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南ガリアにおける支配構造の継承と変容/ボルドー・ガロンヌ川ワインと歴史の旅#47

ローマによる支配の根幹には、土地そのものをローマ的秩序に編み直すという徹底した方針があった。道路を通し、公共建築を配し、地所を測量し、ラテン語の文書で境界を定める。こうした物理的・法的な変換によって、属州は帝国の一部へと組み込まれていった。しかし、南ガリアにおいてはその力が完全には及ばなかった。タルン川とガロンヌ川が交わる内陸の一帯、のちにモアサックと呼ばれる丘陵地もまた、確かに海と内陸を結ぶ交通・物流の経路に組み込まれてはいたが、その枠にすべてが収められたわけではない。表層にはローマの制度が張りつけられていたものの、土地の深部にはそれ以前からの言語や風習が息づき続けていた。
農地は整えられ、税は徴収されていたが、祭祀や慣習の層は置き換えられることなく存続し、古い神々の名も消えてはいなかった。畑の境にはラテン語で書かれた石標が立てられたとしても、口にされる言葉のすべてが帝国の言語に置き換わることはなかった。ケルトの記憶は、収穫の手順や水の扱いといった日々の営みのなかに織り込まれ続けていたのである。

ローマの弱体化"兵力の喪失"というより、こうした"行政の手が及ばなくなった"ことによって始まった。
それでも四世紀まではラテン語を用いた土地台帳が残され、徴税官や土地の管理人が中央の名において動いていた。アクィタニアの各都市では市民会議や公共浴場がまだ機能しており、ローマ的な都市生活は続いていた。だが五世紀に入ると、帝都ラヴェンナでは政治的混乱が続き、ガリア方面の軍政は次第に放棄される。もはや属州を維持する力は残されていなかった。
ローマは南ガリアを持て余すようになった。
その結果、418年、ローマはアクィタニア・セクンダの一部を西ゴート族に委ねるようになった。これはローマが彼らを「同盟者(foederati)」として位置づけ、土地と引き換えに軍事的協力を得る制度である。しかし実際には、帝国が行政と軍事の実務を担えなくなった結果、在地の管理を外部勢力に任せる措置でしかなかった。

西ゴート族は、ドナウ川上流から西進してきたゲルマン系の集団である。
ローマ帝国との接触は早く、四世紀にはすでに東ローマの属州地帯に隣接する位置に定着し、その軍事力と機動性を評価されて、一部は傭兵や国境警備の任務に就いていた。多くの若者たちは人質や使節として帝国の都市に送られ、皇帝の庇護下でラテン語教育を受けた。そのような環境のなかで、王族や貴族の一部は、ローマの統治技法や法制度に精通するようになる。
とりわけ有名なのは、4世紀末の王アラリック一世の系譜である。彼は東ローマ帝国軍の将軍として戦功を立て、しばしばローマの内乱にも介入した。その家系を含む上層層は、ローマの都市設計や書式に通じ、帝国式の官僚制を模倣した政治体制を築く素地を持っていた。こうした背景を持つ人々が、移動と定住の過程を通じて自らの集団内で制度を整え、文書行政と土地支配の技術を磨いていった。
・・数十年におよぶ移動の末、彼らはピレネー北側に達し、ここを定住の地とした。たしかに言葉も習慣も異なっていたが、王族の一部はローマ式の教育を受けており、法や外交文書もラテン語で作成された。軍事的には外部から来た征服者であっても、支配の様式はすでに帝国の形式を踏襲していた。ローマの去った属州地帯において、彼らはそれを代行する新たな存在として受け入れられる条件をすでに備えていた。

彼らが拠点としたのはトゥールーズだった。この都市を中心に、彼らは独自に王国を整備した。
それは、およそ五百年前、クィントゥス・セルトリウスが夢見た統治の姿に、どこか響き合うものを持っていると、僕は思う。
セルトリウスは、政争に敗れ、逃れるようにイベリアへ渡ったのち、現地の諸部族を糾合し、ローマとは異なるもうひとつの秩序を築こうとした。そして民にラテン語を教え、ローマ式の裁判と軍制を植え付けた。彼はヒスパニアの北東部、古いルシタニアとケルティベリアの境域に小さなローマを作ろうとしたのだ。
西ゴート王国がトゥールーズに据えた秩序も、同じ韻を踏んだ。ローマの法典を改変し、在地の支配層を排除せず、宗教や習慣を部分的に保持しながら支配を進めたのだ。征服ではなく、代行のかたちをとるその構造は、セルトリウスが示した夢の反映に近い。ローマの名を冠せずとも、ローマの技法と理念を内包した新しい国家。トゥールーズは、ふたたびその舞台となったのである。
しかしだからこそ、両者の違いもまた歴然とする。セルトリウスの秩序は、あくまでローマへの再統合を視野に置いたものであり、離反ではなかった。ローマはそれを離反とみなしたが・・これに対し、西ゴート王国の支配は、もはや帝国の周辺としてではなく、自らが中心となる構えであった。彼らにとってトゥールーズは、遠いローマの代理ではなく、自前の王国の首都であった。
そうして築かれたこの新たな秩序のもと、アクィタニアの丘陵地帯と河川域は、少しずつ新しい輪郭を帯びはじめる。かつてセルトリウスが語りかけた山岳の民も、いまはゴートの印璽に収穫を記し、王国の帳簿のなかで数えられて行った。

注目すべきは、こうしたローマから西ゴート族への政変を土地の住人たちが目立った反発を示さなかったことだ。
とくに、かつてローマ軍に属し、従軍の功によって土地を得た退役兵たちの動向は際立った。
彼らはローマ市民権を付与され、農地とともに定着してはいたが、その多くはもともとローマの外部から動員された者たちだからだ。
ケルト系やイベリア系の出身もあり、血統は混じり合っていた。同じくローマの制度のなかで市民権を受けたが、その根はローマの外にあった。
これらにとって重要なのは土地と家族を守ることだ。国に忠誠を尽くすことではない。それはただ税の行き先が変わり、発布される命令の名前が変わ目ことでしか二位。畑と家屋が維持されるならば、それを受け入れることに何の抵抗もなかったのだろう。
丘に沿った集落や農園は、緩やかに新たな支配構造に組み込まれていった。畑ではこれまで通りの作業が続けられ、収穫の記録もラテン語で綴られた。貨幣や度量衡、租税の仕組みもそのまま連続していた。退役兵たちにとって、西ゴート王国の登場は、命令書の署名が変わるだけのことにすぎなかったのだ。
そのようにして、トゥールーズに宮廷を構えた王国は、旧ローマ属州の構造の上に立ちながら、自らの秩序を築き始めた。統治者が変わり、法が変わっても、大地の記憶は消えることなく、人々はそのうえで暮らし続けた。

・・この均衡は、長くは保たれなかった。5世紀末、西ゴート王国は北方から南下してきたフランク王国の軍勢によって圧迫され、507年、ヴイエの戦いで西ゴート王アラリック二世が戦死する。王国はここに崩壊し、アクィタニア西部の広大な地域がクロヴィス王の支配下に組み込まれることとなった。
とはいえ、この新たな王権も、従来の支配構造を根底から覆すものではなかった。むしろ、政治と土地の管理において、教会と修道院という宗教的機関にその実務を委ねた点にこそ、フランク王権の特徴があった。

教会と修道院は、王権の名のもとに土地の経営と管理を託された。これは極めて慎重で合理的な判断だった。アクィタニア地方では、すでにローマによって整備された街道網と農地の構造が温存されており、それを引き継ぐかたちで聖職者の勢力が静かに浸透していたからである。修道院は宗教施設であると同時に、耕作地と労働力を擁する経済単位であり、そこから生じる収穫物や地代は、事実上、修道院の統制下にあった。
クロヴィス王は「支配せずに支配する」道を選んだのである。土地を教会領と定めることで、徴税権を聖職機構に握らせた。ただし、彼は教会が王権に取って代わることはないと見ていた。教会の権威は霊的領域においてこそ絶対であっても、世俗権力を一元的に掌握する力を持つ存在ではない。ゆえに、王は教会を恐れず、むしろその組織と規律を、地域統治の基盤として冷静に取り込んだのである。

こうして村落単位で納められる貢納や十分の一税(dîme)は、修道院が管理する穀倉や酒蔵へと運ばれ、その一部は王権への供出として仕分けられた。この過程において、司祭や修道士たちは書記官の役割を果たし、ラテン語文書による収支記録が残されることとなる。こうした記録が中世初期の土地台帳の起点を成す。
また、裁判権の委譲という点でも、教会の権限は決定的であった。修道院領内においては、小規模な争いごとや境界をめぐる紛争、相続の問題などが教会の監督下で調停された。修道士は、聖典と教会法をもとに調書を作成し、証言と誓約を集めながら判決を下す役割を担った。ローマの法文化が断絶を経ながらも教会制度の中に局所的に生き残り、法的秩序の一端を保持し続けたことは、この地方におけるローマ的伝統の根強さを物語っている。

教会と修道院は実際の土地支配・租税徴収・法的調停を行う制度的な拠点となり、アクィタニア西部におけるフランク支配の下部構造を形成していったのである。
そして付記すべきは、ここでもガロ・ローマ人の存在が重要な責務を担ったことだ。そして特徴的なのは、そのローマ人そのものが、生粋のローマ人ではなく別の血族だった。
こうして教会と修道院は実際の土地支配・租税徴収・法的調停を行う制度的な拠点となり、アクィタニア西部におけるフランク支配の下部構造を形成していったのである。

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白石誠 無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました