「日本近世」と「封建社会」

ずっと前。岩波書店の世界歴史の月報にかいたもの

 『資本論』の本源的蓄積の章で、マルクスは「日本は、その土地所有の純封建的組織とその発達した小農民経営とによって、たいていはブルジョア的先入見にとらわれているわれわれのすべての歴史書よりもはるかに忠実なヨーロッパの中世像を示してくれる。中世を犠牲にして「自由主義的」であるということは、あまりに手前勝手すぎる」と述べた。多くの日本近世史家は、この叙述はマルクスが日本近世の社会構成を「純粋」封建社会と考えていたことを示すとしている。ヨーロッパの歴史研究者の中にも、日本はアジアの他の諸国とはちがって封建社会を経過したと考えている人は多い。
 こういう「日本=封建制」論の形成は、近代世界の自己認識過程にふかく根付いたものである。日本近代においては、封建制という言葉は、中国古代の分権的な政治体制としての「封建」という用語とヨーロッパのフューダリズムの訳語という二重の意味をもっていた。このような用語法は、おそらく、第一に江戸時代の地方割拠に対して、近代天皇制国家を「近代的統一」と美化するイデオロギー、第二に政治社会のヨーロッパ的な近代化を求めるイデオロギーという、近代日本の二つの社会意識の狭間で、いわば同床異夢ともいうべき形で折衷的に発生したものである。問題は、それが、自国の歴史の中に「世界」を発見しようという明治・大正の歴史家たちの学問的営為によって支えられていたことである。しかも彼らは、アジア諸国の中でもっとも早くからそれをヨーロッパの学問世界に発信しようとした。
 M・ヴェーバー、M・ブロックなどの著名なヨーロッパの学者が「日本=封建制論」を展開したことは、このような日本の「近代的大国化」と「近代的学問」の影響を抜きには考えられないのではないだろうか。また、封建制を経過したことをもって日本と他のアジア諸国を区別したいわゆるアメリカ流「近代化論」の背景に、戦後日本資本主義の世界的発展に対する強い印象があったことも否定できないだろう。もちろん、たとえばブロックの立論は領主制(および農奴制)と封建制を厳格に区別し、さまざまな留保をおいた上で、「封建制は<世界に唯一度起こった現象>ではなかった」と結論するという周到なものである(ブロック『封建社会』)。しかし、あるいは、「日本=封建制論」は、近代世界史自身が生み出した一つの「神話」なのではないだろうか。
 さて、右にかかげた『資本論』の一節は、「ヨーロッパのどの国でも、封建的な生産はできるだけ多くの家臣に土地を分割するということによって特徴づけられている。封建領主の権力は、どの君主の権力とも同様に、彼の地代帳の長さではなく、彼の臣下の数にもとづいており、またこの臣下の数は自営農民の数にかかっていた」という本文につけられた注記である。そこに「どの君主の権力とも同様に」とあることからすると、この注記は江戸時代の日本の「君主」の土地所有が家臣に土地を分割するという形態をとり(「藩」)、その下に小農民経営が存在していると述べたものであろう。つまり若干舌足らずではあるが、これは「アジア的」な君主権力に関する叙述であり、小農民経営というのもマルクスが『資本論』の他の箇所で述べているような「アジア的」な自営農を意味しているのではないだろうか。少なくとも、この「像を示してくれる」という短文を根拠として、「近世日本=純粋封建制」論を展開するのは、相当な冒険であるといってよい。
 右のマルクスの本文は、「それゆえ、ノルマン人による征服の後にはイギリスの土地は巨大な諸侯領に分割され、その中にはたった一つで九00の旧アングロサクソン貴族領を包括するものもしばしばあったが、その土地には小農民経営がばらまかれていて、ここかしこに比較的大きい領主直営地が点在しているにすぎなかった。このような事情は、一五世紀を特色づけている都市の繁栄と相まって、あの大法官フォーテスキューが彼の『イギリス法の賛美』のなかで雄弁に描いているような人民の富を可能にしたが、しかし、資本の富を排除したのである」と続いている。
 このパラグラフ全体で、マルクスは、イギリスでは「農奴制は一四世紀の終わりごろには事実上消滅」し、権力の分散化と都市の繁栄の中で自営農民の民富が一般化していたことを指摘し、注記では、こうした点を無視して、中世というと農奴制と情緒的な人格的紐帯の世界を描きだしがちな「ブルジョア的先入見」を批判しているのである。だからマルクスはむしろ日本の幕藩体制が「農奴制」社会ではないことを指摘したともいえよう。またもし、マルクスの日本論研究の主な素材が、オルコックの『大君の都』であったとすると、この注記は、イギリスがアジア侵略の中で自身の中世の映像を発見しながら、その意味を理解できないという歴史的皮肉を述べていることになるかもしれない。
 「コヴァレフスキー・ノート」にみえるように、マルクスは封建制範疇について相当厳格な理解をとっていた。右に述べたこととの関係では、インドに「ヨーロッパ的意味での」封建制をみとめたコヴァレフスキーに対して、マルクスが(コヴァレフスキーは)「インドには存在しないが、(封建制の)重要な契機をなしている農奴制のことを忘れている」としているのも示唆的である。マルクスが日本の「土地所有の純粋封建的な組織」というのは、インドにもあるような「知行制度」の形式的純粋性を指摘しているにすぎないのではないだろうか。ともかく日本で一般的な理解をとると、マルクスはこの文章の全体で、「純粋封建制」は農奴制をもっていないと述べたというおかしなことになるのである。
 マルクスが世界史の累進的諸時代を代表する社会構成として「アジア的・古典古代的・封建的・近代ブルジョア的な社会構成」の四つをあげたことはよく知られている。しかし、この仮説は、あくまでも具体的な社会構成、つまり「古典古代的=ギリシャ・ローマ的」、「封建的=西ヨーロッパ中世的」などの歴史的・個性的な社会構成という意味であろう。ということは社会構成というならば、世界史上の社会構成はもっともっと多様であったということになるのではないだろうか。社会構成体という概念を四つに限るというのは、通俗的な歪曲である。少なくとも、彼の仮説は、現実の諸「民族」の社会構成を右の四つにあてはめようとするものではなかったはずである。
 このような大問題を、それこそ、このような短文で述べたてることはやめるが、私はこの『資本論』の一節をとりあげた大塚久雄氏の授業を聞いたことがある。私はその時、大塚氏が、この『資本論』の一節の「民富」論を、氏の局地的市場圏の理論の原点においているという印象をうけた。そしてもう記憶が定かではないが、氏は、問題の注記を「日本=封建制論」の支えとすることについて批判的であったように覚えている。
 私も、日本中世史研究者として、日本中世社会がヨーロッパ封建制に相似した側面をもっていることは事実だと思う。しかし、日本の社会構成は封建制という用語で捉えることはできないだろう。なによりも、それはヨーロッパとの対比でなく、まずは東アジア社会の社会構成との相互影響と相互対比の中でとらえられなければならない。いわずもがなのことをいうようだが、それこそが日本前近代社会の総決算としての「日本近世」をとらえるまっとうな道であり、世界史的近世の本質をとらえるための、日本の歴史家の独特な責務なのではないだろうか。

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