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小さな温度を残すことがあるかもしれない


朝、道ばたに咲いた名も知らない花を見て、なんだか立ち止まってしまった。誰に見られるでもなく、そこに咲いているだけで、道の景色を少し明るくしている。人も、花みたいにただそこにいるだけで誰かに光を残すことがあるんだろうなと思った。

子どものころは、人の役に立つって、すごく大きなことをしなきゃいけないんだと思っていた。なにかの発明をしたり、賞を取ったり、目立つようなことや、社会貢献といわれるもの。でも大人になってみると、自分にしかできない役割って、もっと静かで小さなものに潜んでいる気がしている。たとえば、友だちがため息をついたときにただ黙って一緒に座っていられるとか、うまく言えない気持ちを言葉にして代わりに差し出せるとか、絶妙なタイミングで目を合わせるとか。そういうことこそ、その人だからできることなんじゃないかと思う。


夕方、部屋の窓から見える空が茜色に変わっていくのを眺めながら、「私はどういう人間なんだろう」とふと考えた。目立つような力は持っていないし、器用なわけでもない。でも、心になぜか引っかかるものや、美しいと思うものを見つけて、それを大事に抱えていくことならできる。たぶん、それが私の役割に繋がることなんだと思う。

人にはそれぞれ、持って生まれた光のようなものがある。強い光の人もいれば、淡い光の人もいる。淡い光は、強い光の中だと目立たないけれど、やさしく周りを照らしている。その光は誰かと比べるためにあるんじゃなくて、その人自身が歩む道を、そしてすれ違う人の道を、明るく照らしている。光りかたはみんな違う。


夜、台所でお湯を沸かしながら、窓の外にひとつ星が光っているのを見つけた。毎晩空に出ているのに、気づく人もいれば、気づかず通り過ぎる人もいる。でも、その星は「見てほしい」なんてきっと思っていない。ただそこにあって、遠くから淡々と光っているだけだ。人もきっと同じなんだろう。自分がどういう光を持っているのかに気づいて、それを輝かして生きていく。それだけで十分役に立っているのかもしれない。

私は何者でもないけれど、私にしかできないことがある。それは、私という人間の目を通して、この世界の一部を見て、感じて、言葉や仕草、行動にして差し出すこと。誰かがそれを受け取るかどうかはわからないけど、受け取った人の中に小さな温度を残すことがあるかもしれない。

自分を大きく見せようとする必要はなくて、逆に小さくおさめようとする必要もない。ただ「私はこうである」と、自分の光に同調して生きていく。それが、役割という言葉よりもっと根っこの、本質的な生き方なんじゃないかと思う。


お湯が沸いて、ポコポコと音が響いた。カップに注いで両手で抱えながら、さっき見た星をもう一度思い出す。たったひとつの小さな星が、宇宙の広さの中で確かに輝いていた。私もまた、この日常の中でひとつの光として存在しているんだろう。誰かに見つけてもらえなくても、その光はここにある。そのことを知っているだけで、静かに満たされていく気がした。





ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

今日もよき日でありますように!





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