旅は竜連れ世は情け 六章 出る竜は打たれる
あたしたちは一路、王都へ向かう。兄はそこにいる。
旅の終わりの気配。あたしはそれを、ひしひしと感じとっている。
がたん、ごとん、と規則正しく振動しながら、王都行きの蒸気機関車が一面の花薫る草原をひた走る。王都への移動は、一度乗ってみるのも一興ではないか、というジーヴたっての希望もあり(という言い方をするとまた嫌がられるのだろうけど)、鉄道を選択する運びとなった。道中ジーヴと話したい事柄もある。竜型の彼とは会話ができないから、移動しつつ話し合いが持てる列車の利用は、あたしとしても好都合で異論はなかった。
王都行きの列車はすべて寝台列車で、客室は等級に応じて広さが違い、ひとつの部屋につきふたつの寝床が付いている。王都へ着くまでの三日三晩、ここで寝泊まりするのだ。外観から想像するより内部はずっと広々としていて、あたしはちょっと感動を覚えた。
寝台列車は客車全体鍍金装飾がふんだんに施された立派なもので、本来あたしのような平民に手が届く代物ではない。ひとえに黒竜の鱗さまさま、といったところだ。この旅で、あたしはずっとジーヴに頼りっぱなしだったなと思う。いまだに彼の鼻を明かすことも、一杯食わせることもできずにいる。名前も、結局呼ばれず仕舞いになるのではないだろうか。
兄が捕らえられ、焦る気持ちもあるけれど、焦燥感で機関車の速度が上がるわけでもない。あたしは極力この旅程に浸ることに決めた。きっと二度と経験できない数日間になる。
客車の外装や内装の豪華さにも驚かされたが、度肝を抜いたのは食堂車での食事だった。車内に上品な円卓と椅子が並ぶ様は、あたかも高級飲食店に来たようで、こぢんまりしたバーさえ設けてある。
発車してから初めての食事時、あたしは落ち着かなく周囲を見回しながら席に着いた。客は正装した中高年の男女がほとんどだ。内面はともかく、見た目だけなら青年貴族にも見えるジーヴは、存外しっくりと豪華絢爛な客車に馴染んでいる。悠然と前菜を待つ姿も堂に入 ったものだ。対して、薄汚れた服のあたしはどこをどう見ても浮いている。乗客たちがこちらをちらちら見ながら何事か囁く声も聞こえてくる。
ふんと鼻を鳴らし、ジーヴが聞こえよがしに大きい声を出す。
「小娘よ、堂々としているがよい。お前は正規の料金を払ってこの列車を利用しているのだ。何も後ろめたいことはなかろう」
竜の一声の効果は絶大で、ひそひそ話はぱたりとやむ。いい年をした男女がもぞもぞと気まずそうにしているのにも、ジーヴは意に介さぬ様子だ。
しかしな、と今度はあたしに向かって眉をひそめる。
「その服装が場違いであることは確かだな。以前にくれてやった首飾り、まだ持っているか? あれを着ければ、少しは華やいだ雰囲気になるのではないか」
いつぞや、ジーヴが気まぐれで買ってきた珊瑚の首飾り。あたしはそれを、まだ持っている。持っているが――この格好に合わせたら、それこそお笑い草ではないか。
「……首元だけ飾りたてて、何の意味があるの」
「くく、それもそうだ。なに、枯れ木も山の賑わいというだろう、何も無いよりはましかと思ってな!」
「……」憮然として、膝を打ち大笑いする無礼な竜を睨む。
ジーヴの人を食った言い様には、一年間旅を共にしても慣れることがなく、いつまでだって腹が立つ。それに、乗客が怪訝な顔で見てくるからやめてほしい。
前菜としてテリーヌが運ばれてくる。一瞬ジーヴは手掴みで食べるのではとひやっとしたが、予想に反し自然な所作でナイフとフォークを繰りだした。いくら批判的な視線を向けてみても、洗練されているとしか言えない仕草だった。
「あんた、それちゃんと使えるんだな」
「なんだ、心配していたのか? 能ある竜は爪を隠すものだ」
「あんたの爪はいつも剥き出しだけどな」
冗談なのかそうでないのか、判別できない言葉に適当に返答する。あたしは多数の銀色にきらめく道具たちを前にし、途方に暮れた。こんな格式ばった形で使うのは初めてなのだ。そしてジーヴにはなるべく教えを請いたくない。見よう見まねで、最も外側に置いてあるナイフを手に取る。あたしの一挙手一投足を、ジーヴが冷めた顔で見ている。恥をかいてなるものか、とむきになるが、片腕のあたしが食事中ずっと四苦八苦したのは言うまでもない。
気疲れのする食事を終え、客室に戻る。これが三日間続くと思うとげんなりした。普通の人は手の込んだ料理を楽しめるとなれば喜ぶのだろうが、さっきのであたしの舌には合わないともう結論が出た。大衆食堂や宿、自分で作る大雑把な料理の方が断然好みだ。
部屋には毛足の長い絨毯や、優美な曲線を多用した鏡台、ふかふかの肘掛け椅子などが設えてある。弾力に富んだ椅子の座面に深く埋まると、精神的な疲れが抜けていく気がした。
ジーヴはでかい図体で二人がけのソファを独り占めしている。いつの間にか手にしていた蒸留酒のふたをきゅぽんと開け、そのままぐびぐびと口に含む。半分ほどを顔色ひとつ変えず一気に煽る鯨飲ぶりに、呆気に取られた。
「なんだ? お前にはやらんぞ。これはいい酒だ」
「飲みたいなんて一言も言ってないから。それより、王都に着く前に話したいことがある」
「うむ。俺もだ。まずお前から話せ」
「……教団の奴らに捕まった時、騎士団長が気になることを言ってたんだ。確か、『理想の世界を作る』だとか『世界は新しい秩序を手にいれる』だとか。どういう意味だと思う」
天鵞絨張りの座面にふんぞり返り、長い足を組んだジーヴは思案げに顎を撫でる。
「それだけでははっきりしたことは分からんな。が……俺も気になる話を聞き込みで得たぞ。イゼルヌ教団の最高位は大司教という肩書きなのだが、なんでも今の大司教に代替わりしてから、教義の解釈が少し変わったようなんだと」
「……どういう風に?」人間こそが神に祝福されし大陸の支配者である、とするイゼルヌ教の教義。それをどう噛み砕くか。不穏な雰囲気を感じつつ問う。
ジーヴは獰猛で獣じみた、それでいてどこか虚無的な笑みを浮かべる。
「嘘か真か分からんが、当代の大司教のもと、教団は竜排除の動きを見せているらしい。竜の知性を否定するだけでなく、存在をも否定しようというわけだ」
息を飲む。話の流れで薄々勘づいていたけれど、声に出して聞くと空恐ろしいものがあった。無意識に握りしめていた片手の拳に、じっとりと嫌な汗をかいている。
「そんな……大司教が代替わりしたのって――」
「一年と数ヵ月前だそうだぞ」
ジーヴは遠くを見つめている。ああ、と嘆息が漏れた。あたしの街が焼かれ、黒竜の一族が滅ぼされたあの一夜。時期がぴたりと合致する。黒竜の元族長はさらに言葉を続ける。
「噂話という前提は付いているが、火がないところに煙は立たぬ、というからな。どこまでかは知らんが、真実も含んでいると考えるべきだろう。なれば、連中の言う〝新しい世界〟がどういったものか、推測できよう」
ジーヴは既に悟っている。あたしも、予想がついている。しかしそれを口にするのは、かなりの勇気を必要とした。口内がからからに乾いていた。唇を一舐めしてから、一句一句を喉から絞り出す。言葉で、腫れ物に触ろうとする。
「――今の大司教と、イゼルヌ教団が作ろうとしてるのは……竜のいない世界」
「そんなところだろう」ジーヴは低い声で応じ、木製のテーブルの上に酒瓶を乱暴に置く。ごとんと重い音が鳴った。
「竜は人間に協力もせぬし、人間が何を考えているかも興味がない。人間同士で争おうが、知ったことではないと思っている。しかし、同胞に仇なさんとする者を、野放図にするわけにはいくまい」
いつしかジーヴの口元から笑みが消えていた。代わりに、目の奥でめらめらと激情がほとばしっている。その燃え盛る感情は、アルコールランプに灯る、青白い炎にも似ていた。
あたしはふーっと長く息をついて、より深々と椅子に沈みこむ。
話が大事になってきてくらくらした。竜のいない世界を作るなんて、正気の沙汰ではない。第一そうする理由がない。竜がひとたび本気になれば、赤子の手をひねるように、人間は成すすべもなく駆逐されるだろうことは想像に難くない。その可能性は脅威かもしれないが、人と竜が対立した歴史はないし、竜は絶対に人間との間に禍根を残す真似はしない。ジーヴと旅をしてきて、それははっきりと分かる。
謎はまだ残る。そんなけったいな思想の持ち主に、兄はどうして狙われたのか。彼は、捕らえられるような研究をしていたのだろうか。あの柔和な笑顔の裏で?
あたしは自分の気持ちがぐらつくのを感じ、座面の上で膝を抱えた。
「兄さんは、どうして捕まったのかな。もしかして、あいつらに追われるような研究をしてたのかな……」弱々しく客室に漂う、答えの出ない問い。
あたしは兄のことになると自制が利かなくなる。簡単に視界が潤んだ。
疑問に答えたのは、ジーヴの呆れ返ったため息だった。
「手の施しようのない愚か者だな、お前は。お前の兄はきっと今頃、捕らえられた先でたった一人で耐えているのだぞ。お前が信じてやらんでどうするのだ?」
責めるような言葉に、はっとする。そうだ。あたしは兄のたった一人のきょうだいであり、肉親なのだ。何があっても、兄が兄であることに変わりはない。
あたしは緩んだ鼻をすする。「ジーヴ……もしかして、励ましてくれた?」
「下らんことを抜かすな。お前が勝手な想像で勝手にくよくよと消沈するのに、鼻持ちがならなかっただけだ」
酒瓶がまた大きい手底によって持ち上げられる。ジーヴはその透明な液体を、二回目ですべて飲みきった。
列車が速度を落とす。ガラス屋根のアトリウムの内部へ、甲高いブレーキ音を響かせながら、機関車は乗客を焦らすようにのろのろと進んでいく。
終着駅に降り立つと、三日間ぐらぐらする床に慣れきったあたしは、不動の大地の上でしばしふらついた。人の波に従い、駅の大広間から外へ出る。初めて見る王都の壮観に、あたしは驚嘆の声をあげた。
煉瓦造りの道路に、煉瓦造りの家々。道をひっきりなしに行き交う人々、馬車、ところどころに最新鋭の乗り物である車。都の中心は小高い丘になっていて、そこに、いくつもの尖塔を抱えた、眩しい白壁の王宮がある。あそこに、この大陸の王が住んでいる。
しかしその城自体より、あたしの目を奪ったのは、城へ向かう荷馬車の多さだ。馬に引かれた大小様々な幌が、列をなして続々と王宮を目指している。きっと中身はほとんどが王への貢ぎ物だろう。といっても、王族が道具や食品や宝飾品などの品々を、強制的に献上させているわけではない。大陸全土の商人や農民たちが、ぜひ国王陛下に使ってほしい、食べてほしい、と品物を運んでくるのだ。
王族御用達の箔がつけば、同品質のものより三割ほど高価でも飛ぶように売れる。あたしの街からも、物品を運んでいたから分かる。人間、みんな考え方は一緒だ。
駅前を散策する体を装いつつ、ジーヴとこそこそ作戦会議をする。
「兄さんはどこだろう、やっぱり王宮かな。どうやって助けだそうか」
「俺がまた、頭突きで壁をぶち破るのではいかんのか」
額にまだ傷を残した竜の御仁は平然とのたまう。
「駄目に決まってるでしょ、それじゃ兄さんを助けに来たんだって教団の奴らに報せてるようなもの。兄さんを人質にでもされたらどうするの」
「ふむ。そういえば、俺たちの情報が王都まで伝わっているかもしれんな。教団の人間に見つからぬようにせねば」
ひそひそと思案をこねくり回していると、
「お二人さん、王都は初めてかい? 記念の土産に、王都名物なんていかがかな」
後ろから、首にたっぷりと肉を蓄えた、にこやかな商人に声をかけられる。
見ると、彼は馬を牽いており、さらにその馬は巨大な棚型の荷台を牽いている。移動式の店舗だろうか。それぞれの棚には、香水の瓶を二回りほど大きくしたような、コルクで栓をした小瓶がずらりと並んでいた。コルクと瓶のあいだには色とりどりの蝋引き紙が噛ませてあって、目に賑やかだ。中身は黄金色や琥珀色、黄褐色をした液体のようである。
何気なくそのうちの一本を手に取って傾けると、液面がそろりと動く。鉄道で抜けてきた王都周辺の花畑を思いだし、ぴんと思い当たった。
「なんだそれは」さして興味もなさそうに尋ねるジーヴに、
「蜂蜜だよ。いろんな種類の花の」と答えると、商人が満足げにうんうんとうなずく。
「蜂蜜は王都の特産品なんだ。旅人さんには特別にお安くしとくよ」
昔から蜂蜜は好きだった。純正の蜂蜜は独特のえぐみがあるけれほど、水飴とあわせればぐっと食べやすくなる。もちろんそのまま飲み物に入れても、焼きたてのパンに塗ってもいいし、料理に使えば味がまろやかになる。見映えよく仕上げるための、つや出しとしても使える。それにしても、これほどの種類の蜂蜜を一度に見たことはなかった。圧巻である。
いつも自信たっぷりの黒竜が、不可解そうな顔をして小首を傾げる。
「花の種類ごとにそんなに色が違うのか?」
「味だって全然違うぞ。そんなことも知らないで、よく今まで生きてこれたな?」
いつかのジーヴの台詞を真似する。さんざんあたしを馬鹿にしてきた黒竜の大男は、むっつりと押し黙った。イゼルヌ教団の時の仕返しだ。胸がすく。
商人はあたしたちが興味を持ったと判断したのか、営業用の笑顔とともに、荷台の棚からなにがしかの商品を寄越してみせる。
「最近売り出したばかりの新商品があってね、紅茶の抽出物と蜂蜜を合わせたものなんだけど。お湯に溶かすだけで、手軽に色々な味を楽しめるよ。味見だけでもしていって」
商人魂を丸出しにした男は荷台からポットを取りだし、これは日光で温めただけだからぬるいんだけどね、と言いながら、水と蜂蜜とを木製のカップに注ぐ。あたしは無料ならばと喜んで受け取り、ぬるま湯でも薫る芳香を胸いっぱいに吸い込んでから、口に含む。紅茶と蜂蜜の織り成す調和。自分好みの味だった。美味しさで酔いそうだ。
杯を渡されたジーヴは気乗りしない顔だったが、渋々といった様子で口をつける。
瞬間、はっとした表情を浮かべ、一口、また一口と飲み進める。結局、蜂蜜紅茶は一滴残らず飲み干された。「まあ、なかなかの味だな」
竜は我に返って苦し紛れのように言う。あたしはそれを、にやにやと眺めた。
街道沿いのカフェテラスにて、作戦会議を続行する。注文した深煎りの珈琲に、さっき買った蜂蜜をこっそり垂らしてみる。黄金の流体が珈琲の味を素敵に変える。こんな悠長に構えている場合ではないのだが、いい買い物をしたと思った。
「して、どうする」
「考えてたんだけど、あれが使えないかなって」
あたしは煉瓦敷きの道を間断なく行き来する、幌馬車の列を指差す。
あれらの行き先はすべて王宮だ。荷台に潜り込めば、自動的に城の入り口くらいまでならたどり着けるだろう。その後は多少荒っぽい手を使う必要があるとは思うけれど、膂力に任せて正面突破するよりよほど効率的だ。ジーヴも異議はないらしく、小さく顎を引く。
「常套手段といえば常套手段だな。それで行くか。ただし、動物が乗せられた馬車はごめんだぞ。臭いで俺の鼻が駄目になりかねんからな」
「それ以前に、動物に騒がれたら一巻の終わりでしょ……」
竜の男は、ひどく小さく見える陶器の器をぐいと傾ける。「さあ行くぞ、善は急げだ」
「ちよっと待て、まだ残ってるんだって……あちっ」
作戦の打ち合わせを経て、二人して荷馬車の物色を始める。あんたのせいで舌を火傷した、どうしてくれるんだ、とジーヴに不平を垂れながら。
噴水が噴きあがる公園の一角に、馬を一時休ませるための水飲み場があって、周囲には低木が集まって茂みになっている。あたしたちはこれ幸いとばかり緑の影に隠れ、手頃な荷台がないかとつぶさに観察する。地味な外装の馬車を目をつけ、あれはどうかな、よし行こう、と囁き声を交わし、御者が一時車から離れた隙に、すばやく荷台の中に忍びこんだ。
幌の中は真っ暗だった。土埃と、干し草と、香辛料の匂い。どうも食料品を積んだ馬車のようだ。床部分は荷物でごたごたしていて、ほとんど隙間がない。辛うじて底面が見えている荷台の隅っこに、ジーヴとぴっちり隣り合って座る。贅沢は言っていられないが、かなり窮屈だ。大の男と密着せざるを得ない。
「ふむ、ぴったりくっついているしかないな。この際だから我慢してやるが」
「それ、こっちの台詞だから……」
兄以外の異性に、これほど接近されるのは初めてだった。よりにもよって、なぜこんな尊大で不遜な竜がその相手なのか。運命の神に文句のひとつでもぶつけてやりたい。
すぐそばで馬が嘶き、びくりと体が震える。そのうち車輪が軋み、車体がぎいぎいと動きだした。王宮までどのくらいかかるのか知らないが、既に狭さで体が悲鳴をあげている。一刻も早く着けるよう、内心で祈りを捧げた。
しばらくして、三半規管が車の傾きを察知する。王宮へ一直線に伸びる坂道へ差しかかったのだろう。ここを行き過ぎれば、そこはもう王宮の領内だ。思わず胸を撫で下ろし、安堵に一息つく。しかし、馬車は坂を少し登っただけで、不意に止まってしまった。
体に伝わるがたごとという揺れがやむ。胸に急速に広がる不安。
「おかしいな。まだ城じゃないよな?」
「何かあったようだな」至近距離からの、ジーヴの低い囁き。
あたしは息を殺し、耳を澄ました。外でがちゃがちゃと金属が鳴る音がする。温度を感じさせない平坦な声がそれに続く。
「検問だ。中を検めさせてもらうぞ」へえ、と御者の素直な返事。
あたしの心臓が跳ねあがる。傍らにいるジーヴが、まずいな、と渋い口調で呟いた。
一条の光が、荷台の暗黒を払う。影と化した衛兵が、暗闇に目をこらして荷物を確認する。その視線の動きが、手に取るように分かる気がした。
あたしはジーヴの腕の中にいた。衛兵の声がけがあった直後、彼はすぐさまあたしを抱き寄せ、長い黒衣で体を覆ったのだ。二人して気配を消そうと努める。息遣いを抑えた彼の、逞しい両腕があたしの全身をぎゅっと抱き締めている。
極限まで縮こまろうと、緊張した全身を彼に預けると、微動だにしない厚い胸板があたしを迎えた。竜の肌は冷たいのかと予想していたけど、そこは優しい温もりがあり、安心感が形を持ったらこういう感じだろうな、と考えた。これまで、竜と人間はまったく別の生き物なのだ、と実感するばかりだったのに、こうして鼓動を聴くと大して違わない気もする。ただあたしが女で、彼が男だというだけで。
張りつめる緊迫感に、あたしの心臓はばくばくと早鐘を打っている。胸に接した耳から聴こえてくる心音は、とくん、とくん、とゆったりしていた。こんな状況でも、落ち着いていられる彼をすごいなと思う。
兵の硬い足音が迫ってきて、ひしとジーヴにしがみつく。それで何かが好転するわけでもないのに。彼の長い腕は背中まで回され、抱擁めいた姿勢となっている。
一分一秒が引き伸ばされたようだった。衛兵の滑った目が黒衣を見透かしているんじゃないか、今に剣が振るわれるのではないか、という恐怖が渦巻く。こぼれそうになる悲鳴を、叫びを、歯を食いしばって押し殺す。
そうして、やっと足音は離れていき、再び荷台が闇に包まれた。
よし、行っていいぞ、の声に、またも御者がへえ、と答え、車が動き始める。
張りつめていた緊張がやっと解け、ジーヴの腕のなかで、あたしはへなへなと脱力した。
「どうやらやり過ごせたようだな」
ジーヴもやれやれと息をつく。あたしの腰に手を回し、全身を胸に抱いたまま。その腕がいっこうに解かれる気配がないので、あたしは彼の強靭な体をぽかぽかと殴って抗議した。
「いつまでそうしてるんだ、離せ馬鹿!」
「なんだ、どうした。気がついたんだが、この体勢の方が楽ではないか?」
「そういう問題じゃないッ」
「ではどういう問題なんだ」
ジーヴは心底分からないと言わんばかりに、目と鼻の先で、訝しい表情を浮かべた。
やっとのことで、無粋な男から逃れる。
口が裂けても言えない。その太い腕のなかが、少し、ほんのちょっとだけ、心地好かっただなんて。頬がかっかと赤らんでいる予感がある。ここが暗闇で本当に良かった。
* * * *
淀んだ空気が満ちる石牢のなかで、冷気に身を切られながら、僕はぼんやりと考える。このまま殺されるのだろう、と。彼らの身の毛もよだつ計画に気づいてしまったがために。
生まれ故郷が灰塵に帰 したのは、きっと僕のせいだ。
何が悪かったのだろう。長旅の末、新大陸を発見したことだろうか。海洋学者になったことだろうか。竜の知見に目をつけたことか。そもそも、学者にならなかったら、アイシャと二人で幸せに暮らせたのだろうか。狭く閉ざされた牢獄にあって、僕の眼裏に映るのは、新大陸の風景だった。深い霧の内から立ち現れた、巨大な陸の棚。険しい岸壁の上に広がっていた、果てしもなく続く手つかずの草原。
上陸時は岸近くの荒波に揉まれ、激しく船酔いした僕は前後不覚の状態になっていたけれど、あのたった数日間の調査ほど、好奇心と知識欲を刺激する経験はなかった。僕はその時とても幸せだった。このために生まれてきたんだと本気で思った。復路の食糧がぎりぎりになるまで粘り、新大陸を去る際には、相当に名残惜しかった。心のなかで、また来るよ、と陸地に向かって呼びかけた。しかしその想いも、虚しくここで潰えようとしている。
イゼルヌ教団の大司教は、我らに味方すれば命は助けてやろう、と言う。初老に差しかかった大司教の微笑みは、形こそ聖職者らしいものではあったが、その目はぞっとするほど熱がなく、どこまでも冷酷だった。
我々の仕事は仕上げの段階に入っているのだ、と彼は告げる。
「後は陛下が、人間と竜の生活圏分割の令状を、私たちへ発布してくれれば終いだ。おかしな意地は捨てろ、小僧。お前が何を成そうと、どのみち命令は下る」
「司教、あなたは」
「司教ではない、私は大司教だ」
「……大司教。僕は、焼き討ちを経験しています。それを陛下が知ったら、どうなさるでしょう。僕の行為がすべて、無駄だとでも仰るのですか?」
僕はできうる限りの凄みを利かせて睨めつける。
なんとか国王に大司教の悪行を伝えられれば、僕に勝機はあると考えていた。僕は彼らの凶行を身をもって体感したのだ。彼らの真意は他にあるのだと、陛下、あなたは騙されているのだと、そうお教えできれば、未曾有の暴走は食い止められるのではないか。僕はそこに可能性を見出だしていた。
陛下は民に愛されている。決して愚王ではあるまい。
僕の思考を知ってか知らずか、大司教は僕の睨みを一蹴して高笑いした。
「その通り、無駄だよ。お前がどんな言葉を尽くそうと、根拠も無しに国王が聞き入れるわけもあるまい。国王陛下は私を信頼してくれておるのだ。何事を話そうと、所詮は竜狂いの妄想と断じられるだけだろう。分かったのなら観念して、私に従うんだ」
最後通牒めいた威令にも、屈する気はなかった。これまでの耐えがたい尋問にも、研究者としての、人間としての、何より兄としての尊厳や自尊心が勝 ったのだ。竜をこの大陸から駆逐するだなんて馬鹿げている。抵抗が無意味だとしても、彼らの言いなりになるような真似をしたら、妹は僕を一生軽蔑するだろう。それは死よりも酷なことに思える。
だから僕は誇りを保ったまま、ここで死ぬつもりでいた。心残りがないわけじゃない。やり残した仕事も研究も、たくさんある。そして何より、一度だけでもいいから、最期にアイシャの元気な顔を見たかった。
静寂が支配する牢獄に、きいぃ、と入り口の扉が開かれる音が響く。
石床をコツコツと叩く音。悪魔の靴音。そちらを振り仰ぐ気力もなく、ため息をつく。
「また尋問ですか……。何度も申し上げたとおり、僕はあなた方には絶対に協力しません。何回言えば分かって――」
「兄さん!」鋭い女性の声。ああ、とうとう幻聴まで聴こえるようになってしまったのか。
あの、聞き馴染んだ声。懐かしい、僕が最も求めていた声。
僕はのろのろと半自動的に面を上げる。金属の柵の向こうに、衛兵の兜を被った、衛兵服姿の華奢な人物が立っていた。その体は小刻みに震えている。
僕の、雪に覆われた湖みたいに凍りついた心が、一瞬にして融け、喜びで沸き立った。驚きと嬉しさで泣きそうだ。幻聴じゃない。どういう経緯で彼女がそこにいるのかは分からない、けれど間違いようがない。一年ぶりに再会する、妹のアイシャだ。
「アイシャ! アイシャなのかい?」
「良かった……兄さん、無事で……」
アイシャが兜を脱ぐ。くすんだ桃色の髪と、僕と同じ深い紫色の瞳が現れる。その双眸は潤んでも見えた。なんだか、顔つきが以前にも増して凛々しくなっている。
「ジーヴ、早く早く!」牢の扉の方にいる誰かに向かって、妹が声を放る。
味方がいるのか、と僕は感心した。悠然とした足取りで近づいてきたのは、並外れて大きな体躯の、黒衣を纏った青年だった。尖った耳に、鋭い爪。竜だ。
竜の青年は柵に相対し、おもむろに両腕を伸ばす。握ったその手に力が込められると、服の上からでも筋肉が盛り上がるのが分かり、太い金属の棒はまだ熱い飴細工のように、造作もなくへにゃりと曲がった。出現した抜け穴を通って、アイシャが僕の元へと駆け寄ってくる。僕はよろよろ立ち上がって、鉄砲玉みたいに飛んでくる妹を、心許ない腕と胸で精いっぱい抱きとめた。久方ぶりの抱擁だった。
「兄さん……会いたかった……!」
「僕もだよ、アイシャ」
頭を撫でてやると、アイシャはすんすんと鼻を鳴らしはじめた。腕にあるぬくもりが、これが夢じゃないと証明してくれる。僕の視界も涙で滲む。そうしているうちに、僕はあることに気づいて愕然とした。妹の左腕が、丸ごとないのだ。「アイシャ、腕が――」
「うん……街が焼けた夜、瓦礫に押し潰されたの。もう駄目だって思って、最後は自分で切り落とした」
「……ごめん、アイシャ。僕のせいだ……」
壮絶な語りの内容に、抱き締めるより他に何もできない無力な自分を呪う。アイシャは胸のなかで、いやいやをするように首を横に振る。そのいじらしさに、また泣けてくる。
僕らの様子を遠巻きに見ていた竜が、ゆっくりと牢の内部に入ってくる。片眼鏡を割られてしまっていたためによく見えなかったけれど、この距離なら分かる。彼の顔には見覚えがあった。竜の青年も、僕を視界の中心に捉え、おや、という顔をする。
「エイミール?」
「~~~じゃないですか!」僕らは互いに名前を呼びあった。
アイシャがもぞりと動いて、無言のまま僕を見上げる。口はぽかんと半開きになり、目が点になっている。僕からなかば体を離し、驚愕に顔を染めながら、僕と竜に視線をやる。
僕は竜を出迎えた。こんな堂々とした竜は他にはいない。黒竜の一族の、元族長だ。額に覚えのない傷ができているけれど、調査に何度も付き合ってくれた、あの彼に間違いない。
瓦礫の山と化した故郷を命からがら抜け出し、ふらふら彷徨っているとき、さる筋から黒竜の一族が滅んだという話を耳にしたが、生き残りがいたのだ。こんなところで再会できるとは僥倖だ。「よかったあ、無事だったんですね」
「なんだ、兄とはお前のことか。小娘とまったく似ていないから、分からなかったぞ」
「ああ、よく言われます」僕は頭の後ろを掻き掻き、苦笑した。それまで絶句していたアイシャが、混乱の極みに立たされたように、僕と竜を交互に指差す。
「え……二人とも知り合いで……ジーヴ、人の名前は覚えないって言ってなかった? それに兄さん、何て言ってるの……?」
「~~~だけど? 彼の名前だよ」
アイシャががっくりと項垂れる。「全然聞き取れない……」
驚くのも無理はない。通常、竜の名前は人間には発音できないからだ。妹がジーヴと呼ぶ竜の青年は、胸を反らしてふんと鼻を鳴らす。僕を鉤爪の生えた指で指し示す。
「こいつが俺の竜名を呼ぶものだから、礼儀として呼び返さぬわけにはいかなくてな。竜は礼節を重んじる生き物なのだ」
「いやあ、研究で彼にはお世話になっててね。調査で何回も聞いているあいだに、言えるようになっちゃって……」
我ながら言い訳がましいなと思いながら、照れ隠しに頬を掻く。呆れ果てた表情の竜は、横目でちらりとアイシャを見やる。
「だからといって、普通は発音できるようにはならないんだがな。お前の兄は変わり者だ」
「あんたに変わり者とか言われたくない」
アイシャが噛みつく。「それはどういう意味だ」と竜は不思議そうに首をひねる。
「分かるだろ」「分からない」「分かれよ」
会えない月日のあいだに、アイシャは竜と相当親しい関係になったようだ。
僕は二人を、温かい思いで見つめる。
* * * *
まんまと王宮の敷地に忍びこんだあたしたちは、こっそり城の門扉に近づき、そこにいた門番の衛兵を気絶させた。彼らの制服を奪い、自らの体に纏う。竜の翼に荷物をくくりつけるのに使っていた縄で、衛兵をぐるぐる巻きに拘束し、庭園の茂みのなかに彼らを放置した。これじゃまるで悪役だよな、と内心ぼやきながら手を動かす。ジーヴはどことなく楽しんでいた雰囲気さえある。竜と若い女という、どこにいても目立つ組み合わせのあたしたちでも、衛兵の革帽を被ると性別すら判別がつかなくなった。申し分ない擬装だったがしかし、こんなにやすやすと牢までたどり着けるとは驚きだ。
兄の無事な姿に、あたしは感無量だった。一年の空白を経た兄は少しばかりやつれていたが、怪我もなく健康体で、そのことに心底ほっとした。
それにしても、兄とジーヴが知り合いだったことにも、兄がジーヴの本当の名を発音できることにも、ジーヴが兄の名を平然と呼んだことにも驚いた。あれだけ竜の名は人間には発音できない、人の名など覚えるに如かないと言っていたくせに。
兄に今日までの経緯を語る。ジーヴもイゼルヌ教団のせいで右目が見えないんだ、隻眼と隻腕の二人で欠けたところを埋め合わせて、ここまで旅をしてきたんだ、と話すと、兄はにこにこと微笑んでくれた。それだけで、王都への波乱に満ちた旅の一切が、報われたんだと思えた。兄はあたしの髪を撫でながら、逞しくなったねアイシャ、と嬉しそうに言う。
これで、あたしの旅の目的は達せられた。イゼルヌ教団の目指すところは気になるけれど、まずは安全な場所まで逃げなければ。王宮から脱出するのが先決だ。
とにかく早く逃げようと兄を促す。けれどなぜか、彼の反応は鈍い。その場を動こうとしないまま、じっと考え込んでいる。こういう兄の姿を、あたしは何度も見てきた。何か確固たる考えがあるのだ。こうなった彼の意志は強い。文字どおり、梃子でも動かなくなる。
「今逃げ出したとしても、奴らの真意を知っている僕はきっと追われる。いたちごっこになるだけだと思うんだ。何か方法はないかな……」
「どういうこと、兄さん」呟きの本意を図りかねて、兄の瞳を覗きこむ。
好奇心と知性の塊である彼の眼が、一瞬強い光を放つ。
「イゼルヌ教団のこと、君たちがどこまで知っているのか、予想がついているのか、教えてくれないかい。――君たちに、僕が知っていることをすべて、話そうと思う」
兄の顔は、これ以上はないほどに引き締まっていた。
城内の足音には、ジーヴに聞き耳をたててもらうことで予防線を張り、あたしは旅で見聞きし推測した事柄を兄に伝えていく。
黒竜の一族を滅ぼし、街を焼いた犯人がイゼルヌ教団の人間であること。
黒竜を死に至らしめた正体が毒性の気体であり、教団の裏で王立学術協会が手を貸していること。
教団は竜の排除に乗り出している懸念があること。
かいつまんで話すあいだ、ジーヴは腕を組んだままじっとしていた。兄は時おりうなずきながら、徐々に厳しい顔つきになっていく。素晴らしい、と教師然として兄が評する。
「ほとんど正解だよ。よくそこまで予測できたね。大したものだな、アイシャは」
「ほとんどは俺の意見だぞ、エイミール」緊張感のない竜が余計な口を挟む。
「ジーヴは黙っててよ」
兄は仕切り直すようにおほん、と咳払いして、
「彼らが成そうとしていること――それを知るには、もうひとつパズルのピースが要る」
兄の姿は、真理を得た求道者のように厳かで、どこか敬虔な雰囲気すら漂っていた。
すっ、と人差し指を立て、彼が静かに宣言する。
「僕は、新大陸を発見した」その抑えた声は、監獄にひどく反響した。
兄の言う意味が分からず、いや、言葉の意味は分かっても、言葉が説明するところに理解が追いつかず、ただただ沈黙する。ジーヴも瞬きさえ忘れたように、兄を凝視している。
この世界の一番大きな常識。
一つの世界には、一つの大陸。世界イコール大陸、という図式。
つまり、兄は。それが間違いだと、言っているのだ。
「……嘘。だって、大陸はひとつだって、学校でも習った」
にわかには信じがたい話に、あたしはやっとそう返す。兄は目を細めて微笑した。
「うん、誰もがそう信じているはずだよ。僕も実際、この目で見るまでは信じられなかった。他に大陸があるってことは、世界がもうひとつあるのと同じことだからね。でも、誰か海洋をくまなく巡って確かめた人がいたわけじゃない。知られていなかっただけで、大陸はずっと前から、厳然とそこにあったんだよ。直近の航海で、僕はこの足で新大陸に立った」
兄は恍惚にほど近い、うっとりとした遠い目になっている。おそらく彼の脳裏には、到達したという新大陸の情景が浮いているのだろう。
「短期間だったけど、僕らは大陸の調査をした。植物も生物も、見たことのない種ばかりだったよ。あんな興奮は味わったことがない。そして驚くべきことに」
その大陸には、人間も竜もいなかったんだ、と兄は続けた。
ひゅっと喉が鳴る。ジーヴも息を飲むのが分かる。
竜の可飛行領域よりも遠い新大陸。当然といえば当然だが、人も竜もいない世界なんて想像ができない。ジーヴも同じらしく、顔を盛大にしかめている。
「僕はすぐに調査結果をレポートにまとめて、王都に送った。こんな世紀の大発見はまたとない。どうもその時に、王の側近のイゼルヌ教団員の目に入ったらしくてね。――そもそも教団の人間が王室に取り入ったのは、王立組織であるアカデミー相手に、采配を振るう必要があったためだと僕は睨んでいる。彼らは麻酔や毒ガスの研究をアカデミーの人間にさせていた。科学者たちには、外科手術とか鼠とかの害獣に使用するものだと標榜してね。もともと彼らの目的は竜だったわけだけど。そしてある目的のために、その大陸を利用しようと決めたんだ」
「利用って、どんな風に」
嫌悪感で胃がむかむかしていたけれど、尋ねないわけにいかなかった。
聞くも忌まわしい、神の名を借りる教団の計画が、兄の口から語られる。
「彼らはね、この大陸のすべての竜を、新大陸に移し替えてしまおうと画策したんだ。麻酔や毒ガスで竜を眠らせたり弱らせたりして、こっそり最新鋭の蒸気船で移送する。当の竜には無断でだよ。当初は毒ガスですべての竜の命を奪おうと考えていて、これは大変だと気づいたのか、さすがに良心が咎めたのか分からないけど、どっちにしろ馬鹿げてるとしか言いようがない。国王陛下には、竜の合意を得た穏便な移住だとか何とか言っているようだ」
水面下で進んでいた陰謀。
それが、彼らが作ろうとする世界。新しい秩序を手に入れた世界。
全貌を知ったジーヴは、憤然と肩を怒らせる。
「そのような身勝手な話、我らは聞いていないぞ」
だからたちが悪いんだ、と兄は顎を引く。「彼らは言っていたよ。竜だって人間のいない広々とした新大陸の方が、伸び伸び羽を伸ばして過ごせるだろう、って」
「たわけたことを勝手に抜かすなと言ってやりたいな。人が何を考えようと勝手だが、竜は他者から考えを押しつけられるのを嫌う。人間がいない場所の方が好ましいかどうか、それを決められるのは竜のみだ。それに第一、人がいない場所では酒も飲めんではないか」
「あんたは結局そこが大事か……」
ジーヴの度を越した飲みっぷりを思い返して、あたしはこそっと突っ込みを入れる。
兄の話で、イゼルヌ教団の常軌を逸した狙いは明らかになった。でもまだぴんと来ないことがある。彼らの目的と、あたしたちの街が焼き払われたこと、それに黒竜の部族が滅ぼされたことは、どう関係しているのだろう。
「教団の奴らはどうして、街を焼いたり黒竜の里に毒ガスを撒いたりしたの」
尋ねると、兄の双眸に暗鬱な翳りが生じた。「それはね、口封じと、手違いのためだよ」
「……どういうこと?」
「まず、僕たちの街についてだけど、あそこにはアカデミーの会員がたくさんいただろう。僕と一緒に航海に出た学者も何人もいたし、彼らには家族もいた。街には王立図書館もあった。教団の人間にとっては、新大陸の存在は是が非でも独占したい秘匿事項だった、それは分かるね。彼らには、街の人々にどれだけその事実が広まっているのか分からなかったし、資料もどの程度存在するのかも分からなかった。新大陸の存在を知っているか、なんて訊いて回るわけにもいかない。だから、都合が悪いことを知っている可能性がある人間を、街ごと、本ごと燃やしてしまおうと考えたんだ」
兄の顔が、見たこともない形に歪む。
「そして彼らは準備段階で、近くに黒竜が棲む里があることを知ったんだろう。運の悪いことに、その一帯は窪地になっていた。実用試験として気体を撒くにはお誂え向きだ。その時は恐らく、命まで奪うつもりはなかったと思う。けれど、彼らが毒ガスを使うのは初めてだった。使う量が多すぎたんだ。その手違いのせいで、ほとんどの黒竜は息を引き取った」
兄はそこで、もう耐えきれないというように、震える手で顔を覆う。あたしはようやく、彼が背負ってきたものの重さに気づいた。
「僕のせいなんだ……全部……。僕が、もうひとつ大陸があることに気づかなければ、新大陸なんて発見しなければ……こんなことには…………」
「兄さん」だらりとぶら下がったままの、兄の片手を取る。
手は血の気を失って、指先まで冷えきっていた。あたしの小さい右手だけでは、彼の掌を包み込むことはできないけれど、熱で温めてあげることくらいは、できると思った。
「兄さんのせいじゃないよ。兄さんがした発見は本当にすごいこと。悪いのは悪用しようとした奴ら。悪いのは、全部イゼルヌ教団の人間」
「そうだぞ、エイミール。お前の功績は、人類史に残る偉業だろう。決然と胸を張るがよい。糾弾されるべきは、イゼルヌ教団の人間だ」
兄は顔を上げた。そして、あたしとジーヴの顔を眺め回した。目の縁ぎりぎりまで溜まっていた涙を袖口で拭うと、しゃんと胸を張って、凛と表情を引き締める。
「ありがとう、二人とも……僕は教団をどうにかして止めたい。大司教は国王からの、竜と人間の生活圏分割の令の発布を求めている。今頃、陛下に発令を進言しているかもしれない。陛下から命が下されれば、個人の力ではどうにもできなくなる。国王は教団の凶行をきっとご存じない。でも、僕一人が喚き散らしたところで、大司教に一蹴されるだけだ」
兄があたしと、ジーヴを交互に見据える。教団員の人間の道を外れた所業によって、腕と視力をそれぞれ失った、あたしたちを。
「今、君たちがここにいるのもきっとある種の運命だ。二人もいれば、凶行の証拠に十分なる。陛下は騙されているだけで、聡明な方だ。きっと分かってくれる。危険な目に遭うかもしれないけど、力を貸してくれないかな? 竜と人間が共存する、この世界を守るために」
「王に直訴するのか」ジーヴの問いかけに、兄が深くうなずく。
雄々しき黒竜の生き残りは、よく言えば勇ましく、悪く言えば猛悪に笑い、上下の顎に生え揃う鋭利な牙をぎらつかせる。
「くくく……それでこそ、右目から光を失った甲斐があるというものだな。同胞に仇なさんとする不届き者に、目に物を見せてくれようぞ」
地獄の底から響きわたるような、恐ろしい低音だった。小説の登場人物なら、どう見ても敵役だ。かと思えばジーヴはこちらに向き直り、高いところからあたしの鼻を指で指す。
「王にはお前が話すのだぞ。竜である俺の話は色眼鏡で見られる可能性がある。そもそも人の王といえど、俺では人間相手にへりくだることができん。お前が、説得するのだ」
兄も、揺るぎない視線をまっすぐあたしに向けている。
急に、歌劇の主役にでも抜擢された感覚を覚え、動揺する。国王への訴えが通るか否かで、この大陸の竜の行く末が決まってしまうのだ。あたしの体は知れず震えた。
「そ……んな大役、あたしにできるのか?」
「何を怖じ気づいている、小娘。お前にはこの俺がついているのだぞ。心配無用だ」
ジーヴがすべてを包み込むほどの力強い笑いを浮かべたので、あたしは目を丸くして彼を見返すほかなかった。
あららー、と兄がほほえましいものを見る保護者の顔で、笑う。
国王陛下に謁見を願いたい、という兄の申し出は、存外にあっさりと聞き入れられた。
「馬鹿にされているんだ。僕が何を言おうと陛下は聞く耳を持たないって。きっと望みを絶たれて、膝をつく僕の姿でも見たいんだろう。性根の腐った男だよ、大司教は」
両脇に付き従うあたしたちに囁く声は、彼にしては珍しく穏やかでない空気を孕んでいる。あたしの頭の中では、口にすべき事柄がぐるぐると渦巻くものの、なかなか形にならない。ええい、ままよと崖から飛び降りるつもりで心構えをした。単に捨て鉢ともいう。
衛兵の格好をしたあたしとジーヴは、兄とともにふかふかの絨毯の上を進み、そのまま大理石の大広間へと至る。王の間だ。
内心で息を飲んだ。こんなに広い室内は見たことがない。横幅も高さも奥行きも途方もなく、竜型のジーヴだって悠々と羽ばたけるだろう。石壁には等間隔に蝋燭の炎がゆらめき、壁伝いに弓を携えた近衛兵とイゼルヌ騎士団員がずらりと並ぶ。王の間近に、こんなにイゼルヌ教団の人間がいることに舌を巻く。
絨毯は玉座の直前まで伸び、数段の階を登ったところに、冠を頂いた国王が静かに端座している。背後にはきらびやかなステンドグラスが天井近くまで嵌め込まれ、王自身が壮麗なガラスのきらめきを背負っているように見えた。
そして、国王のすぐ前に、跪いている男。あたしたちが近づいていくと、深紅の長衣を纏った男はのっそりと体を起こし、兄の姿を認めて冷笑を浮かべる。かっとして衝動的に飛びかかりそうになるのを、理性を呼び起こしてなんとか抑える。
この男が、イゼルヌ教団の大司教。すべての元凶。意外に体は小さく、顔には深い皺が刻まれているけれど、その鋭い眼光がそれらを侮りの要素だと意識させない。むしろ顔面に走る筋が、全体の雰囲気を厳めしくするのに役立っている。
兄が深々と腰を落とし、国王に向かって頭を垂れた。王が真っ白い口髭を動かし、厳かな声音で問う。「わしに話があると聞いたが」
「はっ。国王陛下、ならびにイゼルヌ教団司教――」
「司教ではない、大司教だと言っただろう」
「――大司教。この度はお目通りをお許しいただき、心より感謝申し上げます。しかしながら、お話ししたき事柄があるのは僕ではありません。こちらの者たちです」
何、と怪訝な声を出したのは大司教だ。
あたしとジーヴが衛兵の兜を脱ぎはらう。引きつり笑いを収めた大司教が目を剥いた。
「その者たちは――」
「エイミールと申したか。いかようなことであるか、説明せよ」
国王に動じた様子はない。知的な藍色の瞳が、じっとあたしたち三人を注視している。
「陛下を欺くような真似をし、申し訳もございません。然るべき刑罰も甘んじて受ける所存でおります。しかしながら、どうか、それは僕らの話をお聞きになってからにしていただきたいのです」
「申してみよ」
「ご慈悲に感謝いたします。――彼女と僕は兄妹です。僕らの生まれ故郷は、焼き討ちに遭って無くなりました。もう一人の彼は見てのとおり竜ですが、焼き討ちと同じ夜、人間の襲撃に遭い、同族の竜たちを亡くしました。イゼルヌ騎士団の手によって。すべてはそこにいる、司教の指示です」
こめかみに青筋をたてた大司教が、裂帛の怒声を放つ。
「私は大司教だ! それにそんな事実はない!」
「これを見ても、まだそのようなことを仰いますか?」あたしはきっと大司教を睨みつけ、衛兵服の左の袖口部分を思いっきり引っ張った。王と大司教がはっとするのが分かる。
牢獄での話し合いの後、あたしは服に細工をしていた。自分の服から制服に移し替えていた裁縫道具で、左腕の肩口をすっぱり切り離し、糸で粗く縫い直しておいたのだ。少し力を加えれば、簡単にほどけてしまうように。
左袖がへたりと床に落ちる。布がすっかり無くなった左腕部分、そこにあるべきものは無かった。ただ虚無が、ぽっかりと口を開けている。演出の効果はあったようだ。王は食い入るほどに、大司教は苦々しげに、あたしの欠けたところをまじまじと見つめている。
「街が襲撃を受けた夜、あたしは片腕を無くしました。甲冑姿の集団に家を焼かれ、崩れてきた二階の家財に腕を潰され、最後は自分で腕を切り落としたのです。街のすべては灰となり、生き残ったのはあたしたち兄妹だけでした。その甲冑に紋章がついているのをあたしははっきりと見ました」
すっと右腕を上げ、まっすぐにしっかりと、大司教の胸に輝く羽ペンの紋章を指し示す。
「羽ペンの紋章でした。イゼルヌ教団の紋章でした!」
「小娘め、口から出任せを……ッ」
「出任せを言っているのはどちらでしょう? 竜の彼も、撒かれた毒ガスにより右目の視力を失っています。目が白濁しているのがお分かりでしょう。その毒ガスは、イゼルヌ教団がアカデミーの科学者に作らせたものです。こちらの彼は、竜と人間のあいだで生活圏分離の同意があった、などというのは嘘っぱちだと申しております。陛下。教団は――そこにいる司教は、身勝手な目的のためにアカデミーを利用し、陛下までも欺いたのです!」
「私は……大司教だ……!」ぜえぜえと喘ぎながら、大司教は睨みを利かせる。
近衛兵が、騎士団員が、ざわざわとさざめいている。
国王は一息おいてから、糾弾される大司教を冷たい目で見下ろした。
「大司教……今の話、まことなのか。釈明できるか」
悪事の張本人は、肩を落として項垂れているかに見えたが一転、体を震わせ、ふふふふと胃の底からせり上がってくるような気味の悪い笑い方をした。気でも狂ったかとぎょっとする。がばりと上げた男の顔には、正気とは思えない色の壮絶な笑みが貼りついていた。目の光が既に狂気に染まっている。壊れた胡桃割り人形みたいに、顎ががくがく動いていた。悪夢に出てきそうだ。
「陛下! 私には分かりました、分かりましたぞ! この者は、そこの竜にたぶらかされているのです。それで虚飾にまみれた空言を、まことしやかに口にしているです。これで証明されましたな、やはり、竜と人間は別れて生きるべきなのです! きっと、その竜さえいなくなれば娘も正気に戻りましょうて」
姑息な濡れ衣を着せられたジーヴが、怒気を周囲に散らして激昂する。
「貴様……何をぬけぬけと……!」
「おお、なんと恐ろしい姿だ! ここで討たねば甚大な被害が生じよう、騎士たちよ! 弓を構えよ!」
「待て、大司教、騎士団! 勝手な振る舞いは許さぬ!」
「お忘れですかな、陛下! 有事には、我が騎士団員は、国王の命令より私の指示を優先する、という取り決めを交わしたことを!」
「く……近衛兵、騎士たちを止めよ!」国王の指示により近衛兵と騎士団の戦闘が始まる。
場が騒然となり、そこかしこで憤激の叫びがあがり、何もかももみくちゃになった。争乱のさなか、騎士団員がジーヴを狙い、矢を向けてくる。
「弓など蹴散らしてくれる……ッ」
ジーヴの髪がぶわりと逆立つ。この広間なら、竜型に変じても翼を動かし暴れ回ることができる。あたしは流れ弾を警戒して兄の楯になりながら、ジーヴの竜化を待った。
幾度も旅の窮地を救ってきた、本来の姿のジーヴの力。
一陣の旋風が起きる。雄々しい竜の姿がそこに現れるかと思いきや、風はすとん、とやんでしまう。彼の黒い前髪を、ほんの少し揺らしただけで。
ジーヴが驚愕に目を見開いている。彼の表情に浮かんだことのない、焦りがそこにある。彼を見るあたしも兄も、きっと気持ちは同じだった。混乱していた。どうして、そんなことが。信じられない。竜型に、なれないのだ。
ジーヴががくりと膝を折る。見開いた目で、自身の掌に視線を落とした。
「なんだ、なぜだ、これは……」気高い竜には、堂々たる空の王には、あってはいけない体勢だった。交戦のさなか、呆然と唸るジーヴを前に、大司教が哄笑を響かせる。
「竜よ、城下にて蜂蜜紅茶を飲んだか? 実はな、商人に手を回して、娘と竜の二人組を見つけたら薬剤入りの紅茶を飲ませよ、と申し渡してあったのだ。それがこの薬剤よ」
大司教は懐から、小さなガラス瓶に詰められた、無色透明な液体を取り出だす。なんてことだ。あの商人に、教団の息がかかっていたなんて。あたしは絶句する。
大司教は、それが伝説上の聖剣だとでもいうように、恭しく頭上へと掲げた。
「せっかくだから教えてやろう。これはな、ドクトカゲの毒から精製した、竜を強制的に人型にする薬なのだ。まだ試験段階だったが、ちょうどよい実験台になってくれたな。くっくっく、感謝するぞ! この薬で我々の計画は完璧になる。我らは竜を眠らせ、この薬で人の姿に変じさせ、新大陸へ移送する! この世界は人間を頂点とする、新しい秩序を手に入れる! さあ、人を騙くらかす竜には、この世から退場してもらおう!」
「貴、様……どこまで卑怯を貫けば気が済むッ」ジーヴが床に手を着いたまま、大音声を張る。肌がびりびりするほどの尋常ではない覇気だ。あたしは思わず腕で顔を覆った。
この混乱をどうすれば諌められるのか、あたしは分からなかった。ジーヴが竜になれない今、彼には頼れない。それどころか、あたしが、彼を守らないといけない。
どうすればいい。どうすれば。
「うわあああああッ」
頓狂な奇声を発しながら、体を血まみれにした騎士が、大司教の真ん前へ躍り込んだ。ジーヴの覇気にやられたのか、完全に取り乱している。どこかから近衛兵の放った矢が脚に刺さるが、気にする気配がない。騎士は無我夢中の体で矢をつがえ、しなった弓から、一直線に矢が放たれた。一瞬もしない間に、膝をついたジーヴへ迫る。あたしにはその様子が、コマ送りにされる活動写真みたいに、ひどくゆっくり流れて見えた。
竜の皮膚は金属さえ通さないが、もしも、剥き出しの眼球に当たったら。
その矢はあやまたず、深々と突き立った――彼の前に躍り出た、あたしの首元に。
誰かが息を飲む。あたしの体は衝撃で弾かれ、どうっと床に倒れ伏した。いっときの静穏が、巨大な布をばさっと被せるように、広間全体に降りる。
音が止む。皆がこちらを見るのを感じる。ジーヴが茫然自失の様子で、矢に貫かれたあたしを抱き起こした。慌てて兄も駆け寄ってくる。
逞しい腕が、首の下にあるのが分かる。ジーヴは眉間に皺を寄せているが、眉尻は元気なく垂れ下がっている。それが悲しみのためだとか、そこまで自惚れるつもりはない。
「……どうして庇ったりした」静かな問いに、薄く笑って答える。
「ジーヴも、狙われたのがあたしだったら、あたしと同じことをしただろ……?」
「だとしても、お前が死んで何になる、馬鹿者」
「馬鹿じゃない……人間だ」
「お前……」
いつかのジーヴの台詞をなぞると、ジーヴの表情はいっそう複雑に歪んだ。
ゆっくりと瞑目し、口の端を引き上げる。不敵な笑みに見えたらいいな、と考えながら。
* * * *
旅を共にしてきた人間の小娘は、俺の非常食は、契約相手という建前の友人は、死んだ。
森で、草原で、街で、都市で、溌剌と跳ね回っていた発条のような体は、今俺の腕のなかで、ただ力なく横たわっている。俺はその遺体を、娘の兄に引き渡した。エイミールは複雑な面持ちで妹を掻き抱き、閉じられた瞼の上をそっと撫でる。
俺は思うようにならない体に気合いを込め、なんとか立ち上がった。大司教も王も、青ざめた顔をして棒立ちになっている。俺は王に体を向ける。
「人の王よ。もう、いいではないか。娘の命ひとつ費やして……これでも竜たる俺とこの娘が、友人として心を通わせていた証明にはならないか。まだ俺が、娘に虚言を吹きこんでいたと信ずる根拠があるか」
王は沈んだ顔で、ううむと呻く。「そなたの言うとおりだ。そなたらの言い分を信じよう。――わしも愚かであった。正当な理由なく、竜を除け者にしようとするなど……同意を得たという言葉を、軽率に信じたのは愚の骨頂と言わざるを得まいな」
王は厳しい目を、魂が抜けてしまったように硬直している大司教に向ける。
「大司教よ、お主の司教権は剥奪させてもらう。お主はもはや大司教でも司教でもない、ただの破戒僧だ。お主の話はもう信じぬ。取り交わした約束もすべて破棄する。竜よ、この先も永えに、人と竜の共存の道を歩もうぞ。わしの名において、約束しよう」
その言葉はとても丁寧だった。俺はうなずき返す。
胸にわだかまりがあるが、これで一件落着ということになるのだろうか。思わぬ代償に、俺の心境は今一つ晴れない。取り返しのつかないことを振り返っても仕方ないが、こうなる他になかったのか、という思いが拭えない。
「国王陛下。今のお言葉、まことでございますね」
どこかから凛々しい女の声がした。出どころを探して、俺も、王も、元大司教も、手を休めた兵や騎士たちも、皆きょろきょろと辺りを見渡す。
エイミールが、こらえきれないとばかり、ぷぷっと噴き出した。全員が――否、小娘の兄以外が唖然と眺めるなか、すっくと娘の遺体が起き上がり、王の前で深々と礼をする。
王は目を丸くしている。しばらく反応できそうにない。それは俺も同じだ。
「お前……なぜ生きて……」動きだした死体に声をかけると、小娘はこちらを振り向き、にやっと笑った。その生き生きした様は、死人などではあり得なかった。
「あんたのその顔が見たかったんだ」
言いながら、胸に刺さったはずの矢を造作なく引き抜く。そういえば服はちっとも血に濡れていない。娘は胸元から、一部が破損した首飾りを引き出した。
俺がかつて買い与えた、陽に映える珊瑚の首飾りを。
「両腕が使えた時は、あたしは弓使いだったんだ。弾道なら身に染みて分かってる。射たれる方は初めてだったけど」
「……お前、いつの間にそれを身につけていたんだ。しかし飾りの一部で受け止めるとは、なんという無茶な……」小娘の言を信ずるに、首飾りの一番大きい金属片部分で、矢を食い止めたということらしい。それも計算して。呆れるほかない。
娘の体を引き渡すとき、エイミールがどことなく妙な顔つきだったのは、双宿石を持つ彼には、娘の命が潰えていないことがまる分かりだったからだろう。
「無茶はお互い様だろ」小娘が俺の額を指差す。返す言葉もなかった。
* * * *
大司教の突然の失墜により、恐慌状態に陥ったイゼルヌ騎士団は、近衛兵によってほぼ抵抗もなくお縄頂戴と相なった。
ジーヴがあたしを馬鹿にするために購った首飾り。あたしはそれを、鉄道に乗る前くらいからずっと首に下げていた。食堂車で首飾りをつけたらどうだ、と言われた時には、実は服の下にぶら下げていたのである。理由は明確なものではない。捕まったあたしをジーヴが取り返しに来た後、彼から貰ったものがなんとなくお守りになる気がした、それだけだ。
ジーヴには大口を叩いたけれど、実際首飾りで弓矢を防げるかどうかは、一か八かの賭けだった。ただ、あれで大怪我をしたり、本当に命を失ったりしたとしても、あたしには後悔はなかっただろうと思う。とにかくこれで、ジーヴには一杯も二杯も三杯も食わせたし、鼻も目も耳も明かしたことになるのではないか。竜のあの目を真ん丸にした表情、そうそう見られるものではない。こっちは自惚れではないはずだ。
騎士団員たちが引ったてられていくのを、国王はじっと眺めている。あたしたちは(ジーヴを除いて)、玉座の前にひれ伏した。やむを得なかったとはいえ、大陸を統べる王族中の王族の御前に、嘘偽りを並び立てたのだ。お咎めなしとはいかないだろう。
兄が真摯な言葉を紡いでいく。「国王陛下。陛下を欺いたこと、心より御詫び申し上げます。僕らは如何ような裁きに処せられるのでしょうか」
王は予想に反し、目元を笑ませて頭を振った。
「断じてそのようなことはせぬ。そなたらは、わしの誤った選択を、命を賭して正してくれたのだ。こちらから感謝したいくらいだ。欺いたのは……元大司教よ、お主の方だ」
破戒僧に身を落とした男は、ぎりりと歯を食いしばりながら、血走った眼で王を睨めつけている。体は縄でぐるぐる巻きにされ、二人がかりで暴れないよう押さえつけられていた。
「お主はわしを騙した。そしてそれ以上に、人の街一つを焼き、竜の部族一つを滅ぼす命令を下した罪、重罰に値するぞ。極刑か、終身刑かを決めるのは司法に委ねるがな。……連れてゆけ、近衛兵。最後に言いたいことはあるか」
「竜に騙されるな!」この期に及んで、重罪人と断じられるであろう男はじたばたと喚き始めた。呆れ果てた近衛兵が両脇をがっしり固め、広間の出入り口へと移動させていく。
竜は性悪だ、奴らとは根本的に分かり合えないのだ、竜に気をつけよ、と喚き散らす姿は、もはや気狂いの域だった。
ふと、ジーヴの巨躯が近くにないことに気づく。遮蔽物がないだだっ広い広間では、視線を左右に振るだけで探し物が見つけられる。ジーヴはなぜか、連れていかれる極悪人の前へ先回りし、仁王立ちしていた。
そちらへ駆けていくと、そんなに竜が憎いのか、とジーヴが静かな語調で問うのが聞こえた。化け物め、との憎々しい唸りにも、ジーヴは鼻を鳴らすだけで平然としている。
「素直に答えた方が身のためだぞ。その化け物に首を絞められたくなければな。人の法では竜は裁けぬ、俺は何をしでかすか分からぬぞ」
飄々と軽く言っているが、早い話が脅しである。「貴様……ッ」
「そう睨むな。事情があるのなら、情状酌量の余地もあるかもしれんぞ。当代の人の王はなかなかに寛容と見える。まあこの状況で、その昔竜に危害を加えられた、などという法螺を吹くのなら話は別だがな」
「事情ならあるさ……私には、娘がいた」
ぼそっと吐き捨てられた暗い呟きに、さすがのジーヴも沈黙する。男の唇がわななき、その振動は全身に伝播して、体全体がぶるぶると震えだす。
男が抱いている感情。それは怒りだった。
「大切な、一人娘だった。娘は、竜に殺されたも同然なのだ。――娘はある時どこかの街中で、竜の男と知り合った。やがてその竜と懇ろな関係になり、あろうことか、手紙の一枚を残して、駆け落ちしてしまったのだ! そんなことが許せるはずもなかろうが? 私の家系は代々、イゼルヌ教の重職を務めてきた。娘の行為は一族のとんだ面汚しだった! 私は娘の行方を捜した。何年か後に見つけだした時、娘は幼子を抱いていた。……分かるか、私の絶望が! 人と竜の合いの子など、おぞましくて目に入れることさえ汚らわしく思えたわ。私は泣き叫ぶ娘を竜から引き離し、家へ連れ帰った。幼子も置いていくよう説得したが、娘は頑として聞き入れなかった。娘は毎日泣いておった。あまつさえ、再び家から逃げ出そうともした。良家の男子を招き、社交の場などを設けてやったのにもかかわらず! 娘は世を儚み、私が家を開けていた隙に、子供ととともに海に身を投げた。私は手を尽くしたが、娘を普通の幸せへと導くことができなかったのだ。……竜がたぶらかしたばかりに、娘は自ら死を選ぶなどという、惨い選択をすることになった。私はその時学んだのだ。人間は竜と生きるべきではない、と」
皆、押し黙っていた。一息に語り終えた男の、荒い息づかいだけが耳に届く。
あたしは何も言えなかった。胸に生じたのは同情や憐憫などではなく、どこまでも身勝手な男への、軽蔑や侮蔑、嫌悪の情感だった。
「お前の娘が竜にたぶらかされた、というのは真実なのか。それを確かめたか? お前の思い込みではないのか」ジーヴの口調はどこまでも凪いでいる。そして、青い隻眼に映るのは、何もかもを見はるかす静謐だった。
あたしははっとした。かつてジーヴは、竜と人間が愛し合った例がある、と言っていた。それは今、目の前の男の口から語られた、二人のことではないのか。道ならぬ愛を育んだ彼らを、ジーヴは知っていたのではないか。あたしはずいぶんと高いところにある、ジーヴの横顔を見つめる。悲劇を知る者だからこその、あの、超然とした視線。
己が悲劇を引き起こしたと露ほども思っていない男は、顔をいっそうしかめ、鼻で笑う。
「確かめる必要もなかろう。卑しい存在である竜が、人間を籠絡する方法など、薄っぺらい甘言を用いる以外にあるまい?」
「……どこまで自分勝手なんだ、あんたは! どうして娘さんと大切な相手の仲を引き裂くようなことをした。彼女と竜は、心から想い合っていたんじゃないのか。あたしには分かる、竜は卑しい存在なんかじゃないって! あんたくらい地位がある人間がなぜ、三人が一緒に暮らす場所を用意するくらいのことができなかったんだ! 娘さんが身を投げたのはあんたのせいだって、どうして分からない!」
ずいと元大司教に詰め寄る。いつしか隣に立っていた兄が、ぐっと肩を掴んだ――泣いているあたしの肩を。どういう涙なのか自分でも分からない。ただ、理不尽だと感じた。気が昂りすぎ、嗚咽さえ漏れてくる。
兄とは反対側の肩に、ジーヴの大きな掌がぽんと置かれる。
「過ぎたことだ、小娘。お前が気に病むことはない」
「――分かってるよ……」
「まあ、存分に感情を表に出すのも時にはよかろう。……さて、元大司教よ、お前にもうひとつ問おう。考えを改める気にはなったか。それとも、まだ竜のいない世界を望むか」
じろりと音がするほどの、ぎょろついた目がジーヴを見据える。改心の意思など、毛ほどもないのが一目瞭然だ。「愚問だな。竜とともに生きるくらいなら、死んだ方がましよ」
「ふむ。気に入らぬ者を排除すれば望む世界になると、お前はまだ思っているのだな」
「当然だ」と返答を聞いた黒竜の元族長は、なぜだかにたりと不敵に微笑した。そして、じっと沈黙を保っていた近衛兵たちへと、軽快に話しかける。
「この男を裁判にかけるのも一興だが、俺にひとつ提案がある。きっと楽しめると思うぞ」
そう言うジーヴは少し、いやかなり、悪い顔をしている。
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