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「満州を歩いた旅行鞄」がリサイクル店に。よみがえる開拓団の記憶

 時代を感じさせる古い旅行鞄が、岐阜県郡上市八幡町のリサイクルショップに持ち込まれた。鞄は戦前に作られたもので、表裏に計9枚のステッカーが貼られている。うち2枚は満州(中国東北部)にあった「満州航空」の名前が記され、残りは満州各地のホテルのものだと分かる。
 鞄の持ち主はかつて材木商として活躍し、日本と大陸を行き来していた。満州は1932年3月、日本陸軍(関東軍)が主導して建国され、1945年8月の
終戦とともに終焉した。男性とともに空を飛んだ鞄は、消滅した幻の国家の記憶を今に伝えている。

旅行鞄を手にする和田代表

 リサイクルショップ「もも太郎」の和田幸弘代表によると、旅行鞄を店に託したのは郡上市高鷲町に住む高齢の女性だった。名古屋市出身の女性は、亡くなった親族の男性から鞄を受け継いだ。身辺を整理するうち「だれか大切にしてくれる人がいれば」と、手放すことを思い立ったそうだ。
 和田さんは店舗だけでなく、ヤオフクでも商品を販売しているが、鞄を売る気はない。一目見ただけで貴重な品物だと気づいたからだ。
 岐阜県は戦前、満州開拓団に1万3000人の農民を派遣したが、終戦間際の旧ソ連軍の侵攻のため、ほぼ3分の1にあたる4000人が命を落としている。
 郡上市も多くの開拓団員を送り出しており、悲惨な逃避行や残留孤児の悲劇が語り継がれている。
 そんな土地で生まれ育った和田さんは、以前から満州開拓団について学んできた。「満州」という文字を確認した瞬間、旅行鞄と開拓団が結びついたのだ。
 

旅行鞄にはさまざまなステッカーが貼られている

 革製の旅行鞄は縦27㌢、横47㌢、幅13㌢と小型だが、とてもしっかりした造りをしている。上部には錠で固定する留め具が2個付き、布張りの内部は美しく仕上げられている。
 現代のアタッシュケースに比べると、ずいぶん手がかけられた印象がある。あちこち傷んではいるものの、まだ実用に耐えるだろう。今から100年近く前の品物だと思われるが、保管状況が良かったようだ。
 側面には、持ち主の名字がアルファベットで「МAKI」と書かれている。
鞄を持ってきた女性もじ同じ名字だった。 
 

満州にあったホテルの名前が並ぶ


頑丈な持ち手。造りの良さが分かる

 

内部も丁寧に仕上げられている

 

持ち主の名前を示す「МAKI」の文字

 旅行鞄に貼られた満州航空のステッカーは、飛行機をデザインしている。
 記録によると、満州航空は1931年に設立した日本航空輸送の出先機関を母体に誕生した。満州国の建国後、社名を「満州航空株式会社」とし、奉天市を拠点に事業を展開した。
 当時は満州の新京、大連、天津などのほか、東京、大阪、福岡にも定期便を飛ばし、ユンカースやハインケルといった最新鋭旅客機を投入していた。
満州航空の親会社にあたるのが、有名な「南満州鉄道」(通称満鉄)である。


満州航空のステッカー


飛行機がデザインされている

 ホテルのステッカーは「熱河・承徳ホテル」(中国河北省)、「チチハルホテル」(黒竜江省)など7枚が貼られている。
 「遼西ホテル」(遼寧省)のステッカーには大きく「関東軍御指定」とあり、当時の時代背景が現れていて興味深い。各ホテルは現地の有名な建物や風景をデザインしており、ラクダを連れた人物も描かれている。
 旅行鞄の持ち主だった男性は度々満州航空を利用し、満州の主要都市を渡り歩いていたようだ。職業は材木商とされるが、詳しくは分からない。いずれにしても、満州を舞台にしたビジネスを手がけていたのだろう。
 鞄に貼られた色とりどりのステッカーを見ていると、最新のスーツに身を包んだ有能なビジネスマンの姿が思い浮かぶ。

熱河・承徳ホテル
遼西ホテル
チチハルホテル


赤峰都ホテル

 満州はもともと、関東軍が自らの思いのまま操るために建国した傀儡国家だった。清朝の皇帝だった愛新覚羅溥儀がトップに据えられたものの、最後まで実権を握ることはなかった。
 国策の映画会社「満州映画協会」(通称満映)は、中国人のスターとして李香蘭を売り出したが、彼女の本名は大鷹淑子(芸名山口淑子)であり、生粋の日本人だった。
 満州、漢、蒙、鮮、日の「五族協和」を理念とした満州国には、虚栄と欺瞞が付きまとっていた。

満州皇帝となった愛新覚羅溥儀と妻
満州鉄道が走らせた高速列車「あじあ号」



満映の大スターだった李香蘭

 日本はその満州国に約27万人もの開拓団員を送り込んだ。満州開拓は貧困に苦しむ農村の人減らしや満州防衛を目的とした国策であり、一時は500万人まで増やすという壮大な計画が打ち出された。
 「岐阜県満州開拓史」(県開拓自興会発行)によると、岐阜県は満州が建国された1932年以降、県内全域から約1万3000人の農民を送った。郡上郡(現郡上市)の農民も次々に海を渡り、満州各地で農耕に従事した。
 郡上郡高鷲村(現高鷲町)は1939年、700戸のうち200戸を満州に送出する分村計画を決定。農民らは吉林省の琿春に入植し、新たな村を築こうと働いた。

満州に渡った高鷲村の若者たち


朝日村開拓団


開拓団の人々。犬も一緒に写っている

 しかし、満州国は建国からわずか13年で消滅してしまう。
 終戦直前の1945年8月9日、ソ連軍が突然満州に侵攻。各地の開拓団員は無差別な攻撃を受け、命がけの逃避行を強いられた。
 成人男性のほとんどは召集されており。開拓団には女性や子どもしか残っていない。絶望的な状況の中で、ソ連兵による略奪や殺傷、女性に対する暴行が続いた。必死に逃げる人々の背後に、戦車が迫る。凄惨な集団自決も相次いだ。
 私は全国で最も多くの開拓団員が出た長野県で2回勤務し、取材を通して満州開拓の実情を知った。郡上市でも元開拓団員の話を聞く機会があり、何度か記事にしている。
 ある女性は朝の食事の度、仏壇にご飯を備え、死んだ仲間の冥福を祈る習慣を欠かさなかった。
 逃げる途中、獣に腹を食いちぎられた女の子の亡骸を見たが、死に無感動となって何も感じない。母親が幼い子どもを手にかけ、自分の命を絶つ。仲間同士が石で頭を殴り合い、死のうとする。
 やっとたどり着いた収容所でも、飢えと病気で死ぬ仲間が絶えない。毎朝、起きる度にだれかが死んでいる。極限状態に置かれたつらい記憶が、いつまでも忘れられなかったのだ。
 岐阜県から満州開拓団に参加した農民は、4000人の仲間を失った。
生き残るために家族と離れ、満州に残された残留孤児らは300人を超える。

終戦8年後に帰国した岐阜県の開拓団員の家族

 郡上郡から満州に渡った開拓団員も、約1400人が帰国を果たせなかった。高鷲町には、開拓団などの歴史を紹介する「たかす開拓記念館」がある。郡上には今も、満州という名前を聞くだけで恐怖がよみがえる人がいるのだ。
 リサイクルショップ「ももたろう」の和田代表は、満州の記念品ともいえる旅行鞄に特別な思いを抱いている。ほとんどの人の目には「ただの骨とう品」としか映らない鞄だが、どうしても満州開拓の悲劇を思い出してしまうからだ。
 「鞄の持ち主が満州の空を飛んでいた時、郡上の人々は同じ土地ではいつくばるようにして苦労していた」
 そんな背景を知るからこそ、和田さんは鞄を歴史的資料として生かしたいと考えている。
 「どこか展示してくれる施設はないだろうか。この旅行鞄が満州と満州開拓団の歴史を伝える資料となればうれしい」
 日用雑貨や電化品、家具などが所せましと並ぶリサイクルショップ。数千点の商品に囲まれ、鞄は大切に保管されている。
 

リサイクルショップ「もも太郎」の店内


 


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