AIが古書を「食べて、捨てる」——規制すべきは取引ではなく、刃を入れるその瞬間である
こんな記事が目に留まった。
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スイスの放送局RTSが、スペインのエル・ディアリオ紙、ドイツのターゲスツァイトゥング紙の調査を掘り下げる形で報じた内容は、端的に言えばこうだ。
中古の書籍が大量に買い集められ、デジタル化され、AIの言語モデルの学習に使われた後、著作権法に適合させるために破棄されている。
最初に異変に気づいたのは、書店主たちだった。バルセロナ近郊バダロナの古書店主は、発行部数が極めて少なく何年も店に眠っていたカタルーニャ語のエッセーなどに、不可解な注文が入り続けることを不審に思った。注文は時に一分間隔で連続し、店主は機械が買い付けているのではないかと疑ったという。スペインの他の書店には千冊を超える発注があり、その大半は市場でほとんど入手できない本だった。ドイツでも同様で、夜間に届く注文の発注者は常に同じ、北米の再生書籍のリーダーを自称するカナダのプラットフォーム「ズーム・ブックス」だった。
なぜ「捨てる」のか
多くの人がここで引っかかるはずだ。買い集めて読み込ませるところまでは理解できる。しかし、なぜわざわざ現物を捨てるのか。
理由は二つある。一つは技術的・経済的な理由、もう一つは法的な理由だ。そして厄介なことに、後者の方が本質的である。
技術的な方から言えば、本の背を断裁してバラバラにし、高速のシートフィーダーで一気に読み取る方式は、一ページずつ非破壊で撮影する方式より桁違いに速く、安い。つまり破壊は目的ではなく、コスト最適化の副産物に過ぎない。裏を返せば、テキストを吸い出すだけなら非破壊スキャンでも技術的には十分に可能である。
問題は法的な理由の方だ。二〇二五年六月、米カリフォルニア北部地区連邦地裁のアルサップ判事は、Bartz対Anthropic事件において重要な判断を示した。正規に購入した書籍をスキャンして学習に用いる行為は、極めて変容的な利用であり、フェアユースに当たるとしたのである。
この判断を支えたロジックがキモである。即ち、
購入した紙の本をすべてデジタルに複製したのちに、紙の原本を破棄さえすれば、一方が他方に取って代わったのであって、コピーの総数は増えないとみなす
というものである。
ここに、現物を捨てる動機が生まれる。
原本を保持したままデジタル化すれば、紙一冊と電子一冊で「複製が二つに増えた」と評価されうる。しかし原本を捨てれば、「紙一冊が電子一冊に置き換わっただけ」だと主張できる。原本を持たないことで、著作物のコピーを所有していないという法的な立ち位置を確保できる。
つまり、現物の破棄は学習のために必要な工程ではない。訴訟リスクを回避するための、法務上の作戦である。
我が国における再現性の検証
ここからが本題である。同じことは日本でも起こりうるのか。国産AIの育成が国策として語られ始めた今、これは他人事ではない。
結論から言えば、著作権を回避するための廃棄という動機は、日本法のもとでは発生しない。 ただし、廃棄そのものは別の経路で起こりうる。順に見ていく。
日本法は米国より明快である
我が国には著作権法第三十条の四がある。著作物に表現された思想又は感情を自ら享受し、又は他人に享受させることを目的としない利用については、必要と認められる限度において、方法を問わず利用できる。情報解析、すなわち大量の情報から言語や音や影像といった要素を抽出し、比較・分類・解析する用途は、その典型として条文に明示されている。ただし著作権者の利益を不当に害する場合はこの限りでない、という但書が付く。
ここで日米の法の構造の違いが決定的に効いてくる。
米国のフェアユースには、あらかじめ定められた類型がない。四つの要素を裁判所が事案ごとに総合考量して決める。だからこそAnthropicは、「コピーは増えていない、紙が電子に置き換わっただけだ」という物語を法廷で組み立てる必要があった。原本の廃棄は、その物語を成立させるための小道具である。
これに対し、我が国の三十条の四は明文の権利制限規定である。情報解析の用に供する複製であれば、原本を手元に残していようが処分していようが、条文の適用には何ら影響しない。そもそも、適法に購入した紙の本を所有し続けること自体は、著作権法上何の問題も生じない。当たり前の話である。
つまり皮肉なことに、AI学習に対してより許容的な日本の法制の方が、結果として古書の現物を守る方向に働いている。原本を捨てて身を守る必要がないからだ。
それでも我が国で廃棄が起きうる三つの経路
しかし、法的動機がないことは、廃棄が起きないことを意味しない。
第一に、経済的動機は法制度と無関係に残る。 背を断裁して高速スキャンする方が、非破壊で一頁ずつ撮影するより圧倒的に安い。法律が何を言おうと、この差は消えない。
第二に、国産AIが予防的に米国基準を採る可能性がある。 国産AIが海外市場に展開すれば、米国での訴訟リスクを負う。三十条の四の但書、すなわち「著作権者の利益を不当に害する場合」の解釈も、まだ十分に固まっているとは言い難い。この状況で企業法務が保守的に判断すれば、日本法上は必要のない廃棄を、念のためとして採用しうる。米国の判例が、事実上の国際標準として輸入されるのである。
第三に、そして最も現実的なのが越境である。 外国企業が日本の古書を買い集め、国外に持ち出して断裁する。この場合、日本の著作権法がどうなっていようと関係がない。記事の舞台がスペインとドイツだったのは偶然に過ぎない。日本語は学習データとして相対的に手薄な言語であり、狙われる理由はむしろ十分にある。バルセロナの古書店主が見た「一分間隔の注文」が、神保町や地方都市の古書店の受注画面に現れない保証はどこにもない。
我が国の防御力——納本制度という資産と、その穴
ではこちらの備えはどうか。ここで納本制度が効いてくる。
国立国会図書館法により、国内で発行された出版物は原則としてすべて国立国会図書館への納入が義務づけられている。対象は商業出版社に限らず、学術団体、調査研究機関、企業、団体、個人にも及ぶ。納本された資料は期限を定めずに保存される。つまり昭和二十三年以降の国内出版物については、一冊が断裁されたところで国に控えがある可能性が高い。これは我が国が持っている、極めて大きな制度資産である。
ただし過信は禁物である。国立国会図書館自身が、発行者が制度を知らないなどの理由で納入されていない資料があることを認めている。周知の不足に加え、納入には経済的負担も伴う。地方公共団体の一部の出版物、小規模出版社や地方出版社の刊行物、自費出版などは漏れやすく、東京以外の地方出版社からの納入は七割程度、実際に納本される図書は国内出版物の八割程度にとどまるとの推定もある。
したがって、我が国で本当に危ういのは次の三類型である。
一、納本制度が始まる昭和二十三年以前の資料、とりわけ戦前・戦中の刊行物 二、納本から漏れた地方出版物・郷土資料・自費出版・私家版 三、団体や企業、個人が少部数で発行した非売品の記録類
そして皮肉なことに、この三類型は、AI企業が狙う条件——発行部数が極めて少なく、市場でほとんど入手できない——と正確に重なる。バルセロナのカタルーニャ語エッセーに相当するものは、我が国では地方の郷土史であり、社史であり、私家版の記録である。土地の記憶が綴られた、その一冊しか残っていないかもしれない本である。
これは中央の問題であると同時に、地方の問題でもある。
個の合理は、その総和において非合理へ転じる
ここで感情的に「AI企業けしからん」と言って終わるのは簡単だが、それでは何も解決しない。
まず、売った古書店を責めることはできない。希少本は市場が薄く、次にいつ買い手が現れるか分からない商品である。利益率は高いが、利益機会が極端に少ない。棚に何年も眠っていた在庫が、市場価格を上回る値段で現金化できるのなら、売らない理由がない。古書店の経営は在庫回転率に依存しているのだから、これは必然である。
買う側も、現行法の枠内で最も合理的な選択をしているに過ぎない。断裁は安く、米国法のもとでは廃棄が法的に安全なのだから。
ただし一点、この取引には歪みがある。買い手だけが、取引の本当の目的を知っているという点である。バダロナの店主も、ドイツの書籍販売業者も、注文を不審に思いながら、その本が読み取り後に断裁される運命にあることは知らなかった。売り手が知らないまま、二度と戻らないものが消えていく。この情報の非対称性は、後で規制案を考える際の手がかりになる。
個々の取引はすべて合理的である。にもかかわらず、集計すると不可逆な文化的損失が生まれる。これは典型的な外部性の問題であり、市場の失敗の一形態である。
なぜそうなるのか。希少本の文化的価値は、その古書店だけでなく、将来その本を読みたいと思うかもしれない不特定多数に帰属している。しかし取引の意思決定は売り手と買い手の二者で完結し、その「将来の読者」は市場に参加できない。市場の外にいる者の利益は、価格に反映されないのである。
だから責めるべき相手を探すのは筋が悪い。問うべきは、どのルールが欠けているか、である。
考えうる対策
私はこの問題について三つの規制案を検討し、うち二つを没にした。没案から順に書くのは、なぜ最後の案がそれらより優れているかを、比較においてしか示せないからである。
没案その一:AI企業から古書店への取引時開示義務
最初に考えたのは、情報の非対称性を埋める案である。
先に記載の通り、この取引の異様さは、買い手だけが取引の本当の目的を知っている点にある。バダロナの店主も、ドイツの書籍販売業者も、注文を不審に思いながら、その本が読み取り後に断裁される運命にあることは知らなかった。売り手が知らないまま、文化財が消えていく。
ならば、AI企業および電子化業者に対し、最終的に原本の廃棄を伴う目的での取引である場合、その旨を売り手である古書店に事前に開示する義務を課せばよい。買い手が正直に告げれば、古書店は知った上で判断できる。少なくとも「知らずに売ってしまった」という事態はなくなる。
一見、筋が通っている。義務を負うのはAI企業側であり、古書店に負担はかからない。開示という軽い手段で情報の非対称性が解消される。
だが、これを没にした。理由は一つである。
この設計は、制度の実効性を古書店の文化的情熱に依存させてしまう。
考えてみてほしい。開示を受けた古書店は、その後どうするのか。「この本は読み取り後に断裁されます」と告げられた店主が、それでも売るか、断るか。それを決めるのは、その店主が文化の担い手としてどれほどの矜持を持っているか、ただそれだけである。
そして経済的条件は何一つ変わっていない。目の前には市場価格を上回る値段を提示する買い手がいる。何年も棚に眠っていた在庫が、いま現金化できる。開示されたところで、売る理由は消えない。文化的情熱の篤い店主なら踏みとどまるだろう。だが大半は売る。そして売ることを責められない。
つまりこの案は、告知した上で、判断の責任だけを古書店に押しつけている。制度としては何も決めておらず、結果は個人の徳性任せである。篤志家がいなければ機能しない制度は、制度とは呼べない。
むしろ悪い副作用すらある。開示を受けて売った以上、古書店は「知っていて売った」ことになる。誰も悪くない構造だったはずの取引に、道義的な責めを負う当事者を人為的に作り出してしまうのである。責める理由のない相手に、罪悪感だけを配る設計である。
情報の非対称性を埋めることは、それ自体としては正しい。だがそれは問題の解決ではなく、問題の所在を教えるだけだ。教えられた側に決定権と負担を丸投げするのなら、制度設計としては手抜きである。
没案その二:国際書誌データベースと国家買取
言語ごとに書誌データベースを構築し、世界の国立図書館を接続する。どこかの国に一冊でも現存が確認できる本は自由に取引してよいが、現存が確認できない本は民間での処分を認めず、国家がある程度は言い値で買い取る——という案である。
理念としては最も正しい。しかし現状では絵に描いた餅である。理由は三つ。
第一に、書誌同定が技術的に難しい。同じ「本」でも版や刷、書き込み、装丁の違いによって、別の資料として扱うべきかどうかの判定が分かれる。ISBN以前の希少本、まさに記事に出てくるカタルーニャ語のエッセーのような資料は、書誌情報自体が国によってばらばらであり、統合の初期コストが極めて高い。
第二に、国家間で熱意が非対称である。どの国も自国語・自国史に関わる資料には熱心だが、他国の希少本の保存に予算を割く動機は薄い。結果として、買い取りの実行主体が慢性的な予算不足に陥る。
第三に、「言い値で買い取る」は逆インセンティブを生む。国家が言い値保証をすれば、業者が意図的に「希少に見えるが実は流通している」本を高値で売りつける裁定行動が発生する。価格発見機能が壊れるのである。
ただし、この案は完全な廃案ではない。後述の採用案が実データを供給するパイプラインとして機能すれば、将来的に接続しうる構想として保留しておく。
採用案:読み取り前申告義務
たどり着いた結論は単純である。
義務を負う主体をAI企業・電子化業者とし、規制の作用点を、取引でも廃棄でもなく、読み取りの直前に置く。
作用点の位置は厳密でなければならない。破壊型スキャンにおいて、断裁と読み取りは同一の工程である。背を落とし、バラバラにした紙束をシートフィーダーに通す。その時点で、本はすでに本ではない。したがって「廃棄」の段階で手続を課しても、そこにあるのは読み取り済みの紙束であり、止めたところで毀損は防げない。不可逆点は廃棄ではなく、読み取りの直前、背に刃を入れるその瞬間である。ゲートはそこより手前に置かなければ、何の意味も持たない。
以下、この案の中身を詳しく見る。
採用案の詳細とメリット
制度の骨格
一、AI企業および電子化業者は、原本を毀損する方式で読み取りを行う前に、書誌情報(書名・言語・発行年・版・刷・発行者・推定現存数)を国の機関に申告する。
二、国は既存の書誌データベースおよび納本記録を用いて現存状況を照会し、一定期間内に回答する。他に十分な現存が確認できれば、破壊型スキャンを認める。
三、現存が僅少と判定された場合、破壊型スキャンを認めない。国がその本を買い取る。買取価格は、事業者が実際にその本の取得に支払った額とする。
ここで「適正価格」や「国が査定した評価額」としてはならない。相続税における路線価と実勢価格の乖離を見れば分かる通り、行政が独自に価格を算定した瞬間、実勢との歪みが生まれ、そこに不服と紛争と査定コストが発生する。希少本の値付けなど、行政にできるはずがない。市場はすでに値段をつけている。事業者が現に支払った額こそが、その本の実勢価格である。国はそれを追認すればよい。
四、買い取った本は、国が非破壊方式で読み取り、生成したテキストデータを当該事業者に無償で交付する。 事業者は支払った代金を全額回収した上で、目的であったデータを手にする。現物は国立図書館に永久保存され、デジタルデータも国のアーカイブに残る。
五、申告を経ずに破壊型スキャンを行った場合、および取得価格を偽って申告した場合には、十分に重い罰則を科す。特に価格の水増しは国庫を直接毀損する行為であり、売り手との通謀もありうるため、決済記録および帳簿の突合を前提とした厳格な制裁が必要である。
この設計の利点
第一に、規制対象が劇的に少ない。 破壊型スキャンを実行する主体は、数社の電子化業者とAI企業に集中している。数万の古書店が関わる取引段階を規制するより、監督コストは比較にならないほど低い。
第二に、誰の善意にも依存しない。 没案その一の致命傷は、告知した上で判断を古書店の文化的情熱に委ねてしまう点にあった。この案では、判定を行うのは国であり、義務を負うのは組織的なコンプライアンス体制を持つ企業である。文化を守る動機を持たない者にも、手続を守らせることができる。制度とは本来そういうものである。
第三に、通常の古書取引を一切妨げない。 古書店はこれまで通り、誰にでも自由に本を売ってよい。義務が発生するのは「売る瞬間」ではなく「刃を入れる瞬間」だからである。守りたい市場に指一本触れずに済む。
第四に、AI開発そのものを禁止しない。それどころか事業者は得をする。 買ってよい。読み取ってよい。学習に使ってよい。ゲートを通すのは「原本を壊す」その一点だけであり、しかも壊せなかった場合、事業者は代金を全額回収し、スキャン費用も負担せず、データだけを受け取る。つまり希少と判定された本については、事業者は実質無料でテキストを入手できる。技術の発展と文化の保存は、この設計において対立しないどころか、同じ方向を向く。
第五に、真に不可逆な地点を押さえている。 取引は事後にやり直せる。断裁された本は二度と戻らない。規制資源は不可逆点に集中投下すべきであり、これは環境規制において排出そのものを規制口とするのと同じ発想である。
第六に、罰則ではなく利得で実効性を担保している。 ここが本案の核心である。
規制の実効性は通常、違反した場合の罰則の重さで担保される。だが罰則で脅す設計は、事業者に「隠す」動機を与え続ける。監督の目が届かない場所では必ず破られる。
対してこの設計では、申告することが事業者にとって得である。申告を怠って断裁すれば、本の代金は自腹のままで、罰則の危険を背負う。申告すれば代金は戻り、データはただで手に入る。隠す動機がそもそも存在しない。 罰則は例外的な悪意に対する備えとして置いておけばよく、制度の日常的な運用は、事業者自身の利益によって回る。
第七に、没案その二の逆インセンティブが解消されている。 先に、国家が「言い値で買い取る」と保証すれば、業者が希少に見せかけた本を高値で売りつける裁定行動が生じると書いた。本案ではこれが起きない。買取額は事業者が実際に支払った額であり、それ以上でも以下でもないからだ。転売益がゼロである以上、たかる動機が成立しない。 価格の水増しという別種の不正は残るが、それは決済記録の突合という技術的な問題であり、制度設計上の構造欠陥ではない。
第八に、民間の探索能力を国家の収集に転用できる。 正直に書くが、本案には希少本の買い集めを抑制する効果はない。むしろ増やす。だがそれは欠点ではない。
国立国会図書館が、世界中の、あるいは日本中の古書店の棚を一軒ずつ調べて回ることは不可能である。予算も人員も足りない。ところがAI企業は、まさにそれをやっている。機械が夜通し発注をかけ、市場から消えかけた本を探し出している。その探索能力は、国家の収集能力を遥かに超えている。
この制度は、その能力を国庫の側に接続する。彼らが希少本を見つけ出せば出すほど、現物は国立図書館に集まり、デジタルアーカイブは厚くなる。古書を食い荒らす機構を、そのまま文化財の収集機構に転用する。 敵の力を削ぐのではなく、向きを変えるのである。
残る課題
正直に書いておくが、この案にも詰めるべき点は残っている。
外国語の希少本については、自国の国立図書館だけでは現存判定ができない。ここで没案その二との接続が必要になる。ただしそれは、まず自国語・自国内で完結する制度を立ち上げ、そこで蓄積された申告データを土台に、段階的に国際連携へ拡張すればよい。ゼロから世界規模のデータベースを構想するから絵に描いた餅になるのであって、実務から積み上げるなら射程に入る。
また、「希少」の判定基準——現存何冊以下を対象とするか、どの年代の資料までを含めるか——は、運用の要である。ここが緩ければ制度は空洞化し、厳しすぎれば産業を萎縮させる。「再現性の検証」で示した三類型、すなわち昭和二十三年以前の刊行物、納本漏れの地方出版物・私家版、少部数の非売品記録は、優先的に対象とすべき候補になるだろう。
最大の課題は財政である。第八の利点として書いた「民間の探索能力の転用」は、裏返せば国庫の支出が民間の買付行動に連動することを意味する。事業者が希少本を見つけ出すほど、国は買取代金とスキャン費用を負担する。年間の予算枠を設け、枠を超えた分は翌年度に繰り越すか、あるいは希少性の閾値を予算に応じて調整する仕組みが要る。
ただし、これは「無駄な支出」ではない。国が支払っているのは、本来なら納本制度で無償に収まっていたはずの資料を、市場価格で買い戻す費用である。納本率が八割に留まっている以上、漏れた二割を後から回収するコストは、いずれ誰かが払わねばならなかった。AI企業がそれを掘り出してくれるなら、探索費用は民間持ちである。
そして我が国に固有の難点として、越境の問題がある。外国企業が日本の古書を買い集め、国外に持ち出して処分する場合、国内法の読み取り前申告義務は及ばない。この穴を完全に塞ぐことはできないが、対策の方向は二つある。一つは、一定の希少性を満たす資料の国外持出しに届出を求める仕組みを、文化財保護法の枠組みを参考に検討すること。もう一つは、そもそも国立国会図書館の納本率を引き上げ、現存の「控え」を厚くしておくことである。後者は地味だが、AI以前から必要とされてきた課題であり、地方自治体の刊行物や地元出版社への周知は、県レベルでも取り組める。
おわりに
我が国の有権者にとって、カタルーニャ語のエッセーが世界から一冊消えることは、日々の生活と何の関係もない。それは承知の上で書いている。
しかし私は、この件から引き出せる一般原則の方に価値があると考えている。
すなわち——個々の合理的行動が集計されて不可逆な損失を生むとき、責めるべき個人はどこにも存在しない。存在しないものを探して怒るのではなく、規制の作用点をどこに置くかを設計せよ。そして作用点は、取引ではなく、取り返しのつかないその瞬間に置け。手前に一歩でもずれれば市場を壊し、後ろに一歩でもずれれば何も守れない。
この原則は、古書の話に限らない。景観、里山、地場の技術、失われる方言、そして人の記憶。一度失われれば戻らないものすべてに適用できる考え方である。
