1日目:サン=ジャン=ピエ=ド=ポーSaint-Jean-Pied-de-Port(Donibane Garazi)/ピレネー山脈縦横断記#02
Hotel Les Pyrénées二泊目の朝。重い扉を抜けると、石畳の上に黒いBMWが停まっていた。玄関の庇の下で、アイトールが運転席から降りた。スーツにネクタイ、磨かれた革靴。昨日まで山の青年だった姿は、窮屈なショファーに変わっていた。
僕は笑いながら声をかけた。
「おはよう、アイトール」
彼はきまり悪そうに頭を下げた。
「その格好で通すつもりか」
「は?」眉が跳ね上がった。
「ホテルで部屋を借りて着替えなよ。山に行くんだ、普段着のほうがいい」
アイトールは頬を赤らめ、革靴の先で石畳を擦った。
「初めての仕事が大きすぎて、こうした方が信用されると思ったんです」
「信用はスーツじゃなくて山で得るものだろ」
彼の表情が和らいだ。ネクタイを緩めながら言った。
「わかりました。着替えてきます」
「朝は?」
「はい、軽く」
彼はケースを持ってレセプションへ向かった。
しばらくして戻ってきた姿は別人だった。厚手のパンツに速乾シャツ、色あせたザック、使い込まれた登山靴。昨日の姿に戻っていた。
「どうですか」
「やっとアイトールらしくなった」
彼は笑い、車のキーを取り出した。
「準備は整いました。最初の峠へ向かいましょう」
「その前にオスタバに寄りたい」
「了解しました。ここから二十キロです」
BMWはフランス門の前を抜けた。
「フランス門ですね」
「昨日歩いたよ」
フランス門はシタデル通りの入口だった。町の北の玄関口で、商人や巡礼者がここから入った。宿や商店が並び、巡礼証明を求める者で賑わった。
町の南にはエスパーニュ門があった。ナバラ王国の中心へ向かう軍勢はこの門から出発した。兵站の列が川の橋を渡り、山道を越えた。巡礼者の足跡と兵士の足音は、同じ石段を踏みながらまったく違う響きを残した。
西にはサン=ジャック門が置かれ、ロンセスバリェスへ直結していた。巡礼者は証明書を持ってここを抜け、山へ入った。
三つの門から流れた人々は町の内部で交わり、再びシタデル通りに重なった。巡礼者は聖地へ、兵士は戦地へ、商人は市へ。石畳はすべてを受け止めた。
僕は以前、家族と三人で散策したことを思い出した。今回は独りで歩いた。アーチ門を抜けると坂道が城塞に沿って伸び、赤茶色の木組みの家が並んでいた。窓辺には花が飾られ、巡礼者向けの宿や店が開いていた。町の人々と観光客が同じ道を行き交っていた。
シタデル通りは町の背骨だった。十一世紀にはすでに集落があり、十二世紀にナバラ王が城を築いた。十七世紀にはフランス王権の技師ヴォーバンが星形要塞へ改修した。フランス門から入った者は必ずこの通りを登り、城塞へ至った。警備と徴税を効率化するため、出入口が集約され、町の骨格が定まった。
赤みを帯びた砂岩で家々が建てられ、軍事的意識の反映が窓や梁に残った。今日の統一感ある景観はこの改造の名残である。坂を登ればシタデルの門、下れば川に架かる橋。通りは城と市門を結ぶ動脈であり、巡礼、軍務、市場のすべてを担った。
アイトールがバックミラー越しに聞いた。
「もう坂の町はご覧になりましたか」
「二回目だ。以前は家族と来た」
「家族と歩いた町は違って見えたでしょう」
「その時は巡礼の門を抜け、坂を往復しただけだった。それでも印象は強かった。だから出発の町に選んだんだ」
BMWは旧市街を進んだ。朝の光が石の壁を照らし、店先にはパンの香りが漂った。
「ボルドーで会うと思っていました」
「その前にバイヨンヌに寄った。市場を見て、ジュランソンに入った。葡萄畑を歩き、ドメーヌを訪ねた」
「ジュランソンですか。辛口も有名ですね」
「そう。昔は祝祭の甘口だったが、今は料理に合う白が多い。二日過ごしてからピエ=ド=ポーに入った」
「いい選び方です。土地を味わってから山に入るのは自然な流れです」
BMWはアーチ門をくぐり、城壁の内側へ入った。
「サン=ジャン=ピエ=ド=ポーも二泊ですか」
「そうだ」
BMWは坂を登り、赤瓦の屋根が並ぶ町を抜けた。店先には干しソーセージや布が並んでいた。
「ここは巡礼者の最初の関門です。ここから山を越えてロンセスバリェスへ。僕も何度も歩きました」
サン=ジャン=ピエ=ド=ポーはナバラ王国の北の門戸だった。十一世紀には集落があり、十二世紀に城が築かれた。中世にはカミーノ・フランセスの出発点となり、巡礼者はここから峠へ進んだ。商人や修道士が迎え、宿と食料を提供した。
十六世紀には宗教戦争で城塞が戦火に晒された。ヴォーバンの星形要塞は国境防衛を徹底しようとする王権の意志を示した。要塞の壁はいまも町を囲む。
近代に入ると国境貿易の小都市として生き延び、巡礼の再興とともに新しい役割を持った。門を抜ける人々の姿は変わらないが、目的は信仰だけでなく旅や文化体験へ広がった。千年にわたり石畳は足音を受け止め続けている。
車は城壁を背に南へ進んだ。左手にフランス門の尖塔が遠ざかり、赤い屋根が小さくなる。やがて道は州道D933につながった。数分で「Saint-Jean-le-Vieux / Garazi」の標識が見えた。
アイトールは村の中心に入らず、そのままD933を進んだ。
「この丘の上に遺跡があります。以前、お客様を案内しました」
僕は窓外の畑を眺めて頷いた。
「ここが最初の関門だったからね」
「そう説明されました。ガラシはナバラ王国の玄関口と呼ばれていたそうです。十二世紀に王が新しい城塞都市を築いた時、こちらは“古いサン=ジャン”と呼ばれるようになったと」
「1167年、サンチョ六世が移した。1177年にはリチャード獅子心王が焼き払った。記録に残っている」
アイトールは息を吐いた。
「はい。焼かれ、残った人々は新しい町へ移されたと。巡礼の砦であり、戦火の犠牲の村です」
数分で小さな駐車スペースに着いた。木の看板には「Oppidum protohistorique」とある。車を降りると蝉の声が広がった。畑の脇の土道を歩くと、草に覆われた石列が現れた。苔のついた基壇が環状に並び、砦の跡を描いていた。
「ここに古代の集落があったそうです。町が造られるより前に」
南に稜線が霞み、足元には畑と赤瓦の屋根が広がった。
「その時のお客様は“古いサン=ジャン”と呼んでいました」
僕は石に手を置いた。
「1167年、サンチョ六世が人々を移し、新しい都市を築いた。それでここは“le Vieux”と呼ばれるようになった」
アイトールは案内板を指した。
「Oppidum protohistorique。青銅器から鉄器時代の砦跡、とあります」
「ローマ人の前から砦があった。山を越える商人や兵士を見張る場所だったのだろう」
「リチャード獅子心王の遠征の話がある」僕が言うと、アイトールが眉をひそめた。
「その方は誰ですか」
「十二世紀のイングランド王だ。十字軍で有名だが、即位前にここを攻めた。1177年、アキテーヌの領土を広げようとナバラを焼いた。その記録がある」
「ここが……その戦に巻き込まれたんですか」
「ナバラ王国は十一世紀に成立していた。九世紀初頭、イニゴ・アリスタが独立を掲げた。山岳を背に旗を立て、周囲の大国に抗した。十一世紀には同盟と婚姻で辛うじて自立を守った。峠道は巡礼者と兵士が同じように通った。十二世紀、若きリチャードが進出し、村は焼かれた」
アイトールは石列を見回した。
「巡礼の道が、戦の道でもあったんですね」
「そうだ。祈りも怒号も、同じ風に消えていった」
案内板には「1177年、リチャード獅子心王による破壊」と刻まれていた。アイトールは苦笑した。
「バスク語もありますね。“Errege”は王の意味です」
「そうだ。伝承ではなく、記録だ」
僕たちは小径を戻った。。
「南へ。オスタバの三叉路を見たい」
「了解です」
エンジンがかかり、BMWはD933に戻った。
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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました