小説「泡沫のエレジー」ー最終回
満月が出ていたことが幸いして、あいつが海に飛び込もうとしたことはすぐにわかった。波に呑まれる寸前に腕を掴めたのは良かったが陸に上がるまで手間取ってしまい、やっとの思いで上がった頃、あいつは完全に息を止めてしまっていた。直ちに仰向けにし、気道確保、人工呼吸、胸骨圧迫を行う。水を吐き、呼吸は再開されたものの、意識は失われたままだった。俺は体を震わせながら鞄から携帯電話を取り出し、大声で救急要請をした。
救急車は間もなく到着し、俺も低酸素症や低体温症が疑われたため共に病院へ搬送された。俺は軽症で済んだが、あいつは眠り続けたままだった。
一週間が経つ頃、ようやく連絡が入った。それは雅さんからではなく、警察からだった。
あいつは精神科の病室にいた。そこへ母と共に駆けつけると、項垂れながら佇んでいる雅さんと、上半身を起こして窓の外を眺めているあいつがいた。俺たちに気づき、視線を寄越す。そしてあいつは、無表情のまま、何の抑揚もなく言った。
誰ですか、あなたたちは、と。
解離性健忘。その原因は脳の損傷ではなく、精神的ストレスや心的外傷と認識されている――あいつに向けて放った言葉が、刃となって俺の心に突き刺さる。
この子ね、どうしても思い出せないの。私たちのことも、自分のことも。傍らの雅さんが、力なく言った。
これが、俺に下された罰だった。
翌日、俺は吉川と渡邊を呼び出し、事の顛末を明かした。そして、頭を下げながら弦楽部の解散を告げた。吉川は涙を流し、震えながら俺を険しい目つきで見つめていたが、何も言わずにその場からいなくなった。渡邊は、わかりました、とだけ言って音楽室Cから出ていった。
同じ日、校門から出ようとすると、ある人物に引き留められた。どうやら、俺を待ち伏せていたらしい。
「あなた、真田くんよね。わかる? 私のこと」
腕を組み、威嚇するように睨みつける。ああ、と振り返りながら答えた。
視線を逸らすことなく、俺に近づく。そして、彼女は俺に平手打ちを食らわせた。
「アンタでしょ!? アイツを溺れさせたのも、記憶喪失にさせたのも!!」
怒りを露わにし、泣き叫ぶ彼女を前にして、俺は何も言うことができなかった。黙ってないで何とか言いなさいよ、と胸倉を掴まれ怒鳴られても、口にすべき言葉が何一つ思い浮かばない。
「……もういいわ。とにかく、金輪際アイツには近づかないで!!」
それだけ言い残して、彼女は長い黒髪を揺らしながら去っていった。
雨が降り出した。黄金色になった銀杏が、風に揺られながら濡れていた。
*
「まるで、人魚姫みたいね」
そう言ったのは、感情を露にせず、ただそこに佇むリリアナだった。
「だってそうでしょう? あなたのために自分の姿を変えてしまって、それなのに報われなかったんだもの。人魚姫は最期に海の泡となって消えてしまうけれど……でも、彼女は死ななかった。あなたに助けられて」
その代わり、記憶は泡となって消えてしまったのね――屋上で、俺に背を向けながら柵にもたれる彼女。木枯らしが、銀色の髪を靡かせる。
「良介くん。私ね、レオナさんのお見舞いに行って、彼女のお母さんに会ってきたの。そしたらね、びっくりすることが判明したのよ」
「びっくりすること……?」
「私の母の兄、つまり私の伯父が、レオナさんのお父さんだったの」
彼女の母の名はナターリア・ヴェルナーツカヤ・アレクサンドロヴナ、あいつの父の名はレオニード・ヴェルナーツキー・アレクサンドロヴィッチ。身元を確認したところ、間違いなくアメリカへ亡命した伯父であることがわかったそうだ。
「不思議ね。同じ国で生まれ育った兄妹の子供たちが、遠い国で素性を知らずに巡り合うなんて」
「ああ……」
「私、レオナさんと似てたかな。人魚姫は王子の花嫁と顔がそっくりなんだよ、あなたは私を選んでくれなかったけれど」
「…………」
「とにかくね、私、彼女のことが他人事だと思えないの。もしかしたら、私がそうなっていたかもしれないって……そう思うと、胸が苦しくて仕方ないの。だって、彼女の気持ちがわかってしまうから。きっと私も、彼女と同じことをしていたかもしれないと思ってしまうから」
顔は見えないけれど、きっと静かに涙を流している。肩は小刻みに震え、声も弱々しくなっていた。
「あなたと彼女のことを知らなかったとはいえ、私はなんて罪深いことをしてしまったんだろうって、毎日後悔してるの。でも、私はあなたを責めない。責めたくない」
だって、否定したくないんだもの。自分が好きな人のことを――雪を降らせそうな空を仰ぎながら、独り言のように呟いた。
彼女は国際バレエコンクールへの出場を控えていて、それから卒業するまで会って話す機会は一度もなかった。桜の蕾が綻ぶ頃、見事入賞を果たした彼女は留学先のイギリスへと旅立っていった。
俺の代わりに、あいつのところへは母やナターリアさんが通ってくれた。俺は進級する際に全日制から通信制へ移籍し、音大への進学を見据えた受験勉強を開始した。ピアノやヴァイオリンに触れるとどうしてもあいつのことを思い出してしまうが、他に進むべき道が見つからなかったのだ。
その間、俺があいつを訪ねることはなかった。もうこれ以上あいつを苦しめたくなかった。近づいてしまうだけで、あいつを傷つけてしまうような気がしていた。何より、俺が接触するとつらい記憶を蘇らせる可能性が高くなってしまう。自分が何者なのかを思い出しても、それがあいつにとっていいことであるとは限らない――理由は幾らでも並べられるが、最も恐れていたのは、記憶を取り戻したあいつから罵詈雑言を浴びせられることだった。いっそ、そうされた方が心は軽くなるかもしれないけれど。
しかし、いつかは気づいてしまうだろう。いや、もしかしたらとうの昔に悟っているかもしれない。自分の体が、女性のものとして不完全であることを。そうしたら、理由を知りたがるに違いない。その時は、全てを話して欲しいと既に母には伝えてある。
時は過ぎ、俺も鳳凰から卒業した。都内の音大に入学し、半年経って成人すると、長らく別居状態を続けていた両親が離婚した。俺は真田姓のままにしたが、父は三男坊だったため、将来についてとやかく口出しされることはなかった。
音大を卒業した後はベルリンへ留学し、オーケストラアカデミーに所属。そして努力の甲斐あって、二年後にはドイツを代表する管弦楽団への入団を果たしたのだった。そこは何人もの日本人ヴァイオリニストがコンマスを務めたことで知られており、必然と俺が目指すべき場所も決まった。
気づけば、ヨーロッパで音楽漬けの毎日を過ごしていた。メールのやり取りをしていたリリアナも似たような生活を送っていて、プライベートでは一度も帰国できていないらしい。
やがて、あいつについて考える時間も徐々になくなっていった。思い出そうとすると、記憶に靄がかかってしまう。どんな顔をして笑っていたか、どんな風にヴァイオリンを弾いていたか、どんな声で俺を呼んでいたのか――考えようとすればするほどそれは濃くなって、いつも途中で諦めてしまっていた。
入団して初めての春、元号が変わったというニュースが報道され、世界中で新天皇の即位が祝福された。そしてその年の秋、俺は日本公演のため三年振りの帰国を果たした。東京、大阪、名古屋、福岡と日本各地を巡るツアーだったが、スケジュールに変更があり一日だけ東京で自由に過ごせるようになった。会う時間を作れとしつこかった母にその旨を伝えると、宿泊していたホテルのバーで夜に待ち合わせることとなった。
その前に、俺はもう一件の約束を果たすべく、昼下がりにとあるカフェへ足を運んだ。
「おっ! 来はったで、葵!!」
テラス席に出ると、紺のカジュアルスーツを着た背の高い関西弁の青年に手を振られた。その傍らに、赤いカチューシャと茶色い枠の眼鏡をつけた、ミントブルーのワンピース姿の女性の姿もある。彼女も立ち上がり、俺に会釈した。
「お久しぶりです、真田先輩!」
「ああ。今日はわざわざありがとう」
「そんな、水臭いこと言わんといてぇな!」
ささ、座って座って、と渡邊に促され、俺も席についた。そして、ウェイターにブレンドコーヒーを注文する。海を臨むテラス席は、カップルや若い女性客たちで賑わっていた。
「先輩、あの時はすみませんでした。私、色んな感情がぐちゃぐちゃになって、何て言ったらいいかわからなくて……つい、黙って飛び出してしまって」
吉川が、申し訳なさそうな顔をして俺に再び頭を下げる。
「わいも、すんまへんでした。とにかく、葵を追いかけてはよフォローせなって思ってもうて……」
「いいんだ、謝らないでくれ。俺の方こそ、二人を巻き込んでしまって今でも申し訳ないと思っている」
三人揃って謝罪し続けていると、タイミングよくブレンドコーヒーが運ばれてきた。ごゆっくりどうぞ、と告げて去っていくウェイター。
「……ところで、二人は今何をしているんだ?」
コーヒーを一口啜ってから、俺は話題を変えようと尋ねた。
「私たち、今国内の交響楽団に所属しているんです! もちろん、楽器はそのままで。ね、達也くん」
「せやせや! でもな、先輩のオケが日本に来るって聞いた瞬間決めたんや。全国ツアーのチケットは発売日に即買うて、その日は二人揃って有休にしたろって! な、葵!」
「そうか……ところで、もっと重要な報告を忘れてないか?」
自らの左手の薬指を指し、彼らにそのことを気づかせる。
「えっ? あれ、言ってませんでしたっけ!?」
言われた途端、わかりやすく頬を赤らめる吉川――いや、もう違うのだろう。
「私たち、結婚しまして……今、お腹に赤ちゃんがいるんです」
ね、達也くん。そう言って照れ笑いをする彼女は、とても幸せそうだった。もちろん、お腹の子の父親の方も。
「先輩はわいらを巻き込んだって言いはりましたけど、そのお陰で、わいらは結婚できたようなもんや。それだけは、どうか忘れんといてください」
「そうですよ、先輩。寧ろ、私は感謝しているんです。弦楽部が解散した後、達也くんがたくさん慰めてくれたお陰で、私、彼のことが好きになったんですから」
「そうか。とにかく……おめでとう。幸せになってくれ」
はい、と答えたその声のタイミングは、見事に合わさっていた。
渡邊夫婦と別れた頃、既に空は暗くなっていた。次の約束の時間が迫っていたため、足早にその場所へ向かう。
「いらっしゃいませ。一名様でよろしいでしょうか」
「いえ、二名で予約した真田です」
「真田様ですね、お待ちいたしておりました。お連れ様は既にいらっしゃっておりますので、こちらへどうぞ」
蝶ネクタイをしたスタッフに出迎えられ、窓際の席へ案内される。店内にはピアノの演奏が流れていて、アンティーク調の装飾はオレンジ色の照明に照らされていた。平日だったせいかまだ満席ではなかったが、恋人同士か、もしくは夫婦らしきカップルが何組か見見受けられ、グラスを傾けながら楽しげに談笑していた。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
席へ辿り着くと、そこには予想に反した後ろ姿があった。巻いてあるはずの毛先にはウェーブがかかっていて、漆のように黒いはずのそれは琥珀を思わせる金色(こんじき)。振り返り、茫然とする俺を見つめるその瞳は、黒真珠ではなくアクアマリンだった。
「……私が、誰だかわかる?」
いたずらっぽく笑うその顔が、靄の向こうの少女の面影と重なる。
「……記憶は、まだ戻ってないんだな」
「うん。でも、名前と性別は変えたよ。大人になったからね」
まぁ座りなよ、と促され、俺はぎこちなく腰を下ろした。彼女は紺色のドレスを身に纏っていて、ベージュのコサージュのついた白いジャケットを羽織り、首元には真珠のネックレスが輝いていた。夜景の中に、東京タワーの赤が映えている。
「取り敢えず、シャンパン二つ頼んでおいたからね」
「ああ……ところでこれは、母さんの差し金か?」
「違うよ。私が、私の意思であなたに会いたいと思ったの」
体の性別を変えちゃうくらい私を本気にさせた男の存在を知っちゃったら、会いたくもなるじゃない。その言葉に、俺を責める響きはなかった。
「私ね、今こういうことしてるんだ」
名刺入れを取り出し、一枚を俺に寄越す。そこには、NPO法人「虹の下の四重奏(カルテット・アンダー・ザ・レインボー)」代表霧崎レオナと記されていた。
「どう? 凄いでしょ」
頬杖をつき、俺の反応を得意気に伺う。
「私さ、高校出る前に、ふと思ったんだよね。きっと、私みたいに特殊な理由で性や恋愛に悩み苦しんでいる人はたくさんいるはずだって。だから大学に行って、心理カウンセラーになって、NPOを作ったの。今はLGBTQ+について知ってもらうために講演活動したり、相談会や交流会を開いたりしてる。リリアナから寄附金も貰いながらね」
名刺から目を離すと、彼女は胸を張ってそう語っていた。
「名前もいいでしょ? ほら、カルテットって、違う楽器がそれぞれのメロディーを奏でながらも、美しい一つのハーモニーを生み出すものだからさ。個性や置かれた立場の違う人たちが、お互い分かり合って、尊重し合って、少しでもいい世の中にしていけたら……っていう気持ちを表すのにピッタリだなって思って」
誇らしげに話すその横顔に、一瞬だけ、青春時代の面影が重なった。
「あとこれ。誰のだかわかる?」
二枚目のそれには、とある女性弁護士の名とその連絡先が書かれていた。目にした瞬間、あの平手打ちの感触が蘇る。
「彼女はね、性的マイノリティの人権問題を専門にしてる法律事務所で働いてるの。だから、凄く頼りになるんだ」
「そうか……」
九年前のことを走馬灯のように思い出していると、シャンパングラスが運ばれてきた。乾杯、と唱えて小さく音を鳴らす。
「ねぇ。あなたさ、作曲はできる?」
グラスを揺らし、シャンパンを煌めかせながら突然尋ねる彼女。
「いや、わからないな。できるかもしれないが」
「じゃあさ、いつかオーケストラを卒業して、ソロ活動する予定は?」
「それは……コンマスになって、それに満足したらあり得るかもしれない」
質問の意図がわからないまま、素直に答える俺。
「ふぅん、そっか。じゃあさ……」
薄紅色の爪でグラスを傾け、桜桃のような唇にシャンパンを一口流してから、彼女は真っ直ぐ俺を見つめて言った。
「作ってよ。私のために」
「……は?」
「私のために作曲して、それをいつか舞台で披露して。そしたら、私はあなたのことを許せる気がするの」
開いた口が塞がらない俺に構わず、彼女は続ける。
「ヒントをあげる。私は、あなたに恋をしていた人魚姫。あなたに女性として想いを打ち明けたくて、あわよくば愛されたくて、体にメスを入れた。でもその恋は実らなくて、それどころか私はあなたに騙されていたことがわかって、絶望のあまり海に身を投げた。命は助かったものの、私は本当に記憶を失ってしまった。でも、私は自分の境遇に嘆くのをやめて、果たすべき使命を見つけたの」
「…………」
両肘をつき、黙って夜景を見つめる。
「知ってる? 人魚姫ってね、ただ泡になって終わりじゃないの。彼女は風の精に生まれ変わって、魂を得て天国へ行くチャンスを得たんだよ。人魚はそのままだと三百年経ったら泡になって消えるだけだけど、風の精としての役目を果たし、人間に愛されれば、魂を得て死後に天国へ行ける。だから頑張りなさい……っていうのが、童話の本当の結末なんだって」
「そうか……」
八時になり、東京タワーの色が切り替わる。
「私、待ってるから。おばさんになっても、おばあさんになっても」
だから、忘れないでよね。そう言ってウインクをしてから、ゆっくりと立ち上がる。
「レオナ!」
シルクのような波打つ金を、気づけば引き留めていた。無意識に掴んだ細い左腕はするりと俺の手から逃れて、代わりに俺の頬をその手のひらで包み、そっと口付ける。
「……ごめんね。でも、次にいつ会えるかわからないから」
まるで、愛おしいものを見るような目で静かに涙を落とす。
「今日は、来てくれてありがとう。さようなら」
やわらかく微笑み、小さく手を振ると、彼女はバーを後にした。残された俺は立ち尽くしたまま、指先で唇に触れる。
「……人魚姫、か」
王子が他の女性と結婚し失恋したにも関わらず、短剣で彼を刺し殺し人魚に戻るという道を選ばなかった慈悲深い悲劇の主人公。きっと、王子のことも花嫁のことも、姿形を変えてしまった己自身のことも恨まず、その恋に後悔などしなかっただろう。
彼女のそれまでの人生は、あの時全て泡になって消えてしまったのだと思っていた。だが、彼女は過去の傷跡を受け入れた上で再び新たな自分へと生まれ変わっていたのだ。悲しみと苦しみの中で藻掻き続け、乗り越えた先に、光を見出したのだ。
そんな強く気高い魂が、多くの迷える人々を導きますように。例え記憶が戻らなくとも、悲しみと喜びの波に揺られながら生きてきたその歴史を覚えている人間がここにいるのだということが、どうか伝わりますように。
一途な恋心と、流されてきた涙に捧ぐ。
その曲の名は、泡沫(うたかた)のエレジー。
