小説「泡沫のエレジー」ー4
母にその思いを打ち明けた時、彼女は激昂した。性別を変えるなんて簡単に言うな、今のお前は冷静にものを考えられていない、もし彼が記憶を取り戻したらどうするつもりだ、大体うちに手術をする金なんてない――一時間ほど説教をされたが、俺の決意が揺らぐことはなく、遂には彼女の方が折れてしまった。
「……本当に、覚悟はできてるの?」
溜め息混じりに問う。視線を逸らすことなく、俺は強く頷いた。
「良介くんが過去のことを思い出しても、女としての体と生活が嫌になっても、もう男には戻れないんだよ? 子供も持てなくなるし、寿命だって縮まるかもしれないんだよ……!?」
再三言ったことを、母は敢えて繰り返した。それでも、俺の答えは変わらない。
「……取り敢えず、もう一晩考えてごらん。私も考えるから。調べものもするから。それで、明日また話し合おう。いいね?」
わかった、とだけ言って、俺は再び自室に閉じ籠った。
その晩も眠れなかったが、不思議と俺の頭は冴えていた。朝食をとってから改めて自身の意思を伝えると、母は大急ぎで身支度をして、北海道へ行くとだけ言い残して出ていった。帰って来たのは、その日の深夜のことだった。
「お金のことはもう大丈夫。あとは、あなた次第よ」
見せつけるように、母は預金通帳を開いた。桁が一つ増えている。どうして、と聞くと、母は実家で頭を下げてきたと答えた。勘当をされてはいたものの、外国人との結婚に強く反対していた祖父は既にこの世の人ではなく、ずっと母のことを気にかけていた祖母が快く提供してくれたそうだ。
「……ありがとう、母さん。俺のために、ここまでしてくれて」
「あなたは、レオンの大事な忘れ形見だからね」
決めてるのよ、一人でも絶対に守ってみせるって。そう言って俺を見つめるその瞳には、きっと亡き父・レオニードの面影も写っていたのだろう。
蘇芳高校への入学は辞退し、北海道の祖母の家へ移り、それから精神科と性同一性障害の専門外来への通院を始めた。見知らぬ土地へ越したのは、その間良介と顔を合わせないためだ。
手術のためには、障害の診断はもちろんのこと、一年以上のホルモン治療と女性としての生活実績が必要だった。女性ホルモンの投与によって肉付きが柔らかくなり、肌も滑らかになると手応えを感じ、髪を伸ばすと更に女性らしくなった。だが、女ものの服を着ても骨格と声と毛深さはそのままなので、鏡に映った姿はまるで女装をしている男のようだった。この違和感をどうしても払拭したくて、俺はホルモン治療をひたむきに続けた。永久脱毛もやった。
三月には、鳳凰学園高校の通信制枠を受験して合格した。調べたところ、鳳凰では全日制への途中編入が認められていたからだ。良介も治療とリハビリのため一年間休学していたらしいので、うまくいけば来年には同じ二年生として通うことができる。
そして俺はようやく条件を満たし、母と共にタイへ渡った。俺たちは現地に三週間滞在し、俺の体から男性器と喉仏が切除され、疑似的な女性器と乳房が与えられ、声帯も高い声が出るように手を加えられた。鏡の中の姿は、紛れもなく女のそれになったのだ。
手術後のケアには激痛が伴い、高い声にも違和感があった。それでも、俺にとっては喜びの方が大きく、鏡の前に立つ度に咽び泣く。
ああ、これでもう、体のことで悩まなくていい。
これでようやく、あいつに会いに行ける……。
「……本気だったのね、アンタ」
地元に戻ってから最初にこの姿を見せた相手は、梅宮だった。大型連休中の公園は閑散としていて、鯉のぼりは幾つか泳いでいるけれど、目の前のマンションの洗濯物は少ない。部活帰りの梅宮は制服姿で、大きな弓と道着を携えていた。生垣のツツジは葉が見えなくなりそうなほど咲き誇っている。
「ああ。美少女になっただろ?」
なんつって、と冗談めかしてみたが、梅宮は笑わなかった。
「今年中にその口調、女子らしくした方がいいわよ。振る舞いもね」
「わかってるって」
「……私ね、好きだったのよ。アンタのこと」
何でもないことのように言われたので、一瞬理解が遅れてしまった。言葉が見つからず、沈黙が続く。ブランコとシーソーの音、それらで遊ぶ子供たちの楽しそうな声が響いた。
「でも、アンタは女の子だったのよね。女の子になりたかったのよね。それを実行するなんて、凄いことだわ。並大抵の覚悟や努力じゃ成し遂げられないことだと思う」
「梅宮……」
「だから、今度はちゃんと真田くんに伝えられるといいわね。アンタの気持ちを、異性として」
「えっ?」
「……何よ、そのために手術したんじゃないの?」
この時になって初めて、俺はやっと気づいた。あろうことか、別人として生まれ変わって男だった頃の人生を抹消することしか考えていなかったのだ。
そうか。俺は今、女の顔と体を手にしている。だからあいつに恋をしても、その想いを告げても、性別のことで後ろ指を指されることはない。俺はもはや、同性愛者でも性同一性障害者(トランスジェンダー)でもなくなった。ただの女の子として、あいつを慕う権利が与えられたのだ。
けれど、もしあいつが記憶を取り戻したら。その時は、全てを明かすしかない。
*
向日葵が枯れ、金木犀の香りも消えていき、山茶花も椿も散った。光陰矢の如しとはよく言ったもので、勉強と女子らしくあるための研究をしているうちに、月日はあっという間に過ぎ去った。
戸籍上の氏名と性別が変えられるのは成人になってからだが、学校に事情を説明すると、在学中は「霧崎レオナ」という名で過ごすことを許された。また、トランスジェンダーであることは公にせず、半年前までアメリカの高校に通っていた帰国子女という設定を作り、そのために学年が一つ繰り下がってしまったという体で編入することになった。
歴史ある名門校は厳格というイメージがあったが、鳳凰には芸能活動をしている生徒やプロのアスリートとしてトレーニングをしている生徒も多く、制度が柔軟で学生の将来と個性を尊重する校風が人気を集めている。それ故、通信制枠や定時制枠があり、そこから全日制への移籍も認められているというわけだ。俺以外にもそのシステムの恩恵を受けている生徒が何人かいるらしく、お陰で中途編入でも気兼ねなく通学できる。あいつもきっと、何食わぬ顔で学生生活を送っていることだろう。
新年度を迎え、遂に初登校の日がやって来た。俺は、自宅の最寄り駅で良介と待ち合わせをしていた。美緒さんから「霧崎レオナ」という名の幼馴染の話はされていて、始業式の日は一緒に行くようにとも言ってくれたのだ。
駅前の雑踏の中で、俺は一人落ち着きなくあいつを待ち続けていた。何度も携帯を開き、時刻を確認する。約束の時間まで、あと十分以上もあった。
髪は乱れていないだろうか、制服は着崩れていないだろうか、スカートは短過ぎないだろうか。似合ってるとか、可愛いとか綺麗とか、そんな感想があるわけないことは百も承知なのに、どうしようもなくそんな言葉を期待してしまう自分がいて、乙女か、と心の中で呟く。しかし、これからは否が応でも周囲から女子として認識されるのだから、それくらいでちょうどいいのかもしれない。
「すまない、待たせた」
突然のバリトンボイスに肩を跳ね上げ、恐る恐る視線を向ける。そこには、俺よりも五センチほど背の高くなった良介がいた。右腕には通学鞄、背中にはヴァイオリンケース。三年前と比べるとだいぶ青年らしくなって、声も一段と低くなっている。デザインが高く評価されている鳳凰の制服をよく着こなしていた。
「あっ、えっと……大丈夫、さっき来たばっかだから」
あの日から一言も話していない上に女子らしい口調でなければならないのだから、狼狽えるのも無理はない。全身が熱くなり、きっと頬も紅潮している。変に勘繰られなければいいけれど。
「そうか、なら良かった。……話は聞いていると思うが、まだ中学以前の記憶が戻っていないんだ。だから俺にとっては、あんたとは今日で初めましてになる。妙な感じがするかもしれないが、よろしく頼む」
差し出された右手も骨張っていて、以前より大きく見えた。意識し過ぎるなと自身に言い聞かせ、笑顔でそれに応える。
「……うん、全然平気! 改めまして、よろしくね。良介」
柔らかく小振りになった手を差し出して、握手を交わす。それから俺たちは人の波に紛れて改札を通り、各駅停車の比較的空いている車両に乗った。窓の外の景色はいつもと変わらないはずなのにどこか輝かしく見えて、俺の門出を祝福してくれているような気さえした。
俺たちは、扉の両端に向かい合って立っていた。良介からは主にアメリカでのことを聞かれたが、それは母の体験談で適当に取り繕って、すぐに話題を切り替える。
「そういえば良介って、オーケストラ部に入ってるんでしょ? そんで、コンマスなんだってね。さすがじゃん」
「正しくは、管弦楽部だがな」
港町を臨む丘に佇む鳳凰学園高校は運動部も文化部も活動が盛んだが、中でも管弦楽部は全国大会の常連で過去に数回入賞している。コンマスとはコンサートマスターの略で、第一ヴァイオリンの首席奏者が務めるオーケストラ全体のまとめ役、即ち第二の指揮者である。
「あたし、良介がオーケストラで演奏してるとこ見てみたいな。演奏会とかないの?」
「ゴールデンウィーク中に定演があるから、その時にな」
定演とは、定期演奏会のことだ。校内のホールではなく一般の施設を借りて行われるそれは、毎年大勢の観客で賑わうらしい。
夢中になって話していると、あっという間に校舎の最寄り駅に着いてしまった。楽しかった時間を惜しみつつ、電車から降りる。
目的地は、商店街と住宅地を抜けた先にある。道中、同じ制服を着た高校生の姿を何度も見かけた。おはよう、と楽しげに挨拶を交わしている。これから同じクラスや部活動で知り合う人物がこの中にいるかもしれないと思うと、期待に胸が高鳴った。
やがて、校門が見えてきた。傍らには大きな桜の木があり、もう葉桜になりかけているが、花弁が雪のように舞い散っている。
近づくと、その桜吹雪の中で、銀色の長い髪が風に靡いていた。そして、サファイアの瞳が俺たちの姿を捉える。俺もこの見た目なのですれ違いざまによく振り返えられたが、この世のものとは思えないその姿は妖精のように美しく、何人もの生徒が目を奪われていた。
そんな彼女が、にこりと微笑む。目が合ったのは良介の方で、彼女は頬を赤らめ、嬉しそうに奴に駆け寄っていく。
「おはよう、良介くん。何だか久し振りね」
「大袈裟だな。たった二週間だっただろう」
たった一回のやり取りで、二人がかなり親しい仲であることがわかった。絵に描いたような、お似合いの美男美女。まだ肌寒い風が、俺の髪とスカートを揺らす。
「そうだ、紹介しておこう。霧崎レオナ、父親がウクライナ人で、俺と同い年の幼馴染だ。今日から二年のクラスに編入する」
呆然としていると、良介が俺の肩に手を乗せて、彼女への挨拶を促した。慌てて頭を下げ、震えそうになっていた唇を必死に動かす。
「あ……初めまして、霧崎レオナです。よろしく……」
おずおずと名乗った俺と相反するように、眩い笑顔で応じる彼女。
「わぁ、すごい偶然! あなたのお父様もウクライナ人なの? 私はリリアナ。弓(ゆ)月(づき)リリアナ・アレクサンドロヴナです。母がウクライナ出身なの。よろしくね、レオナさん」
