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【FF7二次創作小説】 亡霊(中編)

コスタ・デル・ソルの高台に建つ邸宅の一室で、テーブルを挟んで2人の男が差し向かいに座っている。屋敷の主人である老人と、その客だ。大きな掃き出し窓から望む空は淡い藍色に染まっており、星がいくつも瞬いていた。しかし、その美しい景色には目もくれず、2人の人物は互いの陰鬱な顔を眺めやっていた。
テーブルの上には、客──神羅カンパニーの科学部門を率いる宝条博士だ──が持参した小箱が置いてある。宝条は、もったいぶるようにわざと時間をかけてその蓋を開け、ビロード張りの内側に収められた品を目の前の人物に示して見せた。
ぎこちなく腕を伸ばし、老人はそのくすんだ灰色の球体をそっとつまみ上げた。天井のライトにかざしてあちこちから眺めると、球体の中心に白色に輝くもやがゆっくりと渦巻いているのが見て取れた。

マテリア──ライフストリームの結晶体。この星がこれまでに蓄えてきた自然現象や生物の体の構造などに関する知識を封じ込めた、いわば記憶媒体だ。身につけることで、星の記憶にアクセスし、一時的に世界の理に影響を与える力を借り受けることができる。あるマテリアは炎に関する物理法則を、別のマテリアは傷の治癒の過程で起こる細胞の働きを促す力を司っている。
天然のマテリアを生み出すのは豊富なライフストリームとその「場」の性質だ。荒れ狂う強風、轟く雷鳴、狂った磁場──そういった条件が風の、雷の、混乱の力を宿したマテリアを作る。また、神羅の兵器開発部門で盛んに行われていたように、マテリアを人工的に作り出すこともできる。より有用なマテリアを求めて実験を繰り返した結果、そこに宿す星の記憶を選別し、望みの力を司るマテリアを造ることすら神羅は可能にした。

今、老人の掌の上で鈍い輝きを放つマテリアの中に封じられているのは自然現象に関する星の記憶ではない。データ化された、人間の意識だった。

Fully Archived Consciousness Transfer Operation through Yggdrasill ──FACTORY計画について宝条から最初聞いた時、老人はそれがなんの役に立つのだろうかと訝しんだ。人間の意識をデータとしてマテリアに記憶させる……確かに画期的なことかもしれないが、所詮は研究者のお遊びだ、と。だが、そのマテリアを介して別の肉体に意識を移植することができると聞き、俄然興味が湧いた。
宝条の計画は神羅の内部では評価されず、研究継続に必要な資金が無いと聞いて、場所も金も全て提供した。長い道のりだった。その道は決して平坦ではなく、数多の犠牲の上に築かれたものだ。目の前のマテリアはその苦労がついに結実した姿なのだ。

「……この中に私の精神が…」
老人が思わず漏らした呟きを聞き、向かいのソファに腰掛ける宝条が不機嫌そうに──この男が上機嫌だった試しなどないのだが──鼻を鳴らした。
「はっ、精神! 精神ねえ」
その小馬鹿にしたような態度が老人に苛立ちを抱かせる。いや、宝条が無意識にしているであろう貧乏ゆすりも、リゾート地にあってもよれよれの白衣を手放さないその頑なさも、老人にとっては何もかもが不快だった。老人は宝条から顔を逸らし、窓の外に目をやった。常夏の楽園であるこの地には珍しく、淀んだような色合いの雨雲が空のひとところにわだかまっているのが目に入った。
老人の胸中に斟酌などすることなく、宝条は言葉を続けた。
「精神というよりは思考パターンだな。脳の中の神経細胞の配置と繋がり方、ある神経細胞が活性化したときにその電気信号がどの経路を伝わって行くのか……そういった類のデータの集積に過ぎんよ」
思考パターン──その単語が老人にさらに不愉快な記憶を呼び覚ました。データを取るためにディスプレイと一体型になったヘッドギアを装着し、目の前にものすごい早さで現れては消える様々な文字、図形、画像、動画に対して示される脳波を計測した時のことだ。夥しい情報に脳がパンクするような、頭の中がぐるぐるとかき回されるような感覚だった。装置から解放された後もしばらくは吐き気が治まらず閉口したものだった。そうやって得られたデータは宝条の構築したアルゴリズムをもとに加工され、元の人格の高度思考パターンに基づいてあらゆる刺激に対する応答を予測するプログラムとしてマテリアに格納されている。そのプログラムを端的に説明するのに意識や精神という言葉が関係者の間で使われているに過ぎない。科学者ではない老人には細かい話はわからないため、その説明で納得していた。しかし──

こうして完成品であるマテリアを、自分の“意識”を宿したというそれ﹅﹅を目にした時、老人は違和感を禁じ得なかった。このマテリアを他人の肉体に移植したとして、一体それは誰なのだろうか、と。
その疑問を口にすると、宝条は黙ってテーブルの上の紅茶のカップを手に取り、ソーサーの中になみなみと紅茶を注いだ。
「カップとソーサー、どちらに入っている紅茶も同じものだ。味も、香りも、舌触りも。人間の意識も同じことだ。重要なのは紅茶であって器ではない」
テーブルの上に溢れた紅茶の水滴にライトの光が反射する。その水滴ですら同一の意識だというのだろうか。
老人がじっと見つめる間に水滴はテーブルクロスに吸い込まれ、茶色い染みだけが淡い影のように残された。遠くの方で犬の吠え声のような雷鳴がかすかに聞こえた。

「ところで体調はどうだ?」と出し抜けに宝条が訊ねた。
常日頃の言動に似合わぬその質問に、顔を上げた老人は思わず目の前の男の顔をまじまじと見つめた。
「……どういう風の吹き回しだ」
「大切な友人の体だ。心配もするさ」
くつくつと忍び笑いをもらしながら、そんなことを言う。脂で汚れた眼鏡の奥に覗く瞳がぬめりとした光を放つ。執拗に老人の体の上を這い回るその視線は、友人を心配する眼差しというよりは実験動物を観察するそれに近い。
「医者の話では今のところ問題ないそうだが……」
老人は、思わず胸の真ん中に手を当てた。正確には、その脆い胸骨の内側に収納された真新しい機械の上に。神羅の医療技術の結晶ともいうべき人工心臓が、機能の低下した老人の心臓に代わって昼も夜も働き続けている。
「そうか、それは良かった」
宝条の口が醜く歪み、黄色く汚れた乱杭歯がちらりと老人の目に入った。その奥にぽっかりと開いた深淵も──
深淵の奥から宝条の声が響いた。「楽しみだな」と。

冷たい感触に体がびくりと震えた。リバーウッドが目を開けると、そこは自宅にしているコスタ・デル・ソルの別荘の一室だった。窓の外に星は見えない。天頂に差し掛かったばかりの太陽から伸びる日差しがテーブルの上のグラスに反射していた。氷はすっかり溶け、グラスの外側についた水滴がテーブルに小さな水たまりを作っていた。グラスに伸ばしたままだった指先が、その水に触れていた。
このところ眠気が常に身体の隅々にまとわりついていた。年齢が年齢なので、それも致し方ないことなのだろう。それにしても、と思いながらリバーウッドは濡れた指先を見つめた。本格的にガタが来ているということか。
新しいボディに移る日が待ち遠しい──リバーウッドは痛みに顔をしかめながら、強張った脚を撫でさすった。

思えば、宝条と会ったのはあれが最後だった。宝条が屋敷にマテリアを持ってきたその少し後で、神羅カンパニーのトップだったプレジデントが殺されるという大事件が起きた。息子のルーファウスが率いる新体制へ移行した頃から宝条はメインテーマの研究プロジェクトにかかりきりになり、この屋敷を訪れることもなくなった。そのあと世界は大混乱に陥った──はじめに海から巨大な怪物が現れたかと思うと、天から降ってきた燃える隕石と星の内側から迸ったライフストリームが衝突し、人々の営みは破壊された。聞くところによると、宝条はあの厄災の日にミッドガルで命を落としたらしい。
計画の要である宝条が消えたことで、その完遂は絶望的かと思われた。だが、この一年ほどの間にボカの目覚ましい働きにより、研究を進めることができた。あの粗野な男が荒事以外で役に立ったのは意外だったが、奴も長年宝条の下で働いてきたのだから多少の薫陶は受けていたということなのだろう。
計画は遅れに遅れたが、ついに理論は完成した。「とこしえの園」から逃げ出した被験体も全個体というわけにはいかないが次々に収容されている。脳に埋め込んだ電極への信号によって自我を封じ、外殻として機能する、若く美しい器たち。

窓の外には抜けるような青空が広がっていた。神羅のいなくなったこの世界はなんと清々しいのだろう。老人は低い笑い声をもらした。ようやく順番が回って来たのだ。
世界を支配する順番が──

「楽しみだな」と、頭の中で誰かが囁いた。

乱暴にキーボードを叩いていた女が、小さな舌打ちとともに荒いため息をついた。「まただ」とごく小さな声で呟くと、八つ当たりめいた力を込めてエンターキーを押す。肩のあたりで切り揃えられた、さらさらと癖のない金髪が顔の前に落ちかかり、女は苛立たしげに髪をかきあげた。
それに気づいたルーファウスは、書棚から引っ張り出した資料を手に持ったまま、ひっそりとその背後に忍び寄ると、女の耳元で「どうした」といきなり訊ねた。
「うわっ⁉︎ 社長! 驚かさないでくださいよ」
慌てふためく女は、ルーファウスの部下だ。名をイリーナという。その心底迷惑そうな顔に向かってくつくつと笑いを漏らしながら、ルーファウスは手近な椅子を引っ張ってきて腰を下ろし、彼女の目の前にある巨大なディスプレイを眺めやった。
「笑ってる場合じゃありませんってば! またですよ、不正アクセス……」
げんなりした様子のイリーナが、先ほどから調べていた外部からのアクセスログを指し示す。ルーファウスも端正な顔をかすかに曇らせて、画面に素早く視線を走らせた。今表示されているのは、監視カメラへのアクセスログだ。
「同じ奴か?」
「はい、おそらく……。絶対陰険なモテない男ですよ、こいつ」
イリーナの言うようにモテない奴であるかは置いておいて、その執念深さは折り紙付きだ。3年ほど前から定期的に神羅のシステムへのハッキングを試みているのだから。最近、その出現頻度がますます上がっており、イリーナの苛立ちを加速させていた。
「何を、探しているのだろうな」
ぼそりとこぼしたルーファウスの呟きは、猛然とキーボードを叩き始めたイリーナの耳に入らなかったようだった。カタカタというその音は、“探す”というキーワードと相俟って、子どもの頃に聞いた『首なし騎士の伝説』をルーファウスに思い出させた。馬に乗った鎧の騎士が、自分の首を探して夜な夜な暗い森を彷徨っているという。木々の間にこだまする蹄の音がだんだんこちらに迫ってきて──

再びイリーナは叩きつけるようにキーを押し、アクセスログのウィンドウを閉じると、各システムのセキュリティチェックを開始した。その音にルーファウスは現実に引き戻された。
「WROの連中じゃないでしょうね」イリーナは振り向きもせず、棘のある声でルーファウスに問うた。イリーナは今回の共同作戦が気に入らないのだったな、とルーファウスは思った。
「さあな…。だが、レノを助けるまでは向こうの手勢を利用させてもらう方が良いだろう。イリーナ、頼むぞ」
「わかってますよ」と、口を尖らせてイリーナは言い、ふと手を止めると首を巡らせて勝気な瞳でルーファウスを見つめた。「ところで社長、約束忘れてないでしょうね?」
「覚えてるさ。店、調べておけよ」
「ラジャー!」
目を輝かせて陽気に言い放ったイリーナは、また猛然とキーを叩き始めた。その音がルーファウスを先ほどの思考の続きに引き戻した。亡霊がうろついている。自分の死体を探して。

──そうだ、宝条の意識がいまだにどこかに保存されているなどという話をリーブから聞いたから、『首なし騎士』が思い出されたのだ。

荒みきった目をした赤毛の男が肩を揺らしながらのろのろと歩いている。ルーファウスの命で〈組織クエルポ〉に潜入しているレノだ。先を行く仲間﹅﹅の1人がレノを振り返り、「さっさとしろ、逃げられちまうぞ」と苛立たしげに叫んだ。
ごちゃごちゃとした路地は十数メートル先で右手に折れ曲がっている。壁に沿ってあらゆる種類のゴミが山積みになっており、その先の道はほとんど塞がれていた。事実上の行き止まりだ。ゴミの山を背にして、薄汚れた格好の子どもがガタガタと震えながらこちらを見ている。せわしなく顔を動かして、追っ手と路地の先を見比べて逃走の算段を講じているようだが、荒い息をつくばかりで、もう逃げる体力は残っていないようだった。痩せて目ばかりが大きく見える少年だ。
「手こずらせやがって」と言いながら、追っ手の1人が、へたり込んだ少年の背にのし掛かった。その男は膝を使って少年の体を押さえつけると、顎を掴んで無理矢理振り仰がせた。少年の背骨は軋み、喉の奥から風が洩れるようなか細い悲鳴が上がった。その様子になんら躊躇することなく、別の男が目蓋をこじ開け、涙が薄い膜を張ったその眼球に懐から取り出したペンライトの紫色の光を当てる。

──頼むから外れであってくれ。
レノの願いも虚しく、特殊なライトが緑色に輝く環状のバーコードを少年の虹彩に浮かび上がらせた。ライトを当てる男の肩越しにその光を認めたレノは、心の奥にまたひとつ昏い炎が灯ったような気がした。もう何度目だろうか。目の前で繰り広げられる非道な光景から目を逸らすこともそれをぶち壊すことも出来ずにいるうちに、自分が本当の腑抜けに成り下がったような鬱屈した気分に囚われる。
「やった、当たりだぜ!」
快哉と共に下卑た笑い声が上がった。レノは地面に唾を吐き捨て、男たちのにやけた面をぶちのめしてやりたいという衝動をなんとか抑えた。
その時、なんとか逃げ出そうと暴れていた少年が顎を掴んでいる男の手に渾身の力で噛み付いた。一瞬緩んだ戒めを掻い潜って少年は駆け出そうとするが、すぐさま別の男に取り押さえられた。それはあまりにもささやかな反撃だったが、レノは心の中に一陣の風が吹いたような気になった。
「痛ってえな!」
舌打ちと共に反射的に少年を殴ろうとした男の腕をすんでのところでレノが掴む。
「やめとけ。傷物にしたいのか」
「てめえがやる気ねえからだろうが!」と、噛まれた手をわななかせながら、男が凄む。半端者のチンピラだが、なまじ実力があるせいか組織の中では重宝されている男だ。どんな理屈だよ、とレノは思ったが、口には出さずに大人しく男の手首から手を離し、両手を上にあげてひらひらと振って見せた。
男は、レノを頭ひとつ分上から見下ろし、急に酷薄な笑みを浮かべた。“商品”の代わりに目の前の優男で憂さ晴らしをしてやろう──そういう目つきだ。もう1人の男は少年を押さえたままにやにやと事の成り行きを見守っている。
──と、その時、レノの目の前に立つ男の足元に何かがポンと当たった。着ているシャツのボタンが落ちたのだと気づくと同時に、男の腹の辺りにひやりとした冷たい感触があった。男が下にちらりと視線を走らせると、一体いつ取り出したのか、レノ──組織では〈赤毛のペロ〉で通っている──が、クロム鋼のナイフをシャツの隙間からねじ込み、自分の鳩尾に突き付けているのだった。必死に体をよじっても、ナイフの切っ先は横隔膜越しに心臓を狙い続けてくる。男の動きに合わせて、また一つ音もなくボタンが切り飛ばされた。しかし、ナイフの斬れ味や扱いのうまさよりも、レノの落ち着き払った態度と温度を感じさせない瞳に男は恐怖を覚えた。
すっかり血の気の引いた男の顔を見て、レノはナイフを引っ込めた。厚手の長丈ジャケットの内側、サスペンダーに吊るしたホルダーにそれを納めると、親しげに男の肩に手をかけながら弁解の言葉をかける。
「悪いな、実は腹が痛くてよ。代わりにこのガキの後始末はやっておいてやるよ。お前らは飲みにでも行けばいい」
「……あ、ああ」
男は改めてレノの顔をじっと見た。先ほどとは打って変わって人好きのする笑みを浮かべてはいるが、まばらにかかる赤い髪の向こうから瞳に宿る無機質な光が男をじっと見据えている。こいつはまずい、自分とは“モノ”が違う。男は直感的に悟った。
互いに単独行動は厳禁という上からの命令を無視することになるが、そんなことに構ってはいられなかった。男はもう1人と連れ立って、その場からそそくさと逃げ出した。

足音が遠ざかっていくのを背中で聞きながら、レノは煙草に火をつけ、宙に煙をふかした。男たちがその場から消えてたっぷり10分は経った頃、山積みのゴミから漏れ出した液体で濡れた地面に吸いさしの煙草をプッと吐き出した。靴の踵で踏みつけると、それはジュウと微かな音を立てた。
「さて」と言いながら、レノは恐怖で固まったままの少年の方へゆっくり近づいた。怯えてはいるが、その瞳には抗ってやろうという強い意志が窺える。
──いいツラをしている。気に入ったぞ、と。
「……お前の根性を見込んで頼みがある。名前は?」
少年は答えない。当然だ。それくらい警戒心が強くなくては子どもだけで生きてはいけない。
「お前、変な手術を受けたことがあるだろう」レノは言いながら自分の頭を人差し指でトントンと叩いて見せた。「そのせいで狙われてんだぞ、と」
「……知ってる」わずかな沈黙ののちに掠れた声で少年が言った。「一緒にいた友達はもうあいつらに捕まった」
「『とこしえの園』とかいう孤児院で一緒だった奴だな」
断定口調のレノの問いに少年は無言で頷くと、少し安心したのかほっと小さく息を吐き出した。その白さを見て寒いという感覚が思い出されたのだろう。剥き出しの腕を手で擦り、少年はぶるりと体を震わせた。
レノは自分の上着を脱いで子どもに向かって放ってやった。その場から動かない少年に向かって顎をしゃくる。使えよ、と。
少年が恐る恐る上着を拾い上げ、暖かなそれに包まると、つんとした薄荷煙草の匂いがした。まだ信用するわけにはいかないが、自分たち元被験者を捕まえようとしている連中の仲間ではないらしい。少年は目をすがめてレノに訊ねた。
「……あんた何者?」
先ほどの鮮やかなナイフ捌きからすると一般人とは思えない。かと言って、WROの隊員というわけでもないだろう。それよりももっと危なそうで、もっと頼り甲斐がありそうだ。
レノは尖った歯を剥き出した、獰猛な笑みを浮かべて見せた。
「ハンターだ」
予想外の返答に少年は内心面食らった。狩人ハンター? 一体何を狩るというのだろう。
「……よく、わからないけど…俺を助けてくれるってこと?」
「まあ、そういうことだな」と言いながら、レノは新しい煙草に火を点けた。少年の様子を観察しながらさらに続ける。
「お前には選択肢がある。今見逃してやれば安全な場所まで逃げられるだろう」
少年の表情は動かない。
「……別の選択肢って?」
「こちらの頼みを聞いてくれれば、お前だけじゃなく他の奴らもまとめて助けてやる」
少年はほんの少し目を見開いた。強い光を宿して。
レノは少年の目に浮かんだ決意の表情を見逃さなかった。
「俺、やるよ」
「よし。全員まとめてどこかに閉じ込められているはずだ。病院か研究所か……そんな所だ。その場所を知らせてほしい」
どうやって、と問う少年にレノは上着の内側を探るように言った。ダボっとしたジャケットの内ポケットにはぬいぐるみが入っていた。
「こいつを持っていってくれればそれでいい。もし取り上げられても気にする必要はない。あとは俺たちの仕事だ」
たち﹅﹅? 組織として動いているということか──? 少年の頭に疑問が浮かんだが、目の前の男に聞いたところで教えてはくれない気がした。
代わりに、少年はしげしげと手の中のぬいぐるみを眺めた。頭に小さな王冠を戴いた、白地に黒のハチワレのその猫はどこかひょうきんな笑みを浮かべているように見える。自分や他の子どもたちの命運を託すにはあまりにも意外な相手だった。だが、やるしかない。
「わかった……本当に助けてくれるんだよね?」と、少年はレノに念を押す。
「任せとけ。お前をこんな目に遭わせた奴らをぶっ飛ばしてやるぞ、と」

「信号キャッチ! 解析開始します」
その言葉に、エッジにあるWRO本部の管制室の空気がざわりと沸き立つのが感じられた。オペレーション〈亡霊狩りゴーストハント〉の作戦本部に詰める面々は各々作業の手を止めて、壁一面を埋め尽くす巨大なモニターを凝視する。じりじりとするような沈黙の中、先程のオペレーターがキーボードを叩く音だけが響いていた。連日の空振りからくる徒労感はどこかに消え去り、期待と緊張がその場を支配していた。
湯気のたつコーヒーカップを片手に、リーブが解析を続けるオペレーターの目の前のディスプレイを横から覗き込む。無精髭をざらりと撫で、リーブは眠気覚ましのコーヒーを口に含んだ。
「何番ですか?」
「7番です。ジュノンの……港に近い北西の方ですね」
「わかりました」と答えてリーブはカップを置くと、壁面モニターに素早く目を向けた。そこにはジュノン全体をいくつかのブロックに区切った市街図が表示されている。7と数字の付されたブロックの中程に、信号を受信した受信機の位置を示す輝点が点滅している。
移送される被験者に首尾よく発信機を仕込んだと、ルーファウスを通じてレノから連絡があったのが3日前。ケット・シーはうまくやってくれたようだ。あいつはきっと不満をこぼすだろう。動かないでぬいぐるみのフリを続けるのは大変だった、と。ケット・シーは、リーブ自身が〈インスパイア〉という特殊能力で生命を分け与えた存在──言わば分身だ。ただ、分身とは言っても完全に別個の存在であるため、思考の共有などはできない。残念ながら、今どこにいるのかも全くわからない。

各地域に張り巡らされた道路上に設置された受信機でケット・シーに持たせた発信機の位置を追跡し、ジュノンへと連れ去られたことまではわかったが、その後、信号を見失った。ジュノンを出たのではないかという見方もあったが、港を含めた街の出入り口は全て監視の目が見張っている。諦めずに携帯用受信機を所持した隊員たちで捜索に当たらせたところ、1人の隊員が当たりを引いた。そして本日未明、「shellリスト」に記載された被験者たちの救出作戦は次のフェーズへと進んだのだった。
現在から遡ること数十分前、ジュノン近郊の森の中から、人目につかぬよう飛び立った一羽の鳥がいた。ただし生きた鳥ではない。それは金属の体に多様なセンサーを搭載した、超小型の無人偵察機だった。コードネームの「アルコン」が示すように、実物の鷹そっくりに作られており、地上からの目視では本物と区別がつかないほどだ。
「アルコン、ジュノン上空に到着。現在高度およそ100m。巡航速度時速20kmで旋回開始」
「HQ了解、7番ブロック付近で探索を開始してください」
WRO作戦室のオペレーターたち間で矢継ぎ早に交わされる会話が緊迫感を増していく。
「『鷹の目』、起動します」
アルコンに搭載された可動式デュアルカメラ──通称「鷹の目」──で捉えた映像が、WRO本部へリアルタイムで送信されてきた。モニターに映し出されたジュノンの街並みは、まるでジオラマを覗き込んでいるかのようだった。街の西側一帯は港とそれに隣接する倉庫群で占められているが、少し中に入るとオフィスが立ち並ぶエリアがある。古くから軍港として栄えてきたこともあって、神羅がらみの研究施設も多い。ヴィンセントの指摘を受けて、被験者が匿われている場所として目星をつけていたうちの第一候補がジュノンであった。
「赤外線ビーコンからの信号、アルコンの受信機で受信しました!」
モニターに映し出されたマップ上に、偵察機の位置を示す輝点とそれを中心とする円が現れた。その半径はおよそ500m。地上と上空、2台の受信機が取得した電波強度と方向の情報から、発信機の位置を高精度に割り出すべく解析班が動き出す。
「位置情報の補正を開始」
「位置情報……出ます!」
モニターに並ぶ無味乾燥な文字列を見て、作戦室に詰めている人々は控えめな歓声を上げた。小さく拳を突き上げるものもいた。
「アルコンのカメラを光学からサーマルに切り替え」
「赤外線ビーコンからの周期シグナル、確認しました」
サーマルカメラがビーコンから発振される赤外線を感知し、定められた間隔で点滅する点としてビーコンの位置がモニター上に可視化された。周囲をぐるりと塀で囲んだ、L字型の建物の敷地内だ。バタバタと職員たちが動き出し、市街図と突き合わせて建物の素性を明らかにする作業に入る。

「ダミー情報の方は」
「ネットワーク上に大量に流しています」
よしよし、ここまではこちらが先手を打てている──リーブは内心胸を撫で下ろした。
「ディープグラウンド・ソルジャー事件からこちら、WROもただ手を拱いていたわけではないのでね」というリーブの呟きには誇らしげな響きがあった。周りのWRO職員たちも頷いて同意を示す。
ディープグラウンド・ソルジャー事件の際に明らかになった、ネットワーク内を自由に徘徊する者たち。彼らがネットワークを介してこちらの端末にアクセスするのをなんとかして妨害しないと、情報の機密性は保てない。WROが1年以上かけて構築してきた戦術データ・リンク──情報通信の発信プロトコルだけでなく、発信元のそれぞれの機器の個別IDまで識別しての情報通信網──は今のところ期待通りに機能している。その本格的運用がいきなり実戦になるとは正直想定外だったが、始まってしまったからにはやるしかない。
「それにしてもなんとか間に合いましたねえ」
ギリギリもギリギリ、今日は例のパーティーの開催日だ。組織に潜入しているレノからの情報によれば、年に1回のそのパーティーには〈心臓コラソン〉も顔を出すらしい。この機を逃すわけにはいかない。
「どこかでこの借りはお返ししますよ」
にこりと笑みを浮かべたリーブは、後方のデスクで解析を続ける、小柄な女性に目を向けた。その視線に気づいて顔を上げ、レモンイエローの金髪をさらりと揺らして生真面目そうな表情で彼女──イリーナだ──は言った。
「お気になさらず。社長のご命令なので」
突貫工事にはなってしまったものの、実験段階にあった戦術データ・リンクを運用可能なレベルにまで押し上げることができたのは、イリーナをはじめとする現神羅社員たちの協力によるところが大きい。旧神羅時代からの電子戦のノウハウはほぼ全てルーファウスが引き継いでいた。部分的にとはいえ、その技術を共有してくれたのは正直ありがたかった。
そして、WROにも独自の強みがある。
「〈ゲートキーパー〉の様子は」
「今のところ異常ありません」
「よし。ネットワークの監視を続けて下さい」
情報の漏れもないようだ。ネットワークの世界の監視者に[[rb:彼女 > ﹅﹅]]以上の適任者はいない。

その時、ディスプレイの陰から誰かがリーブに手を降っているのが見えた。WRO情報分析班チーフのネッドだ。
「局長、あの建物は例の製薬企業の研究所でした」丸い背中を一層丸めてネッドが呟いた。「難病の実験的治療を行うための療養施設……ということのようです」
「なるほど」
脳に埋め込まれた電極のせいで意識を失うことは、原因不明の意識障害と言えなくもないかもしれない。完全に被験者たちを隠蔽しているわけではなく、まるっきりの嘘というわけでもない。なかなか知恵の回る悪党どもである。
「なんでもいいので正面切って捜索する口実を見つけてください」
「……わかりました」
法を守りながらギリギリのラインを攻める──少なくとも表向きは。そして定められた形式に則って、犯罪を裁く。WROを成り立たせているのは、秩序の守り手であるという人々からの信任だ。それを失うわけにはいかない。

亡霊を狩るための包囲網が完成しつつあった。

広大な空間の至る所に大小様々のゲートが浮かんでいた。ただの枠組みと大差ないもの、おざなりな鍵がかかっているだけのもの、堅牢なもの……ゲートの見た目は様々だった。それぞれのゲートからは細い通路が伸び、広場のような場所で近傍のそれらと合流していた。さらに、広場同士は太い通路で繋がっており、この空間いっぱいに張り巡らされた通路は、さながら網の目のようだった。頭をぐるりと巡らせてその光景を見やり、“ネットワーク”とはよく言ったものだ、とシェルク・ルーイは思った。
ここは電子空間。それぞれのゲートはネットワークに接続する端末に通じており、小さな光として可視化されたデータがひっきりなしにゲートを出入りしている。ふと遠くの方に目をやると、どこかのゲートから飛び出した小さな光の粒が通路を走っていくところだった。恋人への愛を囁くメールを誰かが送信したのかもしれない。

ネットの世界はどんなところかと神羅の研究者に以前訊かれたことがある。その時、シェルクは少し考えた末にたまたま手近にあった医学書に目を留めて、こう答えたのだった。脳の構造に似ている、と。脳の中で孤独な神経細胞たちが軸索を伸ばし、シナプスを介して信号を送受信する──そんなイメージがシェルクの頭に浮かんだからだ。シェルクの答えを聞いて、質問した張本人は「なるほど」と笑っていた。今はもう相手の顔も思い出せないが、雑談めいた会話を交わした数少ない思い出であるせいか、なぜか鮮明に記憶に残っている。

ネットワークの世界をダイレクトに知覚できる──それがシェルクの特殊能力〈センシティブ・ネット・ダイブ〉だ。
その能力を買われて、WRO局長のリーブからゲートの守護を依頼されたのが数日前。1人で気ままに暮らすアパートメントにいきなり訪問された動揺も手伝って、初めは渋っていたシェルクだったが、自分がかつて巻き込まれたディープグラウンド・ソルジャー事件に関係のあることだと聞かされて、首をつっこむことにした。「どうにもきな臭い。宝条が裏で糸を引いているようです」とリーブは言っていた。
「宝条は死んだのでは?」と訝しげに問うたシェルクに、リーブはこれまでの経緯をかいつまんで説明してくれた。その説明によると、宝条の思想を色濃く受け継ぐ組織がなにやら大規模な犯罪を画策しているらしい。そして、確証はないが宝条の意識──謂わば残留思念のようなものが未だ彷徨い続けているという。
亡霊みたいなものです、とリーブは言っていた。そういう非科学的な単語を聞かされるとどうにも落ち着かないのだが、リーブに同行したヴィンセントもその静かな面を崩さぬまま、戸惑うシェルクに小さく頷いて見せた。
長い付き合いというわけではないが、この2人の男が雁首そろえて自分にわざわざ与太話を聞かせにきたとは考えにくい。結局、シェルクは折れることにした。
「私もやきが回ったものです」
肩をすくめ、せめてもの軽口を叩いたシェルクに、「なかなか俗っぽい言い回しを覚えたものだな」とヴィンセントはニヤリと笑って見せた。

ネットワーク空間にダイブ中のシェルクは今、WROのゲートを背に1人佇んでいた。一見子どもかと見紛うような小柄な体躯ながら、身の丈半分ほども長さのある電磁スピアを両手に持ち、油断のない様子であたりを睥睨している。
一般的な通信端末とは異なり、大容量のデータの送受信を行うWROのゲートは巨大で、材質のよくわからない両開きの扉のような見た目をしている。ゲートの周りには四重の光の輪があり、互いに交差する軌道に沿ってゆっくりと回転していた。近づいてよく見てみれば、それぞれの輪には防御プログラムがびっしりと書き込まれていることに気づくだろう。WROへのサイバー攻撃を防ぐための堅固なバリケードだ。さらに、ゲートからは複数の通路が伸び、それぞれ別の広場へと通じている上に、いくつかは巧妙なダミーだった。これもWROのシステムへの侵入を防ぐための機構の一つだ。それら全てを見回し、シェルクは小さく息を吐いた。よく一年かそこらでここまでセキュリティを強化したものだと思いながら。
WROの備えは万全と言えた。自分の出番など本当にあるのだろうかとシェルクが首を傾げるほどに。また、内部通信で漏れ聞こえてくるWRO作戦室の様子からすると、オペレーション〈亡霊狩りゴーストハント〉は順調に進行中のようだ。

と、その時、シェルクの視界を何かが横切った。彼女はひょいとかがみこみ、WROのゲートに入ってくる光の奔流から何か小さなものをつまみ上げた。データに紛れ込んでWROのシステムへ侵入を試みたコンピュータウイルスだ。指先に力を込めると、ウイルスは微かな電子音を発して虚空に消えた。大抵のウイルスやバグはゲートに到達する前にバリケードで灼かれて消滅するのだが、時折こうやって出来のいいのがすり抜けてくる。見つけ次第排除してはいるが、どうにも妙な感じだ。多すぎる。それも排除すればするほど侵入者も増えていくようだった。
おそらく、WROが大量のデータをネットワーク上に放出していることに気づいた何者かが探りを入れてきているのだ。WROの技術班が巧妙にデータの出所を偽装しているため、場所はまだ割れていないらしいが。

──きな臭い。シェルクは目を眇めて前方を凝視した。リーブの言う通りだと思った。確かに、何か﹅﹅がいる。

夕暮れに向かう空に浮かぶ千切れ雲は、沈みゆく太陽の光を受けて金色に輝いていた。空の高いところを気の早い蝙蝠が飛んでいる。クラウドがその不規則な軌道を目で追いかけていると、高台の邸宅から高級そうな車が出てくるのが見えた。コスタ・デル・ソルの大元締め、ゲイル・リバーウッドだろう。今日のパーティーの主催者でもある。あたりには他にもちらほらと人の姿があった。盛装した彼らは続々と艀の方に向かってくる。何人かは別荘の前に佇むクラウドに気づいて、連れ立って歩きながら何事かを囁き交わしていた。
あまり目立ちすぎるのは得策ではないと思い、クラウドは散策を切り上げて別荘に戻った。部屋に入ると、ティファは支度の真っ最中だった。鏡越しに見えたその顔には控えめなメイクが施され、元々整った顔立ちをさらに洗練されたものにしていた。それに、たっぷりとしたドレープの入ったホルターネックのドレスは、ティファの優美な体のラインをよく引き立てている。光沢のある黒いドレスは白い肌にも黒い髪にもこれ以上ないくらい似合っていた。完璧だ。ため息が出るくらい。
「綺麗だ」
呆けたように呟くクラウドに、振り向いたティファははにかんで見せた。
「ありがと。クラウドも……よく似合ってる」
ティファは深紅の瞳を軽く見開いて、近づいてくるクラウドをまじまじと見つめた。クラウドはいつもの黒ずくめの服装ではなく、生成りの麻の上下のスーツに黒いシャツを合わせたカジュアルな装いだ。それに魔胱の瞳を隠すグレーのコンタクトレンズ。天の河がかかった夏の夜空を思わせる碧の煌めきが厚い雲に覆い隠されているようだとティファは思ったが、服装も含めて普段と違う雰囲気に内心どきりとしたのは本人には内緒だ。
「傷、うまく隠れてるかな?」
少し照れて目線を逸らしながらティファはぽそりと呟く。無意識に手が胸元を撫でている。肩から脇腹まで斜めに走る、傷跡に沿って。
「なにも心配ない」
傷なんて関係ない。ティファはいつだって綺麗だ。表に出る言葉と態度以上の賛美を込めて、クラウドはティファに優しいキスを送った。だが、自分以外の男を誘惑するために着飾っているのだと思うと、クラウドの中に底意地の悪い気持ちが込み上げてくる。
「後ろ、結んでくれる?」
くるりと後ろを向いて背中を見せるティファの首から大きく開いた背中にかけて、ドレスと共布の黒いリボンが半端に結ばれた状態で無造作に垂れ下がっていた。高く結い上げた髪からわざと垂らした後れ毛が、白磁のうなじに蠱惑的な渦巻模様を描いている。
吸い込まれるようだ──思うと同時に、クラウドは渦の中心に唇を落としていた。あっという間にエスカレートしていく、そんな予感を孕んだ熱い口づけだった。後ろから抱きすくめた腕の中でティファが身をよじるが構うものか。
「ね、ダメだったら」
やんわりとティファがクラウドを押し退ける。しかし、頬も唇も色づいたその表情で言われたのでは、却って逆効果というものだった。
クラウドは下唇を噛み、目線を逸らすと背後から回していた腕の戒めを解いた。ティファがほっとしたのも束の間、クラウドはティファの正面に回ると、ドレスの前身頃をくいと引っ張り下ろした。ティファの豊かな胸元があらわになる。ギリギリのところで腕で押さえて、全てが曝け出されるのは回避したものの、せっかくドレスアップしたのが台無しだ。
いきなりのことにティファが抗議の言葉を発するより前に、クラウドの唇がティファの肌に強く吸い付いた。しっとりとした肌が舌に甘い。本当はじっくりと味わいたいが、それは後の楽しみに取っておく方がいいだろう。
「ちょっと……!」
先ほどよりワントーン低くなった声音に、今度こそ怒りの鉄拳が飛んでくる気配を察してクラウドは素早く身を離した。満足そうなその視線の先にあるのは、赤い見事な花だ。古い刀傷の、その真上。
「別にいいだろ。脱ぐわけじゃないんだから」
胸元を直しながら非難がましい目で睨み付けるティファに、クラウドはしれっと言った。
そして、「それからこれ」と言いながら、少し古びた細長い薄布を手渡した。向こうが透けて見えるほどに薄いが、光の加減で虹色に煌くリボンだった。
訝しげな顔でリボンを受け取ったティファだったが、それが何であるかに気づいて一瞬真剣な表情を浮かべた。元々ドレスに付いていた黒のリボンを勢いよく引き抜くと、代わりにクラウドから渡された不思議な色合いのリボンを首元の内側のループ部分に通した。
クラウドは無言でティファの背中側に回り、虹色のリボンを結んでやる。どうか無事でと願いを込めて。肩甲骨の辺りまで輝くリボンに覆われたティファの背中は、まるで淡く発光しているようだった。
「……気をつけろよ」
自分の額をティファの後頭部にこつんとぶつけ、小さな声でクラウドが呟いた。
「わかってる、用心するわ…。大丈夫よ、お守りがあるもの」
ん、と答えてクラウドはほんの少し躊躇ってから体を離した。そのまま窓辺まで行って外を眺める。コスタ・デル・ソルの港を望む窓からは客船「海の風号」の姿が見えた。ゲイル・リバーウッド所有のあの船が、今日の戦場だ。
憂鬱そうなクラウドの視線の先にあるものに気づき、ティファは苦笑を浮かべた。虹色のリボンをひらひらと指で弄びながら、「これ、クラウドが持ってた方がいいんじゃない?」と言った。
「薬は飲んだ。それに速く動いていない船なら酔わないはずだ……多分」
背を向けたままなのでクラウドの表情はティファにはわからない。まっすぐ前方を見据えているのだろうということだけを、斜め後ろから見た首から肩にかけてのラインが無言で語っている。星を救う旅の間、戦いの場でいつも見ていた、あのラインだ。敵からの攻撃をなるべく自分が引き受けようと、クラウドはいつも仲間より一歩前に立っていた。
──いつだって他人ひとのことばっかりなんだから。ティファはほんの少し困ったように微笑んだ。何か言おうかと口を開きかけたが、ひっそりとため息をつくに留めておいた。それに呼応するかのように、窓から吹き込んできた風にカーテンがふわりと揺れた。
人のことを言えた義理ではないが、クラウドは頑固なのだ。とっても。

かちゃりという音にクラウドが振り向くと、ティファはいつもの滴型のピアスを外して鏡台に置き、代わりに大ぶりなイヤリングを着けているところだった。パイロープ・ガーネットの深紅の輝きがティファの瞳の色に良く合っている。しなやかな動作でハイヒールを履けば戦闘準備は完了だ。
ティファはイヤリングについた飾りのガーネットをカチカチと押し込んだ。ごく小さな声で「あーあー」と呟くと、「音声テスト、オッケーでーす」という間延びした声がイヤリングから聞こえてきた。
クラウドはその様子を見て、胸ポケットから黒縁の眼鏡を取り出した。折り畳まれたそれを広げると、デバイスが起動するカチッという音がした。眼鏡をかけるとティファと同じようにチェックを行う──OKだ。
イヤリングと眼鏡はこの作戦のために用意された、小型の通信機器だった。それぞれクラッチバッグと上着の内ポケットに忍ばせた小型の送受信機を介して出力を増幅させることで、遠方とやり取りができるようになっている。
「なんだかスパイ映画みたい」
「同感だ」
おどけて言ったティファの言葉に、くくっとクラウドは笑いを漏らした。
「おふたりさーん、そろそろお仕事の時間ですよ~」
耳元で急に聞こえてきたのはエッジのWRO本部作戦室に詰めているリーブの声だった。
「〈ロボ〉、了解」
「〈ルナ〉、了解」
秘密道具にコールサイン。ほら、やっぱりスパイ映画だ。肩をすくめてティファをちらりと見やったクラウドに、ティファはくすりと笑った。

別荘を出た2人は、他の招待客と同様、港へ向かった。藍と橙の混じり合った空を背に、その船は佇んでいた。4層デッキとそれほど大型ではないものの、威風堂々たる美しい船だ。クラウドが日頃配達業で利用している、ミッドガル方面とコスタ・デル・ソルを結ぶ連絡船とは雲泥の差である。もちろん“船賃”も桁違いだ。自分と、そしてティファの着ている服だって随分と高価なものに違いない。パーティーへの参加は本作戦の最重要ミッションであるため、費用は全額WRO持ちだ。そうでもなければ一生こんな機会は持てなかったかもしれない。いや、もうあれこれ考えるのはよそう──
クラウドは努めて憂鬱な気分を振り払った。腹を決めて港から船に乗り込むためのタラップに足をかけると、船体の動きに合わせて底板がわずかに揺れているのが感じられた。懐に入れた酔い止めの錠剤の数を頭の中で再度確認し、覚悟を決めて足を進める。赤い舷灯を横目に見ながら船に乗り込むと、そこはまるで一つの街だった。
ゴージャスなバンドがちょうど次のナンバーの演奏を始めたところだった。先陣を切ったドラムの軽快な8ビートがサックスやピアノを次々に巻き込んでいく。心が浮き立つようなリズムに思わずティファは足を止めた。昔好きで聴いていたバンドのカバーだ。天望荘のあの部屋で過ごした日々が頭を過ぎる。
どうした、と目で問うクラウドに小さく首を振って、ティファは数歩先に進んでいたクラウドに追いつくと、「知ってる曲だったの」と言った。
レセプションで招待状を見せると、ボディチェックとおざなりな持ち物検査──事前にユフィから聞いていた通りだ──を受けた。通信機器を見咎められるのではないかと一瞬ひやりとしたが、その心配は杞憂に終わった。

2人は今、パーティールームの前に立っていた。どっしりした両開きの扉は開放され、向こう側の華やかな様子が見て取れた。いささか多すぎる、そして重装備の警備の姿が、このパーティーの特殊さを物語っているが。
ん、と言ってクラウドはティファに腕を差し出した。ティファはその腕にそっと指を乗せた。ジャケットの生地の、少しざらついた麻の感触がどこか新鮮に感じられた。クラウドの、いつもよりかっちりとした服装も。これからいよいよ作戦の正念場を迎えるというのに、自分たちは随分と呑気なことを考えているなとティファは思った。もしかすると、クラウドと2人で着飾ってパーティーに出られることに浮かれているのかもしれない。こういう場には2人ともまるで縁がなかったから。いや、一度だけあったか──ゴールドソーサーの夜を思い出し、ティファはくすりと笑いをもらした。王子アルフリードが愛の力で邪悪な竜を倒す物語。だが、現実はそうはいかない。どこかで誰かが手を汚す必要がある。
「ちゃんと愛想よく、ね」
「わかってる。ユフィの合図があるまではちゃんとやるさ」
クラウドにとっては気が乗らない役回りだが、一度引き受けたからには仕事は全うするつもりだ。
「さて、行きますか」
ティファの言葉にクラウドは小さく頷いた。

客船〈海の風号〉の一室は奇妙な熱気に満ちていた。船体のちょうど中心部に位置する会議室では、リバーウッドと10名の人間が円卓を囲んでいた。年齢も性別も様々だが、各地方の実力者であることは共通している。
それぞれの目の前には小箱が置かれていた。リーバーウッドが箱を開けるように促すと、彼らは互いの挙動を横目で牽制しあいながら、慎重な手つきで箱を開けた。ビロード張りの内側には、白く輝くもやを中心に宿した灰色のマテリアが納められていた。わずかに色調の異なるそれらのマテリアは、彼ら顧客たちが大金を払って、意識データのサンプリングという試練を乗り越えた末に手に入れたものだった。
それは言うなれば新しい人生へのパスポートだった。現在の自身の思考を若く、優れた肉体に引き継ぐことのできる画期的なデバイスだ。

「おめでとう。諸君らは、選ばれたのだ。新しい肉体で、新しい秩序を担う同志たちよ」
リバーウッドの朗々とした声が部屋の中に響き渡る。
「我らが得たものが何かわかるかね?」リバーウッドの問いかけにぎらつく眼差しが返ってくる。「──時間だよ。死の定めから逃れ、他の人間よりも長く自らの能力をこの世界に役立てることができるのだ」
これは、より優れた人間がより長くその力を発揮するための合理的な措置である。不確かな後継に未来を託すよりも、世界全体の繁栄に貢献することになるのだ。

「まずは祝杯をあげようじゃないか」とリバーウッドが声をかけると、円卓を囲む顧客たちが立ち上がった。
「未来に!」という掛け声に、全員が唱和した。
彼らの手の中には、血のような真っ赤な色のワインをたたえたグラスが握られていた。

腕時計に目をやり、男はあくびを噛み殺した。大きな口が、横にぐいと広がる。〈口︎ボカ〉という男の呼び名に相応しく。
「まだかねえ……」
ボカが船のパーティールームの2階席から手摺り越しに下を覗き込むと、きらびやかな衣装に身を包んだ客たちがあちらこちらで小さな群れを作っているのが見えた。まるで海の中の熱帯魚のようだ。その間をすいすいとすり抜けていく給仕係たちはモノトーンの制服も相まってアマツバメを、マシンガンを携えて壁際にじっと佇んでいる黒服のSPたちは暗がりに潜む鮫を連想させた。一種異様な光景だが、ここの客たちは武器を見慣れている。このパーティーはコスタ・デル・ソルの別荘所有者の親睦を深めるためということになっているが、その参加者の毛色には偏りがあり、普通の人間は近寄らないというのが暗黙のルールだった。同類か、でなければカモか。ここにいるのはそのどちらかだ。
ボカが階下の様子を眺めていると、低い声で交わされる客たちの能天気な会話の断片があぶくのように立ち上ってくる。そろそろペンキを塗り直さなきゃ……うちの女房がこの前…そういえば例の別荘の持ち主、来てるんですって…

退屈な会話を続ける連中に軽蔑の眼差しを向け、ボカは椅子に座り直した。腕時計を見て、吹き抜けを挟んで反対側の扉に目をやった。「会議」がそろそろ始まる頃だ。神羅なき世界の、新しい秩序についての話し合いが。
部屋に戻ろうかとも思ったが、そうしたところで待つ以外にやることがないのには変わりなかった。せめて愛人の1人でも伴っていれば暇つぶしくらいにはなったろうに。
ボカが不埒な妄想に浸っていたその時、階下の空気が色めき立つのが感じられた。何事かと思い、再び1階に目をやると、ちょうど1組の男女がパーティールームに入ってきたところだった。
けぶるような金髪を逆立てた男と凛とした雰囲気の美しい女だ。女は豊かな胸と腰の持ち主である事が服の上からでもはっきりとわかったが、それでいてなよなよとしたところはない。ドレスの背面は大きく開いており、引き締まった背中を惜しげもなく晒している。身のこなしは流麗で、ある種の野生動物を思わせた。
なんとはなしに観察していると、給仕が持つ銀の盆からシャンパングラスを受け取った女が艶やかな笑みを浮かべたのが見えた。グラスをあおった際にちらりと見えた白い喉元を撫で回したらどんな声で啼くのだろう。〈ボカ〉は軽く目を見開いた。気のせいかもしれないが、今こちらを見なかっただろうか。深い真紅の瞳を意味ありげに細めて。
これはぜひお近づきにならねば──ともすればにやけそうになる顔を精一杯引き締め、〈ボカ〉は席を立った。今日ばかりはどの愛人も同席させなくて正解だったと心中でほくそ笑みながら。

「失礼、美しい奥方に挨拶をさせて頂いてもよろしいかな?」
その場にいた人々がさっと声の主を振り返った。白いものが混じり始めた赤茶色の髪を後ろに撫でつけた、上背のある男だ。真っ白なスーツに金糸の縫い取りの入った濃紺のシャツという出で立ちは、風格というよりは柄の悪さを男に与えている。黒い噂の絶えない貿易会社の社長にしてコスタ・デル・ソルの新興勢力の実力者。その顔を認めて場所を譲ると、2人に向かって口々に挨拶を述べてから人々は去っていった。後にはクラウドとティファ、それに〈ボカ〉だけが残された。
早速ティファに向かって口を開きかけた〈ボカ〉の前にクラウドが割って入り、握手を求めた。
「ストライフです。妻のティファ共々以後お見知り置きを」
握手に込められた力はやや強すぎるし、眼鏡の奥から覗く瞳に宿る光はとても友好的なものとは言えない。端正な顔立ちに似合わず好戦的な性格なのかもしれない。
一丁前に牽制しているつもりか、若造が──〈ボカ〉はにこやかに握手に応じながら、腹の中で目の前の男をせせら笑った。
「新しく越してこられたのかな?」
「随分前から家はあったんですが、なかなかコスタに来る機会がなくて」
〈ボカ〉はクラウドがあげた別荘の特徴を聞いて一瞬目を見開いて押し黙ったのち、高らかに笑い声をあげた。
「いや、コスタで1番の別荘を構えているのがこんなお若い方だったとは驚きましたよ」
「高騰する前に手に入れたんですよ。今ならとても手が出ませんわ」
やんわりと2人の間に割って入ったティファの言葉通り、当時30万ギルで購入したあの別荘は今やその20倍以上の値がついている。コスタ・デル・ソルの地価がそれだけ上がったのだ。実は、ほとんど使われていないその別荘の持ち主について様々な憶測が飛び交っており、ここのコミュニティの中ではお定まりの話題の一つだった。その正体が若く美しい夫婦だったと言う事実はパーティーをさらに盛り上げるものになっており、クラウドたちは参加者たちの注目を一身に集めていた。好奇と嫉妬と羨望と。それらの視線はやや不躾で、彼らが生粋の上流階級ではなく成り上がりものたちであることを吐露していた。

相変わらず人気者だねえ──給仕係の格好をしたユフィは、少し離れたところから2人の様子を窺っていた。耳に装着したインカムはここの客船のスタッフが使用しているのと同じ型だが、実際はWROの特製品で、作戦室やクラウドたちと繋がっており、〈ボカ〉の動きをリーブに逐一報告していたのだ。
今は彼らの会話を聞きながら、次の行動に移るタイミングを見計らっていた。その間も淀みなく手を動かし、料理の盛られた皿を並べ、汚れたカトラリーを片付け続けた。その手慣れた動きを見れば、誰も部外者だとは思うまい。いついかなる状況にも溶け込むことができる──シノビに最も必要な資質だ。
ユフィはパリッと糊のきいたクロスのかかった長テーブルに、料理の補充をしにやって来た。厚めに切られたローストビーフに香草のたっぷり入ったサラダなどから、食欲をそそる香りが立ち上っている。そのついでにトングを新しいものに交換し、テーブルにこぼれたソースを拭き取った。と、ユフィの手元にさっと影が差す。クラウドだ。ゆっくりと料理を皿に取りながら、クラウドはごく小声で背中合わせにユフィに話しかける。
「……おい、見たか? あのにやけた面」
「言ったじゃん。ドンピシャの好みだって」
しかも他人のものほど欲しくなるタイプなんだっつーの。周りに人がいないのを確認してからユフィはこれ見よがしにため息をついた。〈ボカ〉の女の嗜好をクラウドには敢えて伏せていたのだ。クラウドが独占欲を見せれば見せるほど相手は燃え上がり、罠にかかる確率が上がるからだ。そしてそれは目論見通りに運んでいる。
「まだ話しかけてるぞ……!」
「…あのさあ、こっちも聞こえてるからいちいち実況しなくていいよ」
ユフィが辟易して言った。心配なのはわかるが、不要なコンタクトは避けてもらいたい。それにしても今日のクラウドはよく喋る。
「なあ、やっぱり縛り上げて吐かせたほうが早くないか?」
「手元が狂うから黙っててくんないかなー⁉︎」
ユフィの言葉に舌打ちだけを返し、クラウドは足早にティファの元へ戻って行った。

ああは言ったものの、クラウドが苛つくのもまあ無理はないとユフィは思った。インカム越しに聞こえてくる会話は他愛のないものだが、〈ボカ〉の視線がティファの体を舐めるように這っているのが見て取れた。番犬がいなくなった途端にコレだよ、とユフィは思った。日頃酔客に絡まれることの多いティファだが、彼女の店では常連客がきちんと目を光らせており、パートナーのクラウドの強さも知れ渡っているため、度を越してしつこいアプローチを受けることは少ない。自分がこの作戦にティファを引っ張り込んだ手前、今彼女が置かれている状況に対してユフィは申し訳なく思っていた。
餌は十分撒いた──頃合いだ。それにクラウドの忍耐は程なくして限界を迎えるに違いない。
「厨房へ確認。“魚料理”の準備は? そろそろメインの“肉”に取り掛かりたい」
ユフは符丁を使って、WRO作戦室に次のフェーズへ移るタイミングを確認した。やや間があった後、本部から返答があった。
「こちら厨房。“魚”はもう焼き上がるそうだ。“肉”の調理を始めてくれてOKだ」

その言葉を合図に、ユフィは赤ワインの入ったグラスをいくつか載せた盆を携え、人々の林立する空間へと向き直った。その姿を認めて、予め決められていた通りクラウドが手をあげてユフィを呼んだ。軽く会釈してそれに応え、ユフィが素早くそちらへ向かう。
「あっ」
ワイングラスを受け取ろうとしたクラウドの手前で、ユフィは盛大に躓いた。器用にも──もちろんわざとだ──全てのグラスに入っていた赤ワインをクラウドのスーツにぶちまけてしまった。生成りの麻のスーツの至る所に赤紫の染みが広がって行く。
クラウドは、可哀想なくらいペコペコと頭を下げるその小柄な給仕に向かって荒いため息をついた。ティファが、「ね、着替えて来た方がいいんじゃない?」と促すと、ジャケットを脱ぎながらクラウドは「そうだな」とむっつりと答えた。
「大変申し訳ありませんでした…! クリーニングさせて頂きますので、お召し物をお預かりいたします」
「……頼む。それから上の者とこの件について話が…」
失敗をやらかした給仕に低い声で苦情を言い募りながら、クラウドは去って行った。去り際にティファを軽く抱き寄せ、その形の良い耳に「行ってくる」と小さく囁いてから。

「災難でしたな」と言いながら、〈ボカ〉はティファにちらりと目をやった。女は妙に真剣な表情をしていた。その真紅の瞳が思わぬ鋭さを宿しているのを見て、〈ボカ〉はわずかに目を細めた。パーティーを台無しにされた怒りではなさそうだ。
その視線に気づいてか、ティファは顔を上げ、「置いていかれてしまいました」と悪戯っぽく微笑んだ。先ほどの鋭い光は鳴りを潜めていた。気のせい……ではない。何を隠している? 曖昧に笑いながら、ボカは目の前の女を観察した。
──それにしても見れば見るほど美しい女だ。金髪の男が執心するのも無理はない。見た目の美しさだけではない。今まで数え切れないほど女を抱いてきたが、このティファとかいう女は味わった事のないタイプだ。笑顔の奥に隠しているものを全て曝け出させてやりたい。
〈ボカ〉はパーティールームの吹き抜け越しに、会議室の扉が閉ざされたままなのを確認した。腕時計に目をやり、思案顔で携帯電話に何も連絡が来ていないのをチェックすると、内心でニンマリとした笑みを浮かべた。なに、まだ時間はあるだろう。ちょっとつまみ食いするくらいの時間は。
〈ボカ〉が半歩、距離を詰めた。グラスを握ったその手がティファの剥き出しの肩にもう少しで触れそうだ。〈ボカ〉は何気ない調子で言った。
「これも何かの縁。とっておきの酒を持って来ているのですが、ぜひご一緒にいかがですか」

──かかった。
その瞬間、リーブ、ユフィ、ティファ、クラウドはそれぞれ心中で同じことを思っていた。クラウドがいなくなり、ティファだけになったあの瞬間がこの作戦の行方を決める分水嶺だった。あそこで〈ボカ〉が引いていれば、WROとしてはより強硬でリスクの高いプランを選択せざるを得なかったからだ。
「夫はしばらく戻ってこれそうにありませんし……喜んでご一緒させて頂きますわ」
極上の笑顔でティファは答えた。無意識のうちに首元に手をやり、リボンがきちんと結ばれていることを確認すると、男の後について会場から出ていった。

客船〈海の風号〉のパーティールームを出た後、クラウドとユフィはリネン室にやって来ていた。ユフィはこれからティファのカバーに、クラウドは別の場所で標的ターゲットに接近する手筈になっている。組織の幹部とそのトップを一網打尽にする作戦は大詰めに入っている。だが、そのフェーズに入るには被験者らの安全が確保されていなければならない。

あらかじめ隠してあった荷物を引っ張り出しながら、ユフィは作戦本部からの通信に耳をそばだてている。そのユフィとリネン室のドアを交互に眺めながら、クラウドは落ち着かない気持ちを持て余していた。眼鏡とコンタクトレンズを外すと、荒いため息をついた。
「本当に大丈夫なんだろうな」
「ちょっと黙ってて」
ユフィはインカムを指で押さえ、そこから聞こえる音に全神経を集中させていた。厨房──WRO作戦本部からグリーンシグナルが出たということは、あちらの作戦も順調に進行しているはずだ。リーブが掲げる「両面作戦」とは被験者の救出と組織の幹部の拘束を同時に行うことを意味するが、ここからはかなりシビアなタイミングでことを仕掛ける必要がある。場合によっては、ティファの身に危険が迫っていても、すぐに救出するわけにいかない状況になることも予想された。

「予定通り標的の施設周辺に到着した。突入準備完了」
「被験者たちは建物3階および4階の部屋に収容されていることを確認」
「了解。至急見取り図を送る」

ジュノンのとある研究施設に向かった部隊とWRO作戦本部のやり取りからすると、向こうの作戦は今のところ順調に進んでいるようだ。ユフィはほんの少しだけ口元を緩めた。
ユフィとは対照的に、ピリピリとした空気を纏わせて意味もなくうろつくクラウドはさながら檻の中の猛獣だった。だが、クラウドとティファの関係性を思えばユフィにもその気持ちは理解できる。
「ティファは絶対にあたしが…守るっつってもティファに勝てる奴そういないし……と、とにかくティファにはあたしが付いてるから」
威勢良く言ってはみたもののどうにも歯切れの悪い物言いになってしまった。だが、クラウドはユフィの瞳の中に宿る真剣な光を認めて、肩の力が少し抜けるのを感じた。ふっと小さく息を溢すと、「確かに俺たちが慌てても意味がないな」と呟いた。
クラウドは、そうだろ? とユフィに向かって肩をすくめて見せた。
「さっさと終わらせて、おたくの局長どのにうまい飯でも奢ってもらおう」
ワインの染みだらけのスーツのままでそんな軽口を叩くクラウドに、ユフィはほんの少しだけこそばゆい気持ちになった。
クラウドに向かって着替えを放り投げながら、「いい店紹介するよ」とユフィは笑って答えた。

ユフィが用意していたのは黒のスーツに白いシャツというシンプルな出で立ちだ。伸縮性の素材が使われているらしく、見た目よりもはるかに動きやすい。
「武器は」
「でっかい剣は持ち込めなかったから、これで勘弁してよ」
そう言いながらユフィがクラウドに手渡したのは、鞘に入った刀だった。黒の柄巻に黒の鞘、金色の鍔という拵えはどことなくフェンリルを思わせる。クラウドが柄を握って慎重に引き抜いてみると、直刃の美しい刃が現れた。軽く振ってみると手によく馴染むのが感じられた。スーツのベルトに下緒を固定すると、体捌きの邪魔にもならなさそうだった。
「向こうにも腕の立つのがいるはずだから、用心しなよ」
「問題ない」
ユフィと同じインカムを装着し、通信状態をチェックするとクラウドは部屋を出て持ち場に向かった。

ジュノンにある、件の製薬会社の研究所の周囲にWROの少数部隊が展開していた。全員無線通信用ヘッドセット付きの目出し帽バラクラバを被り、防弾仕様のタクティカルベストを着込んでいる。手に持ったサブマシンガンの他にサブウェポンとして拳銃も携行していた。「shellリスト」に記載された11名の救出を目的とした特殊急襲部隊である。
「3、2、1……Go! Go! Go!」
合図とともにケーブルカッターで施設のネットワークケーブルと電力ケーブルが切断された。自家発電に切り替わるまでの数分間が勝負だ。真っ暗になった建物の中へ、暗視ゴーグルを装着した部隊が突入する。地上にある入り口と屋上から同時に侵入し、一挙に施設を掌握した。
突然の停電となだれ込んで来た武装集団の姿を見て、白衣を着た人々はパニックに陥った。あっという間に全ての出入り口を確保され、外部との通信手段を奪われた上で食堂の隅にひとかたまりに押し込められた。事態を把握できぬまま彼らがオロオロとするうちに自家発電システムに切り替わったらしく、ジ、ジ…と音を立てて天井のライトが一部点灯した。互いの顔を視認できるほどの明るさはあるが、混乱が治らない中で不安そうな視線を交わすので精一杯だった。
「責任者は」
怯える人々に向かって、赤いマントをなびかせてどこからともなく現れた男が静かな声で訊いた。捜索部隊を率いるヴィンセントである。コールサインは〈ショコラーテ〉。無論本人は厳重に抗議したが、「バレンタインなんだから」とユフィに押し切られてしまった。
「責任者は私ですが……」
集団の中から進み出て、おずおずと手をあげたのは神経質そうな女だ。年の頃は40を少し過ぎたあたりか。首から下がったIDカードには確かに「研究所長」の肩書きがあった。
ヴィンセントはWRO発行の捜索令状を女の目の前に突きつけた。
「WROだ。違法薬物の輸入、保管、使用についての疑いがある。施設内を調べさせてもらう」
そう言うなり、ヴィンセントは研究所長の返事を待たずに部隊を3人ずつ4班に分け、すぐに捜索を開始した。
ケット・シーが探し当てた、被験者たちの隠し場所はある製薬会社の研究所だった。表向きは難病の試験的治療薬を受けるためにここで療養生活を送っていることにされている。だが実際は、来たる日に向けて健康管理を受けながら、逃げ出さないよう監禁生活を強いられていた。
ボカのパソコンにあった資料と宝条の過去の研究内容を調べていたおかげで、脳に電極を埋め込んだ被験者の意識コントロールにある種の麻薬が必要なことは把握済みだったのだ。その麻薬は、ホスピスケアを行っている、ごく限られた医療施設でのみ使用を許可されているが、ここの研究所では持ち込みすらも禁じられている。そんな代物が、巧妙な裏工作を経て大元の製薬企業に関連のある別系列の病院から横流しされていることが情報分析班の調べにより判明した。
その場で作成した捜査令状にリーブがすぐに署名を入れて体裁だけは整え、それを持ってヴィンセントが精鋭1分隊と共に高速ヘリでジュノンに飛んだのだ。

「……来たで!」
少年の腕の中でハチワレの猫が言った。リーブの分身、ケット・シーだ。部屋の電気が突然消え、施設内が急に慌ただしくなった。WROの捜索チームが突入したに違いない。
レノに託された“ぬいぐるみ”とは、少年が「宝物なんだ」と研究所の連中に懇願したおかげで引き離されずに済んだ。最初にケット・シーが勝手に動いて喋った時は心臓が止まるかと思うほど驚いたが、WROが自分たちを救出するために動いていると知って、少年はケットを力一杯抱きしめた。あの赤毛のお兄さんが言ったことは嘘じゃなかった──
「どうしたらいい?」
安堵の涙が出そうになるのをぐっとこらえて、少年は部屋の中を見回した。クッション剤に覆われた壁、最新のゲーム機をはじめとする高価なおもちゃ、外から電子ロックのかかった分厚い扉、そして監視カメラ。脱出に際して持っていきたい物はないかと思ったのだが、見事になにもなかった。朝と夕方には外の運動場で短い時間だけ自由に過ごすことが許されていたが、この豪華な牢獄で過ごすのがいい加減嫌になっていたところだ。例えひもじくても寒くても、あの小汚い路地裏の方がマシだった。自分を待ち受ける運命を知ってしまったから。
「もう大丈夫や、WROの兵隊さんらが助けに来てくれるからな」
ケット・シーは朗らかに言い、少年を力づけるように大きく頷いて見せた。
魔法マテリアの一つでも持って来られればよかったのだが、今回の潜入に際してケット・シーが今持ってこられたのは居場所を知らせるための赤外線ビーコンだけだ。
その時、ドアの方からピーという甲高い音が鳴った。電子ロックが解錠された音だ。ホッとしたような表情を浮かべた少年が立ち上がろうとした。
だが、ケット・シーは素早く振り向き、ドアを凝視する──違う﹅﹅、早すぎる──!

施設内を捜索している各班からの通信を聞きながら、ヴィンセントは研究所員たちの様子を監視していた。その場に残ったデルタ班には研究所の人物リストと拘束済みの人間の照合をさせている。また、捜査に入る口実にした薬物はすでに倉庫や棚から発見され、施設内の記録からここに監禁されている被験者たちに投与されていたことも確認した。そのため、治療と保護の目的で大手をふって彼らを探すことができる。ここまではリーブの描いたシナリオ通りにことが運んでいる。
「こちらチャーリー・ワン。施設地下にて例の装置を発見」
「〈ショコラーテ〉よりHQへ。やはりここで間違いなさそうだ。増援を寄越してほしい。施設内部を調べる必要がある」
「HQ、了解」
「こちらブラボー・ワン。被験者を1人確保した。3階に集中して収容されていると見られる」
例のリストに載っていた11名の被験者たちは次々に発見され、無事に保護されているようだ。残りあと1名というところで通信が入った。
「ブラボー・ワンより〈ショコラーテ〉へ。ドアが開いたままの部屋を発見。中は無人。争った形跡がある」
──連れ去られたか。ヴィンセントは素早く次の指示を飛ばす。
「ブラボーは他の被験者を連れて屋上へ向かえ。待機しているヘリで離陸準備を済ませた上で指示を待て」
了解、という返事を聞き、ヴィンセントはWRO作戦本部へ連絡した。
「〈ショコラーテ〉よりHQへ。“魚”が1匹足りない。部屋にいた形跡はあるが先手を打たれたようだ。捜索を開始する」
「もうこっちは次のフェーズに移ってるよ。〈ルナ〉は“肉料理”の調理を始めている」
やや焦ったようなユフィの声が、リーブが答えるより先に割り込んできた。作戦行動中のユフィにしては珍しく感情をあらわにしているな、とヴィンセントは思った。ティファの身を案じてのことだろう。
「わかっている。少しだけ時間をくれ」
通信を終えるとヴィンセントは研究所長の腕を掴み、食堂脇の部屋に引きずりこんだ。天井までの高さのスチール製のラックに缶詰や小麦粉の袋が並んでいるところを見ると貯蔵室なのだろう。あまり掃除は行き届いておらず、埃っぽいにおいがする。ヴィンセントに手荒に投げ出され、所長はたたらを踏んで壁に手をついた。その様子に頓着することなく、ヴィンセントは低い声で問う。
「もう1人を何処へやった?」
「……知らないわ」
その強情そうな目つきからは、友好的な協力関係を結ぶのにいささか時間がかかるであろうことが窺えた。今は何より時間が惜しい。ヴィンセントが一歩近づくと、女の体がぴくりと動き、かすかに動揺していることが伝わってきた。一歩また一歩と距離を詰め、段階的にプレッシャーをかけていく。
「あまりこういう手段に訴えたくはないのだが、仕方あるまい」
そう呟いて、手を伸ばせば体に触れられそうな距離からヴィンセントが冷たい一瞥をくれてやると、まなじりが裂けそうなほど目を見開く女の喉がこくりと鳴った。
女を見据えたまま、わざと時間をかけてヴィンセントは体内に眠る魔獣を呼び覚ます──

絹を裂くような悲鳴に、残りの研究員の監視をしていたデルタ班の班員が即席の尋問部屋を振り向くと、わずかに開いたドアの隙間から壁に映る巨大な影が一瞬見えた。紫色の体毛を持つ獣の腕も。
──まあ、初めて見るとビビるよな。
──ビビらせすぎて気絶させちまわなきゃいいけど。
魔獣と化したヴィンセントの姿を知るWROの隊員たちは、そんな意図を込めて目を見交わした。一方で、研究員たちは断続的に響く破壊音や所長の悲鳴にビクビクとし、思わず腰を浮かせかけるものもいたが、小銃で小突かれると渋々腰を下ろした。
数分ののち、ヴィンセントが姿を現した。変身した際に外れたのであろう左腕のガントレットを装着し直しながら、無線で指示を飛ばす。
「〈ショコラーテ〉からチャーリーへ。地下を探せ。隠し通路があると思われる」
了解、という返答を聞き、次にヴィンセントはデルタ班に目をやった。その意図を察して、班長が「照合終わりました。欠勤しているものを除いて全員拘束済みです」と答えた。ヴィンセントは訝しげに眉を寄せると、壁に身を預け今だに震えている研究所長に目を向け、「……誰が連れ去ったのだ?」と訊ねた。

研究所員らは戦闘訓練を受けていないようだ。WROの部隊が急襲した際、彼らはただ右往左往するばかりで、統率の取れた動きとは到底言えなかった。あの混乱の中で被験者を逃がすなどという機転のきいた行動を取られたことがまず意外だった。
長い沈黙の後で女の口から出てきた答えは、「その質問に答えることは許可されていない」であった。その言葉の真意を測りかね、ヴィンセントは目を細めて女を見つめた。さらに追求しようと口を開きかけた時、雑音混じりの通信が入った。
「こちらチャーリー・ワン、こちらチャーリー・ワン。施設北側の地下に隠し通路を発見。港まで続いている模様。人が通った形跡がある」
──船で海へ出るつもりだな。ヴィンセントは思わず舌打ちをした。
「〈ショコラーテ〉からHQ。“魚”はジュノンの港から海へ出たと思われる」
「残りの10名は」
「すでにヘリに乗せた」
「ヘリを出してください。研究所には後ほど増援を送ります」
「了解。〈ショコラーテ〉から各チームへ。アルファとブラボーで10名の護送。チャーリーとデルタは研究所にいた人間の拘束と監視。所長は離して拘束しておけ。港へは俺が向かう」
その時、ヴィンセントの予測を裏付けるように別働隊からの報告が入った。
「ジュノン港の監視班より連絡! たった今出港した高速艇の船上に子どもと『猫』を確認!」
「こちらHQ。〈ショコラーテ〉は屋上にて別部隊と合流、空から高速艇を追ってください」
「こちら〈ショコラーテ〉、承知した」

ヴィンセントは研究所内の階段を駆け上がり屋上へと向かった。外へ通じるドアを開けると、轟音と共にWROのものではない軍用ヘリがヘリポートに着陸するところだった。側面には神羅のエンブレム。赤毛とスキンヘッドの男2人が早く乗れとジェスチャーで急かしている。タークスのレノとルードだ。ヘリに向かってヴィンセントが跳躍するが早いか、操縦席のルードが操縦桿を手前に倒した。上昇を始めたヘリに間一髪で乗り込んだヴィンセントに向かって、レノがにやりと揶揄するような笑みを浮かべて振り返る。
「よお、先輩!」
「……港までやってくれ」
マントや膝についた土埃を叩きながら涼しい顔で答えるヴィンセントに、レノは一瞬面白くなさそうな表情を浮かべ、「タクシーじゃねえっつーの」とぼそりと呟いた。どうやらあまりからかいがいの無さそうな御仁である。ヴィンセントに構うのはやめてレノは前に向き直り、調子外れの口笛を吹きながら愛用の武器である電磁ロッドの点検を始める。その様子をちらりと見て、ヘリを旋回させながらルードはかすかに口元を緩めた。
「レノ、なんだか楽しそうだな」
「そりゃあな。くだらねえ連中とつるむのはもううんざりだったぜ」と言いながら、レノは狭い座席で器用に体を伸ばした。「社長はどうした?」
「主任と例の場所へ向かった。その社長からの伝言だ。存分にやれ、だとさ」
ルードの言葉にレノは破顔した。
「やっぱうちの社長は最高だぞ、と!」
「さっきまで文句言ってなかったか?」
真面目くさったルードを肘で小突くと、レノはご機嫌に窓の外を眺めた。
「さあな。もう忘れたぞ、と」
ヘリは密集したビルやその間のごちゃごちゃとした路地をあっという間に離れ、遮るものの無い海上へ出た。びょうと強い風が吹き、開いたままの開口部から機体の中を通り抜けた。潮の香りがする。自分の中に鬱積していたものが吹き払われていくのをレノは感じていた。

月の無い夜の海は暗く、薄い雲が空を覆っているため星の明かりの助けも借りられなかった。WRO作戦本部に詰めているイリーナが、ケット・シーからのビーコン信号の位置情報を逐一ヘリに共有してくれたおかげで、ヴィンセントたちは着実に標的との距離を詰めていることはわかっていたが、それでも広い海の上で船1隻を探し出すのは困難を極めた。
「本当にこっちであってるんだろーな!?」
苛立ちもあらわにレノが声をあげた。このまままっすぐ行くとコスタ・デル・ソルに着いちまう。
「ケット・シーからの信号を信じるしかないな」
落ち着き払ったヴィンセントの言い方がどことなく気に入らず、レノは小さく舌打ちする。
──と、その時、レノはふと思った。そういえばあの少年は無事だろうか、と。ケット・シーと行動をともにしているのであれば、今追いかけている被験者は自分が路地裏で出会った彼かもしれない。自分を睨みつけていた意志の強そうな瞳が脳裏をよぎった。全員助けてやると約束した。その約束は果たさねばならない。
腐ってる場合じゃねえな、とレノは胸の中で呟くと、大きく息を吐いて「気合い入れて探すぞ!」と気炎をあげた。

ライトを消した高速艇は夜光虫が混じる青い飛沫を上げながら猛スピードで航行していた。
「くそっ、〈ボカ〉の野郎……なんで応答しやがらねえ!」
もう何度目になるか、男は携帯電話のディスプレイに目をやった。数十分前に送られてきた、“自力で対処しろ”という旨のメール以外連絡はない。
船の舵を握る男──組織の一員である〈オジョ〉だ──は、キャビンの隅からこちらを睨みつける少年に目をやった。せめてこのガキだけでも引き渡さないと報酬はおろか命だって危ない。一体どこで足がついたのだろう。施設に踏み込んできたのはおそらくWROだ。苦労して集めた“商品”をようやく売り捌けるというタイミングで台無しにされてたまるか。出荷前のチェックのために施設を訪れていたおかげでなんとか1人は確保できたが、このままだと大損である。だが考えようによっては、これはチャンスだ。〈ボカ〉を介さずにコラソンと接触できるかもしれない。そうすれば、役に立たないあの男の代わりに自分が〈コラソン〉の信を得ることだって夢ではない。
前方にいるはずの客船「海の風号」までどうにかたどり着かなくては。後方から迫りつつあるヘリコプターから逃げ切れるだろうか。スピードではとても勝負にならないが、月も星明かりも無い夜だという条件を最大限利用すればなんとかなるかもしれない。それにこちらに人質がいる以上、ヘリの連中も無闇に撃ってくるような真似はしないだろう。
忙しく考えを巡らせる男の視界の端に、赤い光がよぎった。一瞬切れた雲間から差し込む星明かりに浮かび上がったのは輸送ヘリだ。航行灯と衝突防止灯が赤く瞬いているのだ。右後方のエッジ方面からやって来たそのヘリは、コスタ・デル・ソル方面に向かっているようだった。または自分と同じ船を目指しているのかもしれない。追っ手か味方か。男は一瞬判断に迷ったが、結局進路を変えずにこのまま進むことにした。
男は気づいていない。目を離したわずかな間に、猫のぬいぐるみがいつの間にか少年の足元から消え失せていたことに。

海面にじっと目を凝らしていたヴィンセントの視界の隅にぼんやりとした光が映った。ひと呼吸ふた呼吸と待っていると、また波の間に青い光が浮かび上がった。消えたり現れたりしながら光はだんだんと遠ざかっていく。
──夜光虫か。海の中の発光性の微生物が船体にぶつかって光を発しているのだ。
「10時方向だ」
ヴィンセントの意図を察したルードがヘリの機首を巡らせた。青い光を追いかけて進んでいくと、ぐるぐると水面を照らしていたヘリのサーチライトが一瞬、高速艇の船尾部分を浮かび上がらせた。だが、船の行き先を教えてくれた夜光虫の光はいつの間にか消えており、ヴィンセントらは暗い海の上で標的を再び見失ってしまった。
「暗くて見えねー! 相棒、もちっと近くに寄せてくれ」
ヘリの下部に取り付けられた機銃で狙いをつけていたレノが叫んだ。
「無茶言うな」
「ちょっと撃ってみるかあ?」
「やめとけ、人質に当たるぞ」
レノとルードの会話を聞きながら、ヴィンセントはじっと暗い水面を見つめていた。何か突破口はあるはずだと確信に近い期待を抱きながら。

研究施設から少年とともに連れ出されて以降、ケット・シーは機を窺ってきた。やっぱり魔法マテリアの一つや二つ持ってこなあかんかったな、とじりじりとキャビンの出口まで移動しながらケット・シーは考えていた。そうすればこの男が部屋に入ってきた時点で問題なく撃退できたものを。だが、今更そんなことを考えていても仕方がない。手持ちの札で勝負するのみだ。戦闘用デブモーグリも無いボクに今できるのは……
激しく揺れる船の上を這い進み、ケット・シーはなんとか船尾まで辿り着いた。隠し持っていた予備の赤外線ビーコンを大きく振りながら、声を限りに叫ぶ。
「ここやーーーーー! おーーーい!!」
ヴィンセントなら絶対に気づいてくれるという確信があった。

──ヴィンセントはん…!──

次にライトが高速艇を捉えた時に飛び移る腹づもりでヘリの開口部から身を乗り出していたヴィンセントの耳に、ケット・シーの声が聞こえた気がした。実際は耳を聾するヘリのローターの回転音にかき消されて、声など聞こえたはずはないのだが、確かに呼ばれたとヴィンセントは感じた。
ヴィンセントは背中の包みから細長い銃を取り出した。狙撃銃スナイパーライフルだ。銃に取り付けたサーマル暗視スコープを覗くと、暗闇の中で左右に揺れながらチカチカと光るものがあった。ヴィンセントはハッと目を見開く──ケット・シーの赤外線ビーコンだ──。船体と同様、生物では無いケット・シー自身は熱を持たないためぼやけたシルエットとして映っているが、大小2つの人影ははっきりと認識できた。
「おい、揺らさないでホバリングしろ」
「追いかけねーと止められねーだろ」と、レノが前を向いたままヴィンセントに怒鳴った。
「ここから仕留める」
ヴィンセントは最低限の説明だけすると、ツヤ消し加工の施されたステンレスの銃身の外観をざっと目視でチェックした。ボルトハンドルを引き、マグナム弾を5発装填する。ハンドルを前進させると内蔵マガジンから薬室へ弾がスムーズに送り込まれる感触が手に伝わってきた。ヘリの床に腹這いになり、二脚銃架と肘で銃身を固定した。機体横のスライドドア脇に取り付けられたフックにワイヤーを張り、銃身を引っ掛けて更に安定度を高める。
黙々と狙撃の準備をするヴィンセントを見て、レノが片眉を吊り上げた。
「……あんた、狙撃銃なんて使ってたか?」
「覚えた。時間だけはあるからな」
およそ4年前にミッドガルで宝条を取り逃がしたことをヴィンセントは悔いていた。長距離ロングレンジの攻撃手段の必要性を感じたのはその時からだ。以来、彼は狙撃銃の訓練を密かに行ってきた。様々なシチュエーションでの運用を想定して、銃にはカスタムも加えてある。
距離600m、右からの風、波の様子から推測される風速はおよそ10m──ミルドッドレティクルを覗き、弾着を補正する。ヴィンセントは静かに息を止めると、一定の速度でトリガーを引いた。銃身の中を回転しながら加速した弾丸は緩やかな放射曲線を描きながら標的に向かって飛んでいく──

ヴィンセントの撃った弾丸は、超音速を保ったまま船の推進力を生み出すスクリューと船体のつなぎ目に着弾した。スクリューシャフトがねじ曲がり、船は蛇行しながら停止した。
船を運転していた男はその衝撃で舵からはじき飛ばされた。キャビンの内壁にしたたかに背中を打ち付け、一瞬息が止まる。ブラックアウトしかけた思考の中ではっきりしていたのはただ一つ。自分が追い詰められつつあるということだった。手の中にきつく握りしめていた携帯電話が目に入った。ディスプレイは先ほどまでと同様に沈黙を貫いている。
こき使うだけこき使って肝心な時に助けてくれない組織の上の連中がこの先ものうのうと生きて行くのかと思うと、引き攣れた笑いが込み上げてきた。あまりにも理不尽ではないか?
男は頭を振って意識をはっきりさせると懐から銃を取り出した。壁に手をつき体勢を立て直すと、キャビンの隅に転がっている少年に狙いを定める。
──ならばせめて奴らの計画を台無しにしてやる……!
安全装置を外し、男が引き金にかけた指に力を込めた瞬間、パラパラという音が耳に入った。いつの間にか間近にまで追っ手のヘリが迫っていたのだ。時折キャビンの内部にまで届くサーチライトの光が、少年の顔を照らし出した。少年は、男をまっすぐに睨み据えていた。気に入らない。こういう場面では獲物はもっと怯えるものだろう?
震える手で男が銃を構え直したその時、船が大きく揺れた。
「うらああーーっ!!」
ヘリから飛び降りたレノが船体に着地した衝撃だった。男は驚愕に目を見開きながら後ろを振り返る。その目にヘリのサーチライトの眩しい光が突き刺さった。
レノはそのままバランスを崩しながらキャビンに突っ込むと、電磁ロッドを水平に一閃させる。その一撃は、バチバチと空気を灼きながら男の肩口にクリティカルヒットした。どこかの骨がひしゃげる嫌な音が響く。その勢いで男の銃から発射された弾丸はレノの頬を掠め、闇の向こうに飛び去った。レノの一撃を受けて壁まで吹っ飛ばされた男はずるりと崩れ落ち、床の上で苦悶に満ちたうめき声をあげた。
レノはハアハアと肩で息をすると、ぐいと手の甲で頬の血をぬぐった。その目が薄暗いキャビンの中を彷徨い、瞬きもせずにこちらを見つめる少年の上で止まる──やはりあの子どもだ。施設に送られた後で身なりを整えられたのだろう。伸び放題だった髪は綺麗に散髪され、こざっぱりとした服をその身にまとっている。だが、瞳は変えようがない。強情そうな光の宿った、その瞳。
わずかに眉を寄せ、戸惑いの表情を浮かべながらも少年が口を開いた。
「あの時のお兄ちゃん……だよね?」
「わりい、待たせたな。約束通りぶっ飛ばしてやったぞ、と」
得物を肩に担ぎ、にっと口の端を持ち上げてレノは言った。少年を助け起こし、その後ろに回ると、懐から取り出したナイフで両手首に巻かれたロープを切ってやる。
ありがとう、とホッとしたように掠れ声で呟いた少年の髪を、レノは無言でくしゃくしゃと撫でた。華奢な首筋、声変わりを始めたばかりの掠れた声──大人びて見えるが、確かこの少年は12歳を数ヶ月過ぎたばかりだとリストに記載されていた。子どもに危険な“任務”を課してしまったな、と苦い思いがレノの胸の内をよぎる。
「怪我とかしてないか?」
レノはすぐそばに屈みこんでできるだけ優しい声で訊ねた。
少年はふるふると首を振ると、「大丈夫」とだけ答えた。

「はー…間一髪でしたわ~」
気の抜けた呟きに2人が振り向くと、船尾の方からケット・シーがやってくるところだった。ケット・シーに駆け寄り抱き上げた少年がその顔を見て声をあげた。
「ケット、怪我してる!」
そう言われてみると、確かに右頬に斜めに傷が走り、中から綿が覗いていた。ヴィンセントの狙撃が着弾した時に揺れる船から振り落とされそうになり、必死でロープやらにしがみついているうちにできたものだろう。
「名誉の負傷や! それにボク、痛みは感じないからあんまり心配せんで」
にゃはは、と笑みを浮かべてケット・シーは少年の頭をぽんぽんと軽く叩いた。

怪我したのは俺もなんだけどな、と思いながらレノはその光景を眺めていた。もう頬の血は止まりほんの少し痛むだけだ。一週間もすればきれいさっぱり治るだろう。全く、色男の顔に傷なんかつけやがって──
レノは壁を手でライトのスイッチを押した。ライトで照らされたキャビンには、掃除用具や非常食など雑多な物が散乱していた。レノは床に転がっている男を睨みつけると、ポケットから取り出した結束バンドを取り出すと、男の両手の親指同士を背中側できつく結び合わせた。ついでに男の襟元を掴んで乱暴に引き起こすと、その口内に小汚い布を突っ込んでおいた。バケツの近くに落ちていたので雑巾かもしれないが、これっぽっちも悪いとは思わなかった。自害しないように配慮してやるのは単に情報を引き出す必要がある、それだけだからだ。レノが乱暴に手を離すと、男は再びくずおれて床に顔をしたたかに打ち付けた。

だんだんと大きくなるヘリの音に振り返ると、ルードの操縦するヘリが高度を下げながら船に近づいてくるのが見えた。さっきは随分と高いところから飛び降りたのだな、と他人事のようにレノは思った。咄嗟のことだったとはいえ、我ながら無茶をしたものである。
「こりゃあ後で相棒からお説教だぞ、と…」と苦笑交じりに呟いた。

ヘリから船の上に飛び降りたヴィンセントは状況を確認し、WRO作戦本部へ吉報を伝えた。
「〈ショコラーテ〉からHQへ。最後の被験者を無事保護した」
その言葉を聞いて、WRO作戦本部の空気がわっと沸いた。リーブも一瞬天を仰ぎ、ふーっと息を吐いた。
「よくやってくれました。被験者を連れて帰投してください」
ヴィンセントはキャビンの隅に転がる男に目を向けた。肩口のあたりの服が焦げており、腕が妙な角度に曲がっているが、命に別状はなさそうだ。
「了解。幹部の一人と見られる男も拘束して連行する」
通信を終えたヴィンセントに向かって、レノは真顔で親指を立てて見せた。ヴィンセントは同じ仕草でそれに応えた。

〈ボカ〉の行き先は、この船に2室しかないスイートルームだった。扉を守るSPに「しばらく誰も入れるな」と厳命し、男はティファを部屋に招き入れた。
毛足の長い絨毯がふかふかと気持ちいい。ティファはきょろきょろと部屋の中を見回した。部屋の右手の隅に設えられたミニバーのカウンターにはいくつか酒のボトルが置かれていた。職業柄、すかさず銘柄をチェックする。
──なるほど。男の魂胆が良くわかるようなラインナップだ。
嫌悪感に顔が歪みそうになるのをぐっと堪えて、ティファはさりげなく窓の鍵をチェックした。残念。ロックがかかっている。気づかれずに開けるのは無理そうだ。何か手立てを考えなくてはと思いながら、ティファは海を眺めた。湾曲した大きな窓からは船の灯りを穏やかに反射する黒曜石のような海が見える。今夜西の空にかかった三日月はすでに沈んでおり、星々が空の主役であった。海と空の境目は定かではなく、時折現れる白く小さな波頭は満天の星空の照り返しのようだ。ティファはかつてシドのロケットに乗って訪れた宇宙空間を思い出した。クラウドと身を寄せ合ってロケットの小さな窓から見つめた、光の煌く暗闇を。
〈ボカ〉が備え付けのキャビネットからグラスを2つ取り出した時、グラス同士がぶつかるキンという甲高い音が小さく響いた。その音に、思考が引き戻される。自分が今置かれた状況に。
ソファの近くのローテーブルにグラスと酒のボトルを置くと、男はティファの後ろへゆっくりと近づいた。その肩に手を滑らせようとした瞬間、ティファが振り向いた。
「お化粧を直してきます」
艶然とした流し目をくれながら素早く男の脇をすり抜けると、ティファはクラッチバッグを手に洗面室へ向かった。駆け出したい衝動をどうにか抑え、できるだけゆっくりと。
洗面所のドアを閉める時、ティファは自分の手が震えているのに気がついた。心臓が高鳴っている。覚悟していたこととは言え、ギリギリのところまで自分を餌にすることが今更ながらに耐え難いものに思われた。
洗面台に両手をつくと、鏡の中から緊張のあまり顔色をなくした自分が見返して来た。
自嘲の笑みが口元に浮かぶ。ちょっと触られそうになったくらいでこれだもの。ドン・コルネオの“お嫁ちゃん”オーディションを受けようと思った時の度胸はどこに行ってしまったのだろう。

「──〈ルナ〉、〈ルナ〉…」
ティファが震える手で髪のほつれを直していると、イヤリングから声が聞こえてきた。声が呼びかける名前が自分のコールサインであると頭で理解するのにほんの一瞬時間を要した。
ユフィだ…! 声の主に気づいて心の底から安堵する。一つ大きく深呼吸をすると、ティファは腹に力を入れた。ここまで来たんだもの。失敗は許されない。
「こちら〈ルナ〉。標的と一緒に船の東側のスイートにいるわ。作戦は順調に進行中」
ユフィはティファの強張った声音に一瞬言葉を詰まらせたが、「できるだけ時間稼いで!」とだけ答えた。
「わかった。あまり長いと怪しまれる。そろそろ行くね」
バッグから取り出した口紅を塗りなおすと、いくらか血色が良くなったように見えた。大丈夫。もう手は震えていない。
──戦闘開始よ。

ティファが戻ると、〈ボカ〉はくつろいだ様子でソファに座っていた。きっちり一人分空けてその横に座ると、男は余裕の笑みを浮かべて見せた。
「どうぞ」と言い、とろりとした琥珀色の液体をデカンタからグラスに注ぐ。
「ありがとう」
グラスを軽く合わせてから、ティファは一口こくりと飲んだ。ロングアイランドアイスティーだと酒類を扱うプロであるティファの舌が告げる。必要な材料の種類が多いため、これを出す店は多くない。ティファも旅の間に二、三度飲んだことがあるだけだ。口当たりはいいのにアルコール度数が高く、よほど気をつけていないと簡単に酔ってしまうカクテル。通称“レディーキラー”。ティファが自分の店では絶対に出さないことにしている酒である。
カウンターの上に並べられた酒のボトルの種類からこれが出てくるのは予想できていたが、しれっと笑顔で言ってやる。
「わあ、美味しい。飲んだことのない味です」
「どんどんどうぞ」
締まりのない笑顔を浮かべる男は申し訳程度にしかグラスに口をつけない。対するティファはかなり早いペースで一杯目を空にした。男はやや驚いた表情を浮かべたものの、ティファのグラスにさらに酒を注ぐ。
「貿易関係の仕事をしているので、珍しいものが手に入りやすいんですよ……と、失礼」
ボカは着信を知らせる携帯電話を胸ポケットから取り出した。発信元をちらりと確認すると、少し迷ったのちに電話を切った。するとすぐにメールが送られて来たようだ。流石に無視できなかったのか、指紋認証の後、〈ボカ〉はパスコードを打ち込もうとしている。
二要素認証だ──ティファはすっと距離を詰め、男のすぐ近くに座り直した。右耳から下がる見事なガーネットのイヤリングをその白い指が弄んでいる。
「お仕事ですか? お忙しいのね」
少し拗ねたような声で言い、ティファは男の肩にギリギリ触れない程度に頭をもたれさせる。ティファの胸元を間近から覗き込む格好になった男の手が一瞬止まる。腕時計に目をやった男は、お楽しみに割ける時間が残り少ないことを知った。男はもう一度画面を見て、6桁の数字を素早く入力した。大急ぎでメールを1通送ると、〈ボカ〉は携帯電話をテーブルの上に置いた。
「もう用は済みました。さ、飲みましょう」
にこやかにボカはティファのグラスに酒を注ぎ続ける。

結局、ティファはほとんど一人でデカンタを空にした。
「……お強いんですな。もう一本珍しい酒がありますが、どうしますか?」
「ぜひ頂きます」
ソファから立ち上がったボカはキャビンから次のボトルを取り出した。ちらりと見えたラベルからするとアブサンだ。珍しい香草酒で、苦味がある。ティファからは男の背中で遮られて手元が見えない。新しいグラスに液体を注ぐ音だけが聞こえてくる。手渡されたグラスには白く濁った酒が入っていた。ほんのひと舐めすると、アブサンのものではない苦味があった──おそらく睡眠薬が混入されている。薬の味をごまかすために苦味のあるアブサンを選んだのだろう。そして、色の変化をわかりにくくするために──アブサンは水と混ぜると白濁する──水で割っている。わかってはいたことだが、随分卑劣な男だ。
表情を変えずにティファはそのグラスをゆっくりと時間をかけて飲み干した。ふうと艶やかに息を吐いたティファは〈ボカ〉に流し目をくれる。
「なんだか熱くなってきてしまいました。窓を開けても?」
〈ボカ〉は黙って頷き、すぐ後ろの窓を開けて風を入れてやった。ソファに座り直し、風が女のドレスをゆるくはためかせる様を見物することにする。薬が効くまであと少しだ、と内心ほくそ笑みながら。よく引き締まった長い脚から出発し、ボカの目線がティファの体を上へ上へとなぞっていく。その視線が豊かな胸のあたりを行きつ戻りつした。その時、女が手元のグラスからふっと視線を上げ、潤んだ瞳で〈ボカ〉を見つめた。ぽってりとした唇が開き、何か言おうとしている。強い風が室内に吹き込み、女のイヤリングが大きく揺れた。

──火照りを冷ますためか、女は手でパタパタと顔を扇いでいる。大丈夫かと声をかけると、とろんとした瞳を自分に向け、小首を傾げて「暑いの」と女は言った。その手を取って優しく引くと、女はされるがままに寝室までついて来た。女の足がもつれ、ベッドに仰向けに倒れた時に豊かな胸が誘うように揺れた。
携帯電話を置いてきてしまった。男の頭にふとアラームが点灯する。だが、目の前のあまりに魅惑的な光景に比べれば、些細なことでしかなかった。
〈ボカ〉はシャツを床に脱ぎ捨て、女に馬乗りになった。ベッドのスプリングがぎしりと音を立てる。首の後ろのリボンを解くとホルターネックのドレスをゆっくりと脱がせた。真珠のような真っ白な裸体に目が釘付けになる。傷一つない﹅﹅﹅﹅﹅完璧な体だ──

「何こいつニヤついてんの、キモ…」
こんこんとと眠り続ける〈ボカ〉の締まりのない顔を一瞥し、べえと舌を出してユフィが顔をしかめた。どんないかがわしい夢を見ているのやら。蹴りの一つでもお見舞いしてやりたいが、覚醒されると面倒だ。
腕組みをしながらユフィの横に立ち、ティファも軽蔑の眼差しを向けている。まだ鳥肌が治りそうにない。先ほど、イヤリングに連絡があって間も無く窓から侵入して来たユフィが男の背後に音もなく立った時は、安堵のあまり思わず名前を呼びそうになってしまった。そのユフィに渾身のスリプルをお見舞いされ、男はあえなく昏倒した。今は半分ずり落ちそうになりながらソファに横たわっている。
「……と、大丈夫?」
テーブルやカウンターの上に並ぶ、空になった酒瓶の数を見てユフィが目を丸くした。いくらティファが酒に強いとはいえ、この量は尋常ではない。
ティファは片目をつぶって首の後ろで結ばれたリボンを振って見せる。クラウドにもらった、虹色を宿す、あのリボンを。
「あーーー! それもしかして『リボン』⁉︎ うわ、そんなレアアイテムよく持ってたね」
ユフィは目を丸くした。ティファの首に巻かれたそれは、世界に数本しか存在しない、全ての状態異常を無効にする最強のアクセサリであった。輪にして結んだ時点での装備者の状態を固定する、古代の魔法が秘められていると伝えられている。
まあね、と目元を緩めたティファの嬉しそうな顔を見て、クラウドの仕業かとユフィはピンと来た。男の家に侵入した際に、寝室の引き出しに怪しい薬の瓶が並んでいたとユフィが話したのを覚えていたのだろう。ゴールドソーサーで無茶でもしたのか、はたまたモンスターからのレアドロップを引き当てたのか……。これを入手するのにクラウドは随分大変な目に遭ったのではないかと思う。面倒臭い男ではあるが、クラウドのこういうところは認めざるを得ない。
念のためティファは持参した万能薬を飲むと、イヤリングを通じてリーブを呼び出した。
「こちら〈ルナ〉。ちゃんと撮れてた?」
「バッチリですよ」
遠く離れたエッジのWRO作戦室にいるリーブの返事を聞いて、ティファはほっとため息をついた。ボカが携帯電話に暗証番号を入力する瞬間は、ティファのイヤリングの隠しカメラが捉えていたのだ。
「今しがた〈ショコラーテ〉から連絡がありました。向こうも仕事を完了したそうです。最後の被験者を無事確保しました。人身売買のセンで詰めます」
りょーかい、とユフィはリーブの言葉に軽く答えると、意識のないボカの指をつまみ上げた。その指を携帯電話に押し付けて指紋認証を解除すると、続けてリーブの指示する暗証番号を入力した。現れたホーム画面を見て、ティファとユフィは無言でハイファイブを交わした。ユフィは背負ったデイパックからいくつかデバイスを取り出すと、手際よく携帯電話に繋いでいった。中身を吸い出し、WROへデータを送るのだ。
「うっし。今、〈ボカ〉の携帯の中身送った」
「……はい、確認しました。ようやく揃いましたね」
これまでに集めてきた情報やルーファウスから提供された資料と合わせて、組織のメンバーとFACTORY計画の顧客リストの全貌がようやく明らかになったのだ。組織のトップと見られる〈コラソン〉の正体も。
「〈フェブレロ〉の読みは当たっていましたねえ……」
被験者たちが監禁されていた研究所や孤児院「とこしえの園」をめぐる金の動きを丹念に追って行ったところ、ゲイル・リバーウッドに行き着いた。ユフィがボカの家に侵入してすぐにリバーウッドをマークするよう進言していたことから、スムーズに調べがついたのだ。彼がこの組織の隅々にまで資金という血液を供給していた〈心臓コラソン〉だった──
「まあね。ボーナスよろしくう!」
ユフィの軽口に、「もちろんですよ」とリーブはさらりと答えた。彼女の働きなくして今回の結果は得られなかっただろう。
「とにかく大詰めです。〈ロボ〉が標的ターゲットを確保したら離脱してください。すでにヘリがそちらに向かっています」
「オッケー! ……よし、そんじゃ次のフェーズに移るよ」
ユフィは不敵な笑みを浮かべながら、〈ボカ〉の携帯電話を操作した。組織のメンバーへ偽のメールを一斉に送信したのだ。
さてさて、どうなるかな。楽しげに目を細めて画面を眺め、続けてメールボックスを漁っていたユフィの手が止まった。〈ボカ〉の受信したメールの中に時折妙なものが混じっている。

  -電極の出力を12%上げ、被験体No.14の脳波データを再解析せよ。被検体No.19については…
  -刺激から100ミリ秒までの間の脳波の波形パターンが過去30日間の平均データから許容範囲を超えて逸脱している。アルゴリズムを修正し…

なんだこれ? ユフィは目を細めた。

メールの末尾に「C」の署名。
発信元はコラソンの端末だ。心臓……corazon…コラソン…「C」……

かすかな引っかかりを覚えたものの、ユフィは首を振ってそれを振り払った。〈コラソン〉を捕まえたのち、じっくりと聞き出せばいいことだ。
ユフィはボカを細いロープで拘束したのちに、ティファの方を振り返った。
「“厨房”から迎えが来たら、こいつを引き渡して任務完了だよ。……悪かったね、巻き込んじゃって」
「大事な仲間の頼みだもの」
ティファは首を振ると、にっこりしてそう言った。

  ー研究所が襲撃され〈コラソン〉の正体が割れた。急遽警護に当たれ。  ボカ

クラウドの持つ端末に、ユフィが送った偽メールの内容が表示された。ティファはきっちり仕事をこなしたのだ。同時にWRO作戦本部のリーブから通信が入る。
「こちらHQ。彼女は無事です。目的の情報も得られました」
その言葉に、クラウドの口から安堵の吐息が漏れた。
「作戦は次のフェーズに入ります。頼みましたよ」
わかった、と短く答え、クラウドは改めて装備を点検した。その後少しすると、船の中が慌ただしくなって来た。身を潜めていたクラウドは、その気配を敏感に察知し、声や足音など向かう方向を探った。どうやら複数の人間が船底へと急いでいるようだ。
と、その時、床が一瞬大きく揺れた。船体の底から突き出たプロペラが高速で回転を始め、船が急に動き出したのだ。速度を上げながら、旋回を試みているらしい。先ほどの動きは機関制御室へ向かう船員たちのものだったようだ。
「こちら〈ロボ〉。船が動き出した」
「HQ、了解。どうやらコスタに戻ろうとしているようです。作戦継続に支障は?」
クラウドたちの端末の位置情報を読み取っているのだろう。リーブの声音は落ち着いていた。
「ない。このまま続行する」
短く答えると、クラウドは物陰から飛び出した。
揺れる船の中を危なげのない足取りで駆け抜けながら、クラウドはすれ違う来客たちを観察する。そのほとんどは動揺した素振りであたりを見回し、中にはどこか掴まれるところはないかと探していたり、通りかかったスタッフに何が起きているのかと詰め寄るものもいた。
だが、ちらほらと別の行動をとる人間もいた。携帯電話に険しい視線を走らせ、あたりを油断なく窺いながら、どこかに向かおうとしている。クラウドはその1人に標的を定め、数歩後ろからあとを追うことにした。

開いたままの扉を抜けると、そこは先ほどまでいたパーティールームの上の階だった。吹き抜けになった空間を囲むように回廊が巡らされ、ところどころに椅子やテーブルを備えた半個室のようなスペースが見える。慌てて避難したのだろう。すぐ近くのテーブルの上には横倒しになったグラスが散乱し、こぼれた酒が高価そうな布張りのソファや椅子にシミを作っていた。それらを横目に見ながら柱の陰に身を隠して辺りを探ると、組織の人間らしき者たちが武器を構えて一枚の扉の前に集結しているのがクラウドの目に入った。
「〈ボカ〉はどこだ !? 」
「くそっ、この大事な時に」
「研究所とはまだ連絡が着かないのか…!」
随分と揉めてるな、とクラウドは考えながらひっそりと近づいて行った。研究所が襲撃されたというのが完全に想定外の出来事だったのだろう。大金が動く取り引きを前にしてのこの事態に、組織は完全に浮き足立っているようだった。指揮系統の乱れた相手を叩くなど造作もないことだ。クラウドは、その時を待った。
「とにかく〈コラソン〉の保護が最優先だ」という言葉とともに、男たちは扉を開け、部屋の中になだれ込んだ。部屋に入ったのが5人、外に残ったのが1人。
一拍置いてクラウドはひらけた通路へ飛び出し、ベルトに下げていた刀を鞘ごと抜き放つと、扉に向かって短い距離を一気に駆け抜ける。
「貴様……!」
部屋の前で警戒に当たっていた男が接近するクラウドに気づいてサブマシンガンを向けたが、遅い──。男はトリガーに指をかけたまま体をくの字に折って意識を失った。その腹には鞘の先端がめり込んでいる。クラウドが腕を引くと、支えを失った男は胃液を吐き出しながら前のめりに倒れた。
体を軽くひねって男の体を避けたクラウドは、レジストの魔法を自分にかけると、懐から取り出したスモークグレネードのピンを抜き、扉を蹴り開けて中に放り込んだ。部屋の中央には円卓があり、身なりのいい者たちが席についたまま呆然と互いの顔を眺めていた。そのうちの1人が、クラウドが何かを投げ込んだことに気づいて椅子を蹴って立ち上がり、声にならない声をあげた。シューッと音を立ててスモークグレネードから煙が吐き出される。クラウドが素早く室内を確認すると、一番奥に座る老人の周りに組織の人間が固まっているのが見て取れた。その数は5人。さっき部屋に入っていった奴らだ。催眠ガスが室内に充満するその直前、驚愕に目を見開くその老人とクラウドの視線がぶつかった。
──やはりあいつか。リバーウッドとかいう。事前にリーブから渡された資料で見た顔だ。
老人が口を開くより先に、周りを固めた護衛の武器が火を噴いた。煙で視界の効かない中、激しい銃撃音にあちこちから悲鳴が上がる。クラウドは横飛びに弾丸を避けると、その勢いのままに円卓を回り込むようにしてリバーウッドに駆け寄った。護衛の1人がリバーウッドを壁際に突き飛ばす。クラウドは踏み込んだ足に力を込めて急激に方向転換し、壁を蹴って空中に躍り出た。上から見下ろすと、まるでスローモーションの映像を見ているかのように、クラウドの動きを目で追う護衛の連中が間の抜けたツラを晒しているのが目に入った。そのまま宙から四度、五度と抜き身の刀を振るう。着地と同時に血飛沫を刀身から払い落とし、片膝をついたまま納刀した。一瞬の出来事だった。累々と倒れこむ護衛らは苦悶の声を上げながら腕や肩を押さえていたが、やがてガスが効いて眠りに落ちた。高齢であるターゲットへの悪影響を懸念して極低濃度に抑えられていたガスはすぐに晴れた。円卓についていた顧客どもも突っ伏して動かないが、眠っているだけで死んでいる訳ではなさそうだ。
リバーウッドは半分意識を失い壁にもたれ掛かっていた。床に伸びている護衛を大股でまたぎ越し老人に近づくと、クラウドはその襟首めがけて手を伸ばした。
──と、そこに灼けつくような殺気が疾る。間一髪、クラウドは刀を引き抜いたが、鞘から抜き切る前に衝撃が走った。背後から横薙ぎに振るわれた鋭利な一撃を受け止めはしたが、勢いを殺し切れず、クラウドは吹き飛ばされた。だが、なんとか空中で姿勢を立て直し、刀を正眼に構えて突如現れた敵に向き直った。
手足の長い、ひょろりとした影のような男だった。両の手にぶら下げた得物はなんだ? 複数の小刀…いや、手甲と一体化した頑丈そうな鉤爪だ。男の風体は、かつて戦った神羅の強化戦闘員を思い出させた。男は胸に溜めていた空気を吐き出し、再び大きく息を吸い込むと、威嚇するように右手の鉤爪をカチカチと鳴らした。
──どこに隠れていた? 奴は催眠ガスに気づいて呼吸を止めていた上に、攻撃を加えるその瞬間まで完全に気配を消していた。どうやら油断のできない手練れのようだ。クラウドは素早く思考を巡らせた。
クラウドは構えた刀の先端を誘うように小さく振り動かした。敵は、ゆらゆらと独特なステップを刻むと再びかき消えるように姿を消した──いや、倒れた椅子や人間などの障害物を利用してジグザグな軌跡を描きながら床すれすれを滑るように迫ってくる。相手の進路を狭めるためにクラウドは足元に転がっている割れたグラスやなにかの欠片を蹴り飛ばした。飛んでくるものを避けようと相手がわずかにのけぞった瞬間に、クラウドは間合いを詰めながら、最短距離で突きを放つ。敵は逃げずにクラウドを迎え撃つと、最初の突きを鉤爪の側面を滑らせて受け流し、そのまま長さのまちまちな鉤爪で少しずつタイミングをずらした攻撃を仕掛けて来た。クラウドはそれらを捌きながら鋭い斬撃を繰り出し、2人は数合撃ち合った。互いの武器が絡み合った瞬間、男はクラウドの刀を両の鉤爪で挟み込む。男が力を込めると、薄い刃はその負荷に耐えられず、澄んだ音を立ててへし折れた。
男は、武器を失ったクラウドに必殺の一撃を放とうとした──だが、折れた刀の先にその持ち手の姿は、ない。
──どこだ?
男がわずかな動揺を見せた瞬間、自身の腕で死角になった左側下方から伸び上がりざまに放ったクラウドの膝蹴りがみぞおちにクリーンヒットした。鉤爪で刀を絡めとられた直後にクラウドは刀を手放し、男の横に回り込んでいたのだ。
短くなった刀が、緩んだ鉤爪の間をすり抜ける。それが床に落ちる前に、クラウドは逆手で掴むと、苦痛に喘ぐ男の顎に柄頭を叩き込んだ。
ぐらりと揺れる意識の中で、膝をついた男は自分を倒した侵入者の涼しい顔を見た。見た目に似合わず泥臭い手を使う──そんなことを考えながら男は意識を失った。鉤爪がだらりと垂れた。
対するクラウドは、手元に残った刀の残骸を手で弄びながら男を見下ろし、「悪いな、格闘術を使う奴の相手は慣れている」と呟いた。また暴れられると厄介なので、今のうちに拘束しておこうと考え、クラウドは男の横にしゃがみこんだ。目を開けたまま意識を失ったその顔を間近で見てみれば、そこには見知った青い光があった。魔晄を浴びたもの──ソルジャーの証。
道理で腕が立つわけだ。神羅との深い繋がりがある以上、戦闘員として組織に元ソルジャーが加わっていることは意外でもなんでもなかった。ましてやその組織のトップが自前の用心棒を持たないはずがない。

男を拘束し、クラウドは立ち上がると部屋の惨状を見渡した。銃撃で破壊された室内に、倒れている人影が多数。円卓の上には人数分の小箱があり、見たことのない色のマテリアがあるいは転がり、あるいは卓についた者の手に握り締められている。
──これが例のマテリアか。どうやら俺は大当たりを引き当てたようだ。
転がっている連中の動向に気を配りながら、クラウドはインカムに向かって現状を報告する。
「〈ロボ〉だ。標的ターゲットを確保した。悪いが手伝いを寄越してほしい。ちょうど取引現場を抑えてしまったらしい。標的の他に例の顧客と、組織の連中がいるんだが、全員意識を失っている。俺1人では運べない。場所は──」

その時、クラウドの報告を遮って、通信回線は大混乱に陥った。

クラウドが会議室に突入する少し前、海上で事態は動いた。

「shellリスト」の被験者の1人を連れて逃走した組織のメンバーはレノの容赦のない一撃によって無力化された。その男を連行しようとヴィンセントが近づいたその時、男が呻き声をあげ、その目蓋がピクピクと動くのが目に入った。意識を取り戻そうとしているのか? いや、体は完全に弛緩している。虚な表情を浮かべる男──〈オジョ〉の右目だけが異様な動きでヴィンセントを捉えた。金属が擦れるような微かな作動音を発しながら虹彩が緑色に発光し、瞳孔が収縮と拡大を繰り返す。カメラのフォーカスを合わせようとするかのように。これは機械製の義眼か? レンズの向こうにいるのは──

ヴィンセントが機械の瞳に見つめられていた頃、ユフィとティファもまた予想外の出来事に直面していた。いまだ眠り続ける〈ボカ〉の口が、突然開いた。
「懐かしい顔だ」
目を瞑ったまま、〈ボカ〉は言った。魔法で眠らせたボカの体はぐにゃりと力を失ったままだ。なのに口だけが動いている。凍りついたユフィとティファが凝視する中、〈ボカ〉は再び口を開く。
「そうだったな、ヴィンセント……お前はいつも私の前に立ち塞がる」
ヴィンセント──? 今こいつ、ヴィンセントと言ったのか? ユフィの背中に冷たいものが走った。
「なんか変だ……!」
情報が漏れているのか? ユフィが驚愕に目を見開き、〈ボカ〉の息の根を止めるか逡巡しているその時、ヴィンセントからの通信が入った。
「……見られている﹅﹅﹅﹅﹅﹅ぞ!」

ヴィンセントの言葉と同時に、電子空間に浮かぶWROのゲートの前に白い影が現れた。ゆらゆらと朧げに霞む姿には時折ノイズが走り、捉え所がない。だが、ゲートの前で電磁スピアを構えるシェルクの目の前で、徐々にそれは一つの形に収束していった。
結えた長髪を垂らした白衣の男が背中を丸めて立っている──それは死んだはずの宝条だった。

ネットワークの監視を担当するオペレータがリーブに叫ぶ。
「局長……! 〈ゲートキーパー〉からです! …宝条だ、と」
組んだ両手の関節が白くなるほど力を込め、リーブは目の前のディスプレイを睨みつけた。

──現れたな、亡霊め。

-後編へ続く-


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