昼休みの文庫本
「読んでいる本が違いますよね」
ある日、アナタは笑いながらそう言った。
「それはそのはずだよ」
ワタシも笑って答える。
「アナタが読んでいるのは『本』で、ワタシが読んでいるのは『書籍』だから」
「また、そういう面倒くさいこと言う」
呆れたように笑うアナタの顔を見て、少しだけ嬉しくなる。
もちろん、本と書籍に違いなどない。
ただ、そういう屁理屈を言ってみたかっただけだ。
もう少し整理すると、アナタが読んでいるのは東野圭吾だったり、辻村深月だったり、宮島未奈だったりする。
ワタシは現代小説を読まない。
いや、正確には読めない。
本棚には『管理会計 第七版』、『世界標準の経営理論』、『最新財務諸表論』。少し薄いと思ったら有斐閣の『近代経済学』が函に収まって鎮座している。
どれも、落とせば足の骨くらい折れそうな鈍器本ばかりだ。
「そんな本、何が面白いんですか?」
アナタは首を傾げる。
その気持ちはよくわかる。
しかし、ワタシからすれば逆なのだ。
『マネジメント・コントロール・システム』と書いてあれば、管理会計の本だとすぐわかる。
ところが、『法隆寺』という題名ならどうだ。
旅行記なのか。
歴史小説なのか。
ミステリーなのか。
エッセイなのか。
さっぱりわからない。
そんな冒険をする勇気がない。
ワタシは社会科学という海の、波打ち際で遊んでいるだけで十分なのだ。
だから何度も言っている。
「現代小説は読まないよ」
それなのに。
アナタは懲りない。
「これ、面白かったので」
そう言って文庫本を差し出す。
「いや、読まないって」
「騙されたと思って」
「騙されるのが嫌なんだよ」
そんなやり取りを、もう何度繰り返しただろう。
不思議なのは、アナタ自身はワタシの読む本を一冊も読もうとしないことだ。
『世界標準の経営理論』を貸そうか、と冗談半分で言えば、
「無理です」
と一秒で断る。
なのに、アナタはワタシのもとへ文庫本を持ってくる。
なぜなのだろう。
東野圭吾を読んでも、申し訳ないがワタシには面白さがわからない。
読後の感想はいつも同じだ。
「映画で十分だったな」
社会科学は映画化されない。
管理会計理論が二時間の映画になることなど、まずない。
だから読むしかない。
六百ページ読んで、得られるものは、たった一行かもしれない。
それでも、その一行のために読む。
ワタシには、その一行が欲しい。
小説から得られるものは、少なくともワタシにとってはゼロなのだ。
だから、わざわざ持ってこなくていい。
そう思う。
そう思うのに。
昼休みになると、アナタはまた文庫本を持って現れる。
「今度こそ読んでください」
「読まないって」
「じゃあ、一ページだけ」
「一ページ読んだら終わりにならないだろ」
「バレました?」
そう言って笑う。
その笑顔を見るたびに思う。
きっとアナタは、本を読んでほしいわけではない。
本を口実に話しかけているだけなのだ。
ワタシも、本当に迷惑なら、もっと冷たく断ればいい。
「もう持ってこないで」
その一言で終わる話なのだから。
なのに、それが言えない。
結局また、
「読まないよ」
と言いながら文庫本を受け取ってしまう。
もちろん開かない。
机の上に数日積んで、きれいなまま返す。
そんなことを何度も繰り返している。
五十を過ぎたオッサンと、二十歳も年下の女性。
読む本は、どこまでいっても交わらない。
それでも。
昼休みに交わす他愛のない会話だけは、少しずつ増えていく。
もしかすると。
本でつながっているのではない。
「本が違う」ことを笑い合える、その時間でつながっているのかもしれない。
だから今日も、アナタは文庫本を差し出し、ワタシは苦笑しながら受け取る。
読むことは、たぶん、ない。
それでも、そのやり取りだけは、少しだけ楽しみにしている自分がいる。
その日も、いつものようにアナタは文庫本を持ってきた。
「返します」
「え、結局読んでないですよね?」
「表紙は読んだ」
「それ、読んだうちに入りません。」
そう言って笑いながら、アナタは本を受け取ろうとする。
同じ瞬間だった。
本の角を持ったワタシの指先に、アナタの指先がそっと重なった。
ほんの一瞬。
避けようと思えば避けられた時間だった。
それなのに、お互い少しだけ動けなかった。
柔らかい。
そんな場違いな感想が頭をよぎる。
アナタも気づいたのだろう。
いつもならすぐに引っ込める手を、その一拍だけ遅らせた。
昼休みの食堂は賑やかなはずなのに、その瞬間だけ周りの音が遠くなる。
ワタシは慌てて手を離した。
「あ、悪い。」
「別に。」
そう言ったアナタも、どこか落ち着かない。
耳が少し赤い。
ワタシは五十を過ぎたオッサンだ。
こんなことで胸が騒ぐ年齢ではない。
そう思い込んできた。
なのに、心臓だけが若い頃を思い出したように勝手な鼓動を始める。
沈黙をごまかしたくて、思わず口が動いた。
「えっと、今度、一緒に本屋でも行ってみるか。」
言ってから、自分で驚いた。
何を言っているんだ、ワタシは。
本屋くらいなら自然だ。
そう自分に言い訳をしながら、返事を待つ。
アナタは少し目を丸くして、それから意地悪そうに口元をゆるめた。
あの、少しだけアヒル口になる笑い方。
「ふ〜ん、本屋だけ?」
その声は小さかった。
けれど、昼休みのざわめきの中でも、不思議なくらいはっきり聞こえた。
一瞬、時間が止まる。
「そ、それは」
その先の言葉を探そうとしたとき。
館内放送からラジオ体操の前奏が流れ始めた。
昼休みの終わりを告げる、毎日変わらないあの音楽。
現実が、一気に戻ってくる。
「あ、仕事。」
アナタは小さく笑って立ち上がる。
「続きは、また今度ですね。」
文庫本を胸に抱え、振り返って手を振る。
ワタシは結局、何も答えられなかった。
本屋だけなのか。
その先があるのか。
ラジオ体操の音楽だけが、答えを保留にしたまま、昼休みを静かに終わらせていった。
