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【哲学 Vol.7「欠損」という名の贈り物:ハイヤームと、40代の私がテヘランの砂埃の中で見つけたもの


Buona sera a tutti!(皆さん、こんばんは!)
イタリアのフィレンツェで家具修復士をしている、みっちーです。

金曜日の本編、土曜日の裏話とお付き合いいただき、
本当にありがとうございます。
連載エッセイ『三つの国境を越えて』。
今日お届けするのは、
この物語の核心部分とも言える「哲学編」です。

イタリアでの15年を捨て、40代で挑んだテヘランでの生活。
そこで私が目にしたのは、言葉の壁にぶつかり、
アイデンティティを揺さぶられながらも、
それでも「今」を肯定しようとする自分自身の姿でした。

今日は、イランの偉大な詩人オマール・ハイヤームの詩を道標に、
家具修復士の視点から「不完全なコミュニケーションの美学」
について深く考察してみたいと思います。

最後に、皆さんの心を整えるための「ワーク」も用意しました。
ぜひ、最後までじっくりとお付き合いください。


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「人生の配置換え」に悩むすべての方へ、
私の経験が何かのヒントになれば幸いです。



テヘランの埃に、命の記憶を聴く

テヘランの街は、常に排気ガスと砂埃に包まれていました。
フィレンツェの澄んだ空気の中で、
古い木の香りに包まれていた私にとって、
そこはあまりにも過酷で、息苦しい場所でした。
「なぜ私は、こんな不自由な場所に来てしまったのか・・・。」

そう自問自答していた私を救ったのは、
ハイヤームのこんな一節でした。

「この地上の塵の一粒一粒も、かつては輝くばかりの美しい瞳だったのだ」

家具修復士の私は、工房で古い家具を削るたびに舞い上がる
「木の粉」を思い出しました。
私たちはそれを「ゴミ」として掃き捨てることはありません。
その粉に天然の接着剤を混ぜ、
傷を埋めるための「Stucco(パテ)」を自作するからです。

ハイヤームは、科学者としての冷徹な目で、
宇宙を「循環」として捉えていました。
テヘランの空に舞う埃さえも、
かつては誰かの命の一部であり、誰かの愛の記憶だった。
そう考えたとき、私の足元に積もる砂埃は、
忌むべき汚れではなく、「壮大な時間の堆積」へと変わりました。
「何もできない自分」という惨めさもまた、
この循環の中の一粒の塵に過ぎない。
その気づきが、私の強張った心を、ゆっくりと解かしていったのです。

「Lacuna(欠損)」を埋めない勇気

修復用語に「Lacuna(ラクナ)」という言葉があります。
長い年月を経て、木材の一部が朽ちて失われたり、
装飾が欠け落ちたりした「空白」の部分を指します。

かつての修復の世界では、
この「ラクナ」は徹底的に隠すべき「欠陥」でした。
けれど、現代イタリアの修復哲学は違います。
あえてその「欠損」を、欠損として認め、
周囲と調和させながらも「失われた歴史」として残す。

それを「Integrazione(インテグレーション=統合)」と呼びます。

40代の私のペルシャ語は、まさにこの「ラクナ(欠損)」だらけでした。
20代のイタリア修行時代、
私は言葉を「自分を美しく見せるためのニス」として、
必死に塗り重ねてきました。
「完璧に話せなければ、職人として認められない。」
そんな強迫観念が、私を厚塗りのニスでガチガチに固めていたのです。

けれど、テヘランで出会った私は、
もはやそんなニスを塗る余裕さえありませんでした。
語彙は足りず、文法は崩れ、口を開けば「猿が来る」と言い間違える。
私のコミュニケーションは、穴だらけのボロボロの家具のようでした。

しかし、不思議なことが起きました。

言葉という材料が「欠損」しているからこそ、
その隙間に、相手の「想像力」と「優しさ」が流れ込んできたのです。

私が言い淀むと、相手が身を乗り出して耳を傾けてくれる。
私が間違えると、爆笑とともに「こっちにおいで」と腕を引いてくれる。
完璧なニスで塗り固められた「正解」の言葉よりも、
穴だらけの「不完全」な言葉の方が、かえって人の心と心を、
より深く、より密接に接合(インカストロ)させたのです。

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