「特に書きたいことはない」私の「何か書きたい」衝動
少し前から「ジャーナリング」とか「モーニングノート」などが推奨されていたことは知っていた。文章の正しさも他者の目も気にせず、とにかく自分の頭の中で渦巻いている思考や抱いている感情を吐き出すように紙に書きつける作業。思い返せばメソッドとして世間で認知される前から、私は自分の胸の内側にモヤモヤが溜まってきた時、びっしりと文字でノートを埋め尽していた。
それはたいてい自分の情けなさ、恥、卑怯さ、行動ができずに燻っていることに対する非難の言葉だったり、悲劇のヒロインめいた泣き言だった気がする。読み返す気なんて到底起きず、ノート一冊書き切った時点でいつも何の躊躇もなくゴミ箱に捨てていた。でも今思うと自分を責める文は、本音とはちょっとずれていたと思う。確かにあの頃は自分のことが嫌いで仕方なかったし、自分なんて空っぽだと思っていた。でもあのノートで自分の悪口を書いていた私は、誰の目にも触れない文でさえ本音を吐き出すことを避けていたように思う。他者の目を気にして生きていた。どこまでもいい子ぶりっ子だった。
人に嫌われたくなくて、人からどう思われるかを気にして、言いたいことの半分も口にできていなかった。親や周囲の人間の顔色を窺ってばかりで、優等生の仮面をつけて行動していた。その結果、もう自分が何をしたいのか、どう生きたいのか、なんにもわからなくなっていた。そんな状態で本音で向き合えていなかったから(当時はメソッドと知らなかったけれど)「ジャーナリング」をしていてもいい効果がもたらされなかったのだと思う。
「ジャーナリング」とは別に、なんとなく作家業に憧れがあって、ノートに物語の断片のようなものも書いていた。五百円玉貯金を貯めて初めて買ったパソコンで、小説家になることを夢見ていた時期もあった。でも書けなかった。キーボードを叩くよりも白いパソコン画面を睨んでいる時間の方が長かった。
その反動なのか、相変わらず考えなしにダーッと思いを書き出すことはできていた。しかしその作業も、だんだんと虚しくなっていった。いつまでも堂々巡りでつまらない泣き言ばかり書くことに辟易して、次第に書くことから遠ざかった。
でも何か書きたい。
というか「出したい」が近かったかもしれない。絵を描くでも、歌うでも、とにかく表現がしたかった。外に向けて何かを出したかった。でもその「出したいもの」ってなんだろう。書くとしたら何について?
燃えるような怒りも、震えるような感動も悦びも、立っていられなくなるような喪失感も、私には誰かに強く伝えたいことが何もなかった。だから自分は単に「作家」などのクリエイターとしての立場に憧れがあるだけで、純粋にものを書きたいわけではないのだと思っていた。それに私にとって書くことは、時には「苦しい」ものだったし、今でも書く前は腰が重い。とてもじゃないけど「好きなことで生きていく」なんてキャッチフレーズに自分を当てはめて考えることはできなかった。だから「何か書きたい」「表現したい」という声が聞こえてきても、聞こえないふりをするようになっていった。面倒くさいし苦しいし、報われないから。
それでちょっと前から考えていたこと。あれ? これって何かに似ていないかなって。面倒くさいし苦しいし報われない‥‥でも好き。そう、恋愛だ。ちょっとずれているかもしれないけど「特に書きたいことはない」でも「何か書きたい」っていうのも、どこが好きかって一言で言えないけど、なんか好き、みたいな。
で、今日散歩をした先で立ち寄った書店で出会ったコミックエッセイ。そこで同じように「好きなこと」を恋愛に例えているエピソードがあって、自分の考え方は見当はずれじゃなかったんだと思えて、ちょっと嬉しくなった。
「恋愛」という甘い響きの中にも、嫉妬とか想いが伝わらない苦しさとか、すれ違いの寂しさとか苦しいことがたっぷり詰まっている。でもそれは「好き」だからだ。そして知りたくなるし、好かれる努力もするし、マメに行動を起こすことも怠らない。面倒だなって思っても、それを上回る好きという感情があるから。
なんだ、面倒くさいのも、のたうち回るくらい苦しくなるのも普通のことだった。恋愛における「なんかわかんないけど好き」も、「マメで優しいから」「私のことをめちゃくちゃ好きでいてくれるから」っていうよりむしろ最強な気がしてくる。
というわけで「特に書きたいことはない」私の「何か書きたい」衝動も、捨てたものではないと思うのだった。
