見出し画像

#3 この街は僕等の夢を見てる/「シャルル」

あなたが私にくれたもの
夢にまで見た淡い夢

ジッタリン・ジン「プレゼント」

目をつぶるだけで遠くに行けたらいいのに

スピッツ「ヒバリのこころ」

それゆえ、私たちは夢がなければ生きていけない。何ごとにも目標はあったほうが良い。少なくとも私は、何をするにしても理想となるモデルがないと困る。文章を書くときはもちろん、友達と話すときや街中を歩くときでさえ、なんとなく誰かの真似をしてしまう。だから私はすぐに他人の癖が移る。

面白いことに、モデルは同じジャンルのものでなくとも良い。文章の場合、私はいつも音楽を一つの参考にしてきた。気に入っているのはジッタリン・ジンとスピッツ。なかでも「プレゼント」と「ヒバリのこころ」が好きだ。ボーカルの春川玲子と草野マサムネの歌声は、無性に投げやりなのだけど、不思議な清々しさがある。ただ歌わなければいけないから歌っている——そんな感じがする。

私たちは、効率化されたアスリートの動きに美しさを感じることがある。一流のアスリートの所作には一切の無駄がない。余計な力が入ったり、気を衒ったことをしようとすれば、最適化された動きが崩れてしまう。私たちは、このような無駄を削がれた運動にある種の美しさを感じるのだろう。ジッタリン・ジンとスピッツの美しさは、これに似ている。

小説家の坂口安吾は、法隆寺や平等院のような歴史的建築よりも、工場や刑務所、そして帝国海軍の駆逐艦の方に美しさを感じると言っている。なぜなら、後者は「ただそうあらねばならない」という理由からのみそこにあるからなのだ、と。

ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって、取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ、必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。(…)すべては、ただ、必要ということだ。

坂口安吾「日本文化私観」

安吾は、自身の生業とする小説もそうでなければならないと続ける。ともかく重要なのは、必要に迫られた機械的な合理性が、人間の意匠を凌駕する美を生み出すということだ。

たぶん、私がジッタリン・ジンとスピッツに感じる魅力はこういうことだ。アスリートのような美しさといったのは、彼女/彼らの曲には、「ただ歌いたいことを、ただ歌いたいから歌う」以外の部分が削ぎ落とされている感じがするということだと思う。

機械的なものが生み出す独特の美といえば、私にはもう一つお気に入りの曲がある。それが、ボーカロイドのv flowerブイフラワが歌うバルーンの「シャルル」だ。初めて聴いたのは高校3年生のとき。私はまずv flowerの力強い中性的な声に惹かれた。静かに叫ぶような彼女(?)の歌声は、ジッタリン・ジンを彷彿とさせる。しかし、機械音声であるだけに、「ただ歌っている」という感じは増幅されている。

まだ若かった高校生の私は、この曲の歌詞にも強く惹かれた。「さよならはあなたから言った それなのに頬を濡らしてしまうの」から始まる悲しいラブソングは、やがて始まる大学生活への期待と不安を象徴しているように思われた。

(同じく高3のとき、大学生が深夜のスーパーでダンスをする動画をSNSにアップして炎上する事件があり、「シャルル」と同じように、私もこんな大学生活を送るのかもしれないと思っていたことがある。)

とくに私が好きなのは、2番の冒頭。

朝焼けとあなたの溜息
この街は僕等の夢を見てる

バルーン「シャルル」

朝焼けとため息、そして夢という言葉から、果てしのないやるせなさが伝わってくる。でも、この歌詞の魅力は、単なるやるせなさだけではない。

私は映画が好きだから、すべてを映像のように考えてしまう。まず、部屋の窓から朝焼けを見ている僕の視線がある。そして、溜息の音によって、視線は隣にいるあなたに移る。ここですでに、目覚めの悲しみが予告されており、視線は夢の中へと舞い戻ろうとする。

だが、この曲が面白いのは、夢を見るのが僕ではなく、この街そのものであるというところだ。目覚めた僕がまた夢を見ようとするのではなく、逆にこの街の方が僕等の夢を見ることで、視点は窓の外の匿名的な場所へと切り返される。さっきまでは溜息を聞きながら部屋の外の朝焼けを眺めていた僕が、今度はどこからともなく見つめられる側になる。そうすることで、夢から覚めて現実に取り残されてしまった僕等の孤独が際立ってこないだろうか。

ここでは、映像の客観的な冷たさがうまく機能している。たぶん誰でも経験したことがあるように、映像には有無を言わせぬ客観性がある。私たちは、ほかのどんなメディアよりも、映像に映ったものを真実として受け取ってしまう(でも当然、映像は真実を保証しない。あくまで、真実だと判断するのは私たちの方だ)。ただ何かが画面に映されているというだけで、色々な背景を抜きにして、それが本当にそこにあるという実感が生まれる。映像には、こういう冷徹な視線がある。

私がずっと文章の理想としてきたのは、この冷徹な視線なのだと思う。ただそこに書き取りたい何かがあるから、それを忠実に書き取ること。他の誰かにどう映るのかはわからないけれど、それでも私の目に映ったものを正確に表現して、私の書いたものに、なにか切実な迫力が宿るとなお良い。こうした努力の果てに、私の人生が終わるとき、世界を写し取った一連の文章が残されるとすれば、多少は有意味な生を送れたと思えるかもしれない。

この話に繋がるのかはわからないけど、なんとなく思い出した村上春樹の言葉を紹介して終わりにしたい。「小説家とは何か」という問いに対して、村上はこう回答している。

小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。

村上春樹「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」

いいなと思ったら応援しよう!