ニチアサの話がしたい vol,275
■今週のゴジュウジャー
・遠い希望、近しい絶望
かつて、私は子供で、子供というものがおそらくみんなそうであるように、絶望していた。絶望は永遠の状態として、ただそこにあった。そもそものはじめから。
だからいまでも私たちは親しい。
やあ。
それはときどきそう言って、旧友を訪ねるみたいにして私に会いにくる。やあ、ただいま。
引用元にも記載させてもらったが、これは著者が最も好きな小説のひとつ、江國香織さん著作『ウエハースの椅子』の冒頭部分だ。今週の『ゴジュウジャー』48話「覚悟の世直し!厄災の風の中で」を見ている間中、筆者の頭の中にはこの一説が何度もよぎっては消えていった。まさに、「厄災はいつでも人類のそばにいる。お友達みたいにね」と笑いかけるレクスそのもののようだ、と。でも確かに、厄災や絶望はどんな顔をしているかということを考えると、彼らは恐ろしいだではなく、親しみも同時に携えていると思うのだ。コロナ禍を目の当たりにした我々なら身に覚えがありまくりだろうが、例え疫病の厄災ペスティスが倒されても原因不明の感染症はある日突然私たちの日常を丸ごと変えてしまうし、戦争だって世界中のあちこちで現在進行形で続いている。例えそういった世界規模の災いでなくても、日々の暮らしの中の本当に些末な出来事……学校で何となく周りから無視されてる気がするとか、会社で遠回しに無能扱いされたとか、親の無神経な一言がどうしても許せないとか、恋人に誕生日を完全に忘れられるとか、ぐずって泣きじゃくる子供を抱えてようやっと風呂に入れたものの、ポンプを押してからシャンプーを切らしていたことに気付くとか、そういう瞬間に抗いようもなく湧き起こる死にたみにのそばには、必ずニコニコと穏やかな顔をした厄災や絶望が立ち顕れるし、彼らは「何を言ってるの。君の人生、最初からこうじゃない。幸せなんて君には似合わないんだから、求めるのをやめたらいいんだよ」と私たちの背中をさする優しさを持っている。だからこそレクスは可愛らしい擬態とおぞましい真の顔の二つの顔を持ち合わせているのだろうし、熊手のことも「真白くん」と、気安く下の名前で呼ぶのだろう。彼を「滅びを執行する神」として引き抜きたいとゴジュウジャーたちに申し出る時にわざわざ菓子折りを持参するシーンも一見スーパー戦隊らしいコミカルな演出だが、ただのギャグシーンだとはなかなか思い難い。理不尽、諦め、無力感、後悔。手を替え品を替え、私たちの毎日に律儀に寄り添ってくる奴らは、遠くの空で曖昧に光り輝く希望や幸福なんかよりもずっと筋が通っていてずっと私たちの生活に近しいのだ。レクスのフルネームであるドゥーラ・レクス・セド・レクスはラテン語の「Dura lex sed lex.(悪法もまた法なり)」から来ているが、災いもこの世の秩序のひとつであり因果律とする彼の存在は、「修羅の道でもなんでも、自分の道に変えてやる!」がモットーの、枠組みから常にはみ出し気味のヒーローであるゴジュウジャーたちのまさにアンチテーゼというわけだ。
・二重線引いて書き換える
そんなレクスは、熊手に誘いを断られると厄災としての真の顔を見せ、逆らう者全てを力で握り潰そうと容赦なく力を振るい始める。その力はあまりに強大で、ウルフ、ティラノ、ポーラーだけでなくテガソード、テガジューン、グーデバーンのロボファミリーが一体となってかかっても全く歯が立たない。それどころか彼は宇宙の法則を捻じ曲げるテガソードに与するゴジュウジャーたちは悪魔の使いだとし、竜儀を一瞬にして塵にしてしまう。さらに、自らに単身勝負を挑んだ角乃も既に消したと告げ、呆然自失となった吠を庇った陸王と禽次郎も続いて消滅。死亡フラグどころか、死亡フラグを立てる前に一気に膝で折って放り捨てるような、レギュラー戦士たちの連続退場という衝撃の展開が巻き起こる。一年間、楽しいことも辛いことも一緒に分け合ってきた大切な仲間たちがあまりにあっけなく消えていく姿には、吠共々、視聴者のほんとんどが声にならない声しか出なかったのではないだろうか。(無論、筆者も須くそうだが)
次々に上がる火の手と煙、母親を探す子供の泣き声、助けを求める人々の悲痛な叫びがあちこちで轟く地獄のような光景を熊手に見せ、自分と手を組めば一瞬にして世界は滅び、人々を苦しませずにあの世に送ることができると囁くレクス。「真白くん、これで分かってくれたよね?」再びにこやかな顔を見せる厄災の親玉に、熊手は「ああ、分かったぜ……」と決意を固めて歩き出すと、「俺様が、お前を倒すしかねえってことがな!」と地に落ちたチャンピオンローブを拾い上げ、威勢よく羽織ってみせる。熊手の迷いのない凛々しい瞳。舞い落ちる枯葉。勇ましく流れるドラマティックな劇伴。これはもうベアックマでなくても「熊手~~~~!!」と叫ぶしかないではないか!熊手~~~!!!「厄災はルール。誰にも逆らえない仕組みになってるらしい……だが!そんなもんは二重線引いて書き換えちまえばいい!」そう言ってキッとレクスを睨みつける熊手。この「書き換える」という台詞は世界の理を書き換える力を持つグーデバーンの破壊の王子としての能力を借りるという、その後の展開のために言わせたものだろうが、そこに「二重線引いて」というフレーズを付けるところに脚本の井上亜樹子先生の果てしないセンスを感じる。思えば、熊手もゴジュウジャーたちも、あらゆるルールや法暗黙の了解や、「望まれるヒーロー像」に二重線を引いて、引いて引きまくってここまで来たではないか。そんな感慨が迫ってグッと喉の奥が詰まる。
「そうか!じゃあ僕と熊手さんで!」そう立ちあがろうとするグーデバーンだったが、熊手は「お前を道連れにはできねえよ」と、その力だけを取り込み、打倒レクスのために歩き出す。もちろんそうなのだろうとは思ってはいたが、テガソードに「死ぬつもりか!?」と問われ、「ここは俺様が救った俺様の世界!それを守るためならこの命、惜しくねえ!!」と真っ向から啖呵を切られてしまうと、もう彼を止めることはできないのだと改めて実感してしまって辛い。それでも「行かないで!熊手さん!」と最後まで必死に彼を引き留めようとするグーデバーンに、今度は自分の代わりにみんなを導いてほしい、俺様の相棒ならそれができると微笑む熊手。歩みを進める熊手は「ベアックマ!一緒に行ってくれるか?」ともう一人の相棒に声を掛け、それに「クマはどこまでも熊手に付いていくクマ!」と合流するベアックマ。いつも通りの、まるで何てことのないようなベアックマの振る舞いが余計に涙腺を刺激する。熊手にはグーデバーンとベアックマという二人の相棒が居たわけだが、自分が導いたグーデバーンのことを愛しているからこそ、和解した家族と生き続けてほしいとこの世界に彼を残し、同時に自分が命を与えたベアックマのことも愛しているからこそ、決して戻れない死地にまで連れていくという、それぞれへの愛と責任の色合いの違いゆえの判断が何とも切ない。
・「見返りを求めるヒーロー」の最後の報酬
そして、そんな真白を追いかけ、「待てよ……!お前までいなくなるな!あいつらは消された……もう、一人にはなりたくねえんだ」と縋り付く吠のシーンは、筆者の人格形成に影響を与えすぎて半ばトラウマ化しているアニメ『美少女戦士セーラームーン』の最終決戦で、一人また一人セーラー戦士がセーラームーンを守って命を落として行く中、最後に残ったセーラーマーズが戦いに行こうとした際、うさぎが「待って。レイちゃんは先に帰ってて。死んじゃイヤだよ……!」と泣き縋って止めようとするシーンが思い出されてめちゃくちゃに胸が痛かった。だが、マーズもそんな泣きじゃくるうさぎの手を取って「あなたには最後の大きな戦いが残ってるんだから」鼓舞したように、熊手もまた「一度誓ったなら諦めんじゃねえ!これまでだって暗闇の中、もがいて抗って、道探し出して来たんだろうが!」と激励すると19話ぶりに「吠」と名前で彼を呼び、「俺様が愛したこの世界、あとはお前に託したぜ」と去っていく。それ以上何も返せず立ちすくむ吠に最後に「指輪争奪戦、戦ってやれなくて悪いな」と言い残す、まるで弟との遊ぶ約束を破ってしまった兄のような優しい声色に、互いに無意識レベルでかもしれないが、吠は熊手を誰よりも頼っていたし、熊手は吠をほんとうに大切に思ってきたことが痛烈に表れていたような気がしてならない。
ここから先は
¥ 200
いつも読んでくださってありがとうございます!!もしよろしければサポートよろしくお願いします……!!
