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大阪編①|外の世界を知ろうとした

前回まで、自衛隊に入ってから辞めるまでの話を書きました。

まだ読んでいない方は、よかったらこちらからどうぞ。

今回から、大阪編です。

自衛隊を辞めた僕は、ほとんど何も決めないまま大阪で一人暮らしを始めました。

いろんな仕事をして、
いろんな人に会って、
本を読んで、
自分のことを分析して、
恋人と別れて、
また誰かと付き合って。

振り返ると、なかなか忙しい半年間でした。

そして、
この時期にはネットワークビジネスのような集まりにも関わっています。

※僕自身が誰かを勧誘したり、商品を売りつけたり、
誰かを騙したりした話ではありません(笑)

当時の僕が、「こういう生き方もあるんだ」

と興味を持って、
その世界をしばらく覗いていた
という話です。

良かったと思っていることもあれば、
「これは僕には違ったな」
と思ったこともあります。

そのあたりも、
まだまだ大人になりきれてない
27歳の自分から見て、
できるだけそのまま書こうと思います。

大阪に来た頃の僕は、

自衛隊を辞めて自由になったものの、

これから自分が何になればいいのか、
まったく分かっていませんでした。

だから、とにかくいろんな世界を見てみることにした。

今回は、そんな二十歳そこそこの僕が
大阪で「外の世界」を知ろうとしていた頃の話です。


自由になった

自衛隊を辞めて、僕は大阪へ向かった。

住む場所は、辞める前から決まっていた。

自衛隊にいた頃に知り合った人から、
ネットワークビジネスのような集まりを紹介されていた。

その人たちのつながりで不動産屋さんを紹介してもらい、
梅田から電車で二駅くらいの場所に、
小さなワンルームを借りた。

決して、いい部屋ではなかった。

キッチンにはコンロが一つ。

冷蔵庫も小さい。
日当たりもあまりよくなかった。

たしか洗濯機は、
ベランダに置いていたと思う。

なんというか、
社員寮みたいな部屋だった。

今なら、「よくあんなところに住んでたな」と思う。

でも、当時の僕は嬉しかった。

部屋がきれいかどうかなんて、
ほとんどどうでもよかった。

人生で初めて、自分だけの部屋ができた。

それまでの僕は、ずっと誰かと暮らしていた。

子どもの頃は家族がいた。

母親が再婚していた頃なんて、
兄弟が六人いた時期もある。

祖父母と暮らし始めてからも、兄弟がいた。

自衛隊に入れば、同期や先輩や後輩がいた。

僕の人生には、
ずっと誰かの気配があった。

だから、誰もいない小さなワンルームが、

ものすごく新鮮だった。

何時に寝てもいい。

休みの日にどこへ行ってもいい。

夜中にふらっと外へ出てもいい。

誰にも許可を取らなくていい。

「ああ、自由だ」

大阪に来てすぐの僕は、
何度もそう思った。

最初の一週間くらいは、
とにかく街を歩いた。

梅田。難波。日本橋。

名前を知っている大阪の場所には、
とりあえず行ってみた。

田舎で育った僕からすると、
電車に乗ればすぐ別の街へ行けること自体が面白かった。

喫茶店にも行った。

スタバに本を持っていって、

ネットワークビジネスの人たちが使っている言葉を、
一生懸命勉強したこともある。

キャッシュフロー。

チームビルディング。

経済的自由。

知らない言葉ばかりだった。
だから本を読んだ。

都会のカフェに座って、
「よし、勉強するぞ」みたいな顔をしていた。

今思うと、怪しすぎてちょっと笑える。

でも本人は、ものすごく真剣だった。

知らない世界に入ったのだから、
その世界の人たちが
何を考えているのか知りたかった。

大阪に来てから、本はかなり買った。

ビジネス書。有名な人の自伝。

自己分析の本。漫画だってたくさん読んだ。

僕は昔から、
どう生きればいいのか分からなくなると
本の中に答えを探しにいく癖があった。

大阪でも、それは変わらなかった。

夜になると、部屋は真っ暗だった。

テレビも持っていなかったと思う。

部屋には、まだ読んでいない本が積まれていた。

当時好きだった漫画を、何度も読み返すこともあった。

近くには、果物などを扱う卸売市場があった。

夜中になっても、遠くからフォークリフトの音が聞こえた。

荷物を積み込む音。機械が動く音。

人が働いている気配。岡山の田舎の夜とは、まるで違った。

田舎なら、カエルや虫が鳴いている。

大阪の夜では、機械が鳴いていた。

その音を聞きながら、一人で本を読む。

それも自由だった。

でも、自由と寂しさは案外すぐ隣にあった。

特に感じたのは、ご飯だった。

一人暮らしを始めて、

一緒にご飯を食べる人がいないことを、

僕は意外と寂しく感じた。

それまでの食事は、
誰かが作ってくれるものだった。

家では、母親や祖母が作ってくれた。

自衛隊では、
食堂のおばちゃんたちが作ってくれた。

そして、だいたい誰かと一緒に食べていた。

でも、一人になると、
食事はどんどん簡単になった。

カット野菜。冷凍食品。インスタント味噌汁。

ご飯くらいは炊く。

自炊と呼んでいいのか分からないくらいのものだった。

一緒に食べる相手がいないと、

僕にとって食事は、楽しむものというより

栄養を補給するものになっていった。

自由になった。

でも僕は、自由の使い方なんて知らなかった。

当時の僕は、結構なミニマリストだった。

部屋には、必要最低限のものしか置かなかった。

アクセサリーをたくさん買うわけでもない。

高い服で着飾りたいわけでもない。

誰かに見せるためのものには、

そこまでお金を使わなかった。

その代わり、

僕には弱いものがあった。

「これを使えば、人生が少し良くなる」

みたいなものだ。

スマートウォッチ。

ルンバ。

便利そうなガジェット。

本。新しいサービス。

「これがあれば効率よく生きられる」

「これを知れば、少し賢くなれる」

「時間を無駄にしなくて済む」

今で言えば、コスパとか、タイパとか、

そういうものをかなり気にしていたんだと思う。

物は少ない。でも、新しいものはすぐ試したがる。

小さなワンルームにルンバが必要だったのかは、

今でもよく分からない。

たぶん、自分で掃除した方が早かった。

観光にも行った。

外食もした。本も買った。

ガジェットも買った。

新しいものを見つけるたびに、

「これは人生をよくしてくれるかもしれない」

と手を伸ばした。

そうして、貯金は少しずつ減っていった。

自衛隊では、住む場所、食事、制服もあった。

だから僕は、

一人で生きるのにどれだけお金がかかるのかも、

よく分かっていなかった。

自由になった僕は、

とりあえず自由を片っ端から使っていた。

何者になればいいのか分からなかった

でも、一番分からなかったのは、

お金の使い方じゃなかった。

これから、何者になればいいのか。

それが分からなかった。

自衛隊を辞めた時、

ナンバーワンにならなくてもいいと思った。

でも、何者かになりたい気持ちは消えていなかった。

誰かより上じゃなくてもいい。

その代わり、誰とも違う人間になりたい。

特別な人間になりたかった。

でも、どうすれば特別になれるのかなんて

分からない。

自分に何が向いているのか。

何が得意なのか。

何をしている時が楽しいのか。

そもそも世の中にどんな仕事があるのかさえ、

僕はあまり知らなかった。

だから、いろんな仕事をしてみようと思った。

しかも、できるだけ、

「自分は絶対やらなそうだな」

と思う仕事を選んだ。

その仕事をしている人が、

どんなことを考えているのか知りたかった。

どうしてその仕事を選んだのか。

何を楽しいと思うのか。

どんなことに悩んでいるのか。

知らない仕事をすることで、

知らない人生を覗いてみたかった。

嫌いだと思っているものの中にも、

自分が知らない面白さがあるかもしれない。

そんなことも考えていた。

最初に働いたのは、

お弁当屋さんだった。

理由は、たいしたものじゃない。

自衛隊にいた頃、

友達から、「飲食のバイトはいいぞ!」

と言われたことがあった。

どうしてか聞いたら、

「まかない食えるから」だった。

なるほど…
飯が食えて、給料ももらえる。

だったら、とりあえず餓死はしない。

そのくらいだった。

レジを打った。弁当も作った。

バイト経験のある友達や同期からは、

「そんなのすぐできるよ」

と言われていた。

僕も、そうなんだろうと思っていた。

でも、やってみると、全然できなかった。

「あれ?」と思った。

自分、こんなこともできないんだ。

ちょっとショックだった。

僕は昔から、何かを覚える時、

要領をつかむまでがとにかく遅い。

早くても一か月。

だいたい三か月くらい経って、

ようやく、「ああ、こういうことか」

と分かる。

なぜ、この順番なのか。

なぜ、こうするのか。

このやり方は、別の場面にも使えるのか。

次に応用するなら、どうすればいいのか。

そんなことを、無意識にいちいち考える。

言われた通りに覚えるだけでは、

なかなか頭に入らない。

どうしてそうするのかを知りたい。

だから最初は遅い。

でも、一度自分の中で仕組みがつながると、

そこから急に動けるようになる。

今なら、自分はそういうタイプなんだと分かる。

でも、二十歳くらいの僕は、

そんなことも知らなかった。

みんなが「すぐできる」と言うものすら、

自分にはすぐできない。

自衛隊を辞めて外の世界へ出た僕は、

自由になったと同時に、

自分が思っていたほど、何でもできる人間じゃない

ということも知り始めた。

そこから、本当にいろんな仕事をした。

物流。郵便物や大きな荷物の仕分け。

卸売市場での果物の仕分け。介護。

テレアポ。カーワックスの営業。

新聞の新規営業。配達。

生活リズムはめちゃくちゃだった。

夜働く日もある。

朝早くから働く日もある。

夜十時頃に帰って、五時間くらい寝て、また朝だけ働いて、

昼に寝る。そんな日もあった。

向いていない仕事もあった。

テレアポは、向いていなかった。

介護も、職業として自分に合っているとは思わなかった。

逆に、物流や配達は

慣れてくると意外と楽しかった。

どういう順番で動けば早いか。

どのルートなら効率がいいか。

僕にとっては、少しゲームみたいだった。

そして、意外と楽しかったのが営業だった。

新聞の新規営業をしていた時、

若い奥さんに話をしたことがある。

僕の家では、子どもの頃から新聞が身近にあった。

祖父から、本やインターネットだけだと

どうしても自分の好きな情報ばかり見るようになる。

だから新聞を、斜め読みでもいいから一通り見ることも大切だ。

そんなことを言われて育った。

僕自身、それは悪くなかったと思っていた。

だから、その人にも

自分の経験としてそのまま話した。

「僕はこういうふうに言われて育って、

実際に良かったと思ってるんです」

そんな話をした。

すると「じゃあ三か月だけ取ってみようかな」

と言ってくれた。

契約が取れた。嬉しかった。

でも、契約そのものより

自分が本当に良いと思っていることを、自分の経験と言葉で伝えて、相手が納得して選んでくれたこと

が嬉しかったんだと思う。

僕は、一対一とか、

少人数で人と話すのが好きなのかもしれない。

そんなことも、少しずつ分かっていった。

成功者も、意外と普通だった

仕事をしながら、ネットワークビジネスのような集まりにも、

週に二、三回くらい顔を出していた。

会議室で勉強会をすることもあった。

ノートを取る人。

パソコンをパチパチ打っている人。

話が終われば拍手をする。

居酒屋を貸し切って集まることもあった。

テニスなどのイベントもあった。

そこには、本当にいろんな人がいた。

会社員。不動産。飲食。小売。

USJでダンサーをしている人。

自衛隊にいた頃の僕には、

出会うことのなかった人ばかりだった。

それが、純粋に面白かった。

世の中には、こんなにいろんな働き方をしている人がいるんだ。

それだけで、新鮮だった。

それに、みんな人への接し方がうまかった。

初対面の僕に、「笑顔いいね」

とか、「肌めっちゃきれいじゃん」

とか、さらっと言う。

言われた方が、

ちょっと嬉しくなる言葉を自然に使う。

第一印象が、とにかくいい。

当時の僕は、「すごいな」と思った。

成功していると言われる人たちにも会った。

高級車に乗っている人。

タワーマンションに住んでいる人。

最初は、「すごい人なんだろうな」と思った。

でも、何度か話を聞いているうちに、

意外と普通の人なんだな、とも思うようになった。

それは少し、僕にとって希望でもあった。

成功する人は、

最初から自分とは違う生き物じゃないのかもしれない。

自分だって、何かできるのかもしれない。

そう思った。

一方で、少しずつ違和感も出てきた。

みんな、すごく前向きな言葉を使う。

夢。自由。成功。人生を変える。

その言葉自体が嫌だったわけじゃない。

僕だって、人生を変えたかった。

でも、話している時は笑っているのに、

ふとした瞬間、すごく寂しそうな顔をする人もいた。

みんな、本当に幸せなんだろうか。

そんなことを、少しずつ考えるようになった。

人は、何を後悔して死ぬんだろう

大阪でやった仕事の一つに、介護があった。

僕が介護を選んだ理由は、

今思えば、かなり変わっていた。

自衛隊を辞めて、少しずつ元気にはなっていた。

でも、当時の僕にはまだ、

「死にたい。どうやって死のうか?」

という感覚が強く残っていた。

死ぬことを考える。

でも、死ぬのは怖い。

だったら、人生の終わりに近づいた人は

何を考えているんだろう。

人は、何を後悔して死ぬんだろう。

それを知りたかった。

三か月ほど、介護の仕事をした。

おじいさん、おばあさんの話し相手になった。

お茶を出したり、食事や排泄の介助もした。

そして、利用者さんと話している時、

僕はよく、こんなふうに聞いた。

「僕、ちょっと悩んでることがあるんですけど、聞いてもいいですか」

「僕自身、今いろいろ後悔してて」

「○○さんは、人生で後悔してることってありますか?」

傍から見たら、

二十歳くらいの若者が、

おじいちゃんおばあちゃんに、

ずいぶん重たいことを聞いている。

でも、意外にも

嫌な顔をする人はほとんどいなかった。

「ああ、後悔かあ」

と言って、斜め上を見ながら考える人。

しばらく黙って、

昔を思い出しているような人。

みんな、結構真剣に考えてくれた。

そして出てきたのは、

「あの時、ああしてあげればよかった」

「息子に、もう少し優しくしてやればよかった」

「あの時、やっておけばよかった」

そんな言葉だった。

僕はもっと、
仕事やお金の後悔が真っ先に出てくると思っていた。

もっと成功すればよかった。

もっと稼げばよかった。

そんな話を想像していた。

でも、意外とそうじゃなかった。

「あの時、やればよかった」が多かった。

そして、逆に僕へ、

「今やりたいことがあるなら、やっときな」

と言ってくれる人もいた。

「若いうちにしかできないこともあるからね」

「できるだけ後悔しないように生きなよ」

そんなことを言ってくれた。

当時は、「そうなんだな」くらいだったと思う。

でも、あの時聞いた言葉は、

少しずつ僕の中に深く残っていった。

人生に、刻まれていくもの

そこに、元々バーを経営していたおじいちゃんがいた。

話しかけると、いつもニコニコしていた。

すごく感じのいい、普通のおじいちゃんだった。

でも、会話が終わって一人になると、

急に下を向いた。

そして、「はぁ……」

と、大きなため息をついた。

また誰かが話しかけると、笑う。

一人になると、また下を向く。

あの人の人生に何があったのか、

僕は知らない。ただ、その姿が妙に頭に残った。

二十歳くらいの僕は、年上になればなるほど、

人は人生のことが分かるようになると思っていた。

三十歳。四十歳。五十歳。

大人になれば、

みんな自分なりの答えを持っているものだと思っていた。

でも、そうでもないのかもしれない。

何歳になっても、人は悩む。

何十年生きても、抱えているものがある。

そんな当たり前のことを、少しずつ知った。

そしてもう一人、今でも覚えているおばあちゃんがいる。

たぶん、認知症がかなり進んでいた。

何かをしてあげるたびに、

手を合わせて、「ありがとう」

「本当にありがとう」と言う人だった。

次の日になると、僕の名前は忘れている。

「ごめんね、名前なんだったっけ」

そう聞かれて、また名前を教える。

すると、「Kくん、ありがとうね」

と言ってくれる。

昨日のことは忘れる。

名前も忘れる。
でも、「ありがとう」は残っていた。

その人は、いつも穏やかな顔をしていた。

反対に、いつも怒っているように見える人もいた。

手伝おうとすると、「やめろ」と怒鳴られて

手を振り払われることもあった。

もちろん、認知症や病気の影響もある。

だから、その人の生き方を、

僕が勝手に決めつけることはできない。

それでも当時の僕は、

人が長い時間使ってきた表情や言葉や態度って、

少しずつ、
その人自身に、刻まれていくものなのかもしれないと思った。

昔、叔父から言われたことを思い出した。

視力が悪かった僕は、
物を見る時によく眉間にしわを寄せていた。

それを見た叔父に、とても強い口調で、

「眉寄せるのやめろ」
「怒ってないだろ」
「顔の表情ってすごく大事なんだぞ」
「その顔の表情は、人間性が出るからな」

と言われたことがある。

「まあ、叔父さんが言うならそうなんだろうな」
くらいにしか思っていなかった。

でも、介護の仕事をして、少し分かった気がした。

人の顔って、
その人がこれまで何度も使ってきた表情が、
少しずつ刻まれていくのかもしれない。

よく笑う人には、笑ってきた顔が。
よく感謝を伝える人には、やわらかい顔が。
深く悩んできた人には、考え込むような表情が。

もちろん、その人がどんな人生を歩んできたのかを、
僕が決めつけることはできない。

それでも、
叔父が言っていた「人間性が顔に出る」って、
こういうことなのかもしれないと思った。

昨日まで話していた人

昨日まで話していた人が、突然亡くなることもあった。

お茶を飲んでいた。話をした。

そこにいた。でも、次に行った時には、もういない。

寂しかった。悲しかった。

そして、当たり前のことを、初めて実感した。

人って、本当に死ぬんだ。

だったら「あの時、やればよかった」を、

少しでも減らした方がいいんじゃないか。

介護は、僕に向いている仕事ではなかったと思う。

でも、本当にやってよかった。

自分という人間を、攻略しようとした

その頃、僕は自分自身のことも、かなり分析していた。

診断できるものは、片っ端からやった。

MBTI、ビッグファイブ、VIA-IS。

能力の分析。

やりたいことを百個書く。

マンダラチャートも作った。

メンタリストDaiGoさんの本も片っ端から読んだ。

有料の配信にも登録して、かなり聞いていた。

今振り返ると、自分という人間を、
攻略本みたいに読み解こうとしていた。

自分を分析すれば、自分にぴったりの職業が出てくる。

そんなふうに思っていたのかもしれない。

でも、やっているうちに

少しずつ共通点が見えてきた。

ENTP。希望、審美眼、好奇心、創造性、向学心…

過去を振り返ると、確かに僕は昔から、

何かを作っていた。

小学生の頃の図工。

橋の下に作った秘密基地。

友達と拾ってきた、

大人が捨てたちょっとエッチな本。

自分で作ったルアーや仕掛け。

サイエンスチャレンジ。

そういえば、僕は作ることが好きだった。

高校のサイエンスチャレンジでは、

勝ちたい気持ちもあった。

でも、走って一番になるのとは違って、

作っている時間そのものが楽しかった。

祖父のことも思い出した。

祖父は、土木の仕事をしていた。

昔、「この橋はな、わしとお前のひいじいちゃんが一緒に作ったんやで」

と言われたことがある。

曾祖父は、もう亡くなっていた。

本人はいない。でも、作った橋は残っている。

それを見て、子どもの僕はなんだかかっこいいなと思った。

人はいなくなっても、作ったものは残る。

それって、いいなと思った。

ただ、ものづくりなら何でもいいわけではなさそうだった。

いろんなバイトをやって、それも少し分かった。

同じものを同じ手順で、淡々と作り続ける。

そういう作業は、たぶん僕が求めているものとは違う。

考えたい。工夫したい。

知らないものを知りたい。

自分なりに何かを形にしたい。

もしかしたら、僕が好きなのは、
好奇心と創造性を使えるものづくり

なのかもしれない。

ようやく、そんな仮説ができ始めていた。

僕だけが「これから」だと思っていた

この頃、当時付き合っていた彼女が

大阪へ遊びに来てくれた。

僕が大阪へ来て、三、四か月くらい経った頃だったと思う。

自衛隊にいた間も、何度かは会っていた。

でも、僕は自衛隊にいて、彼女は東京で大学生活を送っていた。

ずっと離れていた。

だから、少しだけど
まとまった時間を一緒に過ごせることが、

本当に嬉しかった。

一緒に美術館やお寺に行った。

ご飯も食べた。

家でお菓子を食べながら過ごした。

梅田駅周辺や京都の有名な観光地を歩いた。

そして僕は、彼女に何かプレゼントしたいと思った。

自衛隊にいた頃は、

僕から東京へ会いに行く余裕もあまりなかった。

大人になってから、彼女に何かしてあげられた記憶も

ほとんどなかった。

彼女は昔から、本当によく音楽を聴く人だった。

だから後日、仕事帰りに電気屋へ行って

少し良いウォークマンを買った。

大学生活でも、好きな曲をいっぱい入れて、

これで聴いてくれたらいいなと思った。

ヘッドホンも買った。

僕の分と、彼女の分。

色は色違いにした。
そして帰宅してサプライズプレゼントした。

書いていると、ちょっと恥ずかしい。
思い出すとかなり甘酸っぱい記憶。

しかも、たぶん少し見栄も張って、

結構いい機種を買ったと思う。

でも、値段はどうでもよかった。

彼女が喜んでくれたことが、ただ嬉しかった。

彼女が大阪から帰る頃には、

季節はもう冬に入りかけていた。

少し肌寒くなっていた。

僕と彼女は、そこまで体格差がなかった。

だから、僕が持っていたヒートテックを何枚か、

彼女のバッグに入れた。

東京に戻っても、あったかくして、

体調を崩さなかったらいいなと思った。

今振り返れば、久しぶりに会えた彼女に

今までできなかった分まで、

何かしてあげたかったのかもしれない。

ただ、少し焦りすぎた。

彼女が帰ったあと、スマートウォッチを充電しようとした。

充電器がない「あれ?」

部屋を探した。ない。

どうやら、ヒートテックと一緒に、

彼女のバッグへ入れてしまったらしい。

何をしているんだ、と思った。

でも、その時の僕は、二人の関係が

この先も当たり前に続いていくと思っていた。

そして、この前後だったと思う。

コロナの影響で、バイトが突然休みになる日があった。

予定がぽっかり空いた。

暇だった。

だから、ふらっと京都へ行った。

観光客もほとんど居なかった。

そこで、たまたま入った寺の庭を見た。

最初は、ただ「うわ、きれい」と思った。

それだけだった。

でもその庭が、なぜか頭に残った。

その時の僕は、まだ知らなかった。

自分が少しずつ見つけ始めていた

「ものづくり」というものと、

この庭が、あとでつながっていくことを。


彼女が東京へ戻って、

一か月くらい経った頃だったと思う。

彼女が入院したと知った。

体調を大きく崩したらしい。

でも、僕が知ったのは、入院したあとだった。

彼女のお兄さんが来てくれたと聞いた。

僕は、とにかく心配だった。

大丈夫なのか。

僕に何かできないのか。

でも、どうすることもできなかった。

そもそも、僕には相談がなかった。

今振り返れば、その頃にはもう、

彼女の中で僕との距離はかなり開いていたのかもしれない。

僕には突然に見えたものが、

彼女にとっては、

ずっと前から始まっていたことだったのかもしれない。

僕が、「こうするべきだ」

を彼女に押しつけていた頃。

浪人や進学で、お互いの生活が変わった頃。

僕が自衛隊に入り、彼女が東京へ行った頃。

少しずつ、物理的な距離だけじゃなく、

心の距離も離れていったのかもしれない。

彼女も、とても苦しかったんだと思う。

少なくとも、今の僕には、そう見える。

でも、当時の僕はそんなことまで考えられなかった。

ただ、体調を崩さずに無事でいてほしいと思っていた。

そして、その少し後。

彼女から、「別れたい」と言われた。

電話だったのか。LINEだったのか。

今はもう、はっきり覚えていない。

当時のやり取りは、

あとで怒りに任せて全部消してしまった。

ただ、「別れたい」

と言われたことは、はっきり覚えている。

僕には、意味が分からなかった。

やっと自衛隊を辞めた。

やっと少し元気になった。

やっと新しい世界を見始めた。

やっとこれからなのに。

なんで僕を置いていくんだ。

僕は、将来は彼女と結婚するものだと思っていた。

長い間、一緒にいた。

彼女のお父さんからも、

「彼女を幸せにしてやってね」

と言われたことがあった。

だから、勝手にこの人とはずっと一緒にいると思っていた。

でも、今振り返ると、彼女にとっては

突然の別れじゃなかったのかもしれない。

僕だけが、「これから」だと思っていた。

彼女は、もっともっとずっと前から、

終わりについて考えていたのかもしれない。

その日の晩ご飯は、食べられなかった。

悲しい。苦しい。なんで。

感情が一気にあふれた。

僕は、物に当たるタイプではない。

何かを壊したいわけでもなかった。

でも、どうしていいか分からなくて、

初めてコンクリートの壁を拳で殴った。

「なんで」殴った。

「なんでなん」気が済むまで何度も殴った。

仕事には行った。

人と話せば、普通にたわいもない話もした。

でも、それ以外の時間は、

感情が消えていた。ロボットみたいだった。

働く。帰る。寝る。

それだけ。

しばらくすると、悲しさの中から、怒りが出てきた。

絶対に見返してやる。

「別れるって言ったのはそっちだからな」

「絶対、お前より幸せになってやる」

そんなことを思った。

いい感情だったとは思わない。

でも、その負の怒りは、僕をもう一度動かす強烈な燃料になった。

ただ、だからといって

彼女への気持ちがなくなったわけではなかった。

その後も、僕は何度か彼女に連絡した。

前へ進もうとはしていた。

でも、彼女の面影はずっと、心の奥底に色濃く残ったままだった。

前に進んだことにしたかった

別れて一か月くらいして、

僕はマッチングアプリを始めた。

次の恋へ進んだというより、

進んだことにしたかったのかもしれない。

何人かの人と会った。

その中で、一人の女性と付き合った。

地方から大阪へ出てきて、

かなり有名なケーキ屋さんで働いているパティシエさんだった。

お菓子作りが得意。料理も上手。

メイクも好き。アイドルの推し活もしていた。

僕から見ると、華やかで、女性らしい人だった。

誕生日も、僕と一日違いだった。

彼女は、僕のことをまっすぐ好きだと言ってくれた。

「付き合えて幸せ」

そんなことも言ってくれた。

一緒に庭を見に行った。

美味しいものを食べた。

ケーキも食べた。

きっと写真だけ見れば、

誰がどう見ても、幸せそうなカップルだったと思う。

でも、僕の中にはずっと違和感があった。

その人が悪いわけではない。

むしろ、僕にはもったいないくらい、

まっすぐ好意を向けてくれる人だった。

それなのに、僕は全く惹かれていかなかった。

一緒に過ごすほど、前の彼女を思い出した。

美術館を一緒に歩いた時間。

隣で勉強している横顔。

何かを考えている時の表情。

彼女の冗談。

僕は、彼女が何を考えているのか聞くのが好きだった。

同じものを見て、彼女がどう感じるのかを知るのが好きだった。

そこで、ようやく分かった。

僕が欲しかったのは、

「彼女」という役割をしてくれる誰か

じゃなかった。あの人だった。

僕は、新しく付き合った人に

「ごめん。別れたい」と伝えた。

付き合っていたのは、

二か月くらいだったと思う。

今思えば、ほんとに最低だったなと思う。

彼女はすごくいい子だった。何一つ悪くなかった。

僕が、自分の寂しさを埋めるために巻き込んでしまっただけだ。

今さらだけど、本当にごめんよ。

自分の輪郭が見えてきた

大阪に来てから、

僕は本当にいろんなことをした。

いろんな仕事をした。

いろんな人に会った。

本もたくさん読んだ。

ネットワークビジネスの人たちから、

知らなかった働き方を教えてもらった。

介護では、何十年も生きてきた人たちの話を聞いた。

営業では、自分の経験を自分の言葉で伝えることが、

意外と好きなのかもしれないと知った。

恋人と別れて、自分の弱さや依存にも少し気づいた。

自己分析をして、昔の自分を掘り返した。

そして、ほんの少しだけ、

自分の輪郭が見えてきた。

自衛隊にいた頃の僕は、

答えは、外にあると思っていた。

祖父が知っている。

偉い人が知っている。

成功者が知っている。

本に書いてある。

正しい生き方がどこかにあって、

それを見つけさえすれば、

自分もちゃんとした人間になれる。

そう思っていた。

大阪に来てからも、最初は同じだった。

いろんな人に会った。

本を読んだ。自己診断もした。

外の世界に、答えを探した。

でも、いろんなものを見れば見るほど、

少しずつ、自分の過去も見るようになった。

自分は、何をしている時が楽しかったのか。

何に夢中になれたのか。

何なら、人と比べなくても続けられたのか。

そうすると、ぼんやりだけど、一つの仮説が出てきた。

僕は、ものづくりが好きなのかもしれない。

好奇心を使う。

考える。工夫する。

そして、何かを形にする。

まだ、何を作りたいのかは分からなかった。

でも、自衛隊を辞めた頃よりは

少しだけ、自分という人間のことが分かった気がした。

それまで僕は、「絶対やらないだろう」

と思う仕事を、あえて試してきた。

でも、次は少し違った。

嫌いじゃないかを確かめるためではなく、

「もしかしたら、これは好きなのかもしれない」

と思えるものを、試してみたくなっていた。

そして、僕の頭の片隅には、

京都で見た、あの庭が残っていた。

ただの石。ただの木。ただの苔。

そう見えていたものの中に、何かがある気がした。

まだ、それが何なのかは、分かっていなかった。

でも、あの庭のことを、

僕はもう一度、知りたいと思い始めていた。

最後に

いやー、こうやって書いてみると、

半年でいろいろありすぎだろ。と、自分でも思います(笑)

いろんな仕事をして、いろんな人に会って、
本を読んで、自分のことを分析して、
恋愛も終わって、そのあとまた別の人と付き合って。

なかなか忙しい二十歳でした。

特に恋愛のところは、書きながら、

「ああ、こんなことあったなあ」
って、思っていたより感情が戻ってきました。

できるだけ今の自分から見て、
客観的に書いたつもりではあります。

ただ、もうずいぶん前の話なので、

順番が少し前後していたり、
抜けている記憶があったり、
当時の僕には見えていなかったことも、

たぶんもっとあると思います。

それでも、今覚えていることを、
できるだけそのまま書いてみました。

それにしても、自衛隊を辞めた直後の僕

めちゃくちゃいろんなところに
答え探しに行ってますね(笑)

そして次回は、そんな僕が、

「庭師」という仕事に出会っていく話です。

京都でたまたま見た庭。

YouTubeで見つけた一人の庭師。

そして、「給料なんて安くてもいいから、ここで働かせてほしい」

と、造園会社の親方のところへ乗り込んでいきます。

このへんから、ようやく僕の人生に

今につながる道が見え始めます。

次回、大阪編②へ。

また読んでもらえたら嬉しいです。

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