小説「泡沫のエレジー」ー9
レオナさん、おめでとう。私は聴くことができなかったけれど、きっと素敵な演奏だったのではないかと思います。さて、告白のことですが、今日から一か月以内に行ってください。期間内にしなかった場合は、私に譲ってくれたのだと思うことにします――それが、後夜祭の直後にリリアナから送られてきたメッセージだった。
とはいえ、文化祭明けの良介たちは全国大会に向けた練習のため多忙を極めていて、告白どころか弦楽部の練習時間の確保すら難しくなってしまった。その間、俺はまた一人で課題曲――中学の音楽の授業で聴いたスメタナの「モルダウ」の主旋律を黙々と奏でながら、彼女の言葉をひたすら心の内で反芻していた。
リリアナに勝ったのはいいけれど、故郷を想う哀愁に満ちたメロディーは余計に俺を思い悩ませる。この恋心を伝えて、また避けられてしまったら――三年前の記憶が生々しく蘇り、どうしても二の足を踏んでしまう。
それに、万が一恋人同士になってしまったら、いずれはかつて男であったことを告げなければならなくなる。そのことを知られて、それでも拒絶されない可能性は絶望的なのではないだろうか。この体は女のものに似せただけで、決して本物ではない。例え結婚できたとしても、子供を産むことはできないのだ。女性として、その期待に応えることはできないのだ。この問題は、相手が良介以外であったとしても、永遠に俺の前に立ち塞がり続ける。
考えれば考えるほど気持ちが沈んでいき、ヴァイオリンの練習にも身が入らず、遂に仮病を使って良介とのマンツーマンレッスンをサボってしまった。曇天の下では肌寒い風が吹き、道端の秋桜と俺のスカートを揺らす。
食欲もなくなり、夕飯もよく残すようになった。
「ごちそうさま……」
「なに、もういいの?」
怪訝そうに眉を顰め、母が尋ねる。
「うん。ごめん、せっかく作ってくれたのに」
立ち上がり、食器を片付けようとすると、母に止められた。
「ちょっと待って。最近、ずっと暗い顔してるじゃない。学校で何かあったの?」
「…………」
これ以上心配をかけさせてはいけないと思い、三年前のこと、文化祭でのこと、そして告白に怖気づく自らの胸の内を語った。全て言い尽くす頃、俺は静かに涙を零していたようで、母は黙ってティッシュを差し出し、それから俺をそっと抱きしめた。俺は、母に頭を撫でられながら彼女の胸で声を殺して泣いた。
「そう、それはつらかったね。つらいのに、教えてくれてありがとう。でもね、隼人。あなたは、体が男であることで苦しんできた自分を幸せにするために女になったんでしょ? 少なくとも、私はそう思ってるけど」
「……自分を、幸せに?」
「そうよ。良介くんの記憶喪失というきっかけはあったけど、新しい自分を手に入れたい一心で、勇気を出したあの時の気持ちを思い出してごらん。自分でもびっくりするくらい、前向きだったでしょ?」
確かにそうだ。あの時の俺は、女になりたくて、生まれ変わりたくて、あいつとの新しい関係を築きたくて、がむしゃらに突き進んでいた。スカートが履けた時の高揚を、女になった己の姿が鏡に映った時の喜びを、再び噛み締める。
「良介くんともう一度仲良くなりたかったんでしょ? あわよくば、付き合いたいんでしょ? なら、そうすればいい。あの時のあなたは、たくさんの犠牲を払ってその権利を手にしたの。だから、遠慮なんかしなくていいの。当たって砕けたって、またこうして抱きしめてあげるから」
うん、うん、と機械のように繰り返し頷く。
そして母は、一通の封筒を俺に見せた。中身は、美緒さんの誕生日パーティーの招待状だった。場所は彼女の両親の別荘、日時は土曜日の夕方からとなっていた。
「隼人も誘っていいって言ってくれたし、良介くんも来るはずよ。弦楽四重奏(カルテット)に参加させるって美緒さん言ってたから。私は仕事だからその場でサポートできないけど、パーティーの最中にうまいこと良介くん引っ張り出して、人気のないところに行けばいいわ」
あとは、あなたの頑張り次第よ。そう言って、俺の両肩を掴み正面から見つめる母の眼差しは力強く、けれどとても温かだった。
*
光元寺家の別荘は、全国的にも名高い海の見えるリゾート地にあった。まるでヨーロッパの小さな城のようなその建物は内側も豪華絢爛仕様となっていて、ヴェネツィアングラスの壺や大理石の彫刻、そして天井のシャンデリアがよりその空間を煌びやかに演出している。
招待状を見せ、大広間まで案内してもらうと、そこには礼服を纏った紳士やドレスと宝石で着飾った貴婦人が溢れんばかりに集っていた。きっと、光元寺グループと縁のある財閥のリーダーや会社の社長、経営者、そして世界に名立たる音楽家たちだろう。
どちらにせよ、知り合いのいない制服姿の俺にその空間へ溶け込む術はなく、適当に食事をつまみながら良介が来るのを待つしかない。立食パーティーだったので座る場所がなく、足が棒になってしまうのは時間の問題だった。
主役たる美緒さんも派手な赤いドレスに真珠のネックレスやエメラルドの指輪を身に着けていて、まるでお伽話に出てくる女王様のようだった。そんな彼女をしばらく見つめていた俺は、ふとある違和感を覚えた。その正体にはすぐに気づいた――その傍らに、彼女の夫らしき人物が見当たらないのだ。そういえば美緒さんの旦那、つまり良介の父親だという人には一度も会ったことがない。これだけ付き合いが長いのに、おかしな話である。
到着してから三十分ほど経つと、美緒さんがマイクを取り、司会を務め始めた。
「皆様、本日はお忙しい中お越しくださいまして誠にありがとうございます。そのお礼にと思いまして、ささやかながら小さなコンサートをご用意させて頂きました。弦楽四重奏による一曲の演奏になりますが、ファーストヴァイオリンはわたくしが、そしてセカンドヴァイオリンは息子の良介が務めます。どうぞお聴きください」
アナウンスが終わると、割れんばかりの拍手が送られる。見ると、奥のステージには確かに良介の姿があった。服装を考えるのが面倒だったのか、俺と同じく鳳凰の制服に身を包んでいる。
奏でられたのは、モーツァルト作曲の「アイネクライネナハトムジーク」。小(さ)夜(よ)曲(きょく)とも称されるあまりにも有名なその曲が会場の雰囲気をより華やかにさせ、貴族の宮殿の舞踏会に迷い込んだような錯覚に陥る。
演奏が終わったらすぐ駆け寄ろうと思っていたが、あっという間に人垣に隔たれ、近づくことさえできなくなってしまった。僅かな隙間から様子を伺うと、美緒さんは誰かに良介を紹介し、良介がその相手と握手をし、言葉を交わしていた。それは日本語でも英語でもなく、まるで俺の知らない人間のようだった。
その挨拶が終わるや否や、良介はすぐその場から立ち去り、姿を消してしまった。もしかすると、もう帰るつもりなのかもしれない。その予感は的中し、玄関を出ると目の前にヴァイオリンケースを背負ったあいつがいた。
「良介!」
呼び止められ、ゆっくりと振り返る。
「……来てたのか、レオナ」
「うん、うちにも招待状届いたから、お母さんの代わりにね。……この間はごめん、練習行けなくて」
「気にするな。ところで、お前も帰るのか」
「……ううん。今日は、良介と話したいことがあって来たの」
あれだけ憂えていたのが嘘のように、はっきりと宣言することができた。自分でも信じられなかったが、これでもう、迷う必要はなくなった。
宵闇に包まれた港町に、人影は見当たらなかった。防波堤の先には純白の灯台が聳え立っていて、眩い光を海の果てまで飛ばしている。冷たい潮風に晒されながら、俺たちは灯台の足元へ向かった。波音が耳に心地良い。
「こんなところで、一体何の話をするつもりだ?」
「……誰にも、聞かれたくない話をするつもり」
「そうか。なら、その内容を先に言い当てても構わないか」
「えっ……?」
徐にヴァイオリンケースと通学鞄を置き、改めて正面の俺を見据える。
「レオナ。お前、文化祭でリリアナと競っていただろう。それも、出し物の順位で」
放たれた矢が、勢いよく俺の胸を射る。どうして、と問う唇が早くも震え始めた。
「リリアナがお前と話すために花火大会に行きたいと言った時から、妙だとは思っていた。だが、その時のお前の行動やその後の吉川と渡邊の様子を見て、確信したんだ。リリアナは、あの日お前に勝負を申し出た。文化祭の順位で、勝った方が先に俺に告白できるという条件をつけて」
「な、なんで……」
色恋になんて興味のなさそうなお前が、どうして俺たちの好意に気づいていたんだ、と問い質したいのに、金縛りにあったかのように口が動かない。鼓動が早まり、呼吸が浅くなる。
「何故わかったか。それは、お前もリリアナも、既に俺に好きだと言っているからだ」
「は……!?」
こいつ、何を言っているんだ? リリアナはともかく、俺はレオナとしてお前にその言葉を告げた覚えはないのに。混乱の渦が、徐々に激しくなっていく。
そして、俺は決定打となる一言を聞いた。
「忘れたのか、隼人。俺がドイツから帰国したあの日、ラフマニノフのエレジーを聴いてすぐ、泣きながらそう言っただろう」
「……お前……思い出してたのか……?」
「違う。初めから、記憶喪失になどなっていない」
辺りは既に暗くなっていて、良介の顔が見づらくなる。耳鳴りがあいつの言葉と重なって煩わしい。
「だって、事故に遭って、頭打ったって……」
「どうやら知らなかったようだな。記憶喪失は解(かい)離(り)性(せい)健(けん)忘(ぼう)といって、その原因は脳の損傷ではなく、精神的ストレスや心的外傷と認識されている。ドラマや映画の影響で誤解されがちだが、実際は単に頭を打ったくらいで記憶を失うことはないんだ」
「……じゃあ、ずっと、俺を騙してたってことか……?」
何故、どうして、何のために。
「……俺が、記憶を失ったと言えば……お前はまた、何食わぬ顔で俺と接することができると……そう、考えたんだ」
つまり、あの日の告白をなかったことにして、ただの幼馴染に戻りたかったということか。
「それなのに、お前は女になった。俺が、あんな嘘を吐いたせいで……」
お前の狂言が、意図せず俺の背中を押してしまったと言いたいのか?
「だから……せめて、少しでもお前の望みを叶えようと思った。弦楽部を創ったのもヴァイオリンを教えたのも、お前への贖罪のつもりだった」
贖罪? 何を偉そうに。
「だが、お前の俺に対する気持ちが変わらないなら、弦楽部は今日をもって解散だ。俺は、お前とも、リリアナとも……誰とも、恋愛はしない。したくないんだ……頼む、わかってくれ」
月明りだけでは、あいつの表情はわからなかった。けれど言葉は震えていて、声は消え入りそうになっている。
思い出はガラスのように砕け散り、その破片は涙となって流れていった。
「良介……ごめんな、気持ち悪かったよな? 半年もこんな茶番に付き合わせて、ホント迷惑だったよな?」
ああ、でもお前は優しいから、最後まで騙し合いをし続けてくれたんだよな。
女になっても、お前とは恋人同士になれなかった。けれど、偽りの青春も、告白の返事も、性別を変えたからこそ得られたものだった。だから、後悔なんてしない。
「隼人……? おい、隼人ッ!!」
でもさ、こうなっちまったらもう、張りぼての体ごと消えちまうしかねぇよ。
さようなら、良介。冷たい海に身を投げながら、俺はあいつに別れを告げた。
