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委ねて描く、からはじまった記録と研究

なぜ「線の記録-未字研究」をしているのか、どうやってこの世界に出会ったのかについて、今日は書こうと思う。

「なぜ描いているのか。」
と問われたら
「出てくる線がつくる世界をみたいから。」

もともと、瞑想しているときに身体と腕が動くイメージがあり、実際に身体が動く感覚があった。
それは何かを描いている、そういう感覚だった。
ペンを実際に持たなくても。

そして、瞑想のなかで、言葉の概念に行き着くこと、出会うことがあって、そういう時は、そのあとそのまま紙面に向かって描くということをしていた。

美しい文字を書くことがずっと好き。
自分で美しい文章や言葉を書くのが好き。
自分のうちなるものを詩や言葉にして書くのも好き。

誰にも邪魔されず自分の世界を紙面におこすことが私がカリグラフィーを続けてきた、これだけ長く続けられてきた大きな理由のひとつ。

カリグラフィーに出会ったあと、Instagramなどのsnsが発達して、カリグラフィーも昔のようにマイナーなものでなくなり、たくさんの文字を書く人々とその人々が書くものに出会うようになった。

美しい文字、その人なりの表現、それはとても面白い世界。
ただ、「それらと私は同じことをしているのか?また同じことを目指し続けるのか?」
という疑問がずっとあった。

同時に、素晴らしい技術を目の当たりにすると、また、生徒さんたちに長くお伝えしてきたなかで、私自身の技術の向上と研究を深める必要性をより感じるようになってきている。

ただ、その鍛錬をすることだけでは、私の表現をつくりだすことに至らない感覚。

「何かあるのでは」
「どうすることが自分だけの世界を、この私なりに培ってきたもので創ることかできるのか」
という想いが深くなってきていた。

そんなときに、
瞑想のあとに書いてみる、「何かを描こう」と意図せずに、作為なく出てくるものに委ねて描いてみることをしてみたら、今までの私の表現に近いものが、でも、予期しないもの、が出でくることに出会った。


10日続けてみて思っているのは、
ペンや筆の扱いに私の身体が慣れてよく知っている。
どのペンや筆をどのように使うとどのような線が出るのかよくわかっている。

こうしたことの延長線上に、委ねることで成立している世界。
そして、私のなかにある語彙から何かが出てくることもある。

線の先に文字がのることもある。言葉にならない、その以前で終わることもある。
概念的なものが描いている途中に浮かんでいても、紙面に起こすまでにならない。
そこに、本質的な感覚があった。

世界には言葉にならない、それ以前のもの、というものがたくさんある。でも、それは「何もない」のではなく、「ある。」

現代美術や前衛的な表現、今まで私が理解が難しいと思っていた世界が、
「あ、こういうことがあったのかもしれない」と少し近づいた気もしている。

この日々の取り組みがどこにいくのか
自分自身が見てみたくて続けている。

やらなければ消えていく意識。気配。

瞑想を通して、世界と融合しているときにそこにある何か。

それを作為なく、自己をなるべく排除して出す、
ということが
今、私ができること、すべきことのように感じている。

答えは出さず
ただ描く。
ただ続ける。

これが今の線の記録-未字研究につながっている。

この日の制作の様子はInstagramでも記録しています。

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