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3日目:ナバラ王宮の跡でバスク貴族を見つめる/ピレネー山脈縦横断記#16

博物館を出ると、道はすぐに傾斜を持ち始める。石畳の上り坂で、旧市街の中心に向かう通りは自然に高みに導かれる。両側に並ぶ建物は壁を接し合うように立ち、坂を上がる視線は正面の灰白色の壁に行き着いた。

すぐ傍のサント・ドミンゴ広場(Plaza de Santo Domingo)に入ると、周囲を取り巻く建物の下階がアーケードになっており、そこに露店やカフェの席が伸びていた。今では買い物客や観光客で賑わうが、広場の由来は宗教的な施設だ。

「この場所の名前は、かつてここに建てられていたサント・ドミンゴ修道院に由来している」と僕は言った。「中世にはドミニコ会の拠点で、都市の入口近くにあったことから巡礼者の休息地でもあった。修道院はのちに失われたが、広場と市場にその名が残ったんだ。」

アーケードを歩きながら、僕はアイトールに向かって言った。

「僕がこの通りの名前を知ったのは『日はまた昇る』だよ。エスタフェタ通り。走牛祭のとき、牛たちが駆け抜ける話だ」

アイトールが頷く。

「ええ、観光の仕事をしていると必ず説明します。彼の小説が出版されてから、パンプローナは外国人の目に全く違う姿で映るようになったと・・でも」

「そうだよね。我慢して読んだほうがいい。スペイン北部の一都市が、祭りと文学の力で国際的に知られるようになったのは、あの本からだからね。ヘミングウェイが描いたのは闘牛や走牛だけじゃなく、人がこの広場で集まり、飲み、語る時間だったんだ。そこに読者が都市の魅力を見いだした」

アイトールが頷きながら広場を見渡す。

「いまでは走牛祭のスタート地点でもあります。牛はあの奥の囲いから放たれ、坂を駆け上がってエスタフェタ通りへ突入するんです。」

僕は頷いた。広場の北側には旧市街の城壁が迫り、アルガ川に向かって落ち込む谷がすぐ近くにある。地形の高低差を利用して牛を放ち、市街中心へと走らせる構造が、祭礼の舞台装置を形づくっていた。

石畳の熱がまだ足元に残っていた。王宮跡の白い壁を背にして旧市街へ向かって歩いた。大聖堂までの距離はわずかだ。道を挟んで隣り合うように建ち、かつては回廊を通じて行き来できたという。政治と宗教が隣り合っていたのではなく、ほとんど背中合わせに結びついていたことを、今回の旅で実感した

 

広場を抜けて左へ曲がると、雰囲気は一変した。プブリコ市場Mercado Público(C. Mercado, 1987, 31001 Pamplona, Navarra)である。

狭い石畳の通りの両側に並ぶ店先からは、肉やチーズ、オリーブを並べた香りが漂い、買い物袋を手にした人々が行き交っていた。

僕らは市場の中へ入った。屋内には野菜や果物の山が整然と並び、肉屋のカウンターには子豚や羊の枝肉が吊られていた。魚売り場からは氷を削る音が響き、奥の通路にはパン屋や乾物店が続いている。ここで取引される食材が、町の祭りや日常を支えてきたのだ。

僕らは広場を横切り、市場の入口に向かった。外の喧噪を背にして扉をくぐると、空気は一変し、食材の匂いが濃く混ざり合って押し寄せてきた。

正面の通路には果物の店が並び、オレンジやリンゴの山が整然と積み上げられている。奥へ進むと肉屋のカウンターがあり、豚肉や羊肉の部位ごとに分けられた品が氷の上に並べられていた。魚売り場からは氷を砕く音と、水を流す音が絶えず聞こえてくる。北の大西洋で獲れた魚が毎朝ここに運ばれてくるのだとアイトールが教えてくれた。

さらに進むと、乾物を扱う小さな店が軒を連ね、豆や香辛料が袋詰めにされていた。パン屋の棚にはバゲットや丸パンがぎっしりと置かれ、客が次々と買い求めていく。市場の奥では、チーズやオリーブを試食させる店もあった。買い物袋を手にした地元の人々が、決まった店主と短い言葉を交わして次の店へ移っていく。
重なってサント・ドミンゴ市場Mercado de Santo Domingo(C. Mercado, 79, 31001 Pamplona, Navarra)が有った。

「祭りの賑わいだけで町は成り立たない」と僕は言った。「こうした市場の日常があるからこそ、人が住み続け、祭礼もまた続いていく。外から見ると祭りばかりが目立つけど、町を支えるのはこの毎日のやり取りなんだわ。」

アイトールは頷き、振り返って広場の方を見た。

 

市場を出ると、坂道は再び緩やかに傾きながら南へ向かっていた。数分も歩かぬうちに、旧市街の外縁にあたる城壁が視界に入る。灰色の石で積まれた防御線は、高低差のある斜面を抱え込むように築かれており、今もその規模がよくわかる。城壁の上には遊歩道が整備されていて、散歩する市民や観光客の姿が見える。かつて矢狭間が並んでいた位置にいまは欄干があり、そこから谷を覗けば川の流れが小さく光っていた。外の新市街の建物が並ぶ一方で、この高台の内側は石畳の旧市街が続いており、時代の層が視覚的に重なっていた。

 

通りを下りながら視線を先に送ると、街路が大きく開ける場所があった。それが「プラサ・デル・カスティーリョ(Plaza del Castillo)」である。

長方形の広場は城壁都市の中心的な空間で、かつては軍事拠点や行事の会場として機能した。今日ではカフェやホテルが周囲を囲み、市民の集会所としての役割を持っている。

その広場に立っと、都市の構造が一望できる。北には大聖堂と王宮跡が位置し、東西には旧市街の路地が放射状に延びる。南側にはアルガ川へ下る道筋が続いており、外の平野との接点を形成している。高台の都市は、この広場を中心にして地形に順応しつつ拡張されてきたことがイメージ出来た。

 石造りの外壁にアーチを並べた老舗の店があった。La Vieja Iruña(Calle Mercaderes 15, 31001 Pamplona)という店だった。

「十九世紀から続く古いバルなんです」アイトールが言った・

内部には木の梁と鏡の飾られた広間があり、カウンターにはハモンが吊るされている。だが今日は通りに面したテラスに席を取った。王宮跡を斜めに見渡せる格好の場所だった。

 

パンと赤ワインが運ばれてきた。僕はグラスを傾け、アイトールに言った。

「ナバラ王国を最初に作ったのは、この土地の貴族たちだった話、したろ?。彼らは“ヴァスコネス”と呼ばれた山の氏族と、ローマ以来の町の家門のあいだから生まれた人々だ。彼らは山の掟と都市の法、その両方を結びつけていた」

スープが湯気を立てて運ばれてきた。僕は続けた。

イニゴ・アリスタÍñigo Aristaという人がいた。彼は山の豪族の血を引いていたが、都市の記録の言葉も使いこなせた人物だ。彼は南のモスレム勢力とも姻戚関係を結び、境界の現実をうまく利用した。だからこそ“国王”を名乗ることができたんだ」

アイトールは「なるほど」と低く呟いた。

羊肉の煮込みが皿に盛られる。香草の匂いがワインと重なる。僕はパンをちぎりながらさらに言葉を重ねた。

「ナバラ王国を作ったのは血の純粋さではなく、混じり合った境界の力なんだよ。山と谷、バスクとローマ、その交差点に生きた人々の知恵が、この王宮を生んだんだ」

「バスク人は、外圧に支配されるばかりじゃなかったんですね」アイトールが言った。

「ん。彼らが『ただの支配される民』で終わらなかった理由にはいくつかの要素があるな。まず、この土地の地形そのものが彼らを強くした。ピレネーの峠や谷は外からの大軍を簡単には通さない。だから支配者が変わっても、山の共同体は一定の自治を保ち続けた。ローマの時代でさえ、完全に征服されることなく、辺境の自律を守っていた。それが後の豪族の土台になったんだ」

僕はグラスを置き、パンを千切りながら続ける。

「もうひとつ大きいのは、血縁のつながりと同盟の柔軟さだろう。バスク人の氏族は互いに競い合いながらも、外の勢力が迫れば一時的にまとまった。その首長が名を上げ、やがて大きな一族を束ねる存在へと成長していった。純粋に力だけでなく、婚姻や人質の交換を通じて関係を結んだ結果、豪族と呼べるほどの権威を手にしたんだ」

羊肉の煮込みを口に運び、香草の香りを感じながら言葉を選ぶ。

「さらに重要なのは、都市の存在だ。パンプローナの谷にはローマ時代から続く町があった。そしてそこには記録を残す書記、税を集める仕組み、交易を調整する市場があった。山の首長が町の家門と手を結び、その仕組みに参加したとき、単なる氏族の長から“政治を担う者”へと変わっていったんだ。山の掟と町の法を両方操ることができる者、それこそが豪族になった」

ワインを少し飲み、王宮の壁に目を戻す。

「だから彼らは支配されるだけでは終わらなかった。山の強さ、血縁の柔軟さ、都市の仕組み。その三つが重なり合って、豪族という存在を生んだんだ。外から来たフランクもモスレムも、この土地を完全には飲み込めなかった。なぜなら地元の人々自身が、境界を読み、政治の道具を使いこなす力を持っていたからだ」

デザートの白い凝乳が運ばれ、蜂蜜が光を帯びる。僕は匙を手に取りながら締めくくった。

「ナバラ王国は、その豪族たちが集まって生まれた。血の純度や外から与えられた権力ではなく、土地の条件と人々の柔軟さが、王権へと形を変えたんだ。だから今ここに残る王宮の壁は、ただの石造りの遺構じゃない。地元の人間が自ら国を選び取った証しなんだよ」

 

ちょうどそのころ、西方のガリシアにあるサンティアゴ・デ・コンポステーラで使徒聖ヤコブの墓が発見されたという話が急速に広がった。

伝承によれば九世紀初頭、星の光に導かれて墓が見つかり、そこに聖堂が築かれた。やがてヨーロッパ各地から信徒がこの聖地を目指すようになり、巡礼の道が形を取りはじめた。

パンプローナはその道筋に組み込まれ、ピレネーを越えてきた巡礼者たちが最初に出会う大きな都市になった。

峠から続く道はアルガ川に沿って谷を下り、ララソアーニャやズビリを経てこの街に至る。巡礼者にとってパンプローナは休息と再出発の地であり、ナバラ王たちはその流れを守ることで「聖地への門番」としての地位を得たのである。・・この「巡礼の保護」は宗教的行為以上に、王権の正統性を支える根拠でもあった。

巡礼者を迎え入れることが王国の威信を高め、教会の後ろ盾を強め、さらに通行する人々や物資の流れを通じて経済的な利益をもたらしたのである。こうしてナバラ王国は霊威と世俗の力を結び合わせ、ピレネーの谷に独自の秩序を築き上げていった。

「ローマの崩壊、西ゴートの支配、モスレム勢力の進出、そしてナバラ王国からスペイン・フランス両国への吸収という大きな変動の中でも、サンティアゴへ向かう道は断ち切られることなく歩まれ続けたんだ」僕が続けて言うと、アイトールは黙って聞き耳を立てた。

 

その背景には、イベリア北部における信仰と地勢の特性があった。スペイン北部はピレネーとカンタブリア山脈に守られ、完全にモスレム勢力の支配下に置かれることはなかった。パンプローナやエステーリャといった都市は早くからキリスト教勢力の手に留まり、巡礼者を迎える体制を維持したのである。

 

この環境を具体的に支えたのが修道院や教会の存在だった。ピレネーを越えた直後にあるロンセスバリェス修道院(Real Colegiata de Santa María de Roncesvalles, 31650 Navarra, España)は、十二世紀に創建され、峠を越えて疲れ果てた巡礼者を受け入れる最初の宿泊地となった。さらにエブロ流域では、ナヘラのサンタ・マリア・ラ・レアル修道院(Monasterio de Santa María la Real de Nájera, 26300 La Rioja, España)がカスティーリャ王家の庇護を受けて巡礼を守り、聖地への道を政治的にも神聖なものとした。ブルゴスの大聖堂やレオンのサン・イシドロ教会もまた、旅人を受け入れるための拠点として整えられた。

 

そして国境を越えたフランス側でも、道は守られていた。特にクリュニー派修道院(Cluny, Bourgogne)の影響は大きく、十一世紀から十二世紀にかけてその改革運動がサンティアゴ巡礼を強く後押しした。アキテーヌやガスコーニュの修道院ネットワークはピレネーの手前に宿泊と祈りの場を整備し、巡礼路が国際的な信仰の道として確立する基盤を与えたのである。

こうして巡礼路は、イベリア半島だけでなくフランス側の宗教勢力によっても保護され、単なる地域の道を超えて「ヨーロッパの道」として生き残った。支配者が変わっても、修道院や教会の庇護の下で霊威と実利を兼ね備えたこの道は途絶えることなく継承され、いまもなおサンティアゴへ向かう巡礼の流れを保ち続けている。

 

クリュニー派の修道院が築いた国際的な庇護網は、巡礼路を単なる地方の道から「ヨーロッパの道」へと押し上げた。ピレネーを越えてくる巡礼者は、フランス南部の修道院や施療院を経てサン=ジャン=ピエ=ド=ポーに集まり、そこから峠を越えてパンプローナへと入った。こうした制度的な支えがあったからこそ、巡礼路は幾度もの戦乱を乗り越え、時代ごとの支配者の意向に左右されながらも生き残ることができた。

パンプローナにとってもこれは決定的だった。巡礼路を押さえることは王国の威信そのものであり、城門や市場、教会が「通過する人びと」を迎え入れることで街は生き延びた。ナバラの王たちにとって、巡礼の保護は信仰の務めであると同時に、自らの支配を神聖化するための手段でもあった。

そしてこの道は、やがてナバラ王国が南北に引き裂かれ、スペインとフランスという二つの大国に吸収されていった後も存続した。王冠や国境は移り変わっても、峠を越えアルガ川に沿って続く石畳の道は途絶えることなく受け継がれ、サンティアゴへの霊威を現代にまで伝えているのである。

 

峠を越えアルガ川に沿って進む道は、巡礼者だけでなく経済の血脈ともなった。パンプローナをはじめ、道筋の村や町は巡礼者を受け入れることで生計を立て、やがてその営みが都市の基盤を形づくった。

橋はその象徴である。ズビリの「怒りの橋(Puente de la Rabia)」やララソアーニャの石橋は、巡礼者のために架けられ、修復され続けた。橋を渡るための寄進や関銭は地元の修道院や領主の収入となり、その維持がまた次の巡礼を呼び込んだ。

宿場もまた重要な役割を果たした。施療院やオスペダルと呼ばれる施設は、ただの寝床ではなく病や飢えを癒す場であり、同時に地元の農民や商人にとっては巡礼者を対象にした市場の中心でもあった。パン、ワイン、干し肉、チーズといった食糧は巡礼者の口を潤すだけでなく、周囲の農村を結びつける流通網を生んでいった。

パンプローナの市壁の内では、巡礼者のための市が定期的に立ち、サント・ドミンゴ市場の前身もまたこの流れの中に育まれた。フランス門をくぐって入る巡礼者は同時に商人でもあり、遠方から持ち込んだ布地や香辛料を広場で売りさばいた。こうして信仰の道は交易の道ともなり、王権にとっても課税と保護の対象となった。

 

「巡礼路が生み出した経済の広がりは、次第にナバラの谷を越えたんだ。

アルガ川沿いの宿場やパンプローナの市場を出発点として、道はエブロ流域を抜け、リオハのブドウ畑やカスティーリャの穀倉地帯へと続いたんだよ。

ナヘラ、サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ、ブルゴスといった都市は巡礼と商取引の双方によって急速に発展し、修道院と大聖堂は信仰の象徴であると同時に経済活動の拠点となっていったんだ」

アイトールがバックミラー越しで僕を見ながら頷いた。

 

しかし中世後期に入ると、カスティーリャとアラゴンが力を増し、イベリア半島統一の歩みを進めた。

ナバラは山々に守られながらも次第に圧迫され、十五世紀末から十六世紀初頭には王位継承をめぐる争いと内紛によって弱体化した。その隙を突いてカスティーリャ=アラゴン連合軍が侵攻し、1512年にパンプローナは陥落した。王国の南半分はスペイン王権に組み込まれ、以後は「ナバラ王国」の名を残しながらも、実質的にはスペインの一部として統治されることになっていった。

 

一方、ピレネーの北側半分は「北ナバラ」と呼ばれ、サン=ジャン=ピエ=ド=ポー(Saint-Jean-Pied-de-Port, 64220, France)に拠点を置いて命脈を保っていた。

その命脈を担ったのは、王位を継いだアルブレ家(Maison d’Albret)である。

彼らはフランス南西部ベアルン地方を本拠とする有力な貴族で、ナバラ王家と婚姻によって結びつき、1512年以降は自らを「正統の王」とし北ナバラを守り続けた。

このアルブレ家の支配のもとでサン=ジャン=ピエ=ド=ポーはナバラ王国の象徴的な首都となり、王国の議会や行政機能もすべてここに置かれた。地元のバスク系貴族や商人たちもこの王権を支持し、スペインの圧力に抗して独立を維持するための基盤を形成した。しかし小王国として生き延びるのに自力だけでは至難だ。外部の支援が不可欠だ。そのためにアルブレ家はフランス側の有力家門との結びつきを強めていかざるを得なかった。

やがてフランス王家の有力分枝であるブルボン家が登場する。ナバラの王女ジャンヌ・ダルブレ(Jeanne d’Albret)がブルボン公アントワーヌと結婚したことで、ナバラ王冠はブルボン家に継承され、その勢力基盤の盤石化を成功させた。

その延長線上で、ブルボン家のアンリ(ナバラ王アンリ3世)がフランス王位を継ぎ、アンリ4世として即位。ここに「ナバラ王冠」と「フランス王冠」は一体化し、フランス王は以後「フランス王・ナバラ王」を称するようになったのである。ヴェルサイユの宮廷でもその二重の称号が公式に用いられた。この称号はフランス革命で王家が廃絶するまで続いた。

 


 

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白石誠 無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました