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3日目:パンプローナGran Hotel La Perla/ピレネー山脈縦横断記#10

Gran Hotel La Perla(Pl. del Castillo, 1, 31001 Pamplona, Navarra)に到着したのは、日が沈む前だった。

BMWを降りると、空気にはまだ熱が残っていた。アイトールは荷物を軽く持ち上げ、ホテルの扉を指さした。玄関には長い歴史を背負った建物らしい威厳が漂い、窓枠の装飾や鉄の手すりが光を受けて陰影をつくっていた。百年以上の時を経て、多くの旅人と王侯貴族を迎えてきた宿だった。

ロビーに入ると、柔らかな照明が木の床と大理石の柱を照らしていた。古い写真や調度が壁を飾り、ナバラ王国の記憶を秘めた都市の物語がここにも染み込んでいるように感じられた。僕はフロントに向かった。

チェックインを済ませると、重厚な真鍮の鍵が手渡された。カードキーではなく古風な鍵だった。その重みを掌に受けて、僕は一瞬だけ時代の継ぎ目に触れたような気がした。アイトールがポーターに荷物を預け、僕らは木製の手すりが磨かれた階段を上った。赤い絨毯が足を柔らかく受け止め、踊り場には古い肖像画が静かに見下ろしていた。廊下は広場に面して長く延び、扉ごとに真鍮のナンバープレートが輝いていた。

部屋の扉を開けると、夕暮れの光が白いシーツの上に淡く広がった。厚いカーテンを脇に引くと、眼下にはプラサ・デル・カスティーリョが広がり、人々の声が風に乗って届いた。

「ここなら、明日の朝すぐに大聖堂へ行けますね」アイトールが窓辺に立ち、外を見下ろした。

僕は鞄をベッドに置き、深く息を吸った。長い道のりを経てたどり着いた部屋は、王国の記憶を辿る旅の始まりにふさわしい静けさを湛えていた。

 

「食事は七時に予約してあります」

アイトールが自室へ戻ったあと、僕はしばらくシンガポールのオフィスに電話をかけた。仕事の采配をしているうちに気づけばもう7時近くになっていた。ドアをノックする音が響いた。二人でレストランへ向かった。

「豪華ですね」アイトールが言った。「そう思って、仕舞ってあったスーツを出してきました」

僕は笑ってうなずいた。

落ち着いた照明が木の梁を柔らかく照らし、白いクロスのテーブルの上で深紅のワインが輝いていた。テーブルに着くと、前菜のピンチョスが出た。アイトールはそりに手を伸ばしながら言った。

「明日はどこから回りますか。ナバラ王国の跡を訪ねるなら、まず大聖堂を外すことはできません」

僕は頷き、グラスを傾けた。赤ワインの香りが、肉料理の匂いと混ざり合う。

「大聖堂は王国の心臓だね。国王たちの墓も眠っているし、政治の中枢でもあった。まずそこを訪ねて、それから城壁や城塞跡を見ることにするか」

アイトールは笑みを浮かべ、ナイフで肉を切り分けた。

「それならシウダデラも欠かせません。後の時代に築かれた星形要塞ですが、ナバラ王国の終焉とスペイン支配の始まりを象徴しています。それに旧王宮。今はナバラ議会として使われていますが、そこにも王国の記憶が残っています」

アイトールはワインを注ぎ足し、軽くグラスを掲げた。
「それにしても美味しいワインですね」アイトールが言った。

「Bodegas Vega Sicilia,2004年 だ。リベラ・デル・ドゥエロにある。スペインで最も賞賛すべきワインだ。メセタは気候的に厳しいところだ。夏は40度を超える。冬季は摂氏マイナス18度を切る。過酷な環境が逆に、葡萄に力を宿すんだ。昼夜の寒暖差が果実を引き締め、樹齢の古い株が深く根を張って乾燥に耐える。だからこそ、この土地で生まれるワインは重厚で、長い熟成に耐える力を持っている。ヴェガ・シシリアはその象徴なんだよ。ワインの歴史は長い2000年以上前からだそうだ」

「そんなに!ですが……」

「ああ。1970年代になって、バニョス・デ・バルデアラードスで発掘された酒の神バックスのモザイクが、それを証明した。66平方メートルにも及ぶ見事な図柄だ。ワイン作りを始めたのは、北アフリカにまで達したフェニキア人たちだろう。そして十二世紀になると、フランス・ブルゴーニュ地方のクリュニーからやってきたベネディクト会修道士が、この土地の葡萄栽培を受け継いでる」
https://www.temposvegasicilia.com/

十九世紀半ば、エロイ・レガがフランスの葡萄品種と醸造技術を導入し、後の Vega Sicilia の礎を築いた。やがてワイナリーはアルバレス家の手に渡り、徹底した品質主義のもとで「ウニコ」「バルブエナ」といった銘柄が育て上げられた。

20世紀後半から21世紀初頭にかけては、パーカーポイントの高得点が相次ぎ、2004年のヴィンテージは百点満点を獲得した。一本のボトルが世界市場で争奪戦となり、セラーに眠るワインは投資対象としても扱われた。しかし Vega Sicilia の真価は、数値化された評価ではない。修道士たちが築いた文化の連続、フェニキアからローマ、そして中世を経て続く葡萄栽培の記憶が、このワインには宿っている。

グラスの赤が揺れ、レストランの灯りにかすかに反射した

「それにしても美味しいワインですね。ちょっといいですか?」
そういうとポケットから携帯電話を出した。
「最近は良いサイトが有りますから・・ワインの評価をすぐに教えてくれる」

アイトールは写真を撮った。そしてしばらくすると驚嘆の声をあげた。

「こりゃあ、美味しいはずだ!」
僕はグラスを軽く揺らし、笑いながら言った。

「アイトール。ワインは読み物ではなく飲み物なんだ。Le vin n’est pas un livre, c’est une expérience. そのときに相応しいワインを、その時のフトコロの具合で選べばいいんだ。評論家の数字や市場の相場を追うより、いま目の前のグラスをどう感じるかがすべてだ」

アイトールは少し気まずそうにスマホを伏せ、グラスを唇に運んだ。赤い液面が揺れ、その奥に広がる香りが彼の表情を和らげていった。僕も同じようにグラスを口に近づけた。果実の甘やかな香りが立ち上り、わずかに土を思わせる深い匂いが鼻を抜ける。視線を上げると、アイトールも同じ香りを確かめるように目を細めていた。二人の間に言葉はなく、ただ同じ香りと味わいを共有する静かな時間が流れていた。

「滑らかで深いですね。バスクやナバラでも昔からワインが作られていましたが、これほど見事じゃないです。

でも最近はナバラのワインも評価されてきていますよ」

僕はグラスを置いて言った。

「ナバラは巡礼路の交差点だからね。修道院がワイン造りを支え、旅人に振る舞ったんだ。だから王国の歴史を歩くと、必ず葡萄畑や修道院の跡に出会う。・・いま走破してきた地区だとバハ・モンターニャ(Baja Montaña)が知られている」

僕はグラスを置き、アイトールに向かって言った。

「先ほど渡ったアルガ川が谷を刻み、その斜面に畑が続いている地区がある。イエスカス川を含んで北東のサングエサ(Sangüesa)やリェデナ(Liédena)、アオイツ(Aoiz)のあたりに広がる一帯だ。いまはナバラDOのサブゾーンのひとつだ。アラゴンとの境に近い場所が中心になっている所だ」

「・・そのワインも飲んでみたいです」アイトールが言った。

僕は笑った。

「そうやって、ワインはハマっていくんだ。Louis Pasteurは言ってるよ。Il y a plus de philosophie dans une bouteille de vin que dans tous les livres.(一瓶のワインには、すべての書物よりも深い哲学がある)ってね。

この土地にはローマ時代より前から葡萄があった。ローマはソレを補完し補填した。リェデナやアオイツの近辺ではローマ期のヴィラや圧搾機の跡が発見されているし、交易で運ばれたアンフォラも出土している。古代の道をたどれば、すでに二千年前からこの谷にはワインの文化が息づいていたことがわかるんだ」

アイトールは黙って聞いていた。グラスを指先で軽く回しながら、僕の言葉に耳を傾けている。

「中世になり、巡礼路がこの地を通ると、サングエサには橋と教会が整えられ、修道士たちが旅人を迎えるだけでなく、畑を耕し、聖餐用のワインを仕込んだ。村の農民に技術を伝えたのも彼らだった。だからあの土地のワインは祈りの道と結びついているんだよ」

仔羊のローストが運ばれてきた。皿から立ちのぼる香草の香りに包まれながら、僕はフォークを取った。

「ここで育つガルナチャは、昼夜の寒暖差によって果皮が厚くなり、力強い味になる。最近はテンプラニーリョやカベルネも試みられているけれど、この地の特徴はやはりガルナチャに宿っている。」

アイトールはしばらく考え込むようにしてから、声を落とした。

「そう言えば、私の実家も昔、小さな畑でガルナッチャを育てていたと聞きました。収穫の季節になると、家族総出で桶に踏み込み、紫色になった足で笑い合ったと」

料理が次々と運ばれてきた。魚料理の白身にはバスクの海を思わせる香りが漂った。僕はパンを千切りながら、街全体が歴史の舞台装置のように思えた。


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白石誠 無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました