自分の心を動かさないと読者の心も動かない話
前回テンプレ表情は描くのに心理的負担が少ないけど読者に迫らないという話を書いた。
これは無表情も一緒。
テンプレ表情は無表情と質は同じなのである。
逆に言えばテンプレ表情は真の表情を描いてない、とも言える。
もちろん無表情という名の表情が生きることもある。
けどそれは既に綾波レイ以降は散々使い古されて手垢がついてるので、よほどの工夫が必要と思う。
まあそんだけ綾波レイがエポックだったんだけども。
綾波レイの無表情、無感情はシンジくんや他のキャラクターの感情の揺らぎと対比関係だからこそ生きるんであって、綾波レイタイプしかいなかったらエヴァは成立しない。
視聴者の心にも訴えない。
まあでも、感情と無関係にとにかく自分の好みや理想の容貌(カタチ)を描きたいってのが絵を描くモチベの人もいるようなので、それはそれで好きにしたらいいと思う。
ただその場合、読者はショーウィンドウの向こうの美麗なマネキン(描かれたキャラクター)を眺めるような感覚になるとは思うけど。
またそういう美麗マネキンが好きな読者もいるとは思うので、それ自体を否定するものではない。
美麗であることもある種のエネルギーを孕んでるから、それもありである。
ただ私の目指したい絵とは全然違うなあという話である。
私は美麗かどうかより、生き生きしてる絵の方が好みなので、感情表現は必須なのである。
感情表現って、キャラクターにわざとらしい表情をつけるって意味ではないよ。
リアルに生きてる人が共感できるような感情表現がしたいなという話。
有るか無きかの微かな表情も感情表現である。
感情を抑えようとするのも感情表現である。
生きてて色々感じるホンモノの感情をキャラクターにも乗せられたらいいと思う。
究極的には本当に存在してるかのような存在感を描きたいってことで。
なぜなら私がそういう共感を覚えるホンモノの感情が表現されている数々の作品に過去救われてきたからである。
現実に負け組貧乏人として生きてると様々な感情に囚われて腐ってしまいたくなることは多々ある。
そもそも幼少時から間違いなく捻くれて育ってきている。
その幼少期の一縷の救いになっていたのは、様々な作品だった。
その中にどうしようもなく共感できる作品があると、「この作者なら私の気持ちをわかってくれる」という生きる望みを繋ぐことができた。
例えばとある小説を読んで「少女が恨みを持ってもいいのか!!」と殴られたようなショックを覚えたことがあった。
共感というのは、地獄のような日常の中にあっては、一本の蜘蛛の糸なのだ。
例えそれが架空の作品上のものであっても。
だから、描くならそういったものが描けたらいいな、というのが、まあ私如きでは烏滸がましいけれども理想なのである。
そのためには、自分の心の動きに蓋をしてはいけないし、その心の動きを絵に表現したい。
だからテンプレ表情で自分の心を動かさずに済むことより、恥ずかしいけれども自分の感情を動かすことを怠りたくない、と思うのだ。
