描かざるを得ない人とそうでもない人の違いについて〜インプットとアウトプット・内的必然と共感覚

なんか偉そうに書いてるなーと後から思って公開しようか迷ってたら完全に忘れ去っていた文章を今頃公開してみる

"「反逆をアイデンティティーにしてはいけない」。『コードギアス』監督が語る人生と成熟 "

https://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/codegeass-lelouch-of-the-revival

を読んでの雑感です。


「モノを作る」行為は、アウトプットされたものを見てお客さんがどう思うかに尽きますから、インプットはゲームでも絵画でもいい。

「反逆をアイデンティティーにしてはいけない」。『コードギアス』監督が語る人生と成熟

この部分は基本ラインは同意なんだけど、インプット元が自分のアウトプット先に近い媒体であればあるほど労力が減るので気楽に作れる。
その代わり誰でも出来るハードルの低さなのでよほどの完成度を自分に課さないと凡百の出来になりがち。
と現時点で私は捉えています。

>原点に当たらねばいけないわけではない。インプットにコストを割きすぎて何も作れなくなりますから。

「反逆をアイデンティティーにしてはいけない」。『コードギアス』監督が語る人生と成熟

これも関連していて、原点ていうのは「同媒体において」一番距離の遠いインプット元とも言い換えてもいいと思う。

私は最近精神状態との兼ね合いで近年美術館巡りが出来るようになって来たんだけど、
曲がりなりにも絵描きの端くれの更に端くれとしては、絵画は原点だと思うし、見ると色々得るものがある。
自分の描くものに得るモノが欲しくて行ってる訳じゃないけど
絵を描く原動力って
絵画に込められたこの無形のエネルギーだよなと再確認出来る。

つまり、美術館巡りはこの無形のエネルギーを浴びに行ってるんだけど、
じゃあ美術館に収められてる絵ってのは画家が
右見て左見てキョロ充みたく他の画家の絵を気にして描いたかっていうとほぼ絶対違う
と思うわけです。

他の画家の絵は媒体同じで同時代に生きて
ともするとライバル意識を持って競い合う画家同士ってのもいたかもしれませんが、
競い合うにしてもお互いの絵を参照するのではなく画家自身のインスピレーションの湧く画題を見つけて(少なくともそれは同種の画家仲間の絵ではなく、現実又は想像上のオブジェクト)、それをキャンバスの上にエネルギーを込めて再現する、ということがほとんどではないかと考えています。

キョロ充して画家仲間の絵を盗み見たり仲間の絵をベンチマークに使ったり、そういった描き方をしていては時代を超えて私達に訴えかけるエネルギーを内蔵する絵にはならないと思うからです。
そもそも画家は自分が内蔵するエネルギーの捌け口として絵を選んでいるわけですから、キョロ充するという発想自体があり得ないことです。
なぜならキョロ充は自分に内蔵エネルギーが乏しい人が行う行動だからです。
内蔵エネルギーの捌け口を必要とする人間がコソコソとライバルをベンチマークするような暇人であるとは思えません。
内蔵エネルギーの捌け口が必要なのにライバルの絵の方が気になるとしたら、それは

自分の内蔵エネルギー<他人の目、賞賛

という不等号式が成り立つ場合でしょう。
自分の内蔵エネルギーより他人の目や他人からの賞賛の方が気になるのであれば、それは捌け口が必要なタイプ、ひいては必要に駆られて描かざるを得ないタイプの人間ではない、ということになりましょう。

要するに手近な同族の作品をキョロ充よろしく見回してそれをベンチマークして寄せて描くのは
 一番労力がかからない
 ≒描くのにほぼエネルギーがいらない
 ≒見る人もエネルギー(感動)を感じない
という、描く目的としては本末転倒になりかねない手法

ということです。

この「内蔵エネルギーの捌け口が必要=必要に駆られて描かざるを得ない」状態を「内的必然性がある」状態と私は定義しています。

この、内的必然性があって描くタイプの人間はキョロ充描きはしないと考えられます。
内的必然がある場合、アウトプットの形が自分の内的エネルギーの形にぴったりしていないと、吐き尽くした感が持てず、ある種の残尿感のような居心地の悪さを覚えるからです。
これはあくまで「描く当人にとっての内的必然」なので、自分にぴったりのアウトプットの形が、キョロ充して左右見回すような手近な「外部」に転がっているはずがないことは、内的必然性を抱えた当人こそがよく知悉しているはずです。

また、「内的必然性が体内にセットされている」タイプの人間は労力が少なくて済むインプット元にはそもそも反応しないでしょう。
自分のアウトプット手法と全く無関係に、風を感じては画欲が湧き、音楽を聴いてはシーンが浮かび、小説を読んでも、旅行をしても、コンサートに行っても、いいことがあっても、あるいは悪いことがあっても画欲が湧くはずです。
そこには打算や捕らぬ狸の皮算用も存在せず、ただ純粋に描きたいという欲だけがあるはずです。
なのでそこで労力の多寡を計って労力の少ないキョロ充描きという手法を選択するような打算もないはずです。

そもそも内的必然というのはそういった効率や打算とは無関係の体内にセットされた荒々しいエネルギーの塊だからです。
そして内蔵エネルギーも自分のアウトプットの形態とかけ離れたインプット元(画題)に基本的には反応するからです。

なぜなら、絵を描く…または何らかの他の手段で創作をするという行為は「そこにあるはずのないモノ」を媒体…絵や文章や音楽など…に乗せて他人に伝える、言い換えれば恣意的に共感覚を他人に与えることと言い換え出来るからです。
絵や文章に感情が乗り、場面が浮かび、感覚まで伝わる場合すら往々にしてある。
それは正に恣意的に乗せた共感覚とも言えるでしょう。

ここでまた引用すると

溜められないからです。SNSでポンポンつぶやいちゃうわけじゃないですか。「あれが気に食わない」とか「私のここを見て」とか。つぶやくのをやめて、溜めて、溜めて、溜めて……それを作品にすればいいんですよ。

言うに言えないことってあるじゃないですか、人間って。世の中に対する恨みつらみとか、妬み嫉みとか、もしくはその人だけの正論とか。それをネット上で小出しにしちゃって勿体ない。そういうのは、もっと溜め込まなきゃダメだと思うんですよ。気軽にできる時代だからこそ、アウトプットは気をつけなきゃいけない。

「反逆をアイデンティティーにしてはいけない」。『コードギアス』監督が語る人生と成熟

ここで言う「溜めて、溜めて、溜めて……それを作品に」する、その元のエネルギーが私の定義する内的必然です。
SNSで発散して済む程度の内蔵エネルギーは逆に作品化するほどのものではないとも言い換え出来ます。
しかしそれでは足りない、もしくはぴったり来ないので残尿感を覚えてしまい、どうしても内圧が高まる、のであれば内的必然を持った…描かずにはいられないタイプの人間なのだと私は判断します。

もしそうであるなら、キョロ充をしてカジュアルに他人のアウトプットの結果をなぞるより、自分の内的必然にぴったりなアウトプットの形を模索し獲得する方が、ずっと実りと手応えとやりがいを、確実に、そしておそらく永遠に得られるはずです。
そこまでの労力なんて払いたくない、と言うのであればやはり

自分の内蔵エネルギー<他人の目、賞賛

であり、本来的に内的必然で描く人間ではない…描かざるを得ない人間「ではない」、という結論になると思うのです。

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