カエサルの母、アウレリア
紀元前85年、35歳の未亡人がローマにいた。
ガイウス・ユリウス・カエサルの母親だ。
ガイウスが帰ってこない。カエサルの母、アウレリアは心配していた。もう15歳だ。自分の事は自分で判断できる。だがその夜、息子は初めて無断外泊した。明け方、15歳の女の子を連れて来た。セルウリィアだ。13歳で結婚している。立派な?不倫だ。アウレリアは嘆息した。
「……どうしてこんな事をしたの?」
「母上に紹介しようかと思って」
全く悪びれる事なく息子は言う。
アウレリアは呆れた。
「……あなたは大丈夫なの?」
夫は護民官、
マルクス・ユニウス・ブルトゥス・マイヨルだ。
叔父と姪ほど歳の差がある。
「家は大丈夫です」
その長い黒髪をともはねに結ぶ
少女は毅然と言った。
だが足が震えている。内股だ。
「それよりも私たち、真剣なんです」
だからと言って、認める訳にもいかない。ローマ貴族、パトリキには不文律がある。家を壊さない事、血筋を残して次世代に渡す事、これがローマ貴族に課せられた掟だ。パトリキはプレブス、民衆の先頭に立って、国家を導かないといけない。だから特権も許されている。
だがこの二人の眼を見ていると、そんな事、どうでもよくなってくる。15歳の少年少女の眼差しだ。あらゆる可能性が詰まっている。この瞳の向こう側に広がる宇宙は、どれほど広いのか?木の葉一枚落ちるも必然。ならば、この少年少女の出会いにも、運命があるのか?
「……恋は人の眼に憚るもの、隠しなさい」
アウレリアはそう答えた。
無下に否定するのは得策じゃない。
「やった!」
二人は手を取り合って、喜んだ。
だがこの公然の秘密はその後、
41年間も続いた。

真実の口
カエサルの母、アウレリアは回想する。
息子の初恋は紀元前82年の出来事だった。
「母上、今日もお国のために戦うよ」
12歳の少年ガイウスが明るくそう言うと、
母アウレリアは弁当を持たせた。
「……夕方までに帰ってくるのよ」
午前中のartes liberales、アルテス・リベラルス、
リベラル・アーツ(自由学芸)が終わると、
ガイウスは外に飛び出した。

街道
全てのローマの男たちは、res publica(レス・プブリカ=公)のために戦う。そこにはpatricii(パトリキ=貴族)も、plebs(プレーブス=民衆)もない。国家の危機に、res privata(レス・プリワタ=私)は引っ込める。全員で一体となって戦う。bellum(ベッルム=戦争)だ。

戦い
昼下がりのローマ郊外は、
少年少女の決戦場だった。
12歳の少年少女が二軍に分かれていた。
男軍と女軍だ。
大人たちもオイノスを飲みながら、
冷やかしに遠巻きに観戦している。
少年ガイウスは男軍の指揮を執る。
対する女軍の指揮官は謎の仮面少女だ。
長い黒髪をともはねに結び、
ゲラースのお面を付けている。
ギリシャ語さえ話す。
「……どこの令嬢だ?」
「え?カエピオニス家じゃないの?」
少年たちは、女軍の指揮官を噂し合った。
だが少年ガイウスは腕組みしている。
「loxe phalanx、ロクセ・ファランクス、
斜線陣だ」
少年ガイウスは男軍を斜めに並べた。その昔、テーバイの名将エパメイノンダスが、紀元前371年レウクトラの戦いで執った陣形だ。古代戦術の嚆矢だ。アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世が若い頃、この戦いに参加して、この戦術を習得した。マケドニア興隆の兆しだ。
だが女軍は中央が薄く、左右両翼が厚めに人員が配置されていた。少年ガイウスは、これが一体何を意味するのか考えたが、とうとう最後まで分からなかった。長い黒髪をともはねに結び、ゲラースのお面を付けている女軍の司令官は、小高い丘の上で、風に吹かれている。
審判役を買って出た退役兵が、
ラッパを鳴らすと男軍と女軍の決戦が始まった。
最初は男軍が陣形を崩さず、女軍に食い込んで、戦っていた。男軍は木剣を振るう。女軍は木盾で受けながら、徐々に左右に広がって行った。女軍が分断される瞬間があった。少年ガイウスは勝利を確信したが、次の瞬間、我が目を疑った。男軍が女軍に包囲されていた。
魔法のようだった。立場が一瞬で逆転した。それからは一方的だった。男軍は身動きが取れなくなり、女軍から包囲殲滅戦を被った。少年たちは全員木剣で打たれて、負けた。
あまりの戦術の冴えに、
観戦していた冷やかしの大人たちまで、
静まり返っている。
「……カンナエの戦い、
いや、これはザマの戦いだ」
審判役を買って出た退役兵が、
思わず呟いた。謎の仮面少女が近付いて来た。
「ユリウス族の者よ、
これがスキピオ・アフリカヌスの戦術だ。
よく覚えておきなさい」
少年ガイウスは声もない。その時、長い黒髪をともはねに結び、ゲラースのお面を付けている女軍の司令官は、そっと仮面を外した。カエピオニス家の令嬢だ。名前くらいは知っている。
「セルウィリア・カエピオニス」
少年の眼には、とてつもなく彼女は輝いていた。
まるでパラス・アテネのようだ。
11歳から12歳にかけて、女の子の方が先に成長して、ほぼ全ての身体能力で一時的だが、男の子を上回る瞬間がある。このタイミングを好機と捉えて、カエピオニス家の令嬢は勝負に出た。13歳になったら、完全に逆転する。女軍が男軍に勝てるのはこの時期しかない。
「力だけが全てと思わない事ね。
頭のいい者が勝つのよ。遊び場はもらったわ」
その勝利の女神は、冷ややかに言った。
少年ガイウスは家に帰ると、
目を輝かせながら、
母アウレリアに言った。
「母上、カエサルの将来が決まったよ。
ローマの将軍になるんだ!」
英雄ガイウス・ユリウス・カエサル誕生?
の瞬間だった。

結婚式のブーケ
終生の恋人セルウリィアは13歳で他の男と結婚し、カエサルも16歳で別の女と結婚した。全て家の都合だ。そこには本人の意思はない。政局に容易く左右される。カエサルの結婚相手コルネリアは、娘ユリアを産んだ。夫婦仲は良かった。だが紀元前68年に死去した。
紀元前83年、時の権力者スッラから、コルネリアと離婚するように圧力を掛けられた。17歳のカエサルは断固として拒否した。だが戦える訳でもない。結局、嫁の持参金は没収された。ユリアは、カエサルの妻コルネリアの忘れ形見となった。この母娘は性格が似ている。
紀元前54年7月31日、アウレリアは66歳で亡くなり、同年8月に孫娘のユリアも亡くなった。紀元前44年3月15日、カエサルも56歳で凶刃に斃れた。紀元前30年8月29日、クレオパトラが自裁した。最後まで生き残ったのは、セルウィリアとカルプルニアの二人だけだ。
カエサル、最愛の人、二人だ。
この女人たちは何を思って、
余生を過ごしたのか?

アトリウム
「ガイウスは幼い頃より敏い子でした。
母親想いの……」
アウレリアは晩年、そう語っていた。
出生伝説はない。だが普通でもなかった。
「でも言い出したら聞かない子でした」
だがアウレリアは静かに首を振った。
「いや、そうでもないわね。人の話は聞くのよ」
「……でも自分の筋は決して曲げない?」
嫁のカルプルニアが尋ねると、
姑のアウレリアは微笑んだ。
「ちょっと年齢を超えている処もあって、
時に別人のようでもあった」
時々、幽体離脱していた。
魂が抜けて、霊界で遊んで帰って来る。
「癲癇(てんかん)ではないけど、
身体を冷やすから、見張る必要があった」
アウレリアは、息子の魂が抜けると、すぐに寝室に移した。時に一日以上帰って来ない時もあり、母を心配させた。だが帰って来ると、いつも楽しそうに霊界探訪記を母に語った。息子の明晰な頭脳と優れた霊能力に、天の意志を感じない日はなかった。神性の発露だ。
アウレリアは、我が子ガイウスが、
どこまで天高く羽ばたくのか全く読めなかった。
だがアウレリアは思っていた。仮に息子がアレクサンドロスのように偉大な英雄になったとしても、オリュンピアスのような母にはなるまいと。確かに彼女は霊感に満ちていた。ゼウスの落雷で英雄の子を宿す夢を見たと言われ、ディオニューソス神に狂って、蛇さえ愛した。
アウレリアは、良妻ではなかったかもしれないが、賢母であろうとした。夫が早い段階で世を去ったが、遺産はあり、再婚の必要もなかった。だから息子ガイウスに集中できた。

ミレトス
紀元前81年、19歳のガイウスは、初めて国家の任務で、属州に赴任する事になった。古くはフリュギアと言い、現在のトルコに入る。小アジアの東部だ。ミレトスなどギリシャの都市国家で栄え、古くから文化が開けていた。三段櫂船を集めて、艦隊を編成するのが任務だ。
「気を付けて行くんだよ」
奴隷を含めたカエサル家総出で、
39歳のアウレリアは息子を見送った。
「……すぐに帰ってくるよ。心配しないで」
だがカエサルは、属州に長期滞在した。居心地が良かったのかも知れない。ビテュニア王ニコメデス4世の宮廷に入り浸った。なんと「ビテュニアの女王」などという浮き名まで頂戴した。だが任務を達成したので、元老院議員の資格を得た。最年少の元老院議員の誕生だ。
カエサルがローマに帰る頃には、息子ガイウスが、「ビテュニアの女王」と世間で噂される事に、アウレリアは心胸(むね)を痛めた。あまりに不名誉過ぎる。質(ただ)さないではいられない。
「……母上、ご安心ください。私は本場でギリシャ哲学を学びましたが、皆ソクラテスの少年愛を誤解しているのです。私はちゃんと正しく理解していますよ。プラトニックなのです」
「ではなぜビテュニアの女王と言われるの?」
「はっはっはっは」
息子ガイウスは笑いながら、
悠然と去って行った。
アウレリアは嘆息した。

キリキア
紀元前75年、45歳のアウレリアは、
25歳の息子から、属州からの手紙を受け取った。
「母上、ご機嫌麗しゅう。カエサルは海賊に捕まりました。キリキアの海賊です。彼らは身代金として20タラント(約8億円)要求してきましたが、カエサルの身代金として、あまりに安過ぎたので、50タラント(約20億円)要求するように申し付けておきました」
冒頭の文章を読んだだけでも、
アウレリアは目を回しそうになる。
「母上はご安心召されるのがよろしいかと存じます。50タラントなんてはした金、すぐに集めて、そのまま頂く予定です。ついでにキリキアの海賊は全員縛り首です。今、彼らがあまりに船上で騒いでうるさいので、人をやって叱ってやったところです」
状況が理解できない。
一体、息子はどういう状況に置かれているのか?
「最近、クラッススというお財布と親しくなりました。騎士階級出身の男です。彼から50タラントの投資を貰う事にしました。今後、クラッススの金はカエサルの金。カエサルの金はカエサルの金。
ἀπόδοτε οὖν τὰ Καίσαρος Καίσαρι.
(アポドテ ウーン タ カイサロス カイサリ)
Reddite ergo, quae sunt Caesaris, Caesari.
(レドッテ エルゴ クアエ スント カエサリス カエサリ)
カエサルのものはカエサルに(注マタイ伝第17章から)」
この後、息子ガイウスはキリキアの海賊を縛り首にした。勿論、50タラントは回収した。海賊たちは信じられない思いだったに違いない。カエサルの母、アウレリアは嘆息した。我が子ガイウスは一体どこまで天高く飛ぶのだろう。生きて見られないのが残念だ。

我らが海
シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺070
ギリシャ・ローマ編 政治家編 5/5
