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中世のボルドー:河口都市から海洋交易都市へ/ボルドーのワインとその歴史#04


西暦五世紀、ブルディーガラ(Burdigala)はローマ属州アキタニア・セクンダの中心都市としての地位を確立していた。ガロンヌ川の下流に開けた港は内陸と大西洋を結び、属州の行政・経済の要であり続けた。しかし、西ローマ帝国の衰退はこの地にも影を落とし、帝国直轄の行政機能は急速に萎縮していった。街に駐在する官僚の数は減り、駐屯軍も縮小され、遠く首都ラヴェンナから届く命令は遅れがちになった。

帝国の統治力が低下すると、ガロンヌ流域の防衛も難しくなる。沿岸や河口は外敵の襲撃にさらされやすく、ローマに代わる軍事的支えが求められた。そうした空白の時期に現れたのが西ゴート人である。

彼らは黒海北岸から移動を重ね、アルプス西方へ進出しながら、ローマと戦争と講和を繰り返しつつ定住地を探し求めていた。418年、皇帝ホノリウスは懐柔策として西ゴート人と「フォエデラティ(foederati)」条約を結び、アキタニア第二管区への入植を認める。条約によって、西ゴート人はトゥールーズを拠点に、ガロンヌ川下流域や大西洋沿岸の防衛と管理を担うことになった。

こうしてブルディーガラは、戦いによって奪われたのではなく、弱体化した帝国の統治を補うための守備拠点として、西ゴート王国の勢力圏に自然に組み込まれていったのである。

西ゴート人の入植は、ブルディーガラの市民にとって突発的な政変というより、日々の延長線上にあった。

ローマの官吏や兵士の姿が減る一方で、代わりに異国風の装備を身につけた西ゴートの兵が港の監視や城門の守備に立つようになった。彼らはまず港湾や河岸、城壁の防備といった軍事面に関与し、徴税や市場の監督など、市の生活を支える役務にも加わっていった。

港の様子はほとんど変わらなかった。ガスコーニュ湾沿岸の塩や魚、ランド地方の森林資源、内陸部の葡萄畑からのワインは依然としてここに集まり、ガロンヌ川を経て内陸へ、あるいは外洋へと運ばれた。積み荷を記録する板札や倉庫の印章がローマの鷲章から西ゴートの意匠へと変わったことを除けば、港で働く人々の仕事は変わらなかった。

城壁や城門、街路網はローマ時代のまま保たれ、フォーラム跡は市場や集会の場として使われ続けた。ただし、広場を囲んでいた大理石の柱廊は修理されず、崩れた部分は地元の石工が簡素な壁で塞いだ。浴場や劇場は西ゴート時代にも存在したが、維持費の問題から規模が縮小され、いくつかは修道院や倉庫に転用された。

ジャン=ピエール・プッスーは、その過程を『Histoire de Bordeaux』で「地理が都市の運命を決定づけた最初の事例は古代ローマ期であったが、その後の千年もこの法則は揺らがなかった」と書いている(Jean-Pierre Poussou, Histoire de Bordeaux, Éditions Sud Ouest, 2001, p.45)。

宗教生活でも、ローマ系住民が信奉するカトリックと、西ゴート支配層が信じるアリウス派キリスト教が同じ都市空間に共存した。4世紀末に成立していた司教座はそのまま残され、サン=スラン教会(Basilique Saint-Seurin)の地下墓域にはローマ末期と西ゴート時代の埋葬層が連続して積み重なった。墓碑銘にはラテン語とゴート語が混在し、文化の交錯が静かに進んでいたことを物語る。

市民が新しい支配を意識するのは、行政上の細部においてだった。税の徴収方法が変わり、従来ローマの役人が押していた封印が、西ゴート王の名を刻んだ鉛印に置き換わった。港の倉庫群には、従来のラテン語だけでなく、西ゴート語の刻印が並ぶようになった。

こうした変化は、剣を振るって奪うのではなく、日常の仕組みの中にゆっくりと入り込み、少しずつ置き換えていく形で進んだ。ローマが完全に去ったと感じる瞬間はなく、気がつけば、ブルディーガラは西ゴート王国の北西辺境における軍事・経済拠点となっていた。

この支配者の組み換えに対して、街の人々が大規模な抵抗を示した記録はほとんどない。港は古くから異国の船を迎え、多様な言語が飛び交い、異なる信仰が並び立つ場所だった。交易のためにやってくる商人や水夫たちは、それぞれの神々や儀礼を持ち込み、市場のざわめきの中にそれらは自然に溶け込んでいた。

ローマの役人が去り、西ゴートの兵士が代わりに城門を守るようになっても、人々の日々の仕事や祭礼は続いた。異なる言語を耳にすることも、異なる宗派の祈りを見かけることも、この港町では珍しいことではなかった。ブルディーガラはその成立の時から多民族的な交差点であり、その懐の深さが、新しい支配者を受け入れる柔らかい土壌となったのかもしれない。

ジャン=ピエール・プッスーが述べたように、地理は都市の運命を決定づける。ローマであれ西ゴートであれ、ガロンヌ川の河口港としてのブルディーガラの価値は変わらなかった。河川交通と海路が交差するこの場所は、支配者が誰であっても維持されねばならず、そのため西ゴート王国もローマが築いた港湾インフラや街路網を積極的に利用した。

こうして、ローマ末期から西ゴート時代への移行は、断絶ではなく、基盤を引き継ぎながらの静かな変容として進行したのである。

西ゴート王国期、ブルディーガラはローマ時代の都市基盤をある程度引き継ぎつつも、帝国直轄の行政機能を失ったため、より軍事的前線としての役割が前景化した。ガロンヌ川の河口港としての地位は依然として揺るがず、ガスコーニュ湾沿岸と内陸部を結びつける交易網の核として生き続けた。港には沿岸漁業で獲れた塩や魚、森林地帯から切り出された木材、内陸の葡萄畑から運ばれるワインが集まった。

しかし8世紀初頭、イベリア半島にイスラム勢力が進出すると、アキテーヌ地方は新たな脅威にさらされた。プッスーによれば、この時期ガロンヌ水系は「避難と輸送の双方向の回廊」と化し、南からの避難民や貴重品が北方へ運ばれると同時に、北からの支援物資や武具が南へ向かった(Jean-Pierre Poussou, Histoire de Bordeaux, p.48)という。ブルディーガラは、この緊急的な物流の中継地としても重要性を保ったのだ。

その脅威の筆頭が、メロヴィング家のクローヴィスである。彼は父キルデリクの遺領を継ぎ、481年頃に若くしてフランク王に即位すると、周辺の小王国や部族を統合し、勢力を急速に拡大していった。クローヴィスは、同族間の結束を固めると同時に、ローマ系住民との関係を築き、ガリア北部の有力司教やローマ化した貴族を味方につけることに成功していた。

北部の支配を固めたクローヴィスは、さらに次の目標を西と南に定めた。

西方ではブルターニュ半島に割拠するブリトン人勢力を押さえ、ロワール川流域への影響力を強める。ロ

ワールは西ガリアを南北に隔てる重要な境界であり、これを越えることでアキタニア地方への道が開ける。

クローヴィスは婚姻同盟や軍事行動を組み合わせ、ロワール北岸の都市群を掌握していった。こうしてフランク勢力はブルターニュの東側を押さえた後、セーヌ川・ロワール川を経てガリア中央部へと進出し、やがて西ゴート王国の支配する南西ガリアと直接対峙することになったのだ。

この時期、西ゴート王国はアキタニア第二管区とナルボネンシスを押さえ、トゥールーズを首都としてガリア南部とヒスパニア北部を支配していた。フランク族が南下してきたことで、ロワール川流域は両勢力の接触線となり、緊張が高まっていった。

この境界線の先にあったのが、ポワティエとボルドーを結ぶ交通路、そしてガロンヌ川の豊かな流域である。

ここを押さえることは、クローヴィスにとってフランク王国の領土拡張だけでなく、ガリア全体の覇権を手に入れるための重要な一歩となる。

そして507年、ポワティエ近郊ヴイエで、フランク王クローヴィス1世と西ゴート王アラリック2世が対峙した。これは単なる領土争いではなく、ロワール川を境に数年にわたり高まってきた緊張の帰結であり、ガリアの覇権を左右する決戦だった。

フランク側にはブルグント族やガリア系貴族の一部が加わり、西ゴート側にはヒスパニアからの援軍が参戦したとされる。戦闘は激烈で、アラリック2世は戦場で討たれ、西ゴート軍は瓦解した。

トゥールーズ陥落とともに、西ゴート王国のガリア支配は急速に崩壊する。ピレネー以北の要地は防御体制を保てず、軍や行政官の多くはイベリア半島へ撤退した。

このとき、ブルディーガラのような港湾都市は軍事的破壊を免れたが、政治的には完全な空白地帯に陥った。

クローヴィスはヴイエ勝利の勢いで南西部へ軍を進めたが、ブルディーガラは城壁と港を持つ要地であり、正面攻撃による損耗を嫌った。そのため懐柔策として、フランク側は地元司教やローマ系貴族との交渉に動き、忠誠と貢納を条件に自治の一部を認める形で支配権を確立する方法を取った。

この懐柔策が、この後、パリとボルドーの位置関係を定める方向になったと云えよう。

ブルディーガラの司教座はカトリック信仰を奉じており、アリウス派の西ゴート王権とは微妙な距離感を保っていた。これがカトリックを国教とするクローヴィスにとって、大いに利した。この宗教的一致をお題目として立て、クローヴィスは都市支配の正統性を高め、地元社会の支持を得やすくしたのだ。

この支配者の交代もまた、市民の生活基盤を大きく揺るがすものではなかった。港では引き続きワイン、塩、木材が取引され、交易相手も地中海沿岸から大西洋沿岸までほぼ変わらなかった。ただし、港の管理者や徴税人の印章はフランク王国の紋章に変わり、徴税額の一部は新たな王の財政へ送られるようになった。

軍事面では、城壁の一部にフランク式の防備改修が施され、港周辺の監視体制も強化された。これによりブルディーガラは、ガロンヌ川下流域を守る防衛拠点としても重要性を増す。

北からの軍事圧力に対する防壁という役割はそのままに、港湾都市としての機能は継続し、ガロンヌ川を通じてフランク領と外洋を結ぶ玄関口となった。

この支配交代の変転は、激しい破壊ではなく、戦争の勝敗を背景にした外交と宗教同盟によって進み、ブルディーガラの市民にとっては「港の旗が変わった」という印

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白石誠 無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました