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一人イルミを見た夜、昔書いた恋愛小説を引っ張り出したが酒の肴にならなかった話【エッセイ】

今晩は。 もういくつ寝るとクリスマスイブですね!
土曜日に都内で懇親会があったので、帰りに脳みその整理も兼ねて東京駅に寄り、大好きなCity Bakeryでコーヒーとキャロットケーキをいただきました。美味! 最高! やっぱり土曜最高!!

で、もう一つの目的がクリスマスイルミネーション。
ご存じの通り、大手町・丸の内一帯はイルミネーションが大変奇麗です。潔くシャンパンゴールド一色。それが重厚な建物群と相まって雰囲気抜群。
道を行きかう観光客や家族連れ、すごく嬉しそうな着飾ったカップル、ウエディングフォトを取る人々の合間を縫いながら、私は長いコートの裾をひらひらさせながら一人で楽しく歩きましたとさ……という話ではなく、御幸通りを歩きながらふと思い出した、若かりし頃のイルミネーションのほろ苦い思い出をエッセイで綴ろうと思います。

※  ※  ※

マイペースなたちである。
加えて、昔から一人でどこへでも行けるたちだった。
友達とどこかへ連れだって行くのはとても楽しい。
けれど、気になる豚骨ラーメン屋、6時間耐久カラオケ、マキマさんみたいに一日映画漬け、ジェームズボンドに憧れマティーニを飲んでみたくてバーに突撃……みたいに、相手の都合を気にせず一人で大変充実した時間を過ごすことができた。ディズニーシーだって一人で行った(笑)
そんな私が大学時代、どうしても一人で行けなかったものがある。
それが、恋人がいない時期のクリスマスの時期のイルミネーションだった。
より正確に言えば、たとえ友人や家族に誘ってもらっても行けなかった。
ごく当たり前の事実だが、別にクリスマスは恋人の専売特許のイベントもないし、イルミネーションは恋人同士のために街を照らしているわけではない。
それでも、美しいイルミネーションの下をカップルが肩を寄せ合いくすぐったそうに笑いあう横を、お気に入りのコートの中で寒さで首をすくめつつ足早に通り過ぎるのはたまらなく惨めで、街全体から
「おまえはお呼びじゃないんだぜ。帰んな」
とせせら笑われているような心持ちになったものだ。
そんなわけで、私はイルミネーションの煌めきが視界に入らないよう夕方までに帰宅するようにしていたし、たとえ家族に笑われようと
「家から出たら負けだから!」
と必死で屁理屈を捏ね、クリスマスが終わるまで授業と必要最低限のバイト以外は一歩も家から出ないようにしていた。
……で、ようやく25日になると、冬眠から覚めた動物の気分で待ってましたとばかりに街に繰り出すのである。25日はクリスマス関連商品がセールになっていて、安い(笑)特に、クリスマスの食べ物や飾り付け系はたたき売りである。
そんな、残り香になったクリスマスなら心置きなく家族と無邪気に笑いながら「これ買っちゃおう~~」と楽しめたのだ。
今、改めて往時を思い返すにつけ思うのは
「わたしは一体、何をそんなに気にしていたんだ?!?!」と言うこと。
これぞ自意識過剰そのものである。
年齢を重ねたいま、仮に同じ心境と境遇にあったとしても、開き直って一人居酒屋や友人とのバー巡りをして、帰りにクリスマスイルミを堪能する自信は、ある。
人生は必ずしも恋だけにあらず。仕事もあり、友人もあり、勉強もあり、家族もあり。そもそも恋人がいたとしても必ずしもイルミネーションを見る必要はない。年齢を重ねた分だけ、さまざまにバランスをとれるようになり一人の人間として確かに成長してきたから、という見方もできよう。

さて帰宅後、玄関でパンプスを脱ぎつつある試みを思いついた。
せっかく若いころを思い出したんだし、断捨離を兼ねて古いデータから当時書きなぐった恋愛小説(とすらいえないもの)を引っ張り出して、手作り梅酒の酒の肴として読んでみよう……という、酔っ払いゆえの試みである。
とはいえ、私は昔も今も、実存する知人をモデルに小説を書くことはない。あくまで実体験から私が自分の体をフィルターにして吸い上げた感情のエッセンスを数滴垂らして書いた、未完の架空ファンタジー恋愛小説である。
で、読んだ結果、どうなったかって?
ーーーーあまりに下手すぎて酒の肴にすらならなかった。酔いも覚めた。
でも、全身に鈍く重い衝撃を受けた。
酷い文章全体から染み出てくる「数滴だけ垂らした感情のエッセンス」がーー若い私の、吹き出すような強く痛い感情だったからだ。
そもそもなぜそんなにイルミネーションを一人で見るのが逃げ出したいほどに辛かったのか?その理由がまざまざと瞼の裏に浮かぶ。
それは私に
「誰かと見あげたイルミネーションが何よりきれいに思えた時期があったから」であり「一緒に見たい相手とイルミネーションが見られなかったから」という事実があったからである。
今から考えると信じられないほど不器用で下手糞で、失笑そのものではあるのだが(結果はともあれ)一生懸命、誰かに心を寄せた時期が確かに存在したという紛れもない事実を突きつけられた。
仮にもし、当時より執筆技術が多少は向上した私が「同じ題材で小説を書け」と言われたとしよう。果たして、自分自身を切り裂くような切実さで恋を書けるだろうか?
正直、私は自信がない。
大人になることは、さまざまな経験を通じて視野が広く、かつ複層的になることであり、何か一つの要素に依存しなくなることでもあると私は思う。
一方で、「もうこれしかない」と思い詰めるほどの悲しいほど純粋な感情を、迫りくる現実の中で日々、冷めた目で自分を見つめて実現可能な別の形に変換し、事務的に処理してゆくことだとも思っている。そして、私はそれがうまい方だとも。
しかし、その厭らしい器用さは小説という手段を使い、狂おしいほど強い感情を表現してみたいと願う私にとって、果たしてプラスにだけ働くのだろうか?
「仮に年を重ねても、生まれ持った感受性は摩耗しないから安心して書いていい」と、ありがたい励ましてもらうこともある。
確かに、摩耗しないどころか、大人になったことでより感受性に深みが出た面もある。
が、偽らざる体感として、恋に関して言えば間違いなく日々摩耗しているように感じるのだ。というより、ふと後ろを振り返った時に、あれほど赤々と燃え盛っていたはずのろうそくが「えっ?こんなに小さくなってた?!」と驚くような感じ、という言い方がいいだろうか。かつて自分が間違いなく持っていたあの感情を、完全に消えてなくなるまえに、せめて氷漬けにして形を残しておきたい。
焦りにも似た感傷を感じたまま、PCの電源を落とした。

(了)





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