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シェイクスピア『リア王』リアが娘を「俺の阿呆」と呼ぶのはなぜか?


1. リアが娘を「俺の阿呆」と呼ぶのはなぜか?

 シェイクスピアの『リア王』の終盤で、リアは、娘コーディリアの亡骸を腕に抱いて、「俺の阿呆が絞め殺された! And my poor fool is hang’d!」(246)と叫ぶ。娘が亡くなったことを嘆くのに、阿呆・道化を意味する〈fool〉という言葉を使うのは、いくらそれが親しい者への愛情を示す言い方だとしても、唐突な印象を受ける。
 シェイクスピア作品には数々の道化が登場するし、『リア王』にも道化役はいるが、ストーリーの上で三女コーディリアとの接点はとくにない。では、リアはなぜここで、娘に対して〈fool〉という言葉を使うのだろうか。

 『リア王』では、長女ゴネリル・次女リーガンが性悪なキャラクター。物語冒頭で、父リア王に対し、心にもないお世辞を並べ立てて持ち上げ、領土や財産を譲り受けると、リアをあっさり見捨てて敵対する。
 対して、三女のコーディリアは純粋で善良な女性として描かれる。どこまでも清らかで真っ直ぐな心の持ち主なのだが、その分、幼くてあまりにも頑ななため、嘘をついたり、おべっかをいったりすることができず、父への愛もうまく伝えられない。それどころか、本当のこと、父王が聞きたくないような真実をいってしまい、父王と決別してしまう。
 長女・次女から見捨てられ、王位を追われたリアは、狂気に陥って荒野を彷徨う。そんな父を助けにやってきたのは、異国で王妃となっていた三女コーディリア。しかし、敵の手によって、リアの前でコーディリアは絞殺され、リア王もまた、絶望のあまり息絶える。というのが大まかなストーリー。

 王や貴族に雇われて宮廷で暮らしている〈fool道化〉は伝統的に、王侯貴族の影として、彼らが立場上言えない本音を滑稽なユーモアや皮肉に紛れ込ませて発散し、停滞しがちな宮廷の人々の暮らしや思考を活性化する役割を果たしていた。きれいごとしか言えない王侯貴族に変わって、人々の感情の中に押し込められがちな悪や汚れを、笑いに紛らわせて浄化する。シェイクスピア作品に登場する〈fool道化〉はこのパターンが多い。
 また、路上で行われてきた一般市民向けの道化カーニバルや芝居も同様。道化の滑稽な振る舞い、アクロバティックな芸や皮肉を込めた風刺で、一時的に路上を非日常・祝祭空間に変え、停滞しがちな日常生活に活気をもたらし、人々の中に溜まった不満や不安といった負の感情、澱みを浄化して、健康的な循環を維持する役割を担ってきたという。

 一般的に、子どもは成長とともに社会のルールや善悪の違いを知り、場の空気を読むことを覚え、秩序や人間関係を円滑に保つために、自分が言うべきこと、行うべきことを考えて行動するようになっていく。ホンネとタテマエを上手に使い分けられるようになることが、大人になるということだ。
 程度の差はあれ、誰もが何らかのホンネとタテマエの葛藤を抱えている。そのバランスをうまくとりながら過ごしていくのが理想だが、現実にはなかなか難しく、立場や状況によって、ホンネを無理に押し殺さなければならないような場面はしばしば訪れる。
 押し殺したホンネは、心の奥深くに抑圧されて忘れられていく。無意識の領域に沈められた感情は、意識の側から消え、いつの間にか自分でも自分のホンネが何だったのかわからなくなっていく。気づけば社会や他人から求められた言葉や役割、感情を自分のものと勘違いしたまま過ごしているというケースも少なくないだろう。
 リア王はまさにこの状態。長いあいだ王として人々の上に立ち、国を治める役目を負い、その地位にふさわしい振る舞いをしてきた。それは、もともとはリアの良心や誠実さからなされたことであろうが、そうするうちに、本当の自分を見失ってしまったのが彼の悲劇の始まり。
 長女と次女は、そんなリアの状況を察しつつ、それを利用するかのように、父リアがかりそめで築いてきた王という仮面を持ち上げ、媚びへつらい、領土や財産を奪ってしまう。長女と次女は、性悪ではあるが、場の空気、父王が求める言葉を読んで、ホンネとタテマエを上手に使い分けられるという意味では(それを自分の利益のために使うのは悪いことだとしても)成熟した大人。
 対する三女コーディリアは、場の空気を読めない、読めてもそれに従うことをよしとしない、という意味で精神的に未熟な子ども。純粋すぎて、ホンネ・真実をいわずにはいられない、我慢できない、ホンネとタテマエを上手に使い分けられない、世渡り下手な、天然のお馬鹿さん、すなわち〈fool〉。(この頑なさは『キャッチャー』のホールデンと似ている)

 ユング派の研究者、河合隼雄は、道化を影・シャドウ、人々の中の抑圧された無意識の象徴だと述べている。道化は王侯貴族や一般市民が普段は口にできずに無意識に押し込めた感情の代弁者。
 リア王の長女と次女は、王がかりそめで築いてきた王という立場に気分よく居坐っていられる言葉を発する、いわばリア王の意識の側に寄り添う人たち。対するコーディリアは、リア王がそれまで無意識の側に抑圧してきた真実やホンネを明るみに出し、リアがそれまで築いてきた王としての立場・世界観・価値観を根底から揺るがせる存在。だからこそ、リアはコーディリアを「俺のfool」と呼ぶのではないだろうか。
 本作では前半、リアの前からコーディリアが去ると、道化が現れ、リアの前から道化が消えると、コーディリアが現れる。作品が書かれた当時は、コーディリアと道化は、同じ役者によって演じられたという。それは、両者がリアのホンネや無意識を代弁する〈道化fool〉であり、リアの影・シャドウである、まさにそのことが、この物語の鍵であるとシェイクスピアがある程度意識したうえで描き、上演された戯曲だからではないだろうか。

2. リアが殺された娘の顔に鏡をあてるのはなぜか?

 コーディリアの亡骸を抱いたリアは、「こいつは永遠に/逝ってしまった」と娘の死を悟ると、「鏡をよこせ/息で面が曇るか霞むかすれば/ああ、そうなら、生きている」(242)と口元に鏡を当てて、息をしていないことを確かめる。このしぐさに込められた意味は何だろうか。

 前述のように、『リア王』において、長女と次女はリアの意識の側に寄り添う存在。対する三女はリアの無意識の代弁者と読める。言い換えれば、長女と次女は大人としてふるまうリア、理性的リアに寄り添う者。対するコーディリアは、リアがかつて持っていた、今は忘れたことになっているが実は無意識の奥底に抑圧されている子ども心の代弁者、本能的リアの象徴。
 王として、周囲から持ち上げられ、その上にあぐらをかいて生きてきたリアは、戯曲の冒頭で、コーディリアの言葉によって、自らが長年無意識に抑圧してきた真実——家臣や長女・次女が自らの欲望のためにいうお世辞と、心から真に彼を愛している者から出る言葉の違い——を突き付けられる。うすうす気づいていたけれど、自分に都合が悪いから気づかないふりをしてきたこと、無意識に抑圧してきたことを指摘されたとき、図星を指されたときほど腹が立つのが人間というもの。だからこそ、リアは激高してコーディリアを突き放してしまう。
 
 神話ではしばしば、子どもは王子、大人(父)は王に象徴される。領土は自分の精神状態の表象であり、それを治める能力を持つ王になることが大人になること。神話に倣うシェイクスピア作品も、同じようにあてはめて読むことができる。
 リアは一国の王として、私利私欲のためというよりはむしろ国民のためにこそ自分のホンネを隠し、善かれと思って偽りと思えることもいったりやったりしてきた。善き王であろうとして自らの〈fool〉な部分、馬鹿さ、弱さ、本能的な欲望や汚れ、我がままといった、国民のためにはならないであろう感情を抑圧し、賢く正しく理性的であろうとしてきたはず。しかし、そうしているうちに、いつの間にか、そもそも自分が本当はどう思っていたのか、自分のホンネを見失ってしまった。
 これは、多かれ少なかれ、ある程度年齢を重ねた人なら誰もが日常的に行っていることであり、陥っているジレンマだ。ホンネを抑圧することが習慣になってくると、自分でさえ自分の本当の気持ちがわからなくなってしまう。それは、自分が本当はどういう人間なのか、そもそも何に生きる喜びを見出していたのかを見失うことだ。
 
 翻訳者の松岡和子氏は『リア王』のテーマは「know+人」人を知ることなのだと述べている。
 リアは、「俺を知っている者はいないのか?」「誰か教えてくれ、俺は誰だ?」と問う。これを引き継ぐ、あるいは反転するようにして、荒野で再会したグロスターはリアに、「わたくしがお分かりですか」と問い、リアが「お前のことはよく知っている。お前の名はグロスター」とこたえる。この場面がひとつのクライマックスなのだと、松岡氏はいう(『深読みシェイクスピア』、新潮社、平成28年)。
 正気=意識=理性を喪失して、狂気に陥り、荒野=無意識の中を彷徨いながら、リアは徐々に、コーディリアこそ、自らが遥か昔に抑圧した、清らかで純粋な子どものような心を体現する者だと気づいていく。
 その過程は、荒野で盲目になったグロスターと再会し、彼が本当は誰なのかを伝えてやることによって、暗闇=無意識世界にいるグロスターが真の己を発見する姿を目撃することによって、その様を鏡写しに自らの自分探しに投影させることによって、見失っていた真の己を発見する、という場面に集約される。
 世界を自分の心のままに感じ取り、思ったままを口にする、馬鹿だけれど、生きる喜びに満ちた美しい命の源泉。長年忘れていた、かけがえのない大切なもの。コーディリアが体現する、自分の無意識。理性やタテマエ、大人社会の常識や秩序なんか知らなかった頃の、本能のままに感じ、我がまま放題に生きていた幼いころの自分、忘れていた自分の中の〈fool〉。
 それこそが、「俺は誰だ?」というリアの問いに対する答えなのではないだろうか。
 
 だからこそ、リアはコーディリアの死を悟ったとき、鏡を持ち出し、そこに娘の顔を映し、口元に当てて生命の息吹を確かめようとするのではないだろうか。リアはここで、娘を通して、無意識に抑圧してきたもう一人の自分〈哀れな俺の阿呆my poor fool〉の姿を見極めようとしているのではないだろうか。王になったときに抑圧し、忘れてしまった純粋な自分を見ようとしているのではないだろうか。
 〈poor〉は、表面的にはコーディリアを憐れむ言葉だが、深層では、長年抑圧してきて顧みなかった、自分の中にいるもう一人の自分を思いやる気持ちから出た言葉なのではないだろうか。
 しかし、リアが「俺は誰だ?」という問いの答えを見つけたときには、コーディリアはもう死んでいる。娘の死とともに、リアは自分の無意識の底に長年抑圧して見失っていた純粋無垢な心、やっと取り戻したかに思える生きる喜びも死んでしまったことを思い知る。
 リアの「俺の阿呆が絞め殺された!」という嘆きには、娘の死を嘆くのと同時に、自分の中の真実、リア自身が生まれたばかりの頃に持っていたはずの本能的な生きる喜びや純粋無垢な心が死んでしまったことへの悲しみも込められているのではないだろうか。
 
 〈道化fool〉は、狂気に陥ったリアを、「王様狂って、いないいないばあ/とうとう阿呆の仲間入りThat such a king should play bo-peep/And go the fools among.」(54)と茶化す。シェイクスピア作品では、狂気に陥ることは、鏡を見て自分といないいないばあをすること、ナルキッソスになること、さらに、道化・阿呆・foolになることとイコール。
 「バナナフィッシュ」読解で見たように、神話において鏡を見つめるナルキッソスは、エゴが膨れ上がった未熟者で、鏡像に囚われて死ぬ運命にある。
 シェイクスピアは『お気に召すまま』で、ナルキッソス神話に囚われた若者の狂気をコミカルに描いている。
 前半でオーランドーが「自分の若い力を試そうとしているだけです」(30)といい、「母なる大地に抱かれて寝たがっている粋がった若いの」(31)といわれるなど、永遠の少年であることが示される。そのうえで、中盤、恋の狂気に陥ったオーランドーをからかって、ジェイクイズが「実は、さっき私は阿呆を探していたんだ、そうしたら見つかった、君がね」というのに、オーランドーが「阿呆なら川で溺れてますよ、のぞいてご覧なさい、見えるから」と返し、ジェイクイズ「のぞいて見えるのは私自身の姿だろう」オーランドー「つまり阿呆だ」(松岡和子訳、ちくま文庫_108)と答える。
 シェイクスピアがここでナルキッソスを意識していたことは間違いなく、ならば『リア王』で鏡に映ったおのれの姿、阿呆を見て死ぬリアは、ナルキッソスと同じ、永遠の少年だということだ。これは、リアが幼児返りしている姿が繰り返し強調されていることとも結びつく(この詳細は改めて)。
 鏡を見る者、鏡に映る者は〈道化fool〉。自分の本来の姿を見失い、狂気に陥って、「俺は誰だ?」と自分探しを始めるリアもまた道化。そんな未熟者は、神話の中で象徴的に死に、弱さを浄化し、生まれ変わらなければならない。だからリアは鏡を見て絶望し、絶命する。
 〈息〉やそれとともに発せられる〈声〉もまた、神話で生命の象徴として描かれてきたモチーフ。だからこそ、サリンジャー作品の登場人物たちは、しばしば息苦しさを訴え、あるいは、精霊のように息を吹き込もうとする。これについては改めて。
 
 「バナナフィッシュ」で、戦地から帰って来たシーモア=戦後精神を病んだサリンジャーもまた、リアがコーディリアの亡骸に鏡を当てたように、自分の姿を鏡に映し、「俺は誰だ?」と問いかけたのではないだろうか。そして、鏡の中に自らの〈fool〉を見たのではないだろうか。
 そこに映ったのは、戦地で敵を悪と信じ、憎しみを込めて銃を向けたときの汚れた記憶か。あるいは、戦地で封じ込めていた、本当は誰も殺したくないし自分も殺されたくないという恐怖、弱さや純粋さだろうか。戦地の地獄を目の当たりにしたときのおぞましい記憶、もしくは、敵は本当に悪なのか、自分は本当に善なのかという疑問だろうか。あるいは自分に嘘をつき続けた結果、そこに映っているのはもはや自分の抜け殻でしかないという絶望だろうか。
 そんなことに思いを巡らせながら、「see more glass?」という問いかけからはじまる「バナナフィッシュ」を読んでみると、新しい意味の広がりがあると思う。狂気に陥り、鏡を覗き込んで「誰か教えてくれ、俺は誰だ?」と自問自答するシーモア・グラスという名の男は、嵐の荒野を彷徨うリアと重なるし、シーモアが「大勢のバカ者ども〈a lot of fools〉にいれずみを見られるのはいやだ」(20)ということの意味は、ぐるりとまわってシーモア自身に返ってくる。こちら側にいる自分の実像と、鏡の中の〈fool〉との絶え間ない対話、善と悪の揺らぎと分断に耐えきれなくなったとき、リアが絶望のなかで息を引き取ったように、シーモアは銃の引き金を引いたのかもしれない。


上記は[10_バカは誰か?_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』考察]とあわせて読むことでより深くお楽しみいただけます。ぜひ、下記もご覧ください。

※こちらのマガジン〈サリンジャー×シェイクスピア読解〉では、J.D.サリンジャー作品を読み解くにあたり、押さえておきたいシェイクスピア作品の解釈を掲載しています。他のサリンジャー読解ともあわせてお楽しみいただければうれしいです。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

■参考文献
『影の現象学』河合隼雄、講談社学術文庫、1987年
『道化の民俗学』山口昌男、ちくま学芸文庫、1993年
『道化と錫杖』ウィリアム・ウィルフォード、高山宏訳、白水社、2016年

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