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三千家と会津若松の絆

こんにちは、みちのくハーブ研究所です!


みなさんは、京都のイメージが強い伝統文化である茶道と、福島の歴史の街「会津若松」に、“命がけの深い絆”があるのをご存知ですか?

実は、もし会津がいなかったら、現代の日本の茶道文化は途絶えていたかもしれないのです……!

今回は、会津と千家のドラマチックな関係をまとめましたので、最後まで読んでいってください!

千家ゆかり会津の地


歴史の教科書でもおなじみ、茶道の大成者・千利休。


天正19(1591)年、彼は豊臣秀吉の怒りを買い、切腹を命じられてしまいます。


主君を失った千家は取り潰し。
また財産は没収され、一族はバラバラに……。

まさに「千家滅亡」の最大のピンチが訪れます。


この大ピンチに立ち上がったのが、当時の会津領主だった蒲生氏郷でした。


氏郷は織田信長や豊臣秀吉に認められた文武両道の天才武将。

それと同時に、利休の一番弟子(利休七哲の筆頭)でもある大の茶人だったんです。

「先生の残した素晴らしいお茶の文化を、絶対にここで絶やしてはならない……!」

そう決意した氏郷は、秀吉の目を盗んで、命を狙われていた利休の息子・少庵を密かに会津へと招き、鶴ヶ城内に匿いました。

秀吉にバレたらお家取り潰しになりかねない、まさに命がけの救出劇です。


会津で温かく守られた少庵は、約3年もの間、会津の地でじっと時を待ちます。


その間も、氏郷は徳川家康らと協力して、秀吉へ「千家を許してあげてほしい」と何度も頭を下げ続けました。

その熱意が実り、ついに秀吉からお許しが出ます!

京都に戻った少庵は見事に千家を再興し、孫たちの代に現在の「表千家」「裏千家」「武者小路千家」の三千家へと繋がっていくのです。

つまり、会津は「千家茶道、再興の地」なんですね!

鶴ヶ城


少庵が会津に隠れていたとき、恩人である氏郷のために建てたといわれる茶室が、今も鶴ヶ城に残る「麟閣」です。 

明治の戊辰戦争で鶴ヶ城がボロボロになった際も、会津の茶人たちが「この大切な茶室だけは絶対に守る!」と私財を投じて自宅に移築し、120年もの間守り抜きました。

今、鶴ヶ城内に復元された「麟閣」には、三千家すべての家元が直筆した看板が掲げられています。

3つの流派が揃って認める場所なんて、日本中どこを探してもここだけ!

千家がいかに会津に感謝しているかが伝わりますよね。


話はここで終わりません。幕末のジャンヌ・ダルクと呼ばれた会津出身の女性・新島八重も、晩年は京都で裏千家に入門し、「宗竹」という茶名を授かるほどの茶人になりました。

当時、男社会だった茶道を「女性の教育」として学校に取り入れ、現代のように誰もがお茶を楽しめる基盤を作ったのは、実は八重さんなんです。

ここでも会津のDNAが千家を支えていたんですね。


武士のプライドと、文化を愛する心が紡いだ「会津と千家」の物語。

鶴ヶ城を訪れた際は、天守閣だけでなく、ぜひ「茶室 麟閣」にも足を運んでみてください。

今もお城の美しい庭園を眺めながら、お抹茶と美味しいおまんじゅうをいただくことができますよ。 

400年前の命がけのドラマに思いを馳せながら飲む一服は、きっと格別の味がするはずです!

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