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国語の時間が、まだ終わってない。

国語の教科書には、今でも忘れられない物語がいくつかあります。
細かな筋書きや、授業で先生が何を説明したのかまでは覚えていなくても、場面や言葉だけが、なぜか長く残っていたり。
ふと、思い出すことがあります。

小学校では、『ちいちゃんのかげおくり』『大人になれなかった弟たちに……』『ごんぎつね』『手ぶくろを買いに』『スイミー』。
中学校では、『少年の日の思い出』『握手』『故郷』『盆土産』『字のない葉書』。
高校になると、『こころ』『山月記』『羅生門』。

高校だと、もっといろいろ接したはずなのに、この三作の存在感があまりに強い。
前にも書いたように、特に『こころ』と『山月記』は、今でもときどき読み返します。
『羅生門』は…それほど思い入れはないかな、龍之介、ごめん。

考えてみれば、国語の教科書は、私たちが人生で最初に手にした文学アンソロジー、と言えるのかも。
格好よく言えば。

本を読む習慣のある子にも、そうではない子にも、同じ作品が手渡される。
教室にいる全員が、同じ物語を読み、同じ場面について考える。
そこで出会った言葉のいくつかは、教科書を閉じたあとも、長く自分の中に残っていきます。

コバルトの影がたまる夜

少し前、文鳥文庫の『手ぶくろを買いに』を買いました。
文鳥文庫は、短い作品を一冊ずつ、持ち歩けるような蛇腹型の本に仕立てているシリーズです。
国語の教科書で読んだ新美南吉の物語を、もう一度、ゆっくり読みたくなって手に取りました。

『手ぶくろを買いに』と聞くと、私に残るのは「色」の思い出です。

物語の初め、初めて雪を見た子ぎつねが、雪の中を駆け回る場面があります。

真綿のように柔らかい雪の上を駆け回ると、雪の粉が、しぶきのように飛び散って、小さい虹がすっと映るのでした。

新美南吉「手ぶくろを買いに」より

真っ白な雪の中に、しぶきのような雪の粉と、小さな虹が現れる。

そして物語の終わり、手袋を買って無事に帰ってきた子ぎつねと母ぎつねが、森へ帰っていく場面。

月が出たので、狐の毛なみが銀色に光り、その足あとには、コバルトの影がたまりました。

新美南吉「手ぶくろを買いに」より

影といえば、黒や灰色を思い浮かべます。
けれど新美南吉は、雪の上に「コバルトの影」がたまる、と書く。

月明かりが照らす毛並みは銀色、足跡に残るのは青色の影。
冷たい冬の夜なのに、どこか柔らかく、澄んだ光に満ちている。

小学生のころ、私はこの色彩を、今ほどはっきりは認識していませんでした。
でも、この「コバルト」がずっと心に残っていました。
そして大人になって読み返すと、ふわっとその場面が立ち上がってきます。
とてもやさしい場面。

雪の冷たさ。
月の光。
小さな虹。
コバルトの影。

言葉によって描かれた色や温度まで、気が付かないうちに心へ持ち帰り、そのまま大人になったんだなぁ。

「ほんとうのお手々」を差し出しても

『手ぶくろを買いに』は、かわいらしい子ぎつねの物語です。
けれど、その奥には、知らない相手を恐れること、信じてみること、親から教えられた世界と、自分自身が経験した世界との違いが描かれています。

母ぎつねは、人間を恐れています。
以前、人間の町で怖い思いをしたことがあるのでしょう。
だから子ぎつねの片方の手を人間の子どもの手に変え、帽子屋の戸口からは、必ずその手だけを出すように言い聞かせます。

けれど子ぎつねは、間違えて、きつねのままの「ほんとうのお手々」を差し出してしまいます。

それでも帽子屋は、子ぎつねを捕まえませんでした。
子ぎつねの差し出したお金を確かめ、暖かい手袋を渡します。

本当の姿を見せてしまっても、傷つけられないことがある。
怖いと教えられてきた世界の中にも、親切な人がいる。

子ぎつねは、自分の経験として、それを知って森へ帰ります。

母ぎつねは、坊やが帰ってくるのを、今か今かと震えながら待っています。無事に戻った坊やを暖かい胸に抱きしめ、泣きたいほど喜ぶ。

今、その場面を読むと、なぜか涙が出そうになります。

子どもが、自分の知らない場所へ行ってしまった。
危険な目に遭っているかもしれない。
それでも母ぎつねは、ただ待つことしかできない。

そして、戻ってきた子ぎつねは言います。

「母ちゃん、人間ってちっとも恐かないや」
「坊、間違えてほんとうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、掴まえやしなかったもの。ちゃんとこんないい暖い手袋くれたもの」

新美南吉「手ぶくろを買いに」より

しかし、母ぎつねはすぐに「そうか、人間はいいものなのだ」とは言いません。

「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」

新美南吉「手ぶくろを買いに」より

この終わり方が、とても好きです。

坊やが経験した帽子屋の親切は、本物です。
一方で、一度親切な人間に出会ったからといって、母ぎつねが経験してきた恐怖のすべてが消えるわけではない。

坊やの新しい経験も否定しない。
母ぎつねの恐れも、簡単には消さない。

人間は怖いのか。
それとも、信じてもよいのか。

物語は、一つの答えに閉じません。

「人間はいいものだった。めでたし、めでたし」では終わらず、信じてみたい気持ちと、まだ信じ切れない記憶が、銀色の光とコバルトの影の中に残されています。

その複雑さがあるからこそ、『手ぶくろを買いに』は、ただかわいらしいだけの童話ではないのだと、今は思います。

同じ狐、違う光

新美南吉といえば、『ごんぎつね』も忘れられません。
同じ作者が、同じ狐と人間との関わりを描いた作品です。
私には、この二つが、同じ作者の作品とは思えないほど違って感じられます。

『ごんぎつね』には、秋の山や栗、松茸の匂いとともに、思いが届いたときには、すでに取り返しがつかないという悲しさがあります。
物語にある不可逆性が、今でも辛く感じられます。

ごんは、自分のしてしまったことを悔やみ、ごんなりの方法で償おうとします。
けれど、その思いが兵十に伝わったときには、もう遅い。
誤解が解ければ、すべてが元通りになるわけではない。
そのことを『ごんぎつね』は、あまりにも静かに、あまりにも容赦なく描きます。

『手ぶくろを買いに』では、子ぎつねが誤って本当の姿を見せてしまっても、傷つけられませんでした。

一方では、思いが届いたときには間に合わない。
もう一方では、本当の手を差し出しても、暖かいものを受け取ることができる。

同じ新美南吉の狐の物語でありながら、『ごんぎつね』には取り返しのつかない悲しさがあり、『手ぶくろを買いに』には、恐れが消えないままでも、誰かを信じられるかもしれないという小さな光があります。

どちらも、人と人との間にある、理解することの難しさを描いた作品なのかもしれません。

今の私が手に取りたいのは、コバルトの影の中を、暖かい手袋をはめて帰っていく子ぎつねの方でした。
世の中に理不尽なことがごまんとあるのは、もう十分に知っています。
だからせめて、自分から本を開くときくらいは、コバルトの影の中を、暖かい手袋をはめて帰っていく子ぎつねの方を選びたい。

戦争を、誰かの暮らしとして読む

小学校の国語の教科書に載っていた『ちいちゃんのかげおくり』や『大人になれなかった弟たちに……』は、いわゆる平和教育の意味を強く持つ作品なのでしょう。
中学校では、向田邦子の『字のない葉書』にも出会いました。

国語で戦争に触れる際、そこにあるのは戦争の年表や戦況ではありません。

家族と一緒にいること。
ご飯を食べること。
遊ぶこと。
父や母がいて、子どもがいて、家族なりの日常が続いていくこと。

そうした、ごく普通の暮らしの中に時代が入り込み、ときにはそれを大きく変えてしまう。

『ちいちゃんのかげおくり』や『大人になれなかった弟たちに……』では、戦争によって失われていくものを、子どもの目にも分かるかたちで読む。
少し年齢が上がって『字のない葉書』を読むと、戦時下を生きた一つの家族の姿や、その時代の空気そのものへ目が向いていきます。

社会科では、戦争がいつ始まり、何が起き、どれほどの被害があったのかを学びます。
国語では、その時代を生きていた一人ひとりの暮らしや感情に触れる。
数字だけでは分からないものを、物語や随筆によって受け取る。

戦争によって失われるのは、抽象的な「平和」だけではありません。
誰かが家族と過ごすはずだった時間、食べるはずだったご飯、大人になるはずだった子どもの未来だってそうです。

そして戦争というものは、始まった瞬間だけ突然存在するのでもない。
戦争になる前にも人々の暮らしがあり、その時代を生きた人たちには、それぞれの家族の記憶がある。

「戦争はいけない」と一文で教えるのではなく、誰かの暮らしとして読む。

その方が、ずっと深く子どもの心に残っていくのでしょう。
現に私は今、そのように感じているのだから。

年齢とともに、問いは深くなる

教科書に載せられた作品の並びを振り返ると、子どもの年齢に応じて、出会う問いが少しずつ複雑になっていたように思います。

小学校では、命や家族、優しさ、悲しみを知る。
中学校では、人と人との間に生まれる距離だけでなく、その人を取り巻く家族や社会、時代へと視野が広がっていく。
そして高校では、とうとう、自分自身の心さえ簡単には理解できないことを知る。

中学校の『少年の日の思い出』では、自分がしてしまったことへの罪悪感と、他者から向けられる厳しいまなざしに触れます。
『故郷』では、懐かしいはずの故郷が変わり、かつて親しかった人との間にも、社会や身分による距離が生まれていることを知る。
『握手』や『盆土産』には、言葉にしきれない愛情や、別れの記憶が描かれています。
『字のない葉書』では、家族という小さな場所から、その背後にある昭和という時代までが見えてきます。

そして、自分の心がいちばん分からない

そして高校で、『こころ』や『山月記』に出会う。
もはや、相手の気持ちだけではありません。
自分自身がなぜ苦しいのか、自分が何を恐れ、何を欲しているのかさえ、簡単には分からない。
高校の国語、急に容赦がありません。

『山月記』の、臆病な自尊心と、尊大な羞恥心という言葉は、一度覚えたら、なかなか忘れられません。

自分には才能があると信じたい。
けれど、自分の力が足りないと知らされるのは怖い。
傷つくことを恐れながら、同時に自分を特別な存在だと思っている。
そんな人間の厄介な自意識が、あれほど短い言葉の中に閉じ込められています。

私自身、自意識をうまく飼い慣らせたとは、とても言えません。
だからこそ、『山月記』は、若いころに読んだ作品でありながら、今でも自分に向かってくるのでしょう。
読む年齢によって、李徴の姿が少しずつ違って見える気がします。

『山月記』は、時々YouTubeで朗読を聞きます。
あの江守徹が朗読しているから。
あの美しい表現が、さらに美しく響き、切なさが一層心に迫ってきます。

国語の教科書には、その年齢で触れてほしい言葉や、考えてほしい問いが、丁寧に置かれていたのでしょう。
そして、教科書の中で出会った物語は、テストで正解できたかどうかとは別の場所に残るのかと思います。

雪の中を歩く子ぎつね。
栗や松茸を届けるごん。
かげおくりをするちいちゃん。
蝶を握りつぶした「僕」。
虎になった李徴。

その姿は自分の中で生き続けていて、時々ふと、よみがえってきます。
まるで、国語の授業を今でも受けているかのように。

国語の教科書が私たちに手渡したのは、物語の筋書きや漢字だけではなかった。

人を信じてもよいのか。
取り返せないことと、どう向き合うのか。
戦争によって、何が失われるのか。
人はなぜ、自分の心に苦しめられるのか。

すぐには答えの出ない問いを、心の中に持ち続けること。
それもまた、国語を学ぶ、ということなのだと思います。

まだ、国語の授業が終わらない

――などと今になって考えているわけですが。
子どものころの私は、登場人物の気持ちを考えろと言われても、

そんなもん、本人に聞いてくれよ。

くらいのことを思っていました(笑)。
作者の意図まで聞かれれば、なおさらです。
心の中で悪態ついていたり。
私が考えることじゃないだろ、って…本当にかわいくない子ども!(笑)

それなのに何十年もたった今、子ぎつねの気持ちを考え、ごんの思いを考え、李徴の自尊心についてまで延々と考えている。
コバルトの影を読んで泣きそうになっている。
そして、高校の副教材の国語便覧を買っては、喜んで読みふけってる。

国語教育、おそるべし。
教科書はとうに閉じたはずなのに、私の国語の時間は終わってない。
これからも、折に触れていろいろ思い出して、糧にしたり、拠り所にしたりするんだろうなぁと思うのです。

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