ありがとうございます。アニも喜んでいるはずです。ではイスにおかけください。ドールハウスLの人間ドールについて説明させて頂きます」
社長は中田様がイスに座ると、丁寧に説明を始めた。
15分ほどの説明の後、中田様は書類に印鑑を押している。
「これでアニは中田様の専属になります。アニ、中田様にお礼を言いなさい」
社長は、ちょうど麻酔の知れた私に声をかけてきた。
「中田様、ありがとうございます。
中田様に喜んで頂けるように頑張りますので、今後ともよろしくお願い致します」
丁寧なお辞儀をして、中田様に感謝を伝える。
「人間ドールじゃないアニも可愛いね。私こそ、ありがとう。これからよろしく頼むよ」
それから、中田様は社長と少し話すと、仕事があるからと帰って行った。
社長は加藤様に電話をかけて、私が中田様の専属になった事を伝えている。
「わかりました。加藤様、ありがとうございます」
社長は電話を切ると、私の方を向いた。
社長の電話の受け答えから、多分加藤様が許可してくれたのだと思ったけど、それでも背筋に冷たいものが走る。
「加藤様は美沙さんが中田様の専属になる事を許可してくれたよ。今後、美沙さんは加藤様の家にいかなくても良い。もちろん、美沙さんの代わりに誰かを加藤様の担当にする事になるが、それは私と加藤様で話し合って決める」
「わかりました。ありがとうございます」
誰かが私の代わりに加藤様の担当になる事に申し訳なさは感じるけど、今は自分がゲームに参加せずにすむ事にほっとしていた。
そういえば、加藤様の奥様は、夫が人間ドールを趣味にしている事を知っているのだろうか?
まさかゲームで負けた人間ドールを『永遠の人間ドール』にする為に、命を奪っている事は知らないよね?
だけど、同じ家に住んでいるのに何も知らないなんてあり得る?
気になって調べようと思ってもスマホがない。
「社長、私のスマホは加藤様が預かったままで返してもらってません。スマホを返してもらいたいのですが……」
「わかった。社長に確認しておくよ。ただし、わかっているだろうが、加藤様の家で行われているゲームについては他言無用だ。もちろん、ドールハウスLの情報を外部に漏らす事は許さない」
社長が厳しい目で私を見た。
「もちろん、わかっています」
社長の目を見ながら答える。
本当はまだ加藤様の家にいる雪さんや花音さん、そして新しく加藤様の担当になる女性を救う為にも、警察に事情を説明したい。
だけど、何の力もない私が今そんな事をしたら、私ばかりか、関係した人全員殺されるかも知れない。
もう少し様子をみよう。もしかしたら、中田様が力を貸してくれるかも知れない。
その日から、夢に加藤様が出てきて怯える事はなくなった。だけど、その代わりに雪さんと花音さんが悲しそうな目で私を見ている夢をよく見るようになった。
「ごめんなさい。許して」と、雪さんと花音さんに何度も謝っている夢。
中田様は仕事が忙しいのに、僅かな時間を作っては私に会いにきてくれる。中田様と会うたった30分の為に、人間ドールになる準備に1時間を使う事もある。
私がドールハウスLに戻ってきてから2週間が過ぎた。
私と一緒に加藤様の家に行った伊藤さんはまだ戻ってこない。
いつも一緒に仕事をしていた田中さんが、「美沙さん、伊藤さんは美沙さんの衣装係として加藤様の家に行きましたよね? 美沙さんは帰ってきたのに、どうして伊藤さんは帰ってこないんですか? ラインをしても、既読にさえならないんですよね」と心配そうに聞いてきた。
「私にもわからないの。社長に確認しておくね」
伊藤さんは、私を加藤様の家に戻らせる為の人質だったはず。
だけど、私が中田様の専属になった今、加藤様の家には行かなくても良くなったのだから、伊藤さんはすぐに帰されると思ったのに、まだ帰ってこない。
伊藤さんは人間ドールではないから、『永遠の人間ドール』にされる事はないはず。
伊藤さんはどうして帰ってこないの?
田中さんも同じ事を思っていたと知り、ますます不安になって、社長に聞く事にした。
「ああ、伊藤さんね。彼女は加藤様の家でお手伝いとして働いているよ。彼女自身が望んだ事だから心配する必要はないよ」
伊藤さんが望んだこと? 本当だろうか?
伊藤さんは私のせいで、加藤様の家から出られなくなったのではないかという不安が頭から離れない。
「そうですか。田中さんが伊藤さんのラインが既読にならない事を心配しています。
伊藤さんに何もなければ良いのですが」
私が食い下がると、社長はジロリと私を睨み、何も言わずに部屋から出て行った。
伊藤さんの事が心配だけど、社長に聞く以外、私に何が出来るのだろうか?
中田様は私を大事にしてくれている。中田様に、加藤様のしている事を話せば助けてくれるかも知れない。
そんな思いが強くなっていく。
だけど、中田様といる時間の私は人間ドール。話す事が出来ない。
中田様が来られる時や帰られる時には、必ず白井さんが側にいて、麻酔が切れても、私が中田さんと話すのは難しい。
「美沙さん、加藤様に確認したけど、加藤様は美沙さんのスーツケースをそのまま返したから、スマホを抜く様な事はしてないそうだよ」
スマホの事を社長に聞いてから数日後、社長が私に言った。
「そんな事はあり得ません。スマホには友達の連絡先や大事なメモも入っているんです。お願いします。返して下さい」
必死で社長に頼んでも、社長は冷たい視線を私に向けるだけ。
「そんなに言うなら、加藤様の家に行って探してきたらどうだ? 加藤様も来ても良いとおっしゃっている」
「嫌です!」
加藤様の家で行われた命がけのゲームが頭に浮かび、すぐに断った。
「それなら諦めるしかないだろう。新しいスマホはドールハウスLの経費で購入してあげよう」
新しいスマホには今までのデータを引き継ぐ事が出来ない。
それに、社長から与えられた新しいスマホは、私のラインやデータを盗み見る事が出来る様になっているかもしれない。
そんな危険なスマホを使う気になれない。だけど、スマホがないのは困る。いざという時に誰とも連絡が取れない。
「私のスマホが見つかるまで、新しいスマホを貸してください」
社長に頭を下げると、社長は「わかった」と言って、夕方には新しいスマホを持って来てくれた。
中田様の専属になってから、自分のマンションには帰れる様になったけど、その他の場所に移動する事は禁止されている。
友達のラインのIDも、メールアドレスも電話番号もわからない。
実家に電話をかける事は出来るけど、もし加藤様が私の両親にまで何かをしたらと思うと、怖くて連絡が取れない。
警察に電話をかけて事情を話して助けを求めたいと思うけど、やっぱり加藤様が何をするかわからなくて怖くて出来ない。
加藤様や社長に逆らわなければ、このまま危険なく過ごせるだろう。
だけど、雪さんや花音さん、それに伊藤さん、加藤様の家にいる人たちの事を考えたら、自分だけが安全な場所にいる事が申し訳なく感じる。
誰かを頼ってばかりじゃダメだ。自分で行動しないと。
加藤様や社長の上に立つ事が出来るのは中田様だけ。
何とかして中田様と話すチャンスを作ろう。幸い、社長や白井さんは私がもう逃げる事は諦めたと思っている。社長や白井さんの気の緩みを利用しよう。
中田様と話すのが難しいなら、中田様に手紙を書いて、白井さんの目を盗んで中田様に手紙を渡せば良いだけだ。
さっそく、マンションに戻ってから、中田様に手紙を書いている。
この部屋にも、監視カメラがあるかもしれない。部屋中をチェックしたけど、どこに監視カメラがあるかわからない。
さすがにお風呂にはないだろうと思い、お風呂に入る時に紙と鉛筆を持っていき、脱衣所で手紙を書いた。
書き終えた手紙を小さく折りたたみ、バッグの中に入れた。後はこの手紙をどうやって中田様に渡すかだ。
人間ドールになった後、白井さんが来る前にバッグから手紙を出してドレスの袖に隠そう。
あのゲームを思い出せ!
人間ドールでも大きな感情が動けば動くことが出来た。頭の中であのゲームのことを考えて、ほんの少し手首を動かすことが出来たら、手紙は床に落ちる。
中田様が手紙に気づいてくれたら、私からのSOSだとわかってくれるはず。だけど、そもそもゲームの時はドールに痛みを加えられたから感情が動いたのだ。頭の中で必死に願っただけで腕をほんの少しでも動かすことが出来るだろうか?
そしてもう一つの問題は、中田様が床に落ちた手紙に気づいてくれるかどうか。そして、気づいたとして、私からのSOSを訴える手紙だとは気づかずに、白井さんに渡すことも考えられる。それに、たとえ読んでくれても、人間ドールたちを助けたいと思ってくれるだろうか? 面倒臭い問題に関わりたくないと手紙を社長に渡したら、私は終わりだ。
そんなことを考えていると不安でいっぱいになる。
だけど、私はあのゲームで1位を取れた。今回も運が良いに決まってる。
そう思わないと、怖くて行動が出来ない。
勇気を出して、朝、バッグに手紙を入れてマンションを出た。
「美沙さん、何かありましたか? 顔色が悪いですよ」
田中さんに指摘され、はっとした。
私が悩んでいると、白井さんに気づかれたら怪しまれてしまう。
「何もないですよ。どうしたらもっと綺麗になれるのかなって考えていただけです」
口角を上げ、微笑みながら答えた。
「美沙さんは中田様に気に入られるほど綺麗なのに、まだ努力するんですね。さすがです」
「だって、努力しないと、誕生日がくるのが怖くなるから」
これは本当の事だ。どんどん若くて綺麗な人間ドールが入ってくれば、私は敵わなくなるかもしれない。
「美沙さんは誰よりも綺麗になりましたよ。今日から私1人で美沙さんの担当をすることになったんです。これからも美沙さんを綺麗にするために私も最大限の努力をしますね」
伊藤さんが加藤様の家に行ってから、新しい衣装係が2人増えた。田中さんは今まで2人を教えていたが、2人とも自立するようだ。
田中さんが笑顔で言ってくれた。こんなにも私を大事にしてくれる田中さんだからこそ真実を言うことが出来ない。田中を巻き込むわけにはいかないから。
田中さんは言葉通り、いつもよりさらに力を入れて私を綺麗にしてくれた。
「田中さん、ありがとう。とても綺麗だわ」
「今日、美沙さんのドールを渡されたので、このドールと同じグリーンのドレスなんです。中田様の好みなんでしょうね」
「このドール、私が中田様に渡しても良い?」
「もちろん大丈夫です。ドールと一緒に並ぶと、さらに美しさが際立ちますね」
車椅子に座ると、ドールを手紙が入った袖のすぐ近くに置いた。
ドール、私に力を貸して。
あのゲームでわかったことは、ドールと人間ドールは一心同体。加藤様はそれを証明するために、色々なゲームをさせているに違いない。
それなら、ドールが近くにあれば、私の願いを助けてくれる気がする。
ちょうど今、田中さんがドールを持っていて良かった。
田中さんが白井さんに連絡すると、すぐに白井さんがやって来た。
「ドールは私が持っていますね」
ドキドキしながら白井さんに言うと、白井さんは「わかりました」と、表情を変えずに返事をした。
良かった。白井さんは私の意図に気づいていない。
白井さんに注射を打たれた時も、ドールが袖の側から離れないように気をつけた。
「中田様、アニをお連れしました」
白井さんが中田様の部屋のドアを開け、車椅子を押しながら中に入る。
「アニ、緑のドレスが良く似合うね。本当に美しい」
中田様が私に近づいてくる
白井さんの前で、私の手に触らないで。それだけを願っていた。
幸い中田様は私の頭に触れただけで、白井さんはすぐに部屋から出て行った。
「アニ、このドールは君の代わりに家に持って帰って、大切にしているからね。いつか、アニにも私の家に来てもらいたい」
中田様は私の手の側にあったドールを取り、優しく抱きかかえる。
その時、袖が揺れ、手紙が袖の中からドレスの上に落ちた。
中田様はまだ手紙に気づかず、ドールを撫でている。
早く気づいて、とはやる気持ちになる一方で、もしこの手紙を中田様が社長に渡したら、私は終わりだという恐怖も感じて、胸がキリキリと痛む。
「この手紙は何だろう?」
手紙に気づいた中田様が、手紙と私の顔を代わる代わる見ている。
こんな時、表情一つ変える事が出来ないことがつらい。
「この手紙はアニが私に書いたものかい?」
中田様が私に問いかける。
中田様は返事の出来ない私を見て、どうしたものかという表情になった。
「この手紙はアニが私に書いたものかい?」
中田様がドールに語りかけると、ドールの口が一瞬、はいと動いた。
「やはりそうか。ドールありがとう」
中田様はドールの口が動いた事を、おかしいと思わないのだろうか?
ドールの口が動いたことより、中田様がそのことを不思議に思わないことに驚いた。
中田様は手紙を開き、ゆっくり読んでいる。
私は、胸のドキドキが止まらなかった。
「アニ、この手紙に書いてあるのは本当の事なんだね?」
中田様が私の顔を覗き込む様に見る。
ドール、お願い。私の代わりに返事をして。と心の中でドールに頼む。
「アニはこんなひどい目にあって、苦しんでいたのかい?」
中田様様はさっきドールの口が動いたのを思い出したのか、ドールに向かって尋ねている。
はい。
ドールの口が、さっきと同じように動いた。やっぱり見間違いなんかじゃない。ドールと人間ドールは意志を通じ合わせる事が出来るんだ。
「可哀想に……。アニ、私がアニを守るから安心して欲しい。他の人間ドールも必ず助けるから」
中田様は、私の目を見ながら、力強い声で言ってくれた。
良かった。本当に良かった。これで雪さんたちも助けてもらえる。
中田様の言葉が嬉しくて、心の中で泣いている。
「それにしても、加藤さんがこんな酷いことをしているなんて。人間ドールの人権を無視して、自分達の娯楽の為にデスゲームをさせるとは」
中田様の怒りが伝わってくる。
「もちろん、今日、白井さんや社長には何も言わないよ。綿密な計画を立ててから、行動しなければ、かえって人間ドールたちを危険な目に合わせることになってしまう。家に帰ってから、どうやって人間ドールを救えばいいか考えてくるから」
私の不安が中田様に伝わったのか、中田様は私の手を握り、優しく語りかけてくれた。
やっぱり中田様は信じられる人だ。
加藤様は狡猾で、卑怯な人。それに政治家の仲間も沢山いる。
中田様を危険な目に合わせることは考えられないけど、中田様をドールハウスLに出入り禁止にするかもしれない。
中田様の弱みを握り、中田様を脅すことも考えられる。
大丈夫。中田様は人間ドールを本当に大切に思ってくれているから、リスクがあっても絶対に私たちを守ってくれる。
中田様は時間になると、白井さんを呼んだ。
「白井さん、アニを家に連れて行きたい時はどうしたらいいんだい?」
「契約書にサインを頂ければ大丈夫です。家へのレンタルについての説明書を持ってきますので、少々お待ちください」
中田様が質問すると、白井さんは部屋を出て、すぐに説明書を持って戻ってきた。
「こちらになります。いつでも可能ですので、必要な時にお申し付けください」
「わかった。じゃ、今晩、説明書をしっかりと読むとしよう」
中田様の口調は落ち着いていて、少し前にあれほど怒っていた事は想像できない。
私が中田さんに加藤様の家でのことを話した事を、白井さんは気づかないだろう。
中田様は別れ際に、私の耳元で「もう大丈夫だから安心して」と言ってから、部屋を出て行った。
私の麻酔が切れた時、白井さんが「中田様、さっき何か言っていたようだったけど?」と私の目を見ながら聞いてきた。
「またすぐに来るからね。とおっしゃってくれました」
「中田様は美沙さんに夢中ですね。美沙さんを家にレンタルするつもりの様ですし。ドールハウスLの為にも、このまま中田様を惹きつけておいて下さい」
「はい。わかりました」
動揺する事なく冷静に答えた。私は人間ドールになってから、嘘をつくのが上手になった気がする。
命懸けの嘘なのに、いつも通りに答えることが出来て良かった。
更衣室に入り、田中さんにドレスを脱がして、化粧を落としてもらう。
まだ人間ドールになって、1年も過ぎていない。それまで私はモテたこともなく、自信もなかった。
それが、この1年でこんな風に変わるなんて想像もしていなかった。
そんな感傷に浸っていると、田中さんが心配そうな顔で私を見ている。
「美沙さん、悲しそうな顔をしていますね。中田様に何かされたんですか? それなら社長に報告して、中田様を出入り禁止にしてもらったらどうですか?」
えっ? 驚きのあまり、私は目が点になった。
「中田様はいつも優しいよ。もしドールハウスLで働いていなかったら、どんな人生を送っていたんだろうって考えていたの」
田中さんはホッとした表情を浮かべている。私の事を本当に心配してくれているのだと、嬉しかった。
「そうだったんですね。良かったです。美沙さんは人間ドールになるために生まれてきた人だと思います。最初に会った時から、どんどん美しくなって、美沙さんは私の憧れなんです」
私がドールハウスLから逃げようとしているなんて知らない田中さんの言葉に、胸がズキっと痛んだ。
「ありがとう。私も田中さんが担当で良かったと思ってるよ」
田中さんの手を握ると、田中さんは嬉しそうな顔を私に向けた。
田中さんを騙《だま》している様で心苦しいけど、本当の事を言えば、いずれ社長に伝わり、私も『永遠の人間ドール』にされに決まっている。
絶対に『永遠の人間ドール』になんてなりたくない、それに、『永遠の人間ドール』になった人たちを救いたい。
田中さんを信用していない訳じゃないけど、話す事は出来ない。
田中さんには、社長や加藤様のことは何も話さず、明るく「ありがとう」と言って、部屋を出た。
中田様には私のスマホの番号は知らせていない。社長が、私のスマホの全ての記録を盗み見ている気がするからだ。
マンションに帰ってからも、中田様と連絡が取れないことで、これからどうなるのか不安で仕方がなかった。
中田様が人間ドールを救おうとすれば、加藤様が逆上するだろう。
次の日、中田様の予約はなかった。中田様は仕事が忙しいので、毎日来てくれる訳ではない。
だけど、中田様と会いたかった。不安で仕方がないまま、時間だけが過ぎていく。
私は中田様の専属人間ドールなので、中田様がお見えにならない日は、人間ドールの宣伝の仕事をしている。
ドールハウスLのYouTubeに出演したり、パンフレット用の撮影をしたりして時間が過ぎていく。
仕事中は真剣に頑張っているけど、休憩のたびに、ため息をつきそうになる。
中田様は家に戻って落ち着いて考えた時、人間ドールを救うことに大変なリスクがあることに気づいたんじゃないかな。
中田様は大企業の社長として、従業員を守らなくてはいけない人。ただの趣味の人間ドールを救うために、リスクを背負うなんて出来るのだろうか?
加藤様に目をつけられたら、いくら中田様が大企業の社長といっても、危険かもしれない。
そんな事をずっと考えていると、食欲もわかない。
だけど、私がいつもと違うと、白井さんや社長に気づかれたら、それこそ危険だ。無理やり食事をして、楽しくなくても笑顔で会話していた。
中田様が来られたのは、3日後だった。2日間不安でいっぱいだったのに、中田様の笑顔をみると、不安が消えていく。
