小説「泡沫のエレジー」ー5
リリアナは俺たちと同い年だが、ストレートで入学しているため今年度から三年生になる。鳳凰には珍しくバレエ部が存在しており、そのエトワール――つまり、一番の実力者と謳われているほどの人材らしい。将来の夢は、言うまでもなくバレリーナ。
父親は有名企業に勤める日本人で、母親はウクライナ人。良介とはフランクフルトの日本人学校で出会ったそうだ。彼女も外見が原因で数少ないクラスメイトとうまくいっていなかったが、そんな孤独から救い出したのが良介だったという。
「ほら、良介くんって、ピアノがとっても上手でしょう? だから、お昼休みや放課後によくバレエ音楽を演奏してもらって、私がそれに合わせて踊ってたの」
「へ、へぇ……」
「良介くんがここに進学するって聞いて、バレエ部もあるし私も入りたいって思って受験したんだけど、まさか事故に遭って一年も休学するなんて思わなかったからびっくりしちゃった。でも良かった、体だけでも元気になってくれて」
良介に向かってにっこりと微笑むと、彼女は一人になって教室へ向かっていった。俺と良介は二年の教室がある三階へ上がり、掲示板でクラスを確認する。
「俺はB組だ。お前は?」
「あ、あたしも……」
同じクラスになって嬉しいはずなのに、浮ついた心は冷たい海の底に沈んでしまったようだ。うららかな日差しに喜ぶ庭の花々さえも憎らしい。
「……言っておくが、付き合ってはいないからな」
クラスメイトたちの声に掻き消されそうなほど、小さく呟かれた声。聞き直そうとしたその時、チャイムが鳴って担任が入ってきたので俺は断念した。
始業式が終わると、教室に戻ってホームルームになった。行われたのは自己紹介と教科書の配布くらいで、それが終わるとクラスメイトたちはすぐに部活動へ散っていった。
「良介、あのさ」
歓談と雑踏の中、遠慮がちに背中から声を掛ける。
「これから、オケ部の練習でしょ? ……あたし、見学してもいいかな」
別に構わないが、と言った良介の後を黙ってついていく。まだどの部活にも所属していないので仕方ないのだが、放課後の居場所がないと肩身が狭い。つくづく、良介という存在に感謝せざるを得ない。
管弦楽部は、入学式のための校歌の演奏の準備をしていた。新入生をいきなりフルオーケストラで迎えるなんてさすがである。もちろん、部活の宣伝も兼ねているのだろうが。
本番は翌日に控えていたので、リハーサルは音響ホールで行われた。俺は適当な席に座って、ただその様子を眺める。
演奏者たちの椅子と譜面台、指揮台が置かれると、次に大きな弦楽器と打楽器が用意された。部員たちが入場し、着席する。良介の姿は向かって左側の最前列の右端、指揮台のすぐ脇にあったので観客席からはよく見える。
全員が揃うと、縦長の木管楽器――オーボエというらしい――の奏者が単独で音を出した。それを皮切りに、他の部員たちも一斉に楽器を鳴らし、幾重にも合わさった音の波が一気に押し寄せてくる。気分が高まり、つい前のめりになる。
音が止むと、指揮者が入場してきた。顧問の教師だろうか。彼は一礼してから、コンマスである良介と握手を交わした。きっと本当のコンサートホールでは、ここで盛大な拍手が送られるのだろう。
指揮者が台に立ち、良介と目を合わせ頷いてから一呼吸おくと、すぐにその腕はしなやかに振られた。それに合わせて、部員たちは鮮やかな色彩を放つように力強く、豊かなハーモニーを奏でる。
全国大会の入賞経験は伊達ではなく、素人の俺でも個々のレベルが高いことは見て取れた。顔も生き生きとしていて、心から楽しんでいるのが伝わってくる。
ああ、これがオーケストラか。ピアノもいいけれど、調和した何重ものメロディーの迫力に圧倒されてしまう。そしてそれを統率しているのがあいつなのだと思うと、鳥肌が立った。
観客は俺一人だったが、演奏が終わった直後、惜しみなく手を叩いた。
「よく一人で拍手ができたな。恥ずかしくなかったのか?」
帰り道、電車に揺られながら良介が苦笑した。昔ならすぐ腹を立てていたが、まだ余韻に浸っていた俺は力を入れて言い返す。
「そんなわけない! だって凄かったんだから、一人だっていいじゃん!!」
「わかったわかった、いいから落ち着け」
はは、と今度こそ愉快そうに笑みを零す。扉にもたれかかりつつ偉そうに腕は組んでいるものの、そんな横顔を見せられてしまうと心臓が跳ね上がってしまう。
「いいなぁ、オーケストラ。あたしもやりたくなってきちゃった」
茜色の空を見つめながら、溜め息を吐く。一時の気の迷いと思われたかもしれないが、音楽の世界に憧れ続けてきたのは事実だった。何か楽器を習って、良介と一緒に演奏ができたらどんなにいいだろう、と考えたのは一度や二度のことではない。
だから、羨ましかった。良介の奏でる旋律に乗って、美しく舞うことのできた彼女のことが。
「……なら、やってみるか。ヴァイオリンなら教えられるぞ」
「は?」
予想外の発言に、己の耳を疑った。呆気にとられた俺に構わず、良介は続ける。
「だが、オーケストラの曲は初心者には難しすぎるな……そうだ、四重奏(カルテット)でならいけるかもしれない。弦楽部を作って、ヴィオラとチェロの奏者を一人ずつ募ろう。俺も室内楽をやってみたいと思っていたところだからちょうどいい」
俺に喋らせる隙を与えることなく、話をどんどん進めていく。
「これから毎日特訓すれば、文化祭には間に合うだろう。ヴァイオリンなら、昔使っていた母親のお下がりがあるからそれを使えばいい。どうだ、やってみないか?」
「と、特訓……?」
「ああ。一対一で手取り足取り教えてやる」
おいおい、何だこの少女漫画みたいな展開は。
「いや、でも……良介の足引っ張っちゃ悪いし」
「その程度で遅れを取るつもりはない。安心しろ」
「えぇ……」
こいつには時折とんでもないことを豪語する癖が見られるが、それを必ずやり遂げてしまうことも重々承知している。その発言を否定できる根拠も、提案を拒む気もない。勢いに押されてしまったような気はするものの、俺にとってはまさに棚から牡丹餅。意中の相手に付きっきりでレッスンしてもらえるなんて、しかもそれを自ら言ってくれるなんて。
「……うん、やる。やりたい! 教えてください、師匠!!」
「よく言った、だが俺の指導は厳しいぞ。覚悟はいいな?」
下げた頭にあいつの手が乗って、くしゃ、と髪を撫でられる。きっと深い意味なんてない、そんなことはわかってる。それでも俺の体温は上がってしまって、あらゆる衝動を抑えようと思わず下唇を噛んだ。
*
新入生への勧誘活動が許されているのは、入学式の日を含めて一週間。兼部は可能であるものの、創部の申請には部員三名以上という条件があるので、少なくともあと一人は必要になる。そこで、良介がヴァイオリンソロで好きな曲を弾き、その傍らで俺がプラカードを掲げるという作戦を実行した。
たった一人でもその演奏は見事なもので、新入生のみならず、周囲の在校生からの注目も集めていた。最初の選曲は、エルガーの「愛の挨拶」。優雅で艶やかなメロディーが聴衆をどんどん増やしていき、路上ライブのようになった。エルガーはイギリス出身の作曲家だが、目を閉じて聴いていると、まるでパリの昼下がりをカフェのオープンテラスで楽しんでいるかのような穏やかな気持ちになっていく。
「あのっ、すみません! ちょっとよろしいでしょうか!?」
拍手が送られている最中に、一人の女子生徒が良介の前に現れた。眼鏡とカチューシャとショートボブが特徴的な彼女は背の高い茶髪の男子生徒を引き連れて、目を輝かせ興奮気味に迫る。
「もしかして、真田良介さんですか!? ヴァイオリニスト光(こう)元(げん)寺(じ)美緒の息子さんの!」
光元寺とは、美緒さんの旧姓である。現役時代はその名で広く知られていた。
「ああ、そうだが」
「やっぱり! 私たち、お母様の大ファンなんです! ね、渡邊くん!」
「せやせや! わいら、光元寺美緒の息子がおるって聞いて鳳凰に来たんやで!」
サインください、と言って生徒手帳とボールペンを差し出す彼らの熱意に負け、まだプロでも何でもないのにそのリクエストに応じている良介の姿は、本人には言えないが少し滑稽だった。たじろいでいるあいつの顔なんて滅多に拝めないからだ。
「ありがとうございます! ところで、弦楽部の部員を集めていらっしゃるんですよね? 私たち、ぜひ入部させて頂きたいのですが!」
「本当か? 楽器は……」
「私がヴィオラで、彼がチェロです!」
ヴィオラとはヴァイオリンより一回り大きいもので、チェロは更に大きく、本体の下部から伸びる軸を床に置いて両脚で支える弦楽器のことである。
「私たち、地元のジュニアオーケストラで五年間鍛えてきました! この機会にぜひ真田先輩とお近づきになりたいと思ってます、よろしくお願いします!!」
「よろしゅう頼んます!!」
声を張り上げ、二人同時に頭を下げる。彼らの行動力に、聴衆が再び拍手を送った。
*
メンバーが揃ったので、俺たちは早速申請書を提出した。練習場所は音楽室C、小振りで家庭用ピアノとパイプ椅子が置いてあるだけの空間だが、少人数で活動するには十分だ。俺たちはある日の放課後、その部屋に集まって自己紹介をした。
「吉川(よしかわ)葵(あおい)と申します、先日はいきなり暴走しちゃって失礼いたしました! 精いっぱい頑張りたいと思います、よろしくお願いします!」
姿勢は完璧で敬語もしっかり身についており、育ちの良さが伺える。恰好にもしっかり気を遣っていて、スカート丈は恐らく膝下五センチちょうど。きちんと手入れをしているのだろう、肌や髪もとてもきれいだ。
「渡邊(わたなべ)達也(たつや)いうもんです、幼稚園まで兵庫の尼崎っちゅーとこに住んどりました! 甲子園の近くで、大阪寄りの兵庫って言うたらええですかね? 改めて、よろしゅう頼んます!」
何故か女物のヘアピンで前髪の左側を留めており、ネクタイを緩めブレザーのボタンは外しシャツの裾も出している。しかし不思議とだらしない印象はなく、人懐っこい大型犬のような親しみがあった。きっとそれが彼の魅力なのだろう。
一通り終えると、良介が立ち上がった。
「ところで、一つ謝らなければならないことがある。実は、霧崎は初心者なんだ」
えっ、と二人揃って声を上げる。居たたまれなくなり、俺は肩を窄めた。
「だが、これから猛特訓をして、文化祭までには弾けるように仕上げるつもりだ。目標は、G線上のアリアとパッヘルベルのカノンの合奏。正直、二人には物足りないかもしれないが……それでも構わないか?」
彼らが落胆しているような気がして目を向けられなかったが、返事は意外なものだった。
「全然大丈夫ですよー! 私、両方大好きですし! 素敵な曲ですよね!」
「わいもええで! アンサンブルがしたくて入ったわけやし!」
な、と達也が言い、ね、と葵が答える。阿吽の呼吸とはこのことを言うのだろうか、まるで長年連れ添った夫婦のように心が通っている。
「決まりだな。すまないが、こいつが一人前になるまではオーケストラの方を優先してくれ。夏休み明けには合わせ練習ができるようにする」
はーい、と再び声を揃えて返事をする。二人は俺に頑張ってくださいと言い残し、音楽室Cを後にした。
「……良かったな、心の広い後輩たちで」
「うん、ホントそう思う」
「期待を裏切らないように、死ぬ気でやれよ」
そう言いながら、良介は慣れた手つきで譜面台を設置し、初心者向けのヴァイオリン教本を俺に手渡した。そして、年季の入ったヴァイオリンケースを開く。
「今日からこれがお前のヴァイオリンだ。丁重に扱えよ」
「う、うん……」
これが、例の美緒さんからのお下がりか。俺の手術代くらいしそうで、思わず息を吞む。
「まずは構えと弓の持ち方だ。よく見て真似するといい」
言われた通りに、見よう見まねでヴァイオリンを持つ。左肩と顎で挟んで固定しようとするが、これがいきなり思うようにいかない。
結局その日は構え方と音の出し方だけで終わってしまった。不慣れな姿勢になったせいで肩と首が凝ってしまったが、弱音を吐いている暇はない。俺は取り憑かれたように毎日練習に励んだ。良介がいない日も、一人で必死に練習した。
正しく構えられるようになったら、次はきちんと弾けるようにボーイング――弓の動かし方――を学んだ。力加減とスピードの両方に注意しなければ、気を抜いた瞬間すぐに耳障りな音がする。一朝一夕には身につかず何度も心が折れそうになったが、時々吉川と渡邊が様子を見に来てくれてアドバイスをもらえたので、何とか続けることができた。
音が滑らかに出せるようになったら、今度は音階練習だ。親指以外の指で弦を押さえ、正確な音色が弾けるようにならなければ、演奏なんて夢のまた夢だ。指の位置を頭に叩き込み、チューナーとメトロノームを使って、音階をひたすら往復し続ける日々。首には痣、手にはたこができ、指先の皮は捲れまくったが、それでも構わず続けた。憧れの、あの姿に近づくために。あいつと一緒に演奏をするために。
懸命に訓練を積んでいった結果、梅雨が明ける頃、ようやく俺は良介から楽譜を与えられた。バッハの「G線上のアリア」だ。
「月末になったら俺がピアノ伴奏をしながらテストする予定だ。合格したら、来月からカノンを始める。いいな」
わかった、と言うとすぐに良介はピアノのレッスンへ行ってしまった。いくら有名な曲とはいえ、手本もなしにいきなりやれなんて無茶だ。しかし、あいつにもあいつの都合があることはわかっているので、抗議したくなるのを我慢して練習に取りかかかる。
ところが、俺は三十分も経たぬ間に匙を投げてしまった。曲の練習は、今までやってきた機械的な鍛錬とはわけが違う。それぞれの音符や休符の長さを正確に読み取り忠実に再現しなければならない上、ボーイングをよりスムーズにしなければならないからだ。音も高くなったり低くなったりするので指の動きもめちゃくちゃになり、テンポもずれていき、苛立ちばかりが募っていく。
「チクショー、やってられっかよ!!」
「き、霧崎先輩? どうしたんですか!?」
思わず素になって叫んでしまったその時、背後から吉川の驚いた声が聞こえた。もちろん、渡邊も一緒だ。
「荒ぶってまんなぁ! 大丈夫かいな!?」
「あ、うん! ごめんね、カッコ悪いとこ見せちゃって」
「気にしないでください、こちらこそ急にすみません!」
「差し入れ持って来たさかい、ちょいと休憩しましょうや」
満面の笑みでコンビニ袋を広げて見せる渡邊。その中は、お菓子と缶ジュースでいっぱいだった。
俺たちは学食に移り、窓際の席に腰を下ろした。放課後なので人影はまばらだ。
「ありがとう、気遣ってくれて」
「いいんですよー! 私たちも個人練習中で、気分転換したかったところですし! ね、渡邊くん」
「せやで、だから気にせんといてや」
言いながら、渡邊はスナックの袋を開けてテーブルに置いた。
「そういえば、先輩! 私、お聞きしたいことがあるんですけど」
彼女はジュースを飲んでいる俺の耳元に唇を近づけ、囁いた。
「好きなんですよね? 真田先輩のこと」
直後、むせて口からジュースを吐き出しそうになった。小さく悲鳴を上げてから、ごめんなさい大丈夫ですか、と慌てて背中をさする。
「なっ、なんでわかったの……?」
「なんでって、見てればわかりますよー! ね、渡邊くん?」
「せやなぁ、バレてへんと思っとる方がビックリやで」
ウットリしながら真田先輩の演奏聴いとったもんなぁ、あれは乙女の顔やったで、と続けざまに言われてしまい、沸騰しそうなほど体温が上昇した。穴があったら入りたい。
「真田先輩って、こういうことには奥手っぽく見えますけど、脈アリなんじゃないかなーと思いますよ? 私は」
「えっ、なんで!?」
「だって、霧崎先輩がヴァイオリンやりたいって言いはったから弦楽部作りはったんやろ? 普通どーでもええ奴にそんなことせぇへんと思うけどなぁ」
軽快な音を立ててスナックを食べながら言う渡邊。
「そうですよ、だから絶対うまくいきますよ! 私たち、応援してますから!!」
指を交互に組んで手を合わせ、前傾姿勢で迫る吉川。渡邊も、隣で腕を組んでうんうんと頷く。
「あ、ありがとう、二人とも」
早く話題を変えたくて、ところで曲の練習がうまくいかないんだけど、と切り出す俺。
「そんなの簡単ですよー! 真田先輩を想いながら弾けばグングン上達しますから!!」
「G線上のアリアやろ? メロディー的には恋する乙女にピッタリやと思うなぁ」
話題転換どころか、更に深掘りされてしまった。どうやらこいつらの真の目的は、俺を餌食にして恋バナを楽しむことだったらしい。
「でも、気持ちを乗せるって大事なことですよ! 自分なりに曲のイメージを思い描いてみて、そこに感情移入して、歌うように演奏しなさいってジュニアオーケストラで言われたことありますから!」
「吉川の言う通りや、それができるようになったらめっちゃ楽しなるで!」
「そうだね、私もいつもそうやって踊ってるから」
急に違う声が割り込んできたので、三人で同時にその主の顔を見遣る。
「久しぶり、レオナさん。元気だった?」
首を傾け、雪のように白い輝きを放つリリアナ。あまりの美貌に魂を抜かれたのか、さっきまで餌をねだる雛鳥のように囀っていた二人が口を開けたまま固まってしまっている。
「良介くんから聞いたよ、最近ヴァイオリンを頑張ってるって。私も応援してるからね」
それだけ言って、彼女は去っていった。姿が見えなくなってから、凍りついていた吉川と渡邊が復活する。
「ど、どちら様ですか今のお美しいお方は!?」
「ちゅーか、真田先輩とどういう関係なん!?」
「……彼女、ではないらしい、けど」
でも、彼女も好きだよな、あいつのこと。だって、目が笑ってなかったから。
