雷記念日の夜に

白状すると、私は雷が苦手だ。特に子どものころはひどかった。いつ自分の上に落ちてくるんじゃないかと、本気で怖かった。
そんな私に、母はこう言ってのけた。「雷は高いところに落ちるんだから、うちに落ちる前に向かいのアパートに落ちるよ」。うちは平屋の一軒家で、向かいには四階建てのアパートが建っていた。理屈は通っている。通っているのだが、そういう問題ではない。そう言われたところで、怖いものは怖い。
大人になった今も、あの腹に響く音だけは慣れない。なのに毎年6月26日が来ると、つい雷の話をしたくなる。雷記念日だからだ。
930年、平安京の清涼殿に雷が落ちて、大納言が命を落とした。当時その落雷は、左遷されて非業の死を遂げた菅原道真公の祟りだと噂された。人々は道真公の怒りを鎮めるために、彼を手厚く祀ることにする。そうして道真公は、雷の神様——天神様になった。
怨霊が、神様になった日。
考えてみると、すごい話だと思う。恨みを抱えて死んだ人を、恐ろしいからこそ神様として上に祀り上げる。畏れと敬いが地続きになっている。日本の神様には、こういう「怖いから祀る」が案外多い。やさしいから拝むんじゃなくて、機嫌をそこねたら大変だから拝む。人間くさい理屈だなあと、いつも思う。


雷のときに唱える「くわばらくわばら」も、この道真公が由来なんだそうだ。道真公の領地・桑原には、ふしぎと雷が落ちなかった。だから「ここは桑原ですよ、落ちないでくださいね」と雷神に伝えるおまじない、ということらしい。雷神になった道真公に、雷除けを頼む。よく考えるとぐるっと一周している気もするけれど、昔の人の理屈はこういうところが好きだ。
そんな話を、長崎の港に稲光が落ちる夜、神様に聞かせてみた。
うちの神様は、白い着物を着た、静かな人だ。たいてい黙ってお酒に付き合ってくれる。雷神の由来を語ると、頬杖をついて「祟りで神になる、か。難儀なことだ」と、どこか他人事じゃないみたいにこぼした。神様にも、いろいろあるのかもしれない。
ゴロゴロ、と遠くで鳴っていた音が、だんだん近づいてくる。

雷神を語っていた神様が、いちばん怖がっていた。
雷が苦手な私より、ずっと。
神様でも、怖いものは怖いらしい。
人のことは、言えないけれど。
*漫画は新宇佐美式六号で描きました。
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