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3日目:Museo de Navarra(ナバラ博物館)01/ピレネー山脈縦横断記#14

Museo Diocesano(司教区博物館)を出ると、石畳に白い光が差し込んでいた。背後の大聖堂の塔が影を落とし、鐘楼の小さな鐘が風に揺れてかすかに鳴っていた。通りはまだ静かで、商店の扉も閉じられたまま。大聖堂の中で嗅いだ蝋燭の香りが衣に残り、聖母像の青い衣の余韻が頭に浮かんでいた。

「このまま旧王宮(Palacio de los Reyes de Navarra / 現ナバラ公文書館)へ向かいますか?」アイトールが口を開いた。

「いや、その前にMuseo de Navarra(ナバーラ博物館)を訪ねたい」

「博物館が有るんですか?知らなかった」

僕は頷き、坂を下る方角を指さした。

「さっきのMuseo Diocesanoは大聖堂の一部で、宗教美術と典礼品に限られていた。あれは“信仰の記憶”を集めた館だった。対してナバラ博物館は、地域全体の歴史を映す。先史時代からローマ、中世の王国、そして近代や現代に至るまで、土地に残された痕跡を時代順に並べている。つまり、ひとつは教会の記憶を示し、もうひとつは王国と地域の記憶を収めているんだ。二つを続けて訪ねることで、この土地を形づけた二つの筋がどう交わってきたのかが見えてくる」

アイトールは感心したように笑みを浮かべた。

「行きましょう!とても興味深い。あなたから伺うお話も新鮮で驚くことばかりです」

「はは♪もう少し驚いたほうがいい」

少し歩くと、すぐに旧市街の骨格を形づくる路地に入った。大聖堂の前庭は小広場になっており、そこからはカジェ・クルシア(Calle Curia)が南へ伸びている。この通りはかつて司祭や書記たちの住居を並べた一画で、大聖堂と都市の生活を結ぶ動線でもあった。

だんだんと道は狭まり、石畳の傾斜が再び強くなる。右手に折れればカジェ・デル・カルメン(Calle del Carmen)に入り、谷に沿って下る道筋になる。アルガ川に近づく方向で、城壁の足元に至る。逆にそのまま直進すれば、旧市街の中軸にあたるカジェ・マジョール(Calle Mayor)へと通じ、城壁内の最も活気ある通りに至る。

市街の区画は高台を利用して縦横に整理され、北の城壁から南の城門まで視線で追える。城壁沿いの道は傾斜を抱き込みながら延び、外部の谷や河川と都市を結びつけている。歩いてみると、地形と街路の配置が不可分であることが理解できる。

少し先にアルチボ・デ・ナバラ公園Parque Archivo de Navarra( C. Dos de Mayo, 11, 31001 Pamplona, Navarra)が有った。
「この辺りはナバラ王宮の跡だ。いまはナバラ文書館Archivo General de Navarra(AGN)が置かれている」

そばに17世紀のサン・フェルミン・デ・アルダパ礼拝堂glesia de San Fermín de Aldapaが有った。

「こうした王宮跡と大聖堂が高台の同じ地に並ぶ配置は、都市の中心機能を集約するためのものだった。この立地が防御に適していただけでなく、行政と宗教の両権力を集める基盤でもあったからだ。

ここで貴族たちが集まり、国のかたちを定めていった。大聖堂と背中合わせになっているのも象徴的だ。政治と信仰が切り離せない関係だったからね」

アイトールが静かにうなずいた。

そして城壁の斜面に沿って続く石段の向こうに、かつて病院として建てられた重厚な建物が見えてきた。それがMuseo de Navarraだ。正面のルネサンス様式の門が陽光に照らされ、訪れる者を迎えるかのように立っていた。

 

ナバラ博物館の建物は、もとは16世紀に「慈悲の聖母病院」として建てられた施設だった。病者や巡礼者を受け入れてきた場であり、その正面入口にははルネサンス様式の門が残り、当時の都市における慈善と信仰の役割を今も語っている。1956年に改装されて州立博物館となってからは、ナバラ全体の歴史を収める役割を担ってきた。

展示は四階構成で、先史から現代までを時系列で追う形になっている。旧石器時代の遺物やアバウンツの地図に始まり、ローマ期のモザイクや彫像、中世ナバラ王国の宝物、近代絵画や現代彫刻にまで至る。つまり一つの宗教施設に収蔵品を限定するのではなく、土地そのものの歩みをまとめ上げる「歴史の倉庫」として設計されている。

特徴的なのは、この博物館が単なる考古や美術の展示にとどまらず、王国としての記憶を含めてナバラという地域を丸ごと見せている点だ。地母神信仰の痕跡を伝える先史の出土品、ローマ属州としての繁栄を示す工芸、中世の王国とモスレム文化の接触を証する象牙小箱、そしてバスク語の源流を刻む青銅の「イルレギの手」。それらを通して「ナバラ」という土地は単なる地方ではなく、独自のアイデンティティを保ってきた領域として描こうとして建立した博物館だ。

 

館内へ一歩踏み入れると、最初に迎えたのは先史時代の展示室だった。照明は控えめで、壁際に並ぶガラスケースの中に石器や骨片が置かれている。黒い石の刃物の鋭い縁が、いまだ人の手を離れたばかりのように光っていた。

「これは石器時代のものですね」アイトールが立ち止まりながら言った。

僕は頷いた。展示室の中央に、ガラスケースに収められた骨格が置かれている。

「そうだ。ここナバラの山間にも、人は一万年以上前から暮らしていた。その証拠のひとつが『ロイヅの人骨』だよ」

その人骨は2017年11月、ErroのAintzioa-Loizu地区にあるErrotalde I洞窟で発見された。洞窟探検グループが調査中に、入口から約200メートル奥、狭い通路を進んだ先で見つけたものだ。約11,700年前、紀元前9700年頃のホモ・サピエンスの骨格で、保存状態はスペインでも例がないほど良好とされる。

遺体は仰向けに寝かされ、両腕を胸の上で組んだ姿勢で残されていた。自然に崩れたのではなく、意図的に安置された形跡と見られている。頭部には穴があり、死因に関わる外傷と考えられている。

「安置された、ということですか?」アイトールが問いかけた。

「その可能性が高い。単なる偶然の堆積ではなく、儀礼的な埋葬と解釈されている。発見後は国際的な研究チームが組織され、骨や歯のDNA解析、食生活や病歴の調査が進められている」

アイトールはしばらく骨格を見つめていた。

「道具や壁画とは違って、人そのものが当時の痕跡を残しているわけですね」

僕は頷いた。
アイトールは『ロイヅの人骨』を見つめながら言った。

「彼らが、私たちバスク人の祖先なんでしょうか?」
僕は少し間を置いて答えた。

「学者たちの間でも、はっきりした結論は出ていない。ただ、この地に旧石器時代から人が暮らしていたことは確かだ。ロイヅの人骨のように、ピレネーの山あいで発見された遺骸は、その後も断続的に定住が続いてきた証拠とされている。だから、後世に登場するバスク人の系譜をここまでさかのぼる考え方はある」

アイトールは首をかしげた。

「でも、バスク人の言葉『エウスカラ』はインド・ヨーロッパ語族じゃないですよね」

「そうだ。言語学から見ると、ヨーロッパの他の民族とはつながりが見えにくい。だからこそ『先住の人々の言葉が残ったのではないか』と考えられている。ロイヅの人骨を見つめながらそう思うと、この骨はただの遺骸というより、今も続く文化の長い道の始まりを示しているように見えるんだ」
僕はケースの白い骨に目を戻しながら言った。

「エウスカラ、つまりバスク語は、ヨーロッパのなかで孤立した存在だ。他の言語のようにラテン語やケルト語から派生した痕跡が見つからない。インド・ヨーロッパ語族の広がりより前に根づいた言葉が、今まで生き延びていると考えられている」

アイトールが少し笑った。

「私たちは『エウスカルドゥナ(Euskalduna)』と言います。直訳すれば『エウスカラを話す者』です。民族名も言葉と一体なんです」

僕は頷いた。

「その自己呼称は大事だ。外からは『バスク人』と呼ばれてきたけれど、当人たちはあくまで自分の言葉を基盤にした共同体として生きてきた。ローマ時代の記録に出てくる『ヴァスコネス(Vascones)』という名前は外部からの呼称で、支配者の文書に記された民族名にすぎない。けれど、言葉そのものは支配の枠を超えて残り続けた」

アイトールはガラス越しの頭蓋骨を見つめていた。

「つまり、この骨を残した人が直接の祖先かはわからなくても、土地に暮らし、言葉を継いできた人々の連続の一部と見なせるわけですね」

僕は静かに答えた。

「そう思う。この谷と山に住み続けた人々が、言葉と風習を守りながら暮らしてきた。だからこそバスク語は、ヨーロッパで最古の生きた言語と呼ばれることがある」
アイトールは骨を見つめながら、言葉を選ぶように口を開いた。

「民族を定義するのって、やっぱり言葉なんでしょうかね。血や骨じゃなくて」

僕は彼の問いを受けて少し考えた。

「そうだな。考古学が示すのは、道具や骨や埋葬の跡だけど、それで民族を断言することはできない。だが言葉は違う。ある共同体が自分たちをどう名乗り、どう互いに通じ合っていたかを映す。エウスカラという言葉が残ったからこそ、外部から『ヴァスコネス』と呼ばれようと、『バスク人』と分類されようと、彼らは自分たちを見失わずにきた」

アイトールはうなずきながら続けた。

「だからこそ、境界を越えても言葉を守ることが、民族であり続ける条件なんですね。山を越えて交易に出ても、谷を移り住んでも、エウスカラを話す限り『エウスカルドゥナ』であり続けた」

「その通りだ」と僕は言った。

「民族というのは血統や骨格だけでは測れない。むしろ境界に立たされたとき、言葉をどう守るかによって形づくられる。ローマ帝国の街道が敷かれ、キリスト教の布教が進み、のちにはカスティーリャやフランスの勢力に飲み込まれていっても、言葉が残る限り共同体の境は曖昧にならなかった」

アイトールは小さく笑った。

「じゃあ、この骨を見つめる私たちも、どこかで言葉を通じる仲間を探しているのかもしれませんね」

僕は視線をケースに戻しながら答えた。

「そうかもしれない。民族の境界は山や川で決まるんじゃない。人が交わす言葉の中に線が引かれるんだ」

アイトールが「ロイヅの人骨」を何度も振り返り、少し言葉を飲み込むようにしてから僕の横に並んだ。僕らは先史展示を後にし、扉を抜けて次の部屋へ進んだ。

そこは一転して明るさが増し、石の冷たさよりも色彩の豊かさが支配する空間だった。床一面に広がる大きなモザイクが視界を占め、葡萄の蔓が絡み合う背景に、酒神バッカスの凱旋が描かれていた。白や赤、深い緑を組み合わせた小さな石片が、果実のふくらみや葉の陰影を驚くほど精緻に表現している。中央には四輪の戦車に乗った神の姿があり、その周囲にはサテュロスやメナデス、さらに豹や虎といった異国風の動物が従っている。

アイトールは足を止め、床に広がる葡萄の文様を目で追った。
「ローマが来る前からこの地は葡萄が産業として成立していた。広大なエブロ平原があるかにな、カルタゴの周辺で農業地帯としてあの文明を支えたんだ。小麦や大麦そして葡萄だ。ワインを作るための葡萄は、フェニキア人が遥か東、地中海の外れから北アフリカを経由して運んできた。それが地元種と荒廃してイベリア産の耐寒冷種葡萄になったんだよ。これらがリオハ地方やエブロ渓谷沿いで花開いた。ちなみにこうした葡萄を持って帰り、ピレネーの向こう側で葡萄畑を作ったのは、カルタゴの戦いで徴兵された外人部隊の退役兵だ」

「イレルギーですか?パンプローナの葡萄がピレネーを越えて外人部隊の手で運ばれたんですか?」アイトールが言った。

「ん。向こう側・地中海北岸では、イタリア半島にある温暖種の葡萄は育たなかったからな。退役軍人たちの努力が西ガリアにワイン文化をもたらしたんだよ。その原点がここにある」

「葡萄の伝搬は、歴史そのものを打つ下しているんですね」はローマ人にとって、ただの作物じゃなかったんです

僕はうなずきながら答えた。

「そうだ。葡萄栽培は最も利益率の高い農作物だからな。そして文明の豊かさを示す印だった。ここナバラでもローマ時代になると葡萄栽培が導入され、酒は交易と宗教儀礼を結ぶ重要な要素になった。このモザイクは、ただ神話を飾る装飾というより、地方に暮らす人々がローマ世界の価値観を共有していた証拠でもある」

アイトールは視線を落としたまま、床の上に描かれた戦車の輪郭に沿って歩いた。

「先史の骨から、この豪華なモザイクへ……。同じ土地で、人間の生き方がまるで変わっていくのを見せられているみたいです」
アイトールは目の前の大きな文様の入ったモザイク板を指した。
「大きいですね……これが一枚の床なんですか?」アイトールが言った。。

「そうだ。アンデロスというローマ都市の邸宅から出土したものだ。宴会の場に敷かれていた。葡萄と酒を神格化した図柄は、この土地でワイン造りが重要だったことを物語っている」

アイトールはモザイクの一角に目を止めた。

「ここに描かれている人物、皆どこか同じ方向を向いていますね」

「凱旋の進行を表しているんだろう。視線や歩みの統一は、宴に集う者たちへ“秩序”を示す意味を持っていたはずだ」
僕らは展示室の一角に置かれた大きなアンフォラの前に立った。

「見てごらん、アイトール。この壺は軍が食糧や酒を運ぶために使ったものだ。第二次ポエニ戦争が終わったあとも、イベリア半島は平和にならなかった。ヴァスコネスやケルティベリア人をはじめ、部族ごとに勢力を競い合い、互いに戦を繰り返していた。ローマがここへ軍を進めたのは、その群雄割拠を抑えるためだったんだ」

アイトールはうなずき、壺の表面を見つめた。

「なるほど。だから軍の駐屯が、ただの戦時ではなく、長期の統治の仕組みに変わっていったんですね」

「その通りだ。紀元前七五年、ポンペイウスがセルトリウスとの戦いのさなかにここを拠点にした。アルガ川の段丘は峠道の出口を見張るには格好の位置で、ヴァスコネスの領域とケルティベリア人の地を結ぶ要でもあった。軍営は方形の区画に兵舎や倉庫を備え、やがて石の城壁や公共施設へと置き換わり、都市『ポンパエロ』が生まれた」

「あ。やはりセルトリウスとの戦いがあるわけですね」アイトールが言った。

「ん……しかし、この博物館に『セルトリウスとの戦い』を直接示す展示はない。おそらく『セルトリウスの反乱』は、ローマにとって触れるべきではない題材だったのかもしれない」

「そうなんですか?」

僕は展示ケースの鉄片から目を離し、少し声を落として答えた。

「そうだ。セルトリウスはもともとローマの将軍だったが、ヒスパニアに渡り現地の部族──ヴァスコネスやケルティベリア人──を味方につけた。反乱者でありながら、地元の支持を得て正規の軍団に匹敵する力を築いたんだ」

アイトールは首をかしげた。

「だからローマは、あえて触れないんですか」

僕は頷いた。

「帝国の公式な歴史では、セルトリウスは“ならず者”に過ぎない。だからこの博物館のようにローマ文化の受容を強調する場では、彼の名や戦いは正面から語られない。ただ、考古学的な出土品──剣や槍、そしてこの都市構造そのものが、その戦乱の余韻を静かに物語っている」

アイトールはガラス越しの剣片を見つめた。

「表に出てこない戦いの記憶が、こうして形を変えて残っているんですね」

僕はゆっくりと頷いた。

「そうだ。碑文や記録が沈黙していても、都市の起源や遺物に痕跡は刻まれている。どれほどの業績を残しても、中央に受け入れられなければ正史には残らない。だからこそ、僕らは展示の隙間からもうひとつの歴史を読み取らなければならないんだ」

 

僕は隣に展示された石柱に手を向けた。

「ローマの里程標だ。数字で距離を刻むことで、部族社会の曖昧な境界は帝国の計測によって塗り替えられた。ヴァスコネスの牧地も、ケルティベリア人の村も、やがてこの石柱の間隔の中に組み込まれていった」

「エスピナル Espinalの村役場で見たのと同じですね」

アイトールは目を細めて小さく言った。

僕は頷いた。

「そうだ。秩序という名の下で軍事と行政が重なり、文化が流れ込んだ。その過程を、このモザイクや石碑が今に伝えている」

 

さらに奥へ進むと、一体のブロンズ像が展示されていた。トガをまとった人物の立像で、当初は成人男性と考えられていたが、調査の結果、10〜12歳の少女の像であることが判明した。

アイトールが驚いたように声を上げた。

「少女だったんですか。どうしてそんな間違いが起きたんでしょう」

「姿勢や衣の形から長く“男性の像”と考えられてきた。しかし骨格や体型の比率を詳しく測定すると、若い少女の特徴と一致したんだ。発見から半世紀以上を経て解釈が改められた例だ」

アイトールは像の顔をじっと見つめた。

「なるほど・・ローマの彫像でも、私たちの先入観で見方が変わってしまうんですね」

僕は頷いた。

「そういうことだ。ローマ期の遺物は、当時の社会構造や価値観を映す資料だ。この展示室を歩くだけで、属州としてのナバラがどのように組み込まれていたかが見えてくる」

 

次の部屋に入ると、大きなガラスケースの中に都市模型が広がっていた。白い石で象られた城壁、碁盤目の街路、交差点に設けられた公共広場。その配置は一目でローマの軍営由来の都市構造だとわかるものだった。

僕は模型に手を差し伸べて言った。

「見てごらん、アイトール。これが『ポンパエロ』、つまりパンプローナの原型だ。軍営がそのまま都市に成長していく過程を示している。最初は方形のカストラ。そこに兵舎や倉庫が並び、やがて石の壁が築かれると、公共浴場や神殿が置かれた。整然とした道の交差は、軍事の秩序が市民生活へ転用された証拠なんだ」

 

アイトールは模型の中心部に目を落とした。

「十字に交わる道が、都市の骨格になっているんですね」

「その通りだ。ここが『カルトロ・マクシムス』と『デクマヌス・マクシムス』、つまり縦と横の幹線だ。二本の道の交点に広場が置かれ、政治や商取引が行われた。軍の規律がそのまま市の秩序に転じたわけだ」

アイトールは模型の周囲を歩きながらつぶやいた。

「戦いから生まれた街が、その後の人々の生活を支える形になる……不思議な連続ですね」

僕は小さく頷いた。

「まさにそれだ。セルトリウスとの戦乱という影が、都市の始まりを刻み、そしてローマ的な秩序がこの土地に根を張った。だからパンプローナは単に軍事拠点だったのではなく、やがてナバラの歴史を支える中心になっていったんだ。しかし・・ローマは去る。そして、去った後も街は残る」


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白石誠 無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました