【ファンタジー小説】 空色の実・六月の翼たち
あらすじ
遊びに来ていた田舎の町で、逃げた猫を追いかけてリンゴ畑に入り込んだ翔太の前に、突如古い洋館が現れた。
絶対に行くなと言われた、ドバトを飼うおばあさんの住むハト屋敷だ。
怯える翔太を家に招き入れ、おばあさんは、不思議な話をする。
夏至の日に現れる空色の実。その実を食べれば好きな動物になれるという。
それは、弟とふたりハトになり空を飛んだおばあさんの、後悔と悲しみだけが残る、辛く痛ましい話だった。
誰もが相手にせず、翔太だけが信じたおばあさんの話は、やがて翔太を巻き込んで、未来への輝く扉を開け放つ。
心臓手術を控えた11歳の男の子の、夏至の日を巡るファンタジー。
ハト屋敷
「翔太。外に出るんなら、西の丘には行くんじゃないぞ」
俊彦は、リビングのドアに手をかけた翔太に言った。俊彦は翔太の伯父で、町で評判の開業医だ。翔太は足を止めて振り返る。翔太の母、知子も、驚いた様子で俊彦に目を向けた。
「いや、ばあさんが一人で住んでるんだけどね、なんていうか、ちょっと気がおかしいんだ」
知子は一気に顔を曇らせて、紅茶の入ったカップをソーサーにカチャリと戻した。
「ここに来る途中、気がつかなかった? 丘の上に洋館が建っていただろう。国道から見えるんだよ」
「そうですか。私ったら前ばっかり見てたから」
「気がおかしいって、どうおかしいの?」
背中をゾクゾクさせながら、翔太はソファーに戻った。
突然、隣で丸くなっていた猫のマリーが、クイッと顔を上げて庭を見つめた。チチッと小鳥のような鳴き声を立て、すべるように床に降りると、身を低くしながら、密やかに掃き出しの窓に忍び寄る。
「なにかいんのか? マリー」
翔太が窓ガラスに顔を近づけた瞬間、目の前のサルスベリの枝がグランと揺れて、灰色の鳥が翼を広げて飛んでいった。
「うわ! びっくりしたー! なに? 今の」
「ハトだよ。丘の上のばあさんが飼ってる。ああ翔太、窓を開けてやってくれるか? マリー、外に出たいみたいだ」
掃き出しの窓を開けてやると、マリーはスルリと抜けて、緑のしたたる広い庭に消えていった。
俊彦は大きくため息をついて、肘掛けいすに細長い体を預けた。
「まったく困ったものなんだ。そこらじゅうのドバトにエサをやるんだからな。まあ、もうずっと昔からなんだけど」
「おとうさんの子どもの頃からって聞いてるわよ」
対面キッチンから妻の綾子が顔を出した。
「なんだか気の毒な生い立ちの人らしいのよ。絵描きだったそうだから、ちょっと変わってるのかもね。とにかくおかげで増えて増えて、立派な洋館だったのに、今はもう、まるでハト屋敷なんだって。私はもう何年も近くにいってないけど、まわりはフンとか羽根とかで、ものすごいらしいわよ」
「うわぁ、気味が悪い」
知子はブルっと身震いをして顔をしかめ、翔太をジロリと睨んだ。
「行かないって!」
綾子がキッチンから出てきて、皿に並べた色とりどりのマカロンをローテーブルに置く。翔太は膨れっ面をしてテーブルに近づくと、手を伸ばし、大好きなラズベリー味のマカロンをつまんで一口で頬張った。甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がる。
「翔太、行儀悪いよ」
「いいのよ、お待たせでごめんね」
綾子は翔太に微笑んだ。翔太はニッと笑い返し、今度はチョコレート味のマカロンをつかんで立ち上がった。知子が背中に声をかける。
「どこに行くの?」
「散歩してくるだけ」
「だめよ、まだこの辺り知らないでしょ。後で一緒に行こうよ」
「去年来たんだから大丈夫だよ。家の周りを歩くだけだから、迷子になんかなんないよ」
「去年はたった1日しかいなかったじゃない」
「あのさ、おれ、もう5年なんだけど」
知子は眉をしかめながら俊彦に目をやった。俊彦は笑って「この辺りだけだぞ」と言った。
廊下を出た翔太の耳に、大人たちの会話が聞こえてくる。
「ともちゃん、あまり神経質にならない方がいいよ。親の心配って、けっこう子どもに伝わるからな」
「はあ、わかってはいるんですけど」
「けど、もっと落ち込んでると思ってたよ。まあ、相変わらず細っこいけど、元気そう…っていうのは違うか、でも安心した。大丈夫。あそこは優秀な外科医がそろっているんだ。万に一つの間違いもないさ」
外に出ると、雨上がりの庭は初夏の日差しを受けて、ピカピカと光の粒を跳ね返している。
玄関の脇に水をたたえた大きなかめが置いてあり、こんもりとした浮き草の間から、赤い金魚が見えた。
「おまえ、えらいな。よくこんな中で生きられるよ。狭くて苦しくないの?」
手のひらに乗ってくれるだろうか。
翔太は水の中にそっと手を入れてみた。金魚はフルフルとリボンのような尾びれを揺らして、水草の中に隠れてしまう。
「なんだよ、バーカ。生意気だぞ。ずっとここから出られないくせに」
翔太は口をとがらせてつぶやくと、まだ少し濡れた色をしている玉砂利の小道を、ぼんやりと眺めた。
道の両側に青紫の色鮮やかなアジサイの大きな花が、葉っぱを押しのけるように咲いている。
植込みの向こうは、クリニックの駐車場になっていた。
翔太の父親の家でもある江藤クリニックは、翔太の曽おじいさんの代からこの町で開業している。
翔太の父は医学の道には進まず、大学を出てからは製薬会社の研究員となって、知子と一人息子の翔太と都会で暮らしている。
伯父の俊彦は大学病院で外科医として働いていたが、ずいぶん前に、二代目の父親を助けるためにこの町に帰ってきたそうだ。
面積のほとんどがリンゴ畑の小さな町にとって、唯一の診療所である江藤クリニックは、昔から、なくてはならない存在であり、親身になって患者に寄り添う俊彦に、町の人は皆厚い信頼を寄せているのだと、翔太は父から聞かされていた。
木曜日の今日はクリニックの休診日で、患者さん用の駐車場は空っぽだ。翔太は広々としたコンクリートの上に、猫のマリーが寝ころんでいるのを見つけた。
玉砂利を踏みしめて進み、門扉を押して道路に出ると、翔太はのったりと体を伸ばしてくつろぐマリーにそっと近づいた。
マリーは白猫で、鼻の頭と両耳の前に、少しだけ茶色の斑点が入っている。太陽の光に毛並みが真っ白く輝いて、まるで発光しているようだ。
「おまえ、かわいいな」
マリーは翔太に撫でられると、気持ち良さそうに喉を鳴らし、黄土色の目を細めた。
「そうだ!」
翔太は去年遊びに来た時に、小さめの自転車が裏庭にあったことを思い出した。今は大学の寮にいる翔太のいとこが子どもの頃乗っていたものらしい。
翔太は急いで裏庭に回り、ガレージの中に自転車を見つけると、物音を立てないよう、慎重に駐車場まで押してきた。
翔太は柔らかいマリーを抱き上げて、自転車の前についている蓋つきのかごに押し込んだ。小柄なマリーは抵抗もせず、おとなしくじっとしている。
「ちょっとだけだから、がまんしろ」
かごの蓋を閉めながら、翔太はそう言って自転車をまたぎ、ペダルをそっと踏み出した。
通りを少し走り、クリーニング屋の角を左に曲がるとじゃり道になった。途端に家が少なくなり、代わりに道の両側には深いりんご畑が広がった。翔太は自転車を止め、息を深く吸い込んだ。
本当にいい天気になった。遠くに連なる山々は緑も濃く、小さな青い実をいっぱいにつけたりんご畑を渡る風は、なんだか夏の香りがする。見上げると、梅雨の晴れ間の真っ青な空に、ハトの群が大きく円を描いて飛んでいた。
翔太はふと、さっきの俊彦の話を思い出した。ハトを飼っている気のおかしいおばあさんの家は、どのあたりだろう。
翔太は周りを見渡した。このあたりが俊彦の家の、西なのか東なのか、翔太にはさっぱり見当がつかない。
ハト屋敷という言葉は、ホラー映画に出てきそうな謎めいた響きがある。どんな建物なのか見てみたい。行くなと言われても、せっかく遊びに来ているのだ。ここにいる間に絶対に探し出してやろうと翔太は心に決めた。
ずっと鳴きどおしのマリーが、そろそろ我慢ができなくなったらしい。カゴの中でゴソゴソと動き始めた。
「ゴメン、ゴメン。もうすぐだからさ!」
まったくの気まぐれで、マリーは翔太のお供をさせられていた。
翔太は、ついさっき、俊彦の家に行くタクシーの中から眺めた小川に行くつもりなのだ。
橋を渡ってすぐに家に着いたので、遠くないはずだ。澄んだ水に底の小石がキラキラ光る浅い川だった。都会から来た翔太には、家の近くにあんなきれいな川が流れていることが信じられなかった。素足で触れる水の感触を想像すると、心が飛び跳ねて踊り出しそうになる。
方向はあっているはずだと、翔太はおもいきり自転車をこいだ。
少し走ると、リンゴ畑の向こうに小高い丘が見えてきた。道はリンゴ畑で行き止まりになっている。
「あれえ…。こっちじゃなかったんだ」
翔太が自転車を止めて、来た道を振り返った途端、かごの中のマリーが激しく暴れ、ハンドルを取られた翔太はバランスを崩して、自転車ごと道に倒れ込んだ。
「痛ってぇ…」
翔太が顔をあげると、衝撃で蓋が開いてしまったかごからマリーが飛び出していくのが見えた。
「待って! 止まれ、マリー!」
翔太は急いで立ち上がり、マリーの消えていった正面のリンゴ畑に入り込んだ。
マリーの白い体は、枝を広げる薄暗いリンゴの木の下でもすぐに見つけられた。けれど、翔太が近づくたびに、マリーはパッと駆け出して、どんどん奥へ逃げていく。低く広がる太いリンゴの枝をくぐりながら、翔太は見失わないよう必死で追いかけた。
地面は次第に上り坂になり、雨上がりの柔らかい草が足に絡みついて、うまく走れない。
とうとうマリーの姿を見失い、息があがった翔太が、もうあきらめようかと思い始めた時、いきなりりんご畑が終り、目の前がパッと開けた。
「あ…」
肩で大きく息をしながら翔太は立ちすくんだ。
野原の向こう、青空に突き出た丘の上に、うっそうとした森を背にして、まるでゲームの世界から出てきたような、レンガ造りの古い洋館が建っていたのだ。
突然バサバサと羽音がして、翔太は思わず首を縮めた。
何十羽ものハトが、翔太の頭上をかすめていく。
ハトの群れは、洋館のオレンジ色の屋根に舞い降りた。屋根の端っこには小窓のついた白い小さな小屋が乗っていて、何羽かのハトはその中に入っていく。館を囲む塀の上にも、ハトが数羽とまっているのが見えた。
「やった…! ハト屋敷だ…」
翔太は口を開けながら大きく何度も息をして、好奇心がプラスされ、よけいにドキドキ波打つ胸を、手のひらで強く押さえた。
「あ、マリー!」
真っ白な塊が野原を横切り、ぐるりと塀に囲まれた建物の、左側に広がる庭の方に歩いていくのが見える。翔太はあわてて駆け寄った。
「マリー! だめ!」
翔太の言うことなど聞くはずもなく、マリーは塀の上にフワリと飛び乗って向こう側に消えた。その瞬間、ものすごい数のハトが、バサバサと翼を羽ばたかせて、庭からこちら側に湧きあがった。
「うわっ!」
翔太は驚いて後ずさりした。
「ヤバイなぁ…。どうしよう」
石積みの塀は、翔太の肩ほどの高さがある。庭の中をのぞこうと、塀の上に手を乗せる寸前で、翔太は驚いて飛び退いた。
「ひぇー! あっぶねー!」
塀の上には、いたるところにハトのフンが重なり合って、まるで化石のように層をなして積もっていたのだ。ㇺッとした湿気と臭いに、翔太は危なくむせそうになった。
翔太はつま先立ちをして、恐る恐る庭の中をのぞいた。
草が伸び放題の広い庭には何本かの大きな木が枝を広げ、チラチラと光を放つ薄明るい木漏れ日の下で、紫やピンクの花が、そこらじゅう好き勝手に咲きまくっている。マリーの姿はなく、ハトたちは草の中を、地面をつつきながらクルクル歩き回っていた。
翔太は塀に沿って歩き、館の正面に立った。
レンガ造りの壁は、重ねられた赤茶色の濃淡が、思いのほか美しい。
鉄の黒い門扉はツタのような植物の絡みつく透かしのデザインで、取っ手のところにはヤモリの彫刻が張りついている。厳つい門柱の上には、2本足で立ったライオンが、丸い門灯を両手で持ち上げていた。
ハトのフンさえなければ、大層立派な門構えらしい。表札らしきものはついてはいたが、薄汚れ、コケにも覆われていて、ほとんど読めない状態だ。
チャイムも見当たらず、翔太はため息をつきながら、数歩下がって改めてハト屋敷を見上げた。
洋館は2階建てで、白い窓枠に囲まれた窓はどれも細長い長方形。
閉められたガラス窓は夏空を映してひっそりとしている。
それでも、陽のあたる側の2階の窓だけは開いていて、薄緑のカーテンが風にふくらみ、たしかに人の住んでいる気配があった。
門のところから、石畳が右にカーブしながら続いていて、こんもりとした庭木の向こうにアーチ型の玄関ポーチが見える。
その上の屋根はベランダになっているらしい。ぐるりと巡るところどころはげた白い手すりに、ハトが数羽とまっている。
2階の屋根の縁にも、1列に並んだハトたちが、静かに翔太を見下ろしていた。たくさんの丸い目に囲まれて、翔太はゾクッと身震いをした。
「マリー? マリー? どこ?」
翔太は小声で呼びながら、門の扉をスニーカーの先でそっと押してみた。すると扉はギギギと鈍い音をたてて開いた。
翔太は息を殺し、首を伸ばして門の内側をのぞいた。
雨上がりの湿気で濡れたような空気の中、玄関ポーチの横にアジサイの花が咲いている。根元には白いドクダミの花が群れていた。
「おおい、マリー?」
翔太がさらに声を低くして呼びかけながら腰をかがめ、門から中にそうっと足を一歩踏み出した時だ。
「人の家に入るときは、あいさつくらいするものじゃない?」
翔太は口から心臓が飛び出しそうなくらい驚いて、棒のように気をつけをした。電池の切れかかったおもちゃのようにクキクキと首を横に回すと、いつ現れたのか、玄関におばあさんが立っていた。
木の枝のような細い体に、くるぶしが隠れるくらい長い、袖なしの藍色のワンピースを着ている。
色が抜けたような白い肌。深いしわが刻まれた小さな顔を、薄茶色の大きな目が占領し、そして何よりも翔太をおびえさせたのは、両肩から胸元にたらした長い銀色の三つ編みだった。
三つ編み姿のおばあさんなど、翔太は今まで見たことがない。先にいくほど細く尾っぽのように長い三つ編み。けれどそれは、しなやかな絹の紐ようにきっちり編み込まれ、余計にそれが妖しく見えた。
おばあさんは背筋をピンと伸ばし、翔太をじっと見つめて言った。
「どうしたの? そう、怖いのね。大丈夫。とって食べたりしやしないから。だって、あなた、まずそうだもの」
まったく笑えない冗談に、翔太はすくみ上った。やせっぽちでよかったと、思わず本気で思いそうになる。
と、どこからかネコの鳴き声が聞こえてきた。翔太は今持っている勇気の全部を使って、声を振り絞った。
「あの…猫が…入っちゃったんです」
おばあさんは突然顔をこわばらせた。
「猫ですって?」
「す、すみません。すぐ連れて帰るので」
「手遅れよ。もう傷つけられてる子がいるかもしれない」
「え? そんな…どうしよう…」
心臓が胸を叩きまくり、吹き出る冷や汗で、額と手のひらがじっとりと汗ばんでくる。
おばあさんはまばたきもせず、まるで人形のようにじっと翔太を見据えていた。
翔太は唾を何度も飲み込んで、口の中がカラカラになった。とうとう喉が引っつきそうになった頃、突如おばあさんが、しわがれ声で笑いだした。
翔太は茫然としわに埋もれたおばあさんの顔を眺めていた。あまりの不気味さにいっそう体が硬くなる。
「あの子のことね」
おばあさんが青いワンピースの裾を揺らして振り返ると、玄関ポーチの向こうにあるベンチの上で、長々と寝そべっているマリーが見えた。
「時々来るのよ。ハトにはなにもしないわ。それより今のあなたの顔、悪くなかったわね」
おばあさんは口の端を上にひきつらせてニヤリとした。
ハト屋敷を見てみたいなどと思った少し前の自分を、翔太は思いきり反省した。
(やっぱり頭がおかしい人なんだ)
マリーを連れて、一刻も早くここから逃げ出さなければ。
翔太は精一杯優しい声で呼びかけた。
「マリー! 帰るよ。おいで」
すると、マリーは翔太の声に顔を上げ、おとなしく近づいてきたと思ったら、あろうことか、少し開いた玄関からトントンと舘の中に入ってしまった。
(マジか…)
翔太はあんぐりと口をあけたまま、上目遣いでおばあさんを見た。おばあさんは薄笑いを浮かべた。
「いいわよ、お入り。それにあなた、膝小僧から血が出てるわよ。薬をつけてあげる」
翔太は驚いて膝を見ると、転んで擦りむいたところに血がにじんでいる。翔太は鼻から息をゆっくり吐いた。
仕方がない。消毒は必要だし。
翔太は覚悟を決めると、抜け落ちたハトの濡れた羽根が重なる石畳に、ス二ーカーをそっと乗せた。
カラフルな石のタイルを敷き詰めた玄関ホールは吹き抜けで、翔太の自宅の部屋がすっぽり入るくらい広い。ハトの気配はまるでなく、2階の天井まで続く白い壁がかえって清潔な感じがして、翔太は意外に思った。
天窓から青空がのぞく薄明るいホールの向こうにはリビングがあるのだろう。ガラスのはめ込まれたドアの向こうは光があふれている。
足元に若草色の大きなマットが敷かれていて、い草で編んだスリッパが用意されていた。
おばあさんはそこでサンダルを脱ぎ、スリッパに履き替えた。翔太も神妙な顔で汚れたスニーカーを脱ぎ、スリッパに足を入れる。畳のような感触が、足の裏にひんやりする。
リビングは板張りの床が伸びる大きな部屋だ。涼しい空気が部屋を満たし、汗だくの翔太はホッと息をついた。窓を閉めてあるのだから、どこかにエアコンがあるのだろう。
入ったすぐ右に、2階に続く立派な手すりのついた階段がある。左側には細い窓がいくつも並び、さっき翔太が塀からのぞいた庭が見える。
ツンとした薬っぽい匂いが鼻をかすめた。窓辺に置かれたガラスの花瓶に、白いドクダミの花が何本かさしてあって、たぶんそれが匂うのだろう。
正面には大きな出窓があり、焦げ茶の窓枠に囲まれた木々の緑が鮮やかだ。その右側にも、L字型に部屋は広がっているらしい。
壁は淡い水色に塗られている。天井から下げられた照明器具はガラスの球をいくつも連ねた大きなもので、落ちてこないかと心配になるほどだ。出窓の前に、木製の長いすと丸テーブル。揺りいすが向かい合わせに置いてあった。
どこもかしこもピカピカに磨かれていて、恐ろしく清潔だ。そのつややかな床の上に、明らかにマリーの足跡らしきものが点々とついている。翔太はぎくりと足を止め、見なかったことにしようと上を向いた。
思った通り、L字に曲がった先にも部屋は大きく広がっていた。
出窓に対した右の壁には暖炉らしきものがあり、大きな絵が何枚も飾られている。ほとんどが鳥や動物の絵で、皆なぜか人間の顔をしていた。なんとも奇妙な絵だが、青を基調とした色使いが美しい。
翔太は、おばあさんが昔は絵描きだったという綾子おばさんの言葉を思い出した。
「まあ、お座りなさい。マリーというのね。猫なら今に出てくるでしょう。とりあえず、傷の手当をしないとね。まあ、本当に久しぶりのお客様だわ」
おばあさんはそう言うと、奥の部屋に消えた。
木製の長いすは、座面がふっくらと盛り上り、モスグリーンの布で覆われている。背もたれには茶色と花柄のクッションが二つ並んで立てかけてある。
翔太は長いすに腰かけると、壁に掛かった絵をじっくりと眺めた。
まったく不思議な絵だ。翔太は、中でも暖炉の真上に掛けられた1番大きな絵が気になった。夜空を飛ぶ人面動物たちの下で、月を見上げている男の子が描かれている。青いその子の幼い顔は、月明かりを浴びて、楽しそうにも悲しそうにも見えるのだ。
少しして、おばあさんがお盆の上に、何かを乗せて現れた。テーブルの上に置かれたものは、グラスに入った飲み物と小さな箱。それとラベルの無い怪しげなスプレーだ。
「ああ、ほんのかすり傷ね」
おばあさんは小箱から脱脂綿のようなものを取り出した。そしてスプレーを手に取ると、翔太の前にひざまずいた。
「あの、な、なんですか、それ」
「魔法の水。蜘蛛の巣に溜まる水滴を集めているの」
「え?」
おもわず足をびくつかせた翔太に、おばあさんはククッと笑いながら「ただの水道の水よ」と言った。
(うわ、もうだめだー! マリー、早く出てきてよー!)
翔太は心の中で叫びまくる。おばあさんはスプレーで翔太の傷口を洗うと、消毒薬を吹きかけて上からティッシュでそっと押さえた。
「ありがとうございます」
がんばって冷静な声を出して礼を言い、翔太はテーブルに置かれたグラスに目をやった。分厚いグラスの中には、白い泡を浮かべた怪しげな茶色い液体が入っている。口をつけないでおこうと思った。
後片づけを済ませ、おばあさんは、立派な木製の揺りいすにゆっくりと腰を下ろした。
翔太と向かい合うと、おばあさんは目を細め、翔太のほうにグッと身を乗り出した。そして血の気のない顔で固く下を向く翔太の、きちんとひざに置かれた細い手をじっと見つめて言ったのだ。
「あなた、どうやらまだみたいね」
「え! なにが…ですか」
翔太の声が裏返える。
「指にしるしがないもの」
「し、しるし?」
翔太は思わず手のひらを目の前で開いて見た。別に変ったところはない。
ますます不気味に思い、翔太は長いすとおしりの間に両手をグッと差し込んだ。
その様子におばあさんは細い眉の端をつり上げて、それから出窓の向こうに視線を移した。
「ああ、もうすっかり夏ねえ」
それは思いがけず柔らかな声で、翔太もつられて出窓の向こうの庭に目をやった。
大きな枝が青空をさえぎってはいるが、代わりに、重なり合う緑の葉っぱが屋根を作り、太陽の光が透けて、庭全体が緑色に染まって見える。
「あなた、この町の子?」
おばあさんは、節のある白い小枝のような指を胸の前で組んで、翔太をじっと見つめる。「いえ、あ、あの、おじさんの家にいるんです。ちょっとの間だけ…」
「おじさん?」
「江藤クリニックです」
「ああ、あのやぶ医者一家の身内かい」
おばあさんは顔をしかめ、フンと鼻を鳴らした。それから少しとげのある声になった。
「学校は? それとも、もう夏休みに入ったの? いえ、まだのはずね。まだ夏至の日だって過ぎてないんだもの」
「いえ、あの、ちょっと…」
「ふーん。ずるやすみってわけね? いいご身分だわ」
おばあさんは意地悪そうに口元をゆがませる。翔太はムッとした。
「手術するから。その前に少しだけ、ここにいるだけです」
「手術? あなた何か病気なの?」
「心臓が生まれつき悪いんです。穴が開いてて…。治るはずだったんだけど。でも、手術したって治るかなんてわからないんだ…」
言うつもりなどなかったことを口にしてしまった翔太は、何日後かに待っている自分の運命にまで思いを馳せてしまい、突然心許ない気分になった。
おばあさんは揺りいすの背もたれに体を預け、首を傾けてまた外を眺めた。
「私にはあなたの病気のことはよくわからないけれど。そうね、人生には歩いていれば越えなきゃならない山はいくつもやってくる。だけど、私は信じているの。きっとすべてのことに、本当はちゃんとしたわけがあるものだって」
おばあさんは翔太にフッと顔を向けた。
「そうね、たとえば、どうしてあなたがここにいるかってことも。たぶん、私にもあなたにも、今はなにもわからなくてもね」
その言葉は揺れる翔太の心に深く刺さり、鳩尾のあたりがグッと固くなった。
(すべてのことに本当のわけがある…? おれがここにいることも?)
手術を控えた翔太が俊彦の家に泊まりに来ることになったのは、翔太の言い出したことだった。
手術は簡単なもので、心配ないと言われたが、たぶんそれはウソだ。自分を安心させるため、大人たちはいつも気遣ってくれるが、子どもには本当のことは隠すものだと、翔太はとっくに気づいていた。
一年前、病院の図書室で友達になった同じ年の男の子がいた。その子も心臓が悪いらしかった。名前は大輔。翔太はダイちゃんと呼ぶことにしたが、それは、ダイちゃんが色が白くふっくらとして、まるでダイフクのようだと思ったからだ。
ダイちゃんはゲームをたくさん持っていて、ふたりでたくさんの敵を倒して遊んだ。ダイちゃんは頭が切れて、作戦を練るのがうまかった。最強のソードをゲットした時は、ダイちゃんの顔は緩やかにつぶれ、ほっぺからあんこが飛び出しそうな顔で笑った。
毎日午後の3時半に図書室に集合。夕食の時間が過ぎて、看護師さんに叱られるまでの間。それは翔太には、無限に続いてほしいほど、心躍る楽しい時間だった。幼いころから入退院を繰り返し、学校には特に親しい子はいなかった。ダイちゃんは翔太にとって、初めてできた気の合う友達だったのだ。
少しして、ダイちゃんは手術をすることになったと教えてくれた。「簡単なもんらしいよ」と豆ダイフクを頬張りながら言っていた。
手術予定日は、夕方にふたりが大好きなアニメの最終回がある日だった。前日に病室に行くと、ダイちゃんは点滴をしていた。
「先に観とけよ」とダイちゃんが偉そうに言い、「よっしゃ! 教えてやるから楽しみにしてろ!」と翔太は景気よく答えてやった。
それが最期だった。
翔太がアニメを観ている時にダイちゃんはこの世界から永遠に消えた。
次の朝、きれいに整えられたダイちゃんのベッドを目にした翔太が、屋上に上がる階段の隅で、肩を震わせ涙を何度もぬぐったことを、大人たちは誰も知らない。
たとえ今度の手術が成功したとしても、結局また悪くなり、これから先もずっと入院することになるのだろうと、翔太は半分あきらめていた。たぶん自分のいる場所はもう家じゃなく、この先もほとんど病院なのだ。
だから、本当にそんな未来しかないのなら、せめて少しの間でも、いつもと違う場所で、好きなことだけをして過ごしたかった。俊彦が医者だということもあってなのか、父も母もあっさり賛成したのには翔太も驚いた。
翔太は目の前に置かれた茶色の飲み物をじっと見つめ、小さくため息をついた。
(くっだらね。おれがこんなところにいる理由は、そもそもおれがこの町に来たからで、結局おれが病気だからってことなんだ)
どこかでガタリと小さな物音がした。
おばあさんは揺り椅子から身を起こし、立ち上がって、リビングの入り口の方に歩いていった。手前にある階段を上っていく音がする。少しして降りてきた時には、胸に灰色のハトを抱いていた。
「2階の窓から入ってくるのよ」
おばあさんはハトの頭にキスをすると、細長い窓枠を押して、開いた窓から庭に放した。
翔太は唖然としておばあさんを見ていた。ドバトに口を当てたのだ。
〈翔太、外にいる動物や虫に触っちゃダメよ。バイキンがいっぱいなんだから〉とメガネ越しに心配そうな目を向ける母の声が、脳みその中を駆け回る。
おばあさんはそれからまた揺りいすに戻り、引きつった顔の翔太と向き合った。
「でもまあ、それならあなた、夏至の日までいるのかしら」
おばあさんは顎を上げて大きな目を細め、黙り込む翔太を見下ろすように眺める。
「あなた、このあたりのいいつたえを聞きたくない? 古い古い、いいつたえよ。もう誰も知らないかもしれないわ」
「いいつたえ?」
フッと体の力が抜けて、翔太は顔を上げた。
おばあさんはしわがれ声を一段低くて言った。
「知っているでしょう? 夏至の日は1年で1番昼間の長い日。その日はこの町のどこかで、とっても素敵なことが起こる。夏至の日の朝早く、少しばかり気をつけてあたりを見回してみてごらん。ふだんのぞかない、たとえば空き地のススキの株の中とか、裏庭の物置の後ろとかをね。運がいいなら、あなたはそこでいいものを見つける。それは小さな草だけれど、まるでほら、今日の空のように真っ青な実が成っているの。まるで宝石のように輝いて、それは美しい実。この世のものとは思えないくらい」
おばあさんは薄っすらと笑みを浮かべた。
翔太はゲームもアニメもファンタジーものが大好きだ。おばあさんの話ぶりには、なにやら秘密めいた匂いがする。もうすぐにでもこの屋敷から逃げ出したいくらいなのだが、落ち着いて考えてみれば、相手はかなりのおばあさんだ。話を聞いてやるくらいなら、特に危険はないだろう。
翔太は大きく息を吸って、長いすの上に深く座り直した。ハトに平気でキスするような気のおかしなおばあさんだ。きっと鳥肌が立つくらい不気味な話に違いない。
おばあさんはそんな翔太の様子を眺め、満足そうに話を続けた。
「見つけたら、その実を食べるといいわ。そうしたら、あなたは1日だけ、好きな動物になれるのよ」
「好きな動物に…」
翔太は壁にかかった絵に目をやった。人面動物たちが翔太をじっと見下ろして、クスリと笑ったような気がした。
翔太は肩をゾクッと持ち上げて、おばあさんに訊いた。
「おばあさんは、食べたことがあるんですか?」
「もちろんよ。わたしは鳥になった。それは気持ちのいいものだったわ。空を飛ぶのはね」
スッと背筋を伸ばし、あまりに堂々とそう言ったので、翔太はあっけにとられ、おばあさんの言葉がなんだか当たり前の話のような気がするほどだった。
「みんな私を変人あつかいするけれど、あの人たちの中にだって、実を食べて動物になった人はいるはずよ。とにかくあいつだけは絶対にそうだわ、あのじいさん。それなのにいくら言ったって、聞いてくれやしなかった」
「あのじいさんって?」
おばあさんはチラリと翔太に目をやった。「まあいいわ。とにかくみんなすっかり忘れてしまうのよ。人間に戻るときにね」
忌々しそうにそう言ったおばあさんの一言で、翔太の熱は一挙に下がった。
「…それじゃあ、おばあさんはなんで覚えてるんですか? やっぱり実を食べたのに」
もちろんただのお話だ。わかってはいても、けっこうなほころびを見つけてしまい、翔太は心底がっかりした。
ところが、おばあさんは突然ハッと目を見開いて翔太から視線を外し、それから戸惑った様子で宙を見つめた。茶色の瞳がウロウロと漂うように、大きな目の中で揺れている。
おばあさんはつぶやくように言った。
「そうね、忘れてしまっていたらよかったのに。そうだったらどんなによかったか…。だけど私は覚えていた…」
深く息を吐き、ひとつ瞬きをして、おばあさんは翔太を見つめた。
「あなたはいくつ?」
「じゅ、11才です」
「まあ、11! そう、やっぱりそのくらいだと思ったわ」
おばあさんは目を細めて翔太に笑いかけた。
そうしてまた深く揺りいすにもたれかかり、細い腕を組んで翔太をじっと見据えた。
「ええ。私は忘れなかった。後悔と悲しみが、あの日に私を縛りつけてしまったのかもしれないわ。そう、ちょうどあなたの年だったの。私が弟とあの実を食べたのは…」
空色の実
おばあさんは名前をツグミといった。ツグミには3才下の弟がいて、名前はタケル。ふたりの父は大学の講師で、教授の下で助手として西洋の文学を研究していた。
ツグミがタケルとふたり、父の膝の上でこのあたりの不思議ないいつたえを聞いたのは、この洋館に越してきてすぐのことだった。
夏至の日に突然現れる空色の実。その実を食べると動物になれる。
本当だろうか!
ツグミはすぐに夢中になった。
「だけどこれだけは忘れちゃいけないよ。その実は夕暮れには夕焼け色に染まってしまう。それから夜になると闇のように真っ黒になり、真夜中には腐って落ちてしまうんだ。いいかい? 赤くなる前にもう一度、その実を食べなくてはならないんだ。そうしないとおまえたちは人間には戻れない。次の年、またその実を食べるまではね。だけどまた見つけられるとは限らないんだ。どこで見つけられるか、それはまったく運次第だからね」
それは命懸けの約束のようで、ツグミは背中をゾクゾクさせた。
冒険に危険が伴うのは当たり前だ。好きな動物になれるなんて、こんなに素敵なことはない。ツグミは心を躍らせた。
夏が近づいて、父に夏至の日を教えてもらうと、ツグミはおもわず飛び上がった。運のいいことに、その日はちょうど日曜日だった。朝から丸ごと時間があるというわけだ。
ツグミは夏至の日を指折り数えて待った。動物になった時の気持ちを想像して、夜は眠れないほどだった。そして明日はとうとう待ちに待った夏至の日だというその晩のこと、明かりを消した薄暗い子供部屋で、タケルが隣の布団の中から声をかけた。
「おねえちゃん、何になるか、もう決めた?」「もちろんよ」
ツグミはつとめて落ち着いたふうに答えた。けれど目はしっかりと天井をにらみ、高鳴る思いでキラキラ輝いているのだ。
「なに? なにになるの?」
タケルは体を起こして、ツグミの布団にズリズリと近づいてくる。ツグミもとうとうがまんできずに起き上がった。
「私ね、ハトになるのよ!」
「ハト?」
「ハトになって空を飛ぶの!」
「うわあ、いいなあ。ぼくも! ぼくもハトにする!」
「だめよ。あんたは別のになりなさい」
ツグミはぴしゃりと言った。せっかく自由に空を飛べるのに、弟なんて足手まといになるだけで、予定の半分も楽しめないに決まっている。
「やだあ、ぼくも空を飛びたいよ。ぼくもハトになる! おねえちゃんと一緒がいい!」
タケルはもう目に涙をためて、ツグミのねまきにしがみついた。
「あーあ。泣虫タケル」
ツグミはため息をついた。タケルはどこに行くのもツグミと一緒でなければだめなのだ。3年前、ふたりの母が亡くなってから、ずっとそうだった。
「おまえたち、性格が逆だったら、ほんとによかったんだがなあ」
父はよくそう言って笑う。
タケルはほとんど毎日学校から泣いて帰ってきた。ついこの間も、学校の畑の、まだ青いトマトを全部採ってしまったといって、ツグミまで職員室に呼ばれ、先生にひどくしかられたのだが、本当はクラスのいじめっ子に脅かされて採りに行かされたのだった。
後でそれを知ったツグミがプンプン怒り始めると「いいの。おねえちゃん。ぼくいいんだよ。お願いだから誰にも言わないで」と言って、また涙ぐむありさまだった。
ツグミは、しがみつくタケルの手をほどいて言った。
「わかったわ。だけど弱音を吐いたらおいていくからね。私、ずーっと飛び続けるんだから」
「うん。わかってるって!」
タケルはすぐに、ニコニコする。
(この顔が憎らしいのよね)とツグミはまたため息をついた。
「もう寝なさい。明日は大いそがしなんだから!」
ツグミはタケルを寝床に押しもどして、布団を掛けてやり「あーあ! 男の子は食べるとお腹をこわします!っていうのだったらよかったのに…」と、わざと聞こえる声でつぶやいた。
夜が明け、ふもとの村からニワトリの声が聞こえてくる。飛び起きたツグミがカーテンを明けると、まぶしい光がツーンと目玉を突き抜けた。夏至の日の朝は最高の天気だった。
丘の上のツグミの家は、西側が崖になっていて、2階のふたりの部屋からは、窓いっぱいに青空が見渡せる。
眼下にはりんご畑がどこまでも広がって、春、花が咲くと、まるでレースのカーテンをふんわりかぶせたように、白くかすんで見えるのだった。
「タケル、起きなさい! ぐずぐずしない!」
タケルの布団をおもいっきりはがし、ツグミは鏡の前に座った。手早く髪をとかし、真ん中から2つに分けると、それぞれを一度耳の上でギュッとにぎり、そこから三つ編みを作る。「うん、いい出来だ!」
鏡の中でツグミはにっこり笑う。
気が強くてやせっぽちで、男の子みたいなツグミだが、三つ編みにだけはこだわりがある。きれいに編めると、その日は絶対に素敵な1日になることを、朝からちゃんと約束されているように思えるのだ。
ツグミはそれからエプロンをかけ、三つ編みを弾ませながら階段を駆け下りる。
踊り場の手すりの角にはなぜかライオンの顔の彫刻がついていて、引っ越してきた最初の日、タケルはそれを見て大泣きした。それからそこを通るたびにおびえた声でツグミを呼ぶので、ツグミはある日、タケルに話をしてやった。
「タケルよく見てごらん。たてがみがないでしょう? これはおかあさんライオンよ。私たちが階段から落ちないか、いつも見ていてくれてるの。私たちのおかあさんが頼んだのよ。このライオンに『お願いします』って」
タケルは涙で濡れた目を丸くした。
「だから、ここを通る時は、必ず頭を撫でてあげよう。『大丈夫だよ』って、おかあさんに伝えてもらうの」
ツグミは「いつもありがとう、ライオンのおかあさん」と言って、ライオンの頭を撫でてみせた。
小さなタケルは「おかあさん?」とツグミを見上げたので、ツグミはライオンの顔の横に頬を寄せ「タケル? きのう、にんじん食べられたね。おかあさん、ライオンのおかあさんに、ちゃんと教えてもらったのよ。えらいね、タケル」とおかあさんの真似をして言った。
タケルは素直に「うん」と返事をして、ライオンの頭に手を伸ばした。
それからはふたりして、そこを通るたび、ライオンの頭を撫でるのが習慣になっている。
おとぎ話に出てくるようなこの洋館が、ツグミは大好きだ。
もとは外国のお金持ちの別荘として建てられた家だった。ところがその人が本国に帰ってしまい、その後は、こんな田舎の村の高台で、しかも畳のない洋館は、長い間買い手もつかないままだった。おかげでツグミの父は、驚くほど安値でこの広い洋館を手に入れることができたのだった。
小鳥の声を聴きながら、ツグミははりきって台所に立った。
母が入院した頃から、夜はお手伝いのおばさんがきて、食事の支度をしてくれた。この家に移ってからも、父は手伝いを頼んでいる。
だが、朝ごはんの仕度はツグミの仕事だ。ご飯さえ炊けば、きのうの夜の残りのお味噌汁をあたためて、のりと卵焼きを焼くだけでも、立派な朝ごはんになる。
最初はおこげだらけのご飯だったり、せっかくの魚が生焼けだったりで、タケルに文句を言われるたび、ほっぺたをひっぱって泣かしていたものだが、今では卵焼きなどは手馴れたものだ。
「こんな西洋風のお屋敷で、ご飯と味噌汁とは、また変わってていいもんだなあ」
父の言葉に3人で大笑いしたこともあった。
朝ごはんを終え、ツグミは鼻歌を歌いながら、塩ジャケを弁当箱に詰めると、小さな風呂敷でしっかりとくるんだ。
「ハイ、おとうさん。お弁当」
「ああ。ありがとう、ツグミ。日曜日なのに悪いな」
父は弁当の包みを受け取って、いつものように、大きな手のひらをツグミの頭に乗せる。あたたかいぬくもりに頭の芯がジンとする。
「ねえ、おとうさん、お願いがあるの。この包みを3時になったら開けてほしいの」
ツグミは、千代紙に包んだ小さな包みを父に渡した。
「何が入ってるんだい?」
「うーん、おやつみたいなもの」
「え? おやつ? いいなあ、おとうさん」
タケルがご飯の茶碗を持ったまま飛んできた。そして、靴べらを使う父の顔をのぞきこみ、うれしそうに話しかけた。
「ねえ、おとうさん、今日さ、ぼくたち…」
「タケル、まだ食べ終わってないの? だいたいお行儀悪い! ちゃんと座って食べなさい」
ツグミにきつくにらまれて、タケルはすごすごとテーブルに戻っていった。ツグミはホッと胸をなでおろした。
「おとうさん、3時よ。それまでは開けないでね」
「はっはっは、なんだかおもしろそうだな」
父は楽しそうに包みをカバンのポケットにしまい、まぶしい朝の日差しの中、自転車で丘を下っていった。
「ばかね、おとうさんは今日が夏至の日だなんてすっかり忘れているのよ。動物になるなんて知ったら心配するでしょう」
父の姿が見えなくなると、ツグミは振り返ってもう一度タケルをにらんだ。
それから急いで食事の後片付けをすませて、ふたりは庭に飛び出した。
真っ青な空。6月の風はぬるく、緩やかにツグミの三つ編みをそよがせる。後ろの森からウグイスの澄んだ歌声が響いてくる。
今日は素晴らしい1日になる!
目の前の何もかもが、ツグミには輝いて見えた。
ツグミは「よし!」と気合を入れて、タケルに花だんの端から端まで探すように命令すると、自分は朝日の降り注ぐ野原に駈けて行った。
不思議なその実はいったいどこに生えているのだろう。ツグミはいいつたえをすっかり信じ、勢い込んで草の中に分け入った。
けれど太陽がだんだんと高くなり、草の間をはいまわるツグミの首をじりじりと焦がすくらいになっても、空色の実は見つからない。前髪が汗で額に張りついてくる。
胸元に垂れる長い三つ編みがじゃまになり、何度も背中にひっかけながら、ツグミは焦り始めていた。
せめて昼前には見つけないと、せっかくハトになれたとしても、このあたりを飛ぶことぐらいしかできなくなってしまう。ツグミにはとっておきの計画があったのだ。
「そういえば、タケルはどうしてるだろう」
ふと任せっぱなしの庭の様子が気になって、ツグミが家に戻ってみると、タケルは花壇にしゃがみこみ、水を入れたバケツにアリを浮かべて遊んでいた。
「こら! 何してるのよ! ちゃんと探しなさいって言ったでしょ!」
ツグミはおもわずバケツを手ではじきとばした。ひっくり返ったバケツから、水と一緒に飛ばされた生き残ったアリたちが、花壇の中を四方八方に散っていく。
タケルは驚いて泣き出した。
「探したよお…。探したけどそんな草どこにもなかったよお…」
「探したなんてうそばっかり! あきて遊んでいたくせに!」
タケルの泣き声はますます大きくなった。「泣くな! 泣きたいのはこっちよ!」
ツグミはグッと唇を噛んだ。
何になるかは決まっている。何をするかが問題だった。そうして何ヶ月も前から頭を悩ませて、やっと決まった今日の最高の1日が、にじんだ涙と一緒に溶け出してしまいそうだった。
しばらくこぶしを握りしめ、突っ立っていたツグミだったが、やがて力なくタケルの横に座り込んだ。
ツグミは涙と鼻水でグシャグシャのタケルの頭を撫でてやった。
「ごめんね。もういいよ。どうせただのいいつたえだもの」
ツグミは大きくため息をつき、アジサイの根元に転がったバケツの取っ手に手を伸ばした。 その時だ。
「痛!」
ツグミはおもわず手を引っ込めた。指先から血がにじんでいる。
(いやだ、なんだろう?)
ツグミはバケツのまわりを見回した。
取っ手のむこうに、雑草に混じって、かわいい星型の葉っぱをつけた草が一株生えている。タンポポのように葉っぱを外側に開き、真ん中からしっかりした茎が2本伸びている。そしてその先にはそれぞれに、栗よりはずいぶんと小さいけれど、きれいな緑色のイガがついていて、いかにも重そうに頭を下に向けているのだ。
「ははーん。これに触ったんだ。でもこんな草、始めて見るな」
ツグミはもっとよく見ようと、アジサイの根元に頭を突っ込んだ。そうして、片手でイガの曲がった首元をそっとつかみ、注意深く上に向けた。
中をのぞいたツグミは、息が止まるほど驚いた。
イガは真ん中が大きく十字に割れていて、その中に、もう今にも弾けて飛び出しそうなつややかな実がのぞいている。そして、葉陰の中にありながら、輝いて見えるその実はまさに、真っ青な空の色だったのだ。
「タケル、来てごらん! これよ! やったあ。見つけたわ!」
ツグミは鳥肌を立てて叫んだ。あまりにうれしくて体が震えてしまうほどだ。
涙を拭いていたタケルは、急いで四つん這いでやってきた。
「うわあ。ほんとだ!」
「きれいねえ。宝石みたいに輝いてる。ほんとにあったんだ」
「すごいね、おねえちゃん。すごいね」
ふたりはしばらく地面の上に腹ばいになって、青空からこぼれ落ちたしずくのような不思議な実を眺めていた。
「ねえ、おねえちゃん、早く食べよう!」
「そうだった。夕方までしか時間がないんだ。待って、取ってあげる」
あまりに美しい実なので、もいでしまうのはなんだか気がひけたが、ツグミは心を鬼にして、茎の真ん中のあたりからブチリとひとつもぎとった。
ハッカのような新鮮な香りが鼻をつく。
タケルは起き上がり、地面の上に正座をした。胸の前で両手をギュッと握りしめながら、真剣にツグミの手先を見つめている。
イガは鋭くて、刺した指先が痛かったが、ツグミは少しも気にしなかった。夢への切符を手にしたのだ。大胆に親指を割れ目にもぐりこませ、左右にゆっくり裂くと、イガは思ったより簡単にポクリと割れた。
手のひらにのせた実は、ちょうど小指の先ほどで、イガの大きさからすると思いのほか小さい。それはまるで、青い空を透明な薄皮でふっくらと包んでいるような、少しでも手荒く扱ったならば、あっという間にはじけて消えてしまいそうなくらい、なんともはかなげなものだった。
ツグミは空色の実を見つめ「うん」とうなずくと、目をきらめかせて待っているタケルの手のひらにそっと置こうとした。次の瞬間、ツグミはハッとして手を引いた。
「だめよ! だって2つしかないもの。2つとも食べちゃったら人間には戻れなくなるじゃない」
タケルは目を丸くして、この世の終わりのような顔をした。
「ええ? いやだよ。ぼくもいっしょにハトになりたい!」
「だって…だめよ。だめだめ!」
ツグミは三つ編みをブルブルさせて首を振った。
「いやだよ、ぼくもお姉ちゃんと一緒に行くんだよお!」
タケルはべそをかいて、ツグミのスカートを引っ張っている。
(どうしよう…)
タケルだって楽しみにしていたことはもちろん知っている。自分だけハトになるのは、さすがにかわいそうな気がした。
まだどこかにあるだろうか。でもなかったら…。
迷いながら時間はどんどん過ぎていく。やがてツグミは、フンと鼻から息を吐いて言った。
「わかった。ふたりで食べよう。また別のを見つければいいんだものね。きっとどこかにまだあるわ。ハトになったほうが探しやすいかもしれないし」
ツグミはひとつめの実をタケルの手のひらにそっと乗せ、もうひとつの実もイガから取り出すと、自分の手のひらに乗せて、タケルの顔を見つめた。
タケルもさすがに緊張した様子で、つばを何度も飲み込もうと、口をムグムグさせている。見ているツグミの喉も、おもわずゴクリと上下した。
「ねえ、どんな味がするのかなあ」
タケルがふいに心配そうな顔をした。
「甘いに決まってるわ」
ツグミはすぐに答えた。
すっぱいとか苦いとか、いまさら心配してもしかたがない。おもいがけず現れた、この未知なる世界への扉を前にして、よけいなことを考えて、少しでも決心が鈍るようなことはしたくないのだ。タケルは安心したようにうなずいた。
(そうよ。甘いに決まってる!)
ふたりは顔を見合わせ、しっかりと手をつないだ。
「いい? いくよ」
ツグミとタケルは、もう片方の手のひらに乗せた実を、口元に近づける。
「せーの、イチ、ニノ、サン! ハトになる!」
声を合わせてそう言って、ふたりは空色の実を口に放りこんだ。
それは始めて味わう感覚だった。
柔らかい皮がプチッと弾けると、思ったとおり、甘い汁が口いっぱいに広がった。
不思議なことに、口の中には皮もタネも残らない。まるで綿菓子のようにほんの一瞬でフワッと消えてしまい、ただ舌の上に甘い味だけがあるのだ。ところがその甘さときたら半端がないほどで、しかもどんどん強くなる。そのうちにこめかみがジンジン震えだし、頭の中が砂糖のように真っ白になった。
ツグミはいつのまにか気を失って、草の上に倒れ込んだ。
どれくらい時間がたったのだろう。ツグミが目を開けた時,最初に見えたのは青い空だった。
(ここは…どこ?)
ぼーっとうつろな視界の中に、突然大きな鳥が顔をのぞかせたので、ツグミは一気に正気に戻った。
「わ! なに!」
ツグミは飛び起きた。
「大丈夫? ぼくだよ。おねえちゃん!」「タ、タケル?」
すると、その鳥は灰色のくちばしを小さくつぐんで、コクリとうなずくのだ。その拍子に首のまわりに美しい虹の輪が揺れた。
「ハト…?」
ツグミはあたりを見回した。
きれいな色の敷物が地面に広げられていて、ツグミはその上にいた。
その向こうには、まるで図鑑で見た太古の景色のように、背丈の何倍もある長い葉をつけた植物が、明るい緑の森を作っている。
振り向けば、ツグミが乗れるくらい大きな葉の上に、両手でも抱えきれないほどの、青紫の花の塊をいくつもつけた大木が、太陽の光に輝いている。
そしてその後ろには、お城のように高い洋館が青空にそびえたっていたのだ。
クラクラと目が回り、今にも倒れそうなくらいだった。まるで自分が小人になってしまったかのようで、ツグミはハッと気がついた。
「もしかして、私…」
ツグミは恐る恐る自分の体を見回した。
胸が薄い灰色の羽毛に包まれて、ふっくらと盛り上がっている。肩からは腕の代わりに立派な翼がついていて、背中にちゃんとたたまれているようだ。
おもいきって腕を動かしてみる。すると、美しい羽根の重なりが扇のように大きく開き、風がブワリと起こった。煽られた青草の臭いが鼻をつく。
ツグミは声を震わせて、もう一度目の前のハトに尋ねてみた。
「信じられない…。ほんとにあんた、タケルなの?」
「そうだよ! おねえちゃん、ぼくたちハトになったんだ!」
タケルは目を輝かせ、重そうな翼をバッサバッサと動かしながら、桃色の足でツグミのまわりをトコトコ歩き回る。ツグミはその様子を見ているうちに、体の奥からフツフツと粟粒のように感動がこみ上げてきた。
「そうなのね…。私たち、ハトになれたんだ! ほんとに! ほんとに!」
「やったあ! やったあ!」
「タケル、よく顔をみせてごらん! あっはっは! 似てる、似てる! タケル似のハトだ! 頭の上の羽根なんかボサボサでそっくりよ!」「おねえちゃんだって! 三つ編みはないけど、目がおっきくてまんまるで。わあい! おねえちゃん似のハトだ!」
ツグミとタケルは、大喜びでピョンピョン飛び跳ねた。
「ねえタケル、この敷物、もしかしてあんたのシャツじゃない? あ! これ、私のスカートだ!」
「あ! これぼくのパンツ!」
「じゃあ私たち、今、はだかってことじゃない!」
「わあい、はだかだ。はだかだ!」
ふたりは大騒ぎをしながら、まるで巨人が着るような洋服を突っついては、ズボンの中にもぐったり、パンツをくちばしで投げ上げたりした。タケルは運動靴に手足がついたような大アリをからかって追いかけ回し、歩くたび、首を前と後に忙しく動かすその格好がおかしくて、ツグミは翼を広げて笑い転げた。
しばらくしてツグミはハッと気がついた。「待って! せっかくハトになったっていうのに、こんなところにいてはダメよ。タケル、空を飛ばなくっちゃ!!」
ようやく本来の目的を思い出したツグミは、タケルを連れて、トコトコと庭の端まで歩いて行った。
ふたりの家は丘の上にある。西側は崖になっていて、村が一目で見渡せるほどの高さがある。初めて空に飛び立つのには絶好の場所なのだ。
高い草をかき分けて、ようやく崖っぷちに顔を出した2羽のハトは、真っ白な入道雲の湧き上がる夏空と緑の大地の境目を見つめて胸を躍らせた。
風がふたりの柔らかい羽毛をサワサワとかき分けていく
「行くよ! タケル!」
「うん!」
「イチ、ニノ、サン!」
翼をおもいきり開き、細い2本の足で地面を強く蹴って、ツグミは空中に飛び出した。
力まかせに羽ばたいた小さな体はそのまま真下に落ちるかに見えた。ところがツグミの翼は下から吹き上がる風をつかみ、力強くブワリと青空に舞い上がったのだ。
「うわあ、飛べた! 飛べたよ、タケル!」
と、そばにタケルがいない。ツグミは驚いて空の真ん中でタケルを探した。
「あの子まさか落ちちゃったの!」
ツグミは慌てて旋回して、小さく羽ばたきながら丘の上を飛んだ。すると崖の端っこで、草の中からひょっこり首を伸ばしている小さなハトの頭が見えた。ツグミはホッとして、タケルのそばに降り立った。
「おねえちゃん、ぼくやっぱりお庭で遊んでいるよ」
丸い目をしたタケルがとぼけた顔で言った。
(ほら、弱虫タケルがもう始まった)
ツグミはため息をついた。
「バカねえ、それじゃあハトになった意味がないじゃないの。大丈夫。飛び出してしまえばなんとかなる。怖くなんかない!」
「いやだあ、落ちるよ。だってぼくハトだけど、ハトじゃないんだもの」
タケルはもう泣き声だ。面倒臭くなり、タケルを置いてこのままひとりで飛んでいこうかと、ツグミが思い始めたその時だった。少し先のササの葉が揺れて、そのあいだからキラリと光る緑色の目がのぞいた。
(大変!)
ツグミは息を飲み、タケルにそっと耳打ちした。
「猫よ! こっちを見てる!」
「え?」
タケルは振り返ると、灰色の首をひょっこり伸ばし、ササヤブを見て笑った。
「なんだ。モモじゃないか。大丈夫だよ。仲良しだもの」
「しー! タケルのばか! 私たちハトなのよ」
ササの枝がズサリと割れて、間からスルリと三毛猫の大顔が現れた。
モモは体勢を低くして、ササの中にまた紛れ込んだ。身を隠して近づくつもりだ。細長い葉っぱの間から、チラチラとモモの毛皮が見え隠れする。
(いけない!)
ツグミは翼でタケルをたたき、崖っぷちに押し出した。タケルは羽根を広げ、足を踏ん張って抵抗する。
「やだあ、こわいよ、飛べない、飛べない」「飛べる! 飛べる! 飛べ! タケル!」
モモが前足をそろえてバネのように跳ね上がる。ツグミはおもいきりタケルに体当たりした。
「うわあ!」
鋭いつめが尾羽根に届く寸前に、2羽のハトは転がるように崖を飛び出した。そしてブワリと風を受け、見事に空に舞い上がったのだ。「ああ、よかった。本当に危機一髪だわ」
ツグミはホッと胸をなでおろした。
「おねえちゃん、おねえちゃん、怖い、怖い、わあー!」
タケルは必死に前を向き、悲鳴をあげながら翼をバタバタさせている。並んで飛んでいるツグミはあきれて笑った。
「ばかなタケル、下を見てごらん。ほら、上手に飛んでるじゃない」
タケルはハッとして、ゆっくり首を下に曲げた。途端に今度は歓声を上げた。
「うわあ! すごいよ! おねえちゃん!」
ふたりの遥か下には、初夏の日差しを受けてモスグリーンのりんご畑が一面に広がっていた。農家の赤や水色の屋根が、強い陽ざしを跳ね返している。広い庭にはごま粒のような放し飼いのニワトリや、おもちゃのような耕運機が見えた。ところどころに作られた野菜畑は、まるで縞模様のじゅうたんをいくつも繫げているようだ。日曜だというのに村の人が忙しく土を掘り返す様子が見えた。
「高いねえ、あの人たち、なんだかおまけの人形みたい。ほら、タケル、私たちの影が映ってる」
「ほんとだ! かっこいいなあ! 飛行機みたいだ!」
さっきまで泣いていたこともケロリと忘れ、タケルはすっかりごきげんになった。
少し先の丘の中ほどに、こんもりとした深緑の森に埋もれるように稲荷神社の赤い鳥居が見える。その丘の左手には、りんご畑の中を国道がまっすぐ走り、数キロ先の山の裾野に広がる大きな町に続いているのだ。
「タケル、あそこがおとうさんの大学のある町よ」
ツグミは大きく旋回しながら心を震わせた。
「鳥っていつもこんな景色を見ているんだ!」
太陽はまだ真上には上っていない。時間はたっぷりある。
2羽のハトは青空に、できたての羽根をキラキラさせて、元気に翼を動かした。
神社の森
ふたりはしばらく村の上を回り、雄大な景色と風を楽しんだ。飛ぶのにも慣れて、そろそろお腹もすいてきた。ツグミはタケルを連れて、いったん丘の上のわが家に引き返した。
ふたりは開け放した2階の窓のベランダにおりて、並んでひと休みした。向かいにある桜の木にはスズメが群れて、騒がしく鳴き合っている。鳥になってもスズメの言葉は分からないんだなとツグミは思った。考えてみれば、自分たちが話をできるのも不思議だ。
「タケル、なんか言ってごらん?」
「え? なにを?」
ツグミはじっとタケルのくちばしを見つめた。
「なんだよぉ。なにを言うの?」
タケルのくちばしは、クッククックと確かにハトの鳴き声をあげて、開いたり閉じたりしている。それなのに頭の中にはちゃんとタケルの言葉が届くのだ。
ツグミは丸い目を、裂けそうなくらいもっと見開いて「なんて不思議…」とつぶやいた。「タケル、私たちすごい。これってテレパシーの一種かな」
「テレパシー? なにそれ」
「とにかくすごいことなのよ」
九官鳥じゃあるまいし、ハトが人の言葉を話せるわけがないのだ。
クルミの胸は、もう破裂しそうなくらい、驚きと楽しさでパンパンに膨らんだ。
「タケル、そろそろお昼にしましょう」
「うえー!」
タケルはいやそうに細い首をひねる。
「なによ、その態度!」
「またおそうめんなんでしょう? この前もその前もずっとだよ」
タケルの情けない声に、ツグミはおかしくてふき出した。
「あのね、タケル、この翼でどうやっておそうめんをゆでるのよ」
「そうか! それじゃあ、うどんや炒めご飯でもないんだね!」
ツグミはじろりとタケルをにらんだ。
「なんだかすごくうれしそうね。そんなに私のご飯がまずいっていうわけ?」
「違うよ。違うってば!」
「ふーん。わかった。もうあんたになんにも作らない」
ツグミは横を向いて知らんぷりをしてやった。タケルは悲しげな声でつぶやいた。
「じゃあ、ぼくたちなに食べるのかなあ」
ツグミはちらりとタケルの顔を見た。あと1回ツグミがいじわるを言えば、完全に泣き出す用意はありそうだ。こんな特別な日にけんかをしても始まらない。ツグミは深呼吸をして気を取り直すと、明るい声で言った。
「ヤマクワよ」
「ヤマクワ?」
「お稲荷さんの後ろの森にね、たくさん成ってるのを見つけたの。もう枝が真っ黒になるくらい。まだ誰にも言ってない。私だけの秘密の場所よ。まあ、万が一誰かに知られたとしても、とにかく高い木の上だから、どうせとどかないんだけどね。たとえば鳥にならなくっちゃ…ね!」
タケルの目がグンと輝いた。ツグミは得意そうに空を向く。
「さあ、行くよ、タケル! 向かうはお稲荷さんの森!」
「よーし! おもいっきり食べるぞー!」
2羽のハトは上手に風を捕まえて、勢いよく窓辺を飛び立った。
ふたりはあっという間に赤い鳥居の上まで飛んでいった。高い木が枝を広げ、そのすき間をぬっていくのは難しそうに見えたが、枝から枝に飛び移りながら、何とか翼を引っかけることもなく、無事にお社の前に降り立った。
境内には杉の木が立ち並び、重なりあった枝で強い光がさえぎられ、あたりはしんと静まりかえっている。
赤い鳥居のむこうは、石段が下に続いていて、降りていけばツグミたちの学校の脇の道に出る。
何百年も続く入母屋作りの立派なお社は、黒くくすんだ銅板葺の屋根が美しい。
その後ろにはひときわ高い杉の木が、白い縄で幹を巻かれ、どっしりと境内を見据えていた。
お社の正面から、石畳が鳥居まで伸びていて、両脇には、太いしっぽを背中にピンとつけたキツネの像が、石柱の上にそれぞれ前を向いて座っている。
時折風が杉の枝を揺するたび、ほんのわずかな木漏れ日が、ツンとすましたきつねの顔やまわりの地面にこぼれ落ちて、砕けたガラスのようにピカピカきらめいた。
「なんだか静かで怖いね」
さっきの元気はどこへやら、タケルは心細そうに、ぴったりとツグミに寄り添った。
「ほら、こっち。ついておいで」
ツグミはトコトコと神社の裏手に回りこむ。タケルは慌てて後を追った。
ふたりはすっかり森の中に入り込み、時々翼をバタつかせながら、下草に覆われた急な斜面を登っていった。
「このあたりのはずなんだけど。ここからじゃよく見えないな」
「飛んで探せばいいんじゃないの?」
「下からじゃないとわからないのよ。私人間だったんだから」
ツグミはぶっきらぼうに答えた。
タケルの言うとおり、地面を這うようなこんなところからでは、高いヤマクワの木は簡単には見つかりそうにない。お腹もすいたし、なにせ自分についているのはハトの細い足なのだ。とても思うようには歩けない。
「ああ、もうぼく疲れたよ。おねえちゃん、もうぼく、歩くのやだよお」
とうとうタケルは泣き声をあげた。
「あーあ。だから連れてくるの、いやだったんだ。ほんとうに弱虫ね!」
「だって、山を登るなんておねえちゃん言わなかったよ。ぼくたちハトじゃないの?」
痛いところを突かれて、ツグミはカッとした。
「うるさい! これくらいで弱音を吐いて、ほんっとあんたって弱虫ね!」
「弱虫弱虫って言わないで!」
「あー、泣きそう。ほらもう泣く。それを弱虫って言うんでしょ!」
タケルは丸い目に悔し涙をいっぱいためている。ツグミはタケルをおもいきりにらんでやった。けれど、翼を背中に収めることも出来ず、ハアハア辛そうに息をするタケルに、ツグミも少し不安になった。
「しょうがない。少し休もうか」
タケルはコクッとうなずくと、太い木の根っこをわざわざ乗り越えて、トコトコとツグミの隣にやってきた。そうしてぴったりと体をつけて目を閉じる。どんなにけんかをしていても、ツグミのそばにいたいのだ。
ツグミはふと、そんなタケルがかわいそうになった。ツグミには亡くなった母の思い出が沢山ある。けれど小さかったタケルには、母の面影すら、もうほとんど残ってはいないのだろう。
(タケルには、私しかいないんだ)
くっつけ合った羽根のぬくもりが、ツグミの胸を温める。ツグミはタケルの小さな頭にそっと自分の顔をおしつけた。
風がサワサワと、木の葉を鳴らして通り過ぎる。ツグミはフウッと息をつき、薄暗い木々の根元に目をやった。
「あ!」
ツグミがいきなり立ち上がり、タケルはコロリと転がった。
「痛いなあ、おねえちゃん」
「見てごらん、タケル!」
少し先の木の根元。太陽の届かないこんな森の奥に、青々とした草がたくさん茂っている。茶色い枯れ葉でできた土の上に、その鮮やかな緑色は、まるでそこだけ輝いて見えるほどだ。そしてそれは、イガをつけた、あの不思議な草の群れなのだった。
「うわあ、おねえちゃん、すごいね。こんなにいっぱい」
「うん。これなら心配なく遊べるわ。暗くなる前にここに戻ってくればいいんだもの。ああ、よかった!」
安心したせいか、たまらなくお腹がすいてきた。ヤマクワの木は、確かにこのあたりにあるはずなのだ。
「おねえちゃん、来て!」
タケルが叫んだ。ブナの木の後ろに、扇のように枝を広げた高い木がある。見上げると、大きな葉っぱの陰に、真っ黒な実がゴロゴロとついているのが分かった。ツグミは翼を羽ばたかせて喜んだ。
「そう! これよ! ほらね、やっぱりここにあったんだ」
この木1本で、1週間おやつはいらないくらい、枝という枝にたっぷりと実がついている。見たところ一番低い枝でも、家の軒先より高さはありそうで、ツグミの言うとおり、鳥かリスにでもならないかぎり、このごちそうにはありつけない。
「やったあ! 食べようよ、おねえちゃん。おなかペコペコだ」
さっそくふたりは別々の枝に飛び乗ると、小さなくちばしで黒いツブツブの実をついばんだ。甘い汁が口いっぱいに広がって、渇いたのどを潤してくれる。今まで食べたヤマクワの実とは比べ物にならないほど、みずみずしく美味しい。
ツグミは声を弾ませた。
「タケル、いっぱい食べるのよ。今日しか食べられない秘密のごちそうなんだからね!」
見ると、タケルはすでに2本目の枝の実を食べつくし、3本目の実も、もうあとちょっとでたいらげてしまうところだった。
「うわあ、すごい! 負けられない!」
ふたりはくちばしを紫色に染めながら、夢中で食べ続け、やがてお腹が満足するころには、実のほとんどなくなったヤマクワの木は、なんだかやせて情けなく見えるほどだった。
ひと休みすると、ふたりは森の木から木へと飛び移り、追いかけっこをして遊んだ。
タケルが鬼のときだ。
「来て、来て、おねえちゃん!」
離れた枝からタケルが大声で呼んでいる。ツグミはニヤリとした。
「そんな手には乗らないわよ。だまして捕まえるつもりでしょう」
「ちがうよ、鳥の巣があるんだよ」
タケルがむくれた声を出した。
「鳥の巣?」
ツグミは半分疑りながら、タケルのもとに飛んでいった。
タケルの言った通り、それは小枝やワラを集めて作った頑丈そうな巣だった。巣立ちが終わっているのだろうか、中は空っぽだ。
ツグミがくちばしで巣の中を突っつくと、ワラくずの中にキラリと光るものが見える。小さな釘やヘアピン、缶詰のふたのようなものまで現れた。
「これ、きっとカラスの巣だったんだ。それにしても、ずいぶん貯め込んでいたものねえ」「わあ、こんなものまであるよ!」
タケルがうらやましそうにブリキの自動車をつついていると、その下に、キラキラ輝くものがある。
「ああ!」
ツグミが大声をあげたので、驚いたタケルは危なく巣から落ちるところだった。
それは真ん中に真珠がひとつついている、葉っぱの形の小さな銀のブローチだった。
「これ、私のブローチよ! おかあさんの三回忌の時につけてたんだけど、失くしちゃったんだ。帰りのバスではついてたから、きっと家の近くだろうって、ずっと探したの。すっごく悲しかったのよ。こんなところにあったなんて!」
「へえ、よかったね! おねえちゃん!」
「よかったわよ…ほんとに」
ツグミはおもわず涙ぐんだ。
木の葉を揺らし、風がサワサワと枝を渡る。
ツグミは体にグッと力を込めて、目じりに浮かぶ涙の粒を振り落とした。
「これ、おかあさんの形見なんだ」
「かたみい?」
「覚えてないかなあ。おかあさんこのブローチが大好きで、お出かけする時はいつもつけてたのよ」
「ふーん」
タケルは首をかしげてブローチを見ていたが、もちろんなにも覚えてはいないだろうとツグミは思う。
ツグミは羽根やくちばしを使って、ていねいに細かいワラくずをはらってやった。
「おかあさん、ごめんね。ほんとに見つかってよかった」
大切なブローチも戻ってくるなんて、やっぱり今日はなんて特別な日なのだろう。
「タケル、おいで」
ツグミはブローチをくちばしにはさんで持ち上げた。
「どうするの?」
タケルが小さな頭をかしげると、ツグミはブローチをくわえたまま、カラスの巣から飛び立った。タケルも急いで後を追う。
ふたりはお社の屋根まで飛んでいった。
ツグミはブローチをかくしておける場所を探して、銅板葺きの屋根の上をツタツタと歩き回った。そして鬼瓦の後ろにちょうどいいすき間を見つけると、ブローチをすっぽり入れた。
「ここならあとで取りに来た時、すぐわかるでしょう? これからまだ予定がたくさんあるんだもの。帰りに持って帰ればいいわ」
「予定って? 今度は何するの」
「いい? いやだなんて言っても、もうだめよ!」
ツグミはもったいぶってタケルを見る。
「おとうさんの大学に行くの。いきなり行って驚かしちゃうんだ!」
「うわあ、すごい。びっくりするよ。おとうさん」
タケルは目を輝かせた。
「そうでしょう? だから秘密にしてたのよ! それをあんたがしゃべり始めちゃうものだから」
「ごめん。だって知らなかったんだもん」
タケルはひょっこり首を縮めた。
「おとうさん、月に何回かは、日曜でも大学に行くことがあるでしょう? 今日行ってくれるかどうか心配だったんだけど、ばっちり思い通りになった! とにかくこれが一番やってみたかった計画なの! おとうさんには私たちってわかるように、ちょっとおまじないをかけておいたんだ」
「おねえちゃん、魔法をかけたの?」
「まあそんなとこ!」
ツグミはクスリと笑った。
「ねえ、今日、おとうさん、大学に行かなかったらどうしたの?」
「それも考えた! そのときは、おとうさんの目の前で実を食べて、変身するところを写真にとってもらうのよ! 狼男みたいで、きっとすごいわよー!」
「わあー! ぼくそっちもよかったなあ!」
「私も!」
ふたりはお社の屋根の上で大笑いした。
「それにしてもカラスのヤツ、ブローチを横取りするなんて、許せない!」
「ぼくがやっつけてやるよ!」
「うわあ、タケル、強いねえ」
太陽が空の真上を過ぎて、日差しは午後の色に変わっている。2羽のハトは神社を離れ、青空の中を元気に飛び立っていった。
この森が、夕暮れの闇にすっかり様子を変えてしまうことを、このときふたりは知るはずもなかったのだった。
ツグミの涙
姉弟バトは国道に向かって飛んでいった。国道は大学のある町まで続いているので、その上を行けば間違いない。
途中、少学校の上を通りかかった時だ。校舎の横の小さな畑に子どもが見えた。どうやら、いつもタケルをいじめている2人組みのようだ。背の高いとうもろこしの株にかくれ、モゾモゾとだんご虫のように動いている。
「あの子たち、野菜をどろぼうしようとしてる!」
ツグミが叫んだ。
「いいよ、ほっとこうよ。おねえちゃん」
「だめ! あんたにだってひどいことをしたやつらよ。こらしめてやる」
ツグミはぐるりと旋回して、いきなりふたりの頭の上に急降下した。そして片方のいがぐり頭の上に着地すると、力いっぱい蹴ってまた飛び上がった。
「うわあ、痛ってえ! なんだあ」
男の子は両手で頭をおさえて空を見上げた。
「くっそう、なんだよ、ハトのくせに!」
男の子は真っ赤になって怒っている。ツグミは攻撃の手を休めない。その子のまわりをバサバサ飛んで、何度も爪をひっかけてやった。
すると、すぐ近くの木にとまり、ハラハラと様子を見守っていたタケルが、突然もう片方の、あっけにとられて立ちすくんでいる子をめがけて飛んでいった。そして、ツグミがしたのと同じように、頭の上に爪を立てると、おもいきり飛び上がった。その瞬間、男の子は顔をゆがめ、頭をブルブル振って叫んだ。
「うわあ、きたねえ! ハトがクソしたあ!」
空の上でツグミは大笑いした。弱虫のタケルがこんなことをするなんて、信じられないことだ。今日は本当に、なんて素敵な日なのだろう。
2人組みは、泣きべそをかきながら畑から逃げ出していく。
「よくやったぞ、タケル! ちょっと下品だけど」
「ぼくだって、ほんとは強いんだよ、おねえちゃん!」
タケルは得意そうにクルリと宙返りしてみせる。
ふたりは国道の真上をまっすぐに、父のいる大学を目指して羽ばたいていった。
窓から初夏のさわやかな風が入ってくる。ツグミの父はレポートをまとめる手をふと休めた。
父のいる大学の研究室は角部屋で、出窓が南と東に4つあり、明るい光がいつも部屋の中にあふれている。ふだんでも教授や助手仲間が2、3人と、たまに学生が何人かいる、といった様子の静かな部屋だが、今日は休日なので、父の他には同僚の森山が、ソファーでのんびりと本を開いているくらいだった。
ツグミの父は両手を上に挙げてグッと伸びをした。朝からずっとこの部屋にこもりっきりだった。
「お疲れでしょう、少し休んだほうがいいですよ。今お茶を入れます」
森山が本をパタリと閉じて立ち上がった。
「ああ、そうしよう。ありがとう」
ツグミの父は窓の外に目をやった。
大学は山のふもとから扇状地を少し上がったところにあって、おまけに研究室は4階だ。低い建物ばかりのこの町にはさえぎるものはなく、ここからは、はるか遠くに重なり合う山々のふもとまで清々と見渡すことができた。
「いい天気だなあ。まるで梅雨が明けたみたいだ」
夏山から真っ白な入道雲がモクモクと青空に湧き上がっている。
森山がお茶の入った湯飲みを父の机に置いた。
「やあ、ありがとう」
「今日は夏至ですよね」
「ああ、そうだね。晴れてよかったよ」
「なんですか? 何かあるんですか?」
「いやいや、特に意味はない」
ツグミの父は笑ってお茶をすすった。
(ツグミはきっと探しているんだろうなあ。まあ、ぼくが子どもなら、やっぱりじっとしてはいられないだろうからな)
そんなことを考えて、ツグミの父はまたフフッと笑った。
校舎の横にある時計塔の大時計が鳴り出した。
「3時ですね。おかわりどうですか?」
森山が湯飲みを受けとりにきた。
「ああ、そうだ! ちょうどいい」
ツグミの父は、カバンのポケットから小さな千代紙の包みを取り出した。
「娘が今朝渡してよこしたんだ。おやつだって。お茶うけぐらいにはなるかもしれない」
「へえ」
森山も興味深そうに包みをのぞいた。
「おや、これは?」
中から出てきたのは、大豆を丁寧に炒ったものだった。
「はっはっは! いり豆じゃないですか」
「おかしなヤツだなあ、節分でもないのに何でわざわざこんなものを」
ツグミの父は首をかしげる。
「いいじゃないですか! いり豆は健康にいいんです」
「うん…。まあそうだな」
ツグミの父は、いり豆を一粒つまんでポリポリかみくだいた。
「なんだかハトになった気分だなあ」
その時だ。東の窓でバサバサと羽音がした。
「稲垣さん! まさにハトですよ!」
森山が叫んだ。
ふっくらした2羽のハトが窓辺にとまって、部屋の中をのぞいている。
すると1羽が窓枠をくぐり、ぴったりつけてある棚の上をトコトコと歩いてきた。
「おいおい、入ってきちゃだめだ」
森山が慌ててそばに走り寄り、両手であおぐように窓に押しやった。
「めずらしいな。どうしたんだろう。それにしてもまったくいいタイミングだね」
そう言うと、ツグミの父はハトに近づいて、いり豆を5、6粒手のひらに乗せて差し出してみた。
2羽のハトは恐がることもなく、いかにもうれしそうに、クウクウ鳴いてついばんでいる。そして、ツグミの父を見つめては、またクウクウと鳴くのだ。
「妙に人間に慣れていますねえ」
森山は感心したように言った。
「ちょっとだけ大きさが違いますね。つがいかなあ? それとも兄弟ですかね?」
森山の言葉にツグミの父はハッとした。千代紙の中身と今朝のツグミの言葉。
ツグミの父は、自分のそばを離れない2羽のハトを見つめた。
(おまえたち…ツグミ? タケル?)
トントン。
研究室のドアをノックして、手伝いの大学生がドアをあけた。
「稲垣先生、第2研究室に新しい資料が届きました。」
「ああ、やっときたか。待ってたよ。すぐ行く」
ツグミの父は窓辺を離れ、机の上の書類を手早くまとめると、もう一度チラリと窓辺のハトを見た。
(まさかね。そんなことあるわけないか)
ツグミの父は軽く頭を振って、笑いながら研究室を出ていった。
呼びにきた学生が、部屋の中をのぞいて声をあげた。
「あれえ、ハトじゃないですか!」
2羽のハトは窓辺を離れ、空に羽ばたいていった。
「おねえちゃん、やったね! おとうさん、びっくりしてた」
「ほんと! いり豆もちゃんとくれたわ! きっと気がついてくれたのよ! 帰ったら訊いてみようね!」
ふたりは光を跳ね返す時計塔の屋根に降り立った。タケルは暖かい瓦の上をうれしそうに右に左に歩き回わっていたが、ふと足を止めた。
「おねえちゃん、どうせなら、おやつ、キャラメルとかにすればよかったのに」
「あのね、ハトにそんなものあげる人がいると思う? いり豆だから意味があるの。まあ、ちょっとあんたには難しいかもね。とにかく大成功だった!」
「そうだね、大成功だよ! すごいね、おねえちゃん! よく考えたね」
タケルは羽根をバタバタと開いてはしゃぎながら、チョンチョンと飛び跳ねた。
予定通り父に会うことができて、ツグミは大満足だった。
ようやく気持ちが落ち着くと、温かい瓦に真っ白なお腹をつけて座りこみ、ツグミはいい気分でハトになった弟を見つめた。午後の光でなめらかな羽根は鉛色に光り、虹の首輪はいっそう美しく七色に変化する。
(わたしたち、ほんとにハトになったんだ)
ツグミはあらためて不思議な気持ちになって、時計塔から父のいた4階の東の窓を眺めた。父の研究室は本当にそこにあった。切ない思いが湧き上がる。
ツグミはポツリとつぶやいた。
「ほんとはね、私じゃないの。おかあさんよ。おかあさんの計画なんだ」
「え? おかあさん? だって死んじゃったよ?」
タケルは驚いたようにくちばしをぽっかり開けて、ツグミのそばにやってきた。
「病院でね、言ったのよ。ハトになりたいって」
それは3年前、雨上がりの夏の午後のことだった。前の家は病院のすぐ近くだったので、ツグミは学校帰りにランドセルを背負ったまま、ほとんど毎日母に会いに、病室に寄ることができた。母が入院をして1年が経っていた。
「晴れてよかった! おかあさん、今日七夕よ」
「まあ、そうね」
「学校でね、短冊書いたの。お寺の絵がうまく描けるようになりますようにって。夏休みの写生コンクールに出すつもりなんだ。それと、もちろんおかあさんの病気が早く治りますようにって」
ツグミの母はニッコリ笑った。目の上が少しくぼんで見える。ツグミはベッドに腰かけた母に抱きついた。暖かい母の胸だ。
「ねえ、おかあさんは何をお願いするの?」
「そうねえ」
ツグミの母は窓から空を見上げた。そうしてこぼれるような笑顔を浮かべると、ツグミを見つめてこう言った。
「ハトになって、おとうさんの大学に遊びにいきたいわ」
「ハトになるの?」
「空から行って、驚かせるの!」
「わあ! いいなあ」
ツグミの胸がときめいた。
「ツグミ、何か描くものないかしら」
「あるよ。ちょっと待ってて。なにするの? おかあさん」
ツグミはランドセルからノートと鉛筆を取り出した。
ツグミの母はノートを開き、サラサラと建物の絵を描いた。L字に曲がった4階建ての、窓のたくさんある大きな建物だ。
「やっぱり上手だなあ、おかあさんは」
ツグミは母の手元を見つめ、うらやましくてため息をついた。ツグミの母は、病気になる前は中学校の美術の先生だった。
「なんだと思う?」
「うーんとねえ…」
「おとうさんの大学の建物よ」
「わあー!」
ツグミは母の腕に自分の腕をからませて、隣に座った。
「いい? ここが中央玄関ね。それから1階のこのあたりが学生さんに講義する教室でしょう? それからここに学生食堂があって、ほら、ツグミ、4階のこの角が、いつもおとうさんがいる研究室よ」
「うわあ! 行きたい、行きたい!」
「おかあさんも行きたいわ!」
ふたりは頬をよせて、ノートの上を指先でなぞっていく。ツグミも母も、もうすっかりハトの親子になっていた。並んで羽ばたきながら、校舎の窓から窓に飛び移り、いろいろな部屋を訪ねまわって、母の描いた絵の中で、おもいきり楽しい時を過ごしたのだった。
「おかあさん、ほんとに来たかったんだろうね。かわいそうだね」
タケルは神妙にツグミの話を聞いていた。
「うん」
ツグミは、その時の楽しそうな母の横顔を思い出していた。ふっくらしていた顔はずいぶんやせてしまってはいたが、優しい笑顔はそのままだった。抱きつくと、ほんのり薬の匂いがしたが、ツグミはいやではなかった。母の胸の中で目をつぶり、髪をなぜてもらうときは、もうこのまま時間が止まってしまってもいいとさえ思っていた。
「おいでツグミ、髪がボサボサじゃない」
入院して少しした頃、母はそう言って、ベッドの端にツグミを座らせた。そうして引き出しからブラシを取り出して、ツグミの髪をとかし始めた。
「タケルは元気にしてるかしら」
「もうあいつには、まいったわ。どこにでもついてくるんだもの。早くおかあさん帰ってきてよ」
「まあ大変! そうね。早く良くならなきゃね」
笑いながら、母はツグミの髪を2つに分けて、きれいな三つ編みを編んでくれたのだ。
「とってもよく似合う。とっても可愛い」
「ほんとう? でも、私、できないなあ」
「だいじょうぶ。おかあさんが教えてあげる。すぐにうまくなるわ」
「うん! じゃあ私、これから毎日三つ編みにする!」
遠い母の思い出が、とめどなく次から次へと湧き上がってくる。胸が詰まり、涙がこみあげそうで、ツグミは慌てて空を見上げた。
青空から降りてきた柔らかな風が、時計塔のまわりをふんわりとかすめていった。
そういえば、あの七夕の日、おかさんと窓から見た空は、やっぱり今日のような真っ青な色をしていた。
ツグミが急に黙り込んだので、タケルはツグミの顔をのぞきこんだ。それでもツグミがムッとくちばしを閉じているので、タケルは少し不安になった。姉の喜びそうなことを思いつくと、つとめて明るく話しかけた。
「おねえちゃん、ブローチあってよかったね!」
するとツグミはトンと背中を押されるようにつぶやいた。
「そうだ。おかあさん、あの日にブローチくれたんだ」
その途端、とうとうツグミは泣き出した。こぼすまいと、胸の奥でがんばって抑えていた涙が一挙に溢れだし、もう止めることなどできなかった。
ツグミは思い出したのだ。あれは、あの七夕の日の夕方だった。
ツグミの母は、紺色のきれいなビロードで包まれた小さな箱を、帰ろうとしていたツグミの手のひらにそっと乗せた。
「ツグミにあげる」
「わあ、なあに? おかあさん」
ツグミはワクワクしながらそっとふたを開けた。それは葉っぱの形の銀のブローチだった。
胸の奥が火傷をしたようにジュッと痛んだ。
ツグミはブローチを母に押し戻した。
「いらない。おかあさんの大切なものじゃない」
「だから、ツグミにあげるのよ」
「いらない。なんでくれるの? おかあさんがずっとつければいいじゃない」
「でもね…」
「いらない! そんなのいらない!」
そう叫ぶと、ツグミは突然激しく泣き出した。
「なんでくれるの? もうおかあさんつけないの? おかあさん、死んじゃうの?」
母はツグミを抱き寄せた。
「ごめんね、ツグミ、ごめんね。そうじゃないの。ただあなたにあげたいだけよ」
しゃくりあげ、小さな肩を震わせて泣き続けるツグミを、母は温かい胸でしっかりと抱いてくれた。そしてやさしく言ったのだ。
「バカね、ツグミ。おかあさんは死なないわ」
母の魂は、それから1ヶ月も経たないうちに、空に昇っていったのだった。
「おかあさんのうそつき! うそつき!」
ツグミの目から涙がボロボロ流れ落ち、つややかな羽根をこぼれていく。
「おねえちゃん…」
タケルは途方に暮れてツグミを見つめていた。こんなに泣きじゃくるツグミを見たのは初めてだった。
泣虫の自分を叱ったり、はげましてくれるツグミだ。意地悪されることもたくさんあるけれど、最後はいつでも優しいツグミ。なんでもできて、強くて元気なツグミに、こんなにも悲しいことがあったのだ。
おかあさんがいなくても、自分にはツグミがいるから平気だ。けれどツグミは違うのだ。ツグミはおかあさんに会いたいのだと、タケルは今初めて知ったのだった。
「おねえちゃん、ブローチ見つかって、ほんとによかったね」
タケルは心からそう思った。
やがてツグミが泣くのをやめて、いつもの明るい姉に戻るまで、タケルは隣に寄り添って座り、静かに空を見ていたのだった。
緑のイガの秘密
そろそろ太陽も西に傾き始め、日差しが黄味を帯びる頃、2羽のハトは時計塔を飛び立った。遠くの山から下りてくる向かい風に押し戻されそうになりながらも、ふたりは負けずに、来た時の2倍くらいのスピードで、翼を羽ばたかせる。
「気持ちいいね、タケル。疲れるけど、飛んでるって感じがする!」
「うん。ぼくハトになってよかった!」
「ヤマクワも食べられたし、いじめっ子のやつらもやっつけたしね、タケル!」
「うん! おとうさんもびっくりさせたしね!」
国道を走る車と競争しながら、ふたりは西日の輝く空を、まっすぐに稲荷神社を目指して飛んでいった。けれど、なにしろ今日鳥になったばかりのふたりなのだ。遠くの丘の上に洋館のオレンジ色の屋根が見えてきた時は、さすがにもうふたりとも、このまま帰って布団の上に寝ころびたいほど疲れていた。でも、その前に忘れてはならないならない大事なことが残っている。人間に戻るため、空色の実を食べなくてはならないのだ。
帰り道は思った以上に時間がかかってしまい、太陽がもう真横から強い光で村を照らし、青空は端の方から薄い色に変わり始めていた。
「がんばれ、タケル! 学校よ!」
校庭を飛び越え、後ろの丘を東側に回りこめば、稲荷神社の鳥居が見えるはずだ。ふたりは全速力で鳥居を目指した。
急にあたりが暗くなり、タケルが声をあげた。
「おねえちゃん、もう真っ暗だ!」
「太陽の反対側だから、陰になっているだけよ。だいじょうぶ。まだ夕暮れじゃない。ほらタケル、鳥居が見えてきた」
神社の森はこんもりと暗い色をしている。昼間、ヤマクワを食べ、木から木へ飛び移って遊んだあの同じ森とは思えないほど、不気味な雰囲気だった。
「降りるよ、タケル。暗いから枝に気をつけて」
そう言って、頭を下に倒したときだ。
ギャア、ギャア、ギャア、ギャア、ギャア、ギャア、ギャア、ギャア
恐ろしい鳴き声と共に、森が一瞬黒く盛り上がったかと思うと、真っ黒な鳥の群が、いっせいにツグミたちめがけて襲いかかってきたのだ。
「おねえちゃん!」
「うわあー! タケル、逃げろー!」
それはカラスの大群だった。あろうことか、神社の森は、カラスたちのねぐらになっていたのだ。昼間姿がなかったのは、彼らが巣を離れ、食べ物を探して町を飛び回っていたからだった。
夕暮れが近づき、何十羽ものカラスが森に帰ってきていた。空の上であっという間に大きなカラスたちに囲まれて、追いかけられ、つつきまわされながら、必死に振り切ると、ふたりは少し離れた野原の草の中に墜落するように着地した。どうやらカラスもここまでは追っては来ないようだった。
「タケル、けがしてない?」
「だいじょうぶだよ。すごかったねえ、おねえちゃん」
タケルは平気な顔をして、ああ楽しかったとばかり、翼をバサバサ開いて見せる。
ツグミは荒い息をしながら背伸びをして、遠くに見える鳥居を見つめた。神社は闇の中にあった。
「どうしよう、森に近づけない。あそこにあの実があるのに」
神社の森に空色の実を見つけていたからこそ、こんなにのんびりしていたのだ。もう太陽は山のすぐ上まで迫っている。どこかであの実を見つけなければ。空が赤くなれば実の色も赤く変わってしまうのだ。
(時間がない!)
焦る気持ちを飲み込んで、ツグミはキッと顔を上げた。
「タケル、手分けして実を探すのよ。ぐずぐずしてると人間に戻れなくなる!」
「わかった!」
タケルは弾けたように返事をした。
ふたりは背よりも高い草をかき分けて、野原の端から端を歩き回った。
ツグミは背中に夕暮れの気配を感じながら、まばたきもせず、ひたすら草の中を進んで行く。そうしてりんご畑との境目にあるススキの株の中に顔を突っ込んだツグミは、あっと声をあげた。
(見つけた!)
けれど残念なことに、緑のイガはたった1つしかついていない。
「ああ、なんで…」
ツグミはくやしくて、桃色の足を何度も地面に打ちつけた。それから気をとり直し、深呼吸をすると、大声でどこかにいるタケルに声を掛けた。
「タケル、ひとつ見つけた! もうひとつよ!」
風が遠くからザワザワとやってきては、草の中を這いつくばるツグミの羽根を裏返し、広い野原を横切っていく。
野原の端でタケルが声を上げた。
「そうだ! おねえちゃん! ブローチはどうするの?」
「ああ、そうね。そうなんだけど…。いいよ、もう。とにかく、あとひとつよ!」
ツグミは迷っていた。このひとつを先にタケルに食べさせようかとも思うのだが、1人残されるのはあまりにも心細く、決心がつかないのだ。
「だって、せっかく見つけたのに。おかあさんがくれたおねえちゃんの大切なブローチなんでしょう?」
タケルはどこからか、まだ大声で話しかけてくる。
「いいよ、しかたがないもの。それより実を探すのよ」
ブローチなんて、もうどうでもいい。
「だって、おねえちゃん…」
「もういいんだってば! 探しなさい!」
ツグミの胸は不安と後悔でちぎれそうだった。
(どうしよう、もう見つからないかもしれない。ハトになんかなるからだ。こんなことになるんなら、あんな実なんて食べなきゃよかった)
草の中から顔を上げると、そろそろあたりはふんわりと夕暮れ色に包まれようとしている。
(だめだ、もうぎりぎりだ!)
ツグミはとうとう覚悟を決めた。とにかくタケルに食べさせよう。たとえもうひとつが見つからなくても、自分なら1年間、ハトのままでなんとかやっていける。
その時だ。タケルが遠くで叫んだ。
「あった! あったよ、おねえちゃん。ひとつあった!」
「やったわ、タケル! 間に合った!」
ツグミは羽ばたきながら飛び上がって喜んだ。急がなければ!
「いい? くちばしでイガをちぎったら、割れ目をつついて。割れたら実を丸ごと飲み込みなさい! 今の私たちにはきっとすごく大きいけど、がんばって飲み込むのよ! 飲んだらちゃんと教えてね!」
ツグミは、草に埋もれてどこにいるかわからないタケルに向かって、大声で指示をした。
祈るように返事を待つツグミの耳に
「割れたよ、おねえちゃん! ぼく、飲んだよ」
タケルの元気な声が聞こえてきた。
「よし!」
ツグミは急いでイガを落とし、幸運にもまだ空色のままの実を取り出すと、パクリと口に入れた。
大きな実は小さなくちばしの中で、こぼれることもなく喉に溶けていく。朝と同じ甘い味が口の中に広がった。
力が抜けて、ツグミはその場にお腹をつけてへたりこんだ。
(よかった。よかった。よかった…)
その時だ。
ガサガサと何かが近づいてくる。ツグミは慌てて立ち上がった。
目の前で草が左右に倒れると、ハトのタケルがひょっこり顔を出した。ツグミは心臓が止まりそうになった。
「タケル! どうしたの? 何で歩けるの? 実を食べたんじゃないの?」
「おねえちゃん、ぼくブローチを取ってきてあげる」
「ええ? なに? なに言ってるのよ!」
心臓がドキンと胸を突き、不安が渦を巻いて湧き上がる。
「急いで行ってくるよ!」
タケルの丸い目が夕日の色にキラキラ輝いた。
ツグミは震える声で訊いた。
「タケル、実はどこ? ほんとにあったの? まさか…ウソだったの?」
「だいじょうぶだよ。森にはいっぱいあったんだもの。そっともぐりこんで食べるから、心配しなくていいよ」
タケルはケロッとした顔で答える。
「そんな…」
ツグミは呆然とタケルを見た。大変なことになった。自分はたった1つの実を食べてしまったのだ。
「タケルのバカ! どうするのよ! もうあんたの分なんかないのよ! なんでウソなんかつくの!」
飲み込んだ実の強い甘さが口に広がって、頭の芯がふらふらする。
するとタケルはツグミを見つめ、得意そうに言ったのだ。
「だって、ぼく、おねえちゃんに先に食べさせたかったんだよ。ぼくは男だから、これからは、ぼくがおねえちゃんを守るって決めたんだ!」
「え?…」
ツグミは耳を疑った。泣いてばかりの弱虫タケルが、なぜ今こんな頼もしいことを言うのだろう。愛しさと、その何十倍もの怒りがこみ上げて、ツグミはぐっと涙ぐんだ。
「バカ! タケルのバカ!」
ツグミは細い首をちぎれそうなくらい横に振った。
「だめよ、行っちゃだめ! カラスがいるのよ、戻れなくなる!」
「平気だよ。カラスなんてぜんぜん恐くないよ。それに下からそっと行けば見つからないよ」
タケルは今にも飛び立ちそうに、翼を羽ばたかせる。
(だめ! 行かせちゃだめだ! あんなカラスの森に入ったら、きっとタケル、殺される!)
空色の甘い実はツグミの体をしびれさせ、もう立っていることさえ難しい。たぶん朝のように、自分はもうすぐ気を失ってしまうだろう。
ツグミは残る力を振り絞ってタケルを睨みつけ、かすれた声で叫んだ。
「ブローチなんか、ほんとはいらないの! 行くな、タケル! 言うことを聞きなさい!」
「大丈夫だってば! 心配しないで!」
「だめよ、タケル、行っちゃだめ…」
ツグミはガクリと足を折り、とうとう草の中に倒れこんだ。もう声がでない。
(私のせいだ。見つけたら、すぐにタケルに食べさせればよかったんだ。
タケル、お願い、言うことを聞いて! お願いだから!)
風がまた草をかきわけてやってきて、ふたりの体が揺れるほど強く吹きつけていった。
「おねえちゃん、じゃあ、もう、ぼく行くよ」
タケルは細い首を伸ばし、黒々とした神社の森に顔を向けた。
「ちゃんとブローチ持って帰るから、おねえちゃん先に帰っててね!」
そして胸を張り、最後にもう一度ツグミを振り返ると、夕焼けの空に飛び立っていったのだ。
「気がつくと、私は病院のベッドの上だった。はだかで野原で倒れているところを、村の人に見つかって運ばれたらしいの。それはもう大騒ぎになったわ」
おばあさんは大きく息を吐き、揺りいすをゆっくりと動かした。
「タケルは帰ってこなかった。村じゅうの人が出て、何日も夜どうしタケルを探してくれた。だけど、みんな私の話は聞いてくれなかったわ。あの子はハトになっているの。人間の子どもを捜してもダメなのよ」
おばあさんは組み合わせた両手の指を、膝の上に力なく振り下ろした。
「でも、おばあさんも探しに行ったんですよね? 神社の森に。…あの、見つかったんですか?…ハトの…」
翔太は途中で言葉を飲み込んだ。きっと訊いてはいけないことなのだ。
おばあさんは大きな目を一段と見開いて、翔太の言葉の後に続けた。
「ハトの死がい?」
「…はい…」
肩を縮め、翔太はひざの上に目をそらした。「私は信じていたの。絶対タケルは生きてるって。あの子は死んでなんかないって」
翔太が顔を上げると、おばあさんは小さくうなずいた。
「そうね。それでも探したわよ。そして見つからなかった。死んだハトなんてどこにも落ちていなかった。そう、それこそ何日もかけて村じゅう探したわ。森も畑も神社も道端も…。私だけではなく…父もね」
「え?」
翔太は目を瞬かせ、おばあさんを見つめた。「ええ、父は信じてくれた。いり豆のおかげね」
おばあさんはフフッと笑い、揺りいすの背もたれに細い首を預けた。
「父は言ったわ。『ツグミ、窓を開けておきなさい。いつでもタケルが帰って来れるように』って。私は2階の窓を開けてタケルを待った。雨の日も、たとえ嵐になってもね。そうやって、私は次の夏至の日を祈る思いで待っていたの。きっとタケルは帰ってくる。その日タケルは玄関のドアをあけ、階段を駆け上がってくるのよ。そうして『おねえちゃん、ただいま』って、いつもの笑顔で私に飛びついてくる。ボサボサの髪は日差しの匂いがして、私は『お帰り、タケル。がんばったね』ってきっとほめてあげるんだって」
おばあさんは白い中指を目頭に押し当て、少しの間そうしていた。そして、深いため息をついた。
「夏至の日の長い1日が終わったとき、私は父に頼んだの。ハトを飼いたい。ハト小屋を作ってほしいってね。もしかして、タケルは何もかも忘れてしまっているのかもしれないと思った。人間だったことを忘れて、ハトになって、空を飛び続けているのかもしれない。今日どこかで出会うハトが、もしかしたらタケルなのかもしれないのよ。そんなことを考えて毎日が過ぎていったわ」
胸の奥がこすれるように疼き、翔太は手のひらを当てて、強く押した。もどかしくて悲しかった。翔太は我慢できず、強い調子で言った。
「ねえ、もう1度実を食べて、ハトになればよかったんじゃないの? ハトになって飛んで探せば見つけられたかもしれないじゃん。だって言葉が通じてたんだから」
おばあさんはうなずくように、ゆっくりと瞬きをした。
「もちろんそう思ったわ。毎年夏至の日が来ると、朝、まだ暗いうちから私は外に出た。学校のある日でも、その日は休んであの実を探したわ。父も私の好きなようにさせてくれたの。でも、だめだった。どこを探しても見つからない。あんなにたくさんあった森の中にさえ、あの年以来、あの草は1株も生えなかったのよ。それから何回も夏至の日をむかえ、私は大人になった。いつか私は思ったの。実が現れないんじゃなくて、私が見つけられないだけなんだって。きっと、神様がくれためぐり合わせの時は終わったのね。もう二度と、空色の実とは出会うことはないんだってわかったの」
近くで羽音がする。翔太が窓に目をやると、緑の庭にハトが数羽舞い降りてきた。
「こうしてハトを飼いながら、本当に長い時間が経ってしまった。私は気のおかしい女と呼ばれ、気がつけばいつからか、この家はハト屋敷になってしまった…というわけ!」
おばあさんは頬をふるわせて、悲しそうに笑った。
翔太は暖炉の上の絵に目をやった。
月を仰ぐ青い顔の男の子。
「タケルよ」
おばあさんは微笑んだ。
「母からもらったブローチは、もうこの手には戻らないけれど、どうやら絵を描く才は失くさなかったみたいね。タケルを描き続けることで、私は少しは救われた。そうしていつしか私の絵は、外国で評価されはじめたの。父が亡くなったあとも、こうやって生きていけるのは、タケルと母のおかげだわ」
翔太は壁に掛けられた他の絵にも目を向けた。おばあさんの言う通り、どの絵の中にも、タケルは寂しげな顔をして、必ずどこかにいるのだった。
いつのまにかマリーがどこからか忍び寄って、おばあさんの足にまとわりついている。「おやまあ、あなたの探し物は見つかったわね」
おばあさんはマリーを抱き上げて、ひざの上に乗せた。長い三つ編みが胸元で揺れる。さっきまでは不気味に見えた三つ編みだが、その銀色のキュッと締まった結び目には、きっと数えきれないくらい切なく悲しい思いが織り込まれているのだと翔太は思った。
「これを見て」
おばあさんは、片方の手を翔太に差し出した。
「もちろん私の話を信じようと信じまいと、それはあなたの勝手だけれど、でもね、ほら私の指にはちゃんとしるしがあるの」
翔太は吸いつけられるように、おばあさんの白い指先を見つめた。
親指と人差し指、中指の爪の横に、ごま粒ほどの小さなほくろがいくつもある。
「これ…って」
「緑のイガでつけた傷跡よ。あのイガはとても鋭くてね、その実を欲しい子は、手に必ず傷をつくる。その跡は黒いほくろになって、一生消えることはないというの。たとえその子がすべてを忘れてしまっても、手にはしるしが残るのよ」
(しるし…? 動物になったしるし…)
翔太は自分の手のひらを、恐る恐る開いてみた。そしてほくろがないことを確かめると、安心したような、がっかりしたような気分になった。
おばあさんはそんな翔太に微笑みながらつぶやいた。
「もう何十年も誰にも話さなかったのに、不思議ね。どうしてかしら。なぜかあなたに話したくなった」
おばあさんはホッとひと息ついて背を正すと、出会った時とは別人のような穏やかな眼差しでマリーを見つめ、白い首筋をやさしく撫でた。
翔太はテーブルの上の飲み物に手を伸ばし、そっと口をつけてみた。それは甘いチョコレートの味がした。
おばあさんの家を出て、りんご畑の直前で翔太は立ち止まり、洋館を振り返った。
ハトの群れる屋根の下、2階の窓に、薄緑のカーテンがふんわりふくらんでいる。
(きっと今でも待っているんだ…)
万が一カラスから逃れられたとしても、ハトならば、とっくに死んでしまっているほど、長い年月が経っているのに。
翔太はマリーをギュッと抱きしめた。温かいマリーの毛並みに顔をうずめると、翔太は、ふと、おばあさんに寄り添ったハトのタケルのぬくもりは、こんなだったのだろうかと思えて、胸の奥が熱くなった。
りんご畑の中を下り、さっき転んだじゃり道に出ると、誰かが起しておいてくれたのだろう、自転車は道の脇に寄せてあった。
かごを見てマリーが急に暴れ出し、翔太のお腹を蹴って飛び下りると、またもやリンゴ畑の中に消えた。翔太は「ちぇっ」とつぶやいた。(まあいいや。おばあさんの家にもよく行ってるくらいなんだから、心配ないんだ)
おかげで自転車も軽くなり、やっと、あのタクシーから見た川に行くことができるとペダルを踏んだ翔太は、あることを思いついてブレーキをかけた。
向こうから制服姿の男の子が歩いてくる。翔太はすれ違うとき、思いきって声をかけた。
「すみません。このあたりに神社はありませんか?」
「神社? お稲荷さんのこと?」
「あ、はい。たぶん」
「そんなら、この道をずっとまっすぐ行って、通りに出たらな、そこを左に曲がって行くと小学校があるんだ。脇の道を校庭に沿ってちょっと行って、突き当りを右に曲がるとすぐに鳥居が見えるよ。石段があるからそこを上っていきな」
おばあさんの言っていた通りだと、翔太は胸をワクワクさせた。
お礼を言って、翔太は神社めがけてペダルを思いっきり踏み込んだ。
舗装された広い道に出て、俊彦の家とは反対方向の左に曲がる。スーパーやコンビニの前を通り過ぎると、やがて学校らしき建物が見えてきた。クリーム色で3階建てのきれいな校舎だ。あまりにあたりまえの町並みに、もしかしたらさっきまでの出来事が、丸ごと夢ではなかったかと翔太は少し心細くなった。
小学校のわき道を通り、突き当りを右に曲がると、すぐに赤い鳥居が見えた。翔太は自転車を置き、苔むして角の丸くなった石段を踏みしめて、木の枝が覆いかぶさる緑のトンネルを登っていった。
湿った土の匂いがする。神社までの道のりは意外に遠く、辛い上りに汗が吹き出て、病に侵された翔太の心臓は、ドンドンと太鼓のように体の中で鳴り響いた。
やっとのことで上りきり、翔太は稲荷神社のふたつめの鳥居をくぐると、冷たい石畳の上に倒れ込むように横になった。
境内は広かった。杉木立の向うにある大きなお社は、扉が閉められていて人気もなく、ひっそりと木漏れ日の中で眠っているようだ。
寝転んだまま呼吸を整えて、翔太はゆっくりと立ち上がった。
お社の立派な屋根は薄っすらと緑青を吹き、くすんだ緑色をして、背後の森に溶け込んでいる。ひときわ太い杉の木が、お社の後ろから真っ直ぐ空に昇っていた。
ふらふらと2匹のキツネの間を通り、翔太はお社の正面に立った。目の前に下がっている太い綱に手を伸ばす。大きく振ると、根元につけられている鈴がガラガラと鳴る。乾いた音が、シンとした森の奥まで沁みわたっていくようだ。
翔太は深く息を吸いこんだ。心臓がまだズキズキする。翔太は賽銭箱の前に足を投げ出して座り込んだ。
(おれ、死んだらどこに行くんだろう)
母はいつでも翔太が心配で、そんな顔を見ていると、翔太はいつも辛くなる。そんな顔をさせてしまう子どもなら、最初からいない方がよかったんじゃないかと思ってしまう。
手術の次の日、翔太の病室の前でダイちゃんのおかあさんが、翔太の母に挨拶しているのを廊下の角から見た。二人とも泣いていた。ダイちゃんのおかあさんはふくよかで大きな人だったのに、なんだか小さくしぼんでしまい、そのくせ顔は何倍もに膨れて見えた。泣き腫らした目が遠目にも真っ赤に染まっているのがわかった。自分が死んだら母もあんな悲しい顔をするのだと、翔太は唇をかみ、回れ右をしてその場から逃げたのだった。
もし手術が失敗して、ダイちゃんみたいにこの世から自分が消えることがあるとしたら、いっそのこと、おばあさんのように好きな動物になって、どこかに行ってしまえたらいいのに。
翔太をふとそんなことを思った。
少しして息苦しさがおさまると、翔太は立ち上がってお社の裏にまわってみた。杉の木が登れそうなら、そこをつたって屋根までいけるのではないかと思ったのだ。けれど、足がかりもないうえに、そり出たお社の軒もはるかに高い。本当に鳥にでもならない限り、屋根の上には登れそうもなかった。
翔太はお社のまわりをブラブラと見て歩き、鳥居の横にひとつだけ置いてある木のベンチに腰を下ろした。
おばあさんの弟は、ここまではたどり着けなかっただろう。小さなハトがカラスの群をくぐり抜けて、見つからないようにここまで来るのは、ほとんど不可能な気がする。
翔太はあらためてお社の立派な屋根を見上げた。
(この屋根のどこかに、今でもおばあさんの銀のブローチは眠ってるんだろうか。何十年もあの日のままで)
涼しい風が、汗ばむ翔太の額をかすめ、サワサワ枝を鳴らす。森を通り抜ける風もこぼれ落ちる光も、ここではきっと、ずっと昔から何ひとつ変わらないんだろうなと翔太は思った。
突然木立がザワリとしなり、2羽のハトが元気に飛び立っていく姿が見えたような気がして、翔太は鼻の奥がツンと痛くなった。
翔太が家に戻ると、マリーは知らん顔でソファーの上に寝そべっていた。
キッチンでは、母たちが昼食のしたくをしている。翔太を見て、知子はホッと顔を緩ませたが、すぐに眉毛をつり上げた
。
「2時間も、どこに行ってたの?」
「別に。そのへんをブラブラしてただけだよ」
「西の丘の上なんかに行ってない?」
「行かないよ」
まさにその洋館に行き、あがりこんでおばあさんの話を聞いてきただけでなく、そのうえ飲み物まで飲んできたなんて母に知れたら、きっとひとしきりお説教を聞かされるはめになるだろう。
「あのさ、神社に行ってきた」
「まあ、お稲荷さんに? よく場所がわかったわね」
綾子がてんぷらを揚げる手を止め、振り返って翔太を眺めた。
「うん。すっごいデカい木があったよ」
「そうでしょう。ご神木よ。何百年も生きてるんだから、そりゃあ大きいわよ」
「へえ、そんなに大きいんなら、私も拝みに行こうかな」
知子がお湯の並々と入った大きな鍋にソバをバラバラ入れながら、まじめな顔をしてつぶやいた。湯気でメガネが曇って、トンボのようになった。
「うん、行ってきたら? おれのこと頼んできてよ」
翔太は他人事のようにそう言って、揚げたてのサツマイモのてんぷらをそっとお皿からつまみあげると、さっさとキッチンを離れようとした。
「そうそう、ご神木といえば、その西の丘のおばあさんなんだけど、これは主人の父から聞いた話よ」
「ええ、ええ。さっきの続きですね」
翔太の足はピタリと床に吸い付いた。サツマイモを後ろに隠して、さりげなくキッチンに戻る。
「子どもの頃、何度も何度もお稲荷さんの、そのご神木に登ろうとしてね、落ちて。そのたびに、曽おじいさんのやっていたこの病院に運ばれたんだって。ご神木には登っちゃいけないって、いくら言っても聞かなくて、当時みんな困り果てていたらしいわ。お社の屋根に上りたかったらしいんだけど。どうしてそんなことをしたかったのか、曽おじいさんにも、なんだか訳のわからないことばかり言っていたらしいわ。とにかく子どもの頃から少しおかしかったんだって」
てんぷらを油の中で転がしながら、綾子は鼻からフーンと息を吹き出した。
食事が終わり、翔太はひとり畳の部屋に寝転がって、天井を眺めていた。
長い三つ編みを揺らし、ハトになった弟を探してくれと必死で訴える、やせっぽちで目の大きな女の子が目に浮かぶ。
誰がそんな話を信じるだろう。気がおかしくなったと思われてしまっても仕方がない。
けれど、だからといって、おばあさんが自分に作り話をして聞かせたとは、翔太には思えない。それに、神社の屋根をにらみながら、ご神体の高い杉の幹にしがみつく女の子。それは紛れもない事実だったのだ。
天井にはめ込まれた板の木目が、いろいろな模様に見えてくる。竜になったり、犬や、ツルになったりする。草をついばむハトに見える部分もあった。
翔太は壁に掛けてあった動物たちの絵の中に、ひっそりと描かれた小さなタケルを思い出した。おばあさんはどんな思いであの絵を描いたのだろう。
おばあさんはしゃっきりとして元気そうだった。誰も信じてくれなかった空色の実の話。おばあさんのあの真っ直ぐな背筋は、気がおかしいと言われ続けても負けなかった、強い信念の証だ。
けれど、それはとても悲しいことで、翔太は背中を丸め、ズキズキと痛む心に息を通した。
次の日からまた雨だった。翔太は一日中家の中で、本やマンガを見たり、ゲームをしたりして過ごした。
窓から見えるアジサイは雨に打たれ、薄暗い庭に青紫の花の色が、そこだけ鮮やかに浮いて見える。
(もしぼくがおばあさんだったら、空色の実を食べて、いったい何になっていただろう)
空を飛ぶのは絶対におもしろそうだ。けれどハトではカラスに負けてしまう。タカだったらどうだろう?
ソファーにもたれて長い間そんなことを考えたりしていた。
俊彦の指にも、綾子の指にもほくろはなかった。連日満杯のクリニックの待合室に入り込み、翔太はさり気なく患者さんたちの指先に目をやったが、それらしい人は見つからなかった。
何日かたった日の朝、ようやくまぶしい光が帰ってきた。いつものように診察室で翔太の体を診察した後、俊彦が言った。
「明日だな。入院」
「うん」
白い顔でコックリうなずく翔太に、俊彦は両肩に手を置いて、少し揺するようにして言った。
「心配ないぞ。簡単な手術だからな。おとうさんは直接病院に行くそうだ」
「うん」
母の様子を見るだけで、簡単な手術なんかであるはずがないと、そのたびごとに確信する。
けれど、翔太の心が沈むのは、それだけが原因ではなかった。
あれからもずっと、ハト屋敷のおばあさんのことが頭から離れずにいる。明日になり、おばあさんと会わずにここを離れるのが心残りだった。あの日帰り際、せめて一言、自分は信じると伝えればよかった。
診察室を出る時、翔太はふと思いついて尋ねた。
「おじさん、今年は夏至っていつかな」
「夏至ねえ、気にしてなかったからなあ。もうそろそろだと思うよ。えらいな、翔太、理科の勉強か?」
「うん。まあね…」
翔太は明るい窓に目をやった。
十一才のあなたへ
まわりが白いもやに包まれて、先がよく見えない。まもなく雲が切れ、目の前に真っ青な空が広がった。
頑丈な肩で風を受け、翔太は思いきり羽ばたいた。はるか下にはモリモリと膨らむ美しい緑の森が重なり合い、その間を縫うように、白い舗装道路が大きく曲がりながら先に先に延びている。
翔太は木々の隙間にきらめく光の粒を見つけ、急降下した。それはきれいな水をたたえた小さな泉だ。風を切りミサイルのように落ちていき、すれすれのところで首を持ち上げる。すると体は弓のようにまた空に跳ね返っていった。
鏡のように青空を映す水面に、ほんの一瞬、勇猛なタカの姿を見た。
「翔太? 翔太? 大丈夫?」
薄目をあけると、知子が心配そうにのぞき込んでいる。翔太は畳の上で寝転がっていた。
部屋の中は薄暗く、開いている窓から見える庭は夕焼けの色に染まっている。
「うーん…眠い…もうちょっと寝かせて…」
そう言うと、翔太はもうスヤスヤと寝息をたてているのだった。
次の日も、朝からとてもいい天気だった。気分も良く、翔太は朝ごはんをおかわりして、みんなを安心させた。
俊彦が診察を終えるのを待って、午後には病院に向かう。すっかりなじんだ畳の部屋で、リュックにゲームや本を詰め終わり、翔太は少し暇になった。
玄関を出ると、マリーが玉砂利の上に長々と伸びてあくびをしている。翔太は水がめの中で揺れている赤い金魚を眺めながら、マリーに話しかけた。
「おまえ、金魚もハトもとらないなんて、猫じゃないんじゃないの? もしかして人間だったりして」
マリーの黄土色の目を見つめていると、本当にそうなのかもしれないと思えてきて、翔太は少し怖くなった。
マリーをまたぎ、門を押して道路に出たところで、突然クリニックのドアが開いた。中から俊彦と男が2人、それと、なぜか警察官が出てきて翔太は驚いた。
男たちはせわしなく車に乗りこんで、通りに走り出ていった。俊彦はそのあと少し警察官と立ち話をして別れ、首をひねりながら建物の中に戻っていく。
(なにがあったんだろう)
翔太は急いで家の中に引き返し、話し声のするリビングをのぞいた。
「本当にいったいどうしたのかしら」
ダイニングテーブルを囲んで、知子と綾子が麦茶を飲みながら話をしている。
「どうしたの?」
翔太が知子の隣のいすに座ると「ああ、翔太ちゃん。ねえ、何もこんな大事な日に」
と、綾子はすまなそうに翔太に目をやった。
「そんな、仕方のないことですから。それにしても本当にねえ」
知子も落ち着かない様子で、腕を手のひらでさすった。
「ねえ、どうしたの?」
ドアが開いて、俊彦が顔を出した。綾子が待ちかねたように尋ねた。
「見つかった?」
「いや、まったくわからない。とにかく何もかもそのままらしい。飯の支度をしていたようで、流しの中には、茹でたそうめんがザルに入っておいてあったそうだ。玄関も窓も開けっ放しで、いったい何があったんだか、さっぱりだよ」
「強盗とか、そんな物騒な話じゃなきゃいいけどね」
綾子はため息をつきながら母を見た。
「うーん、部屋は特に荒らされてはないようだし、だいたいばあさん1人だ。盗るものもないだろうよ」
「でも、知らない人が見たら、どう思うかわからないわよ。大きいお屋敷だもの。いくらたくさんいたって、ハトは番犬にはならないものね」
心臓が爆発しそうなくらい波打って、翔太はいすから飛び上がった。
「おばあさんが、ハト屋敷のおばあさんがどうかしたの?」
皆がいっせいに翔太に目を向けた。知子がメガネの縁に手を当てて、訝しげに眉をしかめた。
「なんなの、翔太?」
俊彦が口を開いた。
「いなくなったんだよ」
「いなくなったって?」
「今日、ばあさん、朝一で検診の予定だったから、人を頼んで迎えに行ってもらったんだけど、ばあさんの家、もぬけのカラだったんだ。警察の話だと、どうも昨日から帰ってないらしいよ」
「ええ? そうなの」
綾子が不安げな顔で、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出してグラスに注ぎ、俊彦に渡す。
「へんな子ね、なんだってそんなに気になるの」
翔太の引きつった顔を見て、知子は眉を曇らせて訊いた。
「別に、なんでもないよ。みんなが話してた人だったからさ。気になんかしてないよ」
インターホンの呼び出し音が鳴った。診察の開始時間が過ぎていた。
俊彦は翔太の頭を撫でて「ごたごたしてるけど、心配するな。もう少ししたら何かわかるだろう。あとで診察室に来るんだぞ」
そう言い残して、クリニックに続く廊下に出て行った。
ざわめく胸を抱えて部屋に戻った翔太は、畳の上にドスンと正座した。
(おばあさん、どこにいっちゃったんだろう。そうめんも食べないで…)
突然、翔太は重大なことに気がついた。
(もしかしたら…!)
翔太はバネのように跳ねあがり、キッチンに走り込んだ。
「おばさん、昨日って夏至じゃなかった?」
上気した顔で仁王立ちする翔太に、綾子は飛び上がった。
「ああびっくりした。え? 昨日? さあ、どうだったかなあ」
すると知子が答えた。
「そうよ、昨日は夏至だったって。テレビでそう言ってたよ。それがどうしたの?」
「やっぱり! やっぱり!」
翔太はこぶしを握りしめて、テーブルの周りをぐるぐると歩きまわる。
「なに? どうしたの? ちょっと止まりなさい」
知子は慌てて翔太の腕をつかむ。
インターフォンのベルが鳴り、俊彦の声がした。
「翔太がいたら、診察室に来させてくれ」
「今行く!」
翔太は知子の手を振り切って部屋を飛び出した。
診察室のドアを開け、俊彦の顔を見るやいなや、翔太は飛びつくように叫んだ。
「おじさん、おばあさんはハトになったんだよ! ハトになって飛んでっちゃったんだ。きっと空色の実を見つけて食べたんだ。だって昨日は夏至なんだよ」
俊彦は眉毛を大きく持ち上げて、しばらく翔太を眺めていた。それから、肩でハアハア息をする翔太を自分の前に座らせた。
「まあいいから。落ち着け」
「本当だよ。だからハトを探さなきゃダメなんだ」
「ふうん…。とにかく何か飲むか? そんなに興奮してたら診察はできないよ」
俊彦は看護師にレモンジュースを持ってこさせ、翔太に与えた。
冷たい液体がのどから胃袋に流れていく。すっきりした酸味に、熱くなった頭がシンシンと冷えていくようだ。俊彦は横を向いてカルテに目を通している。
人に話したところで到底信じてもらえることではなかった。一息つくと、翔太は自分の考えていることが、なんともばかげた話に思えてきた。遠い昔話だからこそ、あんな不思議を信じようと思ったのかもしれない。
「落ち着いたか?」
「うん。だいぶ」
「夢でも見たか?」
「まあ…そんな感じかなあ」
俊彦は、いつものように聴診器の先を翔太の胸にあてて、心臓の音を聞いている。今日は特別時間をかけているようだ。聴診器をはずし、首にかけると、俊彦は翔太を見つめ、それから看護師に声をかけた。
「エコー、してみるか。まあ、最後だからな」
俊彦は翔太の胸の上にプローブを丹念に滑らせながら、モニターをじっと見つめている。
翔太は早く終わらないかとウズウズしていた。
やはり最後にもう一度、おばあさんの消えたハト屋敷に行ってみたいと思ったのだ。
信じられないことではあるけれど、でも、もしかしたら、たとえば翔太にしかわからない手がかりがどこかに残されている、なんてことがあるかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられない。
「さあ終わったよ。お疲れ」
塗られたジェルを拭いてもらうと、翔太はあっという間に診察室を飛び出した。
「どうかされたんですか?」
食い入るようにモニターの写真を見つめる俊彦に、看護師が尋ねた。
「いや、うーん」
「は?」
「なんともいえないんだけどね…」
俊彦は回転いすにドサッと腰をおろし、顔を上げて看護師を見た。
「良くなってる…ような」
遅くなった昼食をサッと済ませ、翔太は知子と慌ただしく玄関を出た。
「またきてね。翔太ちゃん。これ途中で食べていって!」
そう言って綾子がビワを何個かくれた。鼻をつけると初夏の新鮮な香りがする。
「俊彦さん、それにしても私、信じられなくて」
「いや、もう一度ちゃんと調べてみないとなんともまだ言えないよ。おれだって、信じられないんだから」
俊彦は翔太にチラリと目をやると、知子と話をしながら、アジサイの咲く玉砂利の上をガレージの方に歩いていった。
マリーは玄関の外に座っていた。
「またね、マリー。ありがとな。おまえのおかげでハト屋敷に行けたんだもんな」
マリーはあくびとも鳴き声とも聞こえるような声で返事をすると、黄土色の目をまぶしそうに閉じた。
診察室を飛び出した翔太は、ハト屋敷には結局行かなかった。自転車を持ち出したところを知子に見つかってしまったのだ。
「どこに行くの?」
直射日光が仁王立ちする知子の目元を照らし、メガネの下にできた、明らかに寝不足からくる大きなクマがあらわになる。それに気がついた翔太はがっくり肩を落とした。
これ以上母に心配をかけることはやめようと思った。もしかしたら本当に悲しませることになるかもしれないのだから。
それに人間がハトになるなんて、やっぱり普通にありえない。そんなファンタジーアニメに登場するような空色の実なんて、現実世界にあるはずがないのだと、翔太は自分を無理やり納得させた。
翔太はクリニックの駐車場で、俊彦の車を待っていた。一緒に並んで立っていた綾子が、なにげなくポストをのぞいて声をあげた。
「あらあ、これ翔太ちゃん宛てかしら。切手は貼ってないけど、ほら、江藤内科様方、11才の男の子様って書いてある」
「え? 手紙?」
受け取って裏をかえしてみた翔太は、おもわず息を飲んだ。そこには細い字で、つぐみ、と書いてあったのだ。
「女の子じゃないの。お友達になったの?」
綾子がニコッと笑った。
すぐに俊彦の車が来たので、翔太は急いで乗り込んだ。
「翔太ちゃん、また来てね!」
綾子が見送る中、車は静かに動き出す。少し行って国道に出るのだ。
母は俊彦と話をしている。
翔太は後ろの席にひとりで座り、はやる気持ちを抑えながら、気づかれないよう、そっと手紙の封を開けた。
11才のあなたへ
この手紙があなたに届くかどうかわかりません。でももし届いたら、きっとその頃町は、少しは騒ぎになっているかもしれませんね。ハト屋敷のおかしなばあさんが、突然消えてしまったのですから。
さっきあなたが玄関で私を呼んだとき、私は一瞬、弟が帰ってきたのかと思いました。
汗をたくさんかいて、息を切らせて、胸が辛いのに走ってきてくれたのですね。ありがとう。
あなたが持ってきてくれた空色の実を、私はこれから食べることにします。
ハトになって、あなたの言う通り、最初は稲荷神社まで飛びましょう。置いてきてしまったブローチは、お社の屋根に今もあるのでしょうか。探すことをあきらめて、一度は止めてしまった時間が、今また動き始めるのです。
あなたはやさしい子ね。人間に戻れるように、あんなにイガの鋭い実をちゃんとふたつ摘んできてくれた。でも、ひとつで足りそうです。私は弟を探して飛んでいくのです。長い旅になるでしょう。
もしあなたが、私がいなくなってしまったことで自分を責めるなら、それは間違いです。
あなたは空色の実を持ってきてくれた。けれど、それを食べるのは、私なのですから。
本当にありがとう。あなたに会えたことを、あの日あなたがマリーを追って私の家に来てくれたことを、神様に感謝する気持ちでいっぱいです。
手術を控えていると言っていましたね。さぞかし不安だと思います。でも大丈夫。
覚えていますか? 私の言ったこと。
あなたは来るべき人だった。
私だけではないはずよ。きっとあなたの未来にも、すばらしいことが、これからたくさん訪れるでしょう。
あなたはタカになるのだと言っていたけれど、さぞやかわいいタカになったでしょうね。
私たちもハトではなくて、もう少し強い鳥にすればよかったわ。
つぐみ
手紙を持つ翔太の手は震えていた。頭の中は真っ白だった。
(うそだろう? ぼくがおばあさんに空色の実を? それに、タカになるって…)
翔太はふと、昨日の午後に見た不思議な夢を思い出した。もうほとんど覚えてはいないのだが、たしかにタカになって、大空を悠々と飛んでいた気がする。
そういえば、昨日、自分はいったい何をしていたんだろうと翔太は考えた。
診察が終わってから、すぐに外に出た。青空が広がり、前の日までの雨で洗われた木々が、生き生きと緑の葉を茂らせていた。
風が心地よく、クリニックの裏の小道を歩いていると、目の前を大きな蝶が横切った。真っ黒の羽根にコバルトブルーの模様が美しいアオスジアゲハだ。図鑑でしか見たことのなかった蝶に出会えて、翔太は夢中で後を追った。
野菜畑の中に入り込み、そうして土手の葉っぱにとまった蝶を捕まえようと、手を伸ばして、それからあとは…。
(あれ、なんだろう、思い出せない…なんで覚えてないんだろう…)
翔太は唖然として顔を上げた。
おばあさんの言葉が翔太の頭をよぎる。
“みんな忘れてしまうの。人間に戻るときにね“
胸の鼓動が早くなる。熱が体を巡り、汗が噴き出してきた。
(それじゃあぼく、あそこで空色の実を見つけて、おばあさんの家に行ったんだろうか。それから…。夢なんかじゃなくて、ほんとにタカになったんだろうか。まさか、そんな…信じられない)
翔太は手紙のはしをギュッと握りしめた。
知子が後ろを振り向いた。
「なに読んでるの?」
「なんでもない」
翔太は手紙をリュックに突っこんだ。
「だいじょうぶ? 翔太、震えてるんじゃないの? 熱があるのかしら」
「どうした?」
俊彦が、バックミラー越しに翔太に目をやった。
「風邪を引いてなきゃいいけど。昨日、この子ったら、夕方はだかで寝てたんですよ。パンツも脱いで。信じられないでしょう? 晩ご飯だからって起こしても、なかなか起きられなくって」
「ははは、まだまだ子どもだな」
「笑い事じゃないですよ」
知子は前の座席から翔太の額に手を伸ばした。
「いいよ。平気だってば」
翔太は片手で知子の手を払いのけようとした。その時だ。知子が翔太のその手をつかんだ。
「翔太! ちょっと、こんなものあった? ほら、この指」
「あれ! なんだこれ!」
翔太も驚いた。翔太の右手の親指と人差し指の内側だ。ごま粒のような小さなほくろがいくつもちらばっていたのだ。
知子は俊彦に車を止めてもらい、翔太の指を見せた。
「うーん。何かな。突然できることもあるんだ。気になるなら、あとで診てもらえばいい。どうせ病院にいくんだ」
「…そうですね」
母は大きくため息をついて前に向き直った。
「そういえば、翔太。じいちゃん…おまえの曽おじいさんな、確か指におんなじものがあったぞ。遺伝かな? あれも後天的なものだったのかもしれないな」
俊彦はミラー越しに翔太に笑いかけて、静かに車のアクセルを踏んだ。
(曽おじいさんにもほくろがあった…)
翔太は、後ろの座席でひっそりと、けれど力いっぱい2本の指先を見つめていた。
“その実が欲しい子は、手には必ず傷をつくる”
(本当だった。夢じゃないんだ!)
こらえきれないほどの喜びが心の底からこみ上げて、体の震えが止まらない。両手をギュッと握り合わせ、閉じた口に押しつけて、叫びだしたい気持ちを必死で抑える。
(しるしだ! おれ、実を食べて、ほんとにタカになったんだ! すごい! すごい! すごい!)
翔太はもう一度、手のひらを開いて指の間を確認する。そうしてゆっくり大きく呼吸して、肺を何度も満タンにした。心臓がドンドンと激しく胸を叩いていても、不思議なことに苦しくない。
翔太はフロントガラスに広がる夏空に目をやった。今までとは違う、まったく新しい自分がここにいるような気がした。
「ほら見えてきた。知ちゃん、あの丘の上。ハト屋敷が見える」
「ああ、あれが。ふうん、ここから見ると素敵なお屋敷に見えますけどね」
翔太は車の窓に顔をつけて、ゆっくりと後ろに過ぎていくオレンジ色の屋根を眺めた。
何日か前、マリーを追いかけてりんご畑をくぐりぬけ、ハト屋敷の前に立った日と同じくらい、空は青く、丘は緑に輝いている。
雑草に囲まれた洋館の、赤茶色のレンガの壁や、磨かれた長いすのある清潔なリビング。鼻をかすめるドクダミの匂いと、窓の外で時折り聞こえる翼の音。
あの日、おばあさんの館で過ごした静かな時が、翔太の頭の中を流れていった。
ふと翔太は怖くなった。おばあさんは帰ってこなかったのだ。
(これでよかったんだろうか。実を持っていって、本当によかったんだろうか)
自分を責めるなと、実を食べるのは自分なのだからと、おばあさんは手紙に書いてくれた。
おばあさんのしわがれた声が、翔太の脳みそに蘇る。
「きっとすべてのことに、本当はちゃんとしたわけがあるものなのよ」
おばあさんの銀色のまっすぐな三つ編みと、凛とした光が宿る大きな瞳を思い出す。
(うん!)
翔太は心の中で力いっぱいうなずいた。
これでいい。おばあさんは願いを叶えるために飛んでいったのだ。
シートから体を起こし背を正して、翔太はもう一度強くうなずいた。
(おれもがんばってみる!)
りんご畑のはるか上をハトの群れが飛んでいる。おばあさんはもうこのあたりにはいないだろう。
(おばあさん、さようなら。おれもおばあさんに会えてよかった)
翔太は車の窓を開けた。暖かい午後の風にふかれながら、この夏のこの景色を、自分は一生忘れないだろうと、ギュッと指先をにぎりしめるのだった。
翔太はもう一つの奇跡をまだ知らない。
生まれ変わった心臓が新鮮な血液を元気に送り出し、酸素と栄養を足の先まで届けていることを。
おわり
