第6話|15:40 代官山までの坂|センター街まで、あと10分
第6話|15:40 代官山までの坂|夜のための指輪
リナとの電話が終わったあと、俺たちは少しだけ黙っていた。
グリーングラスだけ。
遅くならない。
変なところに流れない。
嘘をつかない。
リナの条件は、受話器を置いたあとも耳の奥に残っていた。
「で、次どうする?」
マサが言った。
「ルノアールは五時だろ」
ケンジが腕時計を見た。
「まだ時間あるな」
広尾の空は、少しずつ夕方に寄っていた。
昼の白さが薄くなって、街の影が少し長くなり始めている。
俺は自分のビーチクルーザーを見た。
太いタイヤ。
低いハンドル。
少し重い車体。
広尾から渋谷へ行くなら、電車でもいい。
日比谷線で恵比寿まで出て、山手線に乗り換えて渋谷。
だいたい三十分くらい。
今の恵比寿とは違う。
あの頃の恵比寿は、目的地というより、乗り換える駅だった。
六本木へ行くため。
中目黒へ抜けるため。
渋谷へ出るため。
街そのものが主役になるには、まだ少し時間があった。
でも俺は、電車に乗る気にならなかった。
「俺、チャリで行くわ」
俺が言うと、マサがこっちを見た。
「渋谷まで?」
「途中、代官山寄る」
ケンジが少し笑った。
「何しに?」
「指輪」
「指輪?」
マサが笑った。
「女の子に電話成功したから、もう指輪買うのかよ」
「そういう指輪じゃねえよ」
前から欲しかったリングがあった。
アメリカのハイスクールリング。
大きくて、少し派手で、指につけると急に自分が別の誰かになれるような気がするやつ。
本物かどうかなんて、正直よく分からなかった。
でも、あの頃の俺には、本物かどうかよりも、そう見えることの方が大事だった。
「ルノアールで合流な」
ケンジが言った。
「おまえらは?」
「俺らは渋谷出る」
マサが言った。
「センター街通って、様子見る」
「様子って何だよ」
「女の子足せるかどうか」
ケンジがため息をついた。
「まだ足す気かよ」
「保険だよ、保険」
「保険で夜は壊れるんだよ」
そう言いながらも、ケンジはマサについて行く気だった。
マサが動く。
ケンジが止める。
結局、二人で騒ぎながら進む。
それがいつもの形だった。
「ロッテリア前とか、いるだろ」
マサが言った。
「いるかもしれないけど、声かければいいってもんじゃない」
ケンジが言う。
「声かけなきゃ始まらないだろ」
「始まらない方がいいこともある」
「おまえ今日、守りだな」
「おまえが攻めすぎなんだよ」
二人はもう、渋谷の雑踏に混ざる準備を始めていた。
俺はビーチクルーザーにまたがった。
「五時、ルノアール」
ケンジが言った。
「遅れるなよ」
「おまえらこそ」
マサが笑った。
「俺たちは増やしてから行く」
「増やすな」
俺が言うと、マサは手を振った。
「流れで」
便利すぎる言葉だった。
俺はペダルを踏んだ。
広尾の坂を抜けると、風が少し変わった。
昼の匂いから、夕方の匂いへ。
街はまだ明るい。
でも、明るさの底に少しずつ夜が沈み始めている。
ビーチクルーザーは速くない。
でも、急がない移動にはちょうどよかった。
電車なら、広尾から恵比寿へ出て、山手線で渋谷。
三十分もあれば着く。
でも電車は、街を通り過ぎるだけだ。
自転車は違う。
坂の重さも、夕方の風も、店の匂いも、全部体に残る。
その日の夜に入る前に、俺は一人になりたかった。
リナの声。
ナツキの笑い方。
ミカに見抜かれる感じ。
大学生サークル。
三茶。
全部が頭の中で混ざっていた。
代官山に着く頃には、少し汗をかいていた。
古着屋の前にビーチクルーザーを止める。
ガラス越しに、革ジャンやデニム、ブーツ、ベルトが並んでいる。
アメリカっぽいもの。
本当のアメリカを知っていたわけじゃない。
でも、俺たちはそれを着れば、少しだけ遠くへ行ける気がしていた。
店の奥のショーケースに、そのリングはあった。
銀色。
大きめの石。
横に入った年号。
どこの学校かも分からない英文字。
アメリカのどこかの高校で、誰かが卒業の記念に作った指輪。
それが、何年も後に東京の代官山に流れてきて、今、俺の前にある。
それだけで、少し物語があるように見えた。
「これ、見せてもらっていいですか」
店員がショーケースを開けた。
リングを指にはめる。
少し大きい。
でも、それが良かった。
ぴったりすぎるものは、俺にはまだ似合わない気がした。
指輪は、ずしりと重かった。
ただのアクセサリーじゃない。
それは、その夜のための武装だった。
リーバイスのサード。
ゴローズみたいなシルバー。
ヴィンテージのベルト。
エンジニアブーツ。
そして、ハイスクールリング。
一つずつ身につけるたびに、自分が少しだけ強くなった気がする。
もちろん、本当に強くなったわけじゃない。
中身は何も変わっていない。
父親の声に固まるし、リナには見抜かれるし、ナツキには笑われるし、ミカにはたぶん内側まで見られる。
それでも、夜に出るには何かが必要だった。
本当の強さがないなら、せめて重い指輪くらいは欲しかった。
「これ、ください」
金を払う時、少しだけ迷った。
安くはなかった。
でも、迷っている時間が惜しかった。
俺はリングをつけたまま店を出た。
夕方の光が、指輪の石に少しだけ反射した。
たったそれだけで、気分が変わった。
馬鹿みたいだと思う。
でも、あの頃の俺たちは、馬鹿みたいなことで本当に変われた。
ビーチクルーザーにまたがる。
代官山の坂を下れば、渋谷は近い。
センター街。
ルノアール。
大学生サークル。
グリーングラス。
夜の予定が、もうすぐ現実になる。
俺はリングをつけた右手でハンドルを握った。
少し重い。
その重さが、ちょうどよかった。
