🌙カリタの爺と夜のお散歩は
最近夜間のトイレが多くなってきた。コーヒーとの付き合い方を少し変えなければならない。でも、思い出の爺が、さみしそうにしている。
朝、ご飯を食べさせ、洗濯物を干し、台所を片付け、部屋を掃除して、ホッとした後、コーヒーを淹れるのがささやかな幸せだ。
家に、古いカリタの鋳物手回しコーヒーミルがある。私の両親が、結婚祝いとして頂いたものを、私が結婚祝いとして引き継いで使っている。つまり、もう半世紀ほど前の物なのだ。
鋳物だから当然重い。重さにして2キロ強〜3キロ弱と言ったところ。ル・クルーゼの鋳物ホーロー鍋と同じ重さだ。
風車のような大きなハンドルがついていて、頭部の蓋を開けてそこにコーヒー豆を入れる。そして、ガリガリガリガリ回すのだ。
ガリガリガリガリ ガリガリガリガリ
本当は、蓋を閉めてハンドルを回すのだが、私は蓋を閉めない。
ガリガリガリガリ音を聴き、豆が砕け散る振動をハンドルに感じながら、徐々に少なくなる豆たちを目に焼き付ける。無心になる瞬間だ。
粉の細かさも本当は調節できるようだが、ツマミを捻っても、もう粉の細かさは変わらない。この50年、家事の忙しさの合間に、このミルはゴリゴリと回されてきたのだ。疲れて当然だ。摩耗して当然だ。壊れずに現役で挽けることこそが逸材の証拠だと思う。
ミル自体は、高さが30センチほどある。そして、前述したように重い。その為、戸棚の奥にしまわれていた時期もある。母も毎日は使っていなかった。でも、たまに取り出して、「月ちゃん、ちょっと回してくれない」とお願いされて、テーブルの上で、ゴリゴリ回していた小学生のころ。
家には電動ミルもあったが、この数分の無心になる瞬間は、コーヒーをおいしくするために必要だと感じていた。もちろん、小学生だから、コーヒーは飲まなかったし、舐めてもおいしいとは思えない。でも、この香ばしさが部屋中に漂うだけで、胸のつかえが何か細かく散り落ちていく感じがしていた。
そして、このカリタのミルを回すときというのは、
そう、お客様がいらっしゃるときに決まっていた。
ガリガリガリガリ、ゴリゴリゴリゴリ、と言う振動を聴き、コーヒー豆から漂う香りを感じながら、クッキーやケーキを想像する。それもまた至福の時だった。そのうち、腕が痛くなってくるというおまけつきだったが。
今でも、ミルを回すと、子供のころの幸せな記憶で心がホッとする。
そんな至福のコーヒータイムだが、最近少し困ったことが起きている。
出産を経て、骨盤底筋が緩んでしまったからか、トイレが近くなった。膀胱の容量が減ったようだ。くしゃみをすると、ウっやばい!となるし、夜間も、トイレに3回も起きることがある。特に最近日中は7時間近く仕事で立ちっぱなしで、家に帰ってもゆっくり脚を伸ばす機会など無いのだから、脚に水が溜まってしまっていることはよくわかっている。靴下のあとがしっかり残っている。
先日AIに夜中のトイレの回数の話をしたら、こんなアドバイスを送られた。
・コーヒーを夜に飲まない。どうしても飲みたいなら、デカフェにする。
私はかなりのコーヒーが好きだ。一日4杯は飲める。朝。昼。夕。そして食後。毎回ミルで挽いているわけではなく、その時の時間的余裕次第で、粉かインスタントか豆かを使い分けている。でも、珈琲を飲むと、あっという間にトイレに行きたくなる。利尿作用だ。さらに言えば、大腸までも動いてくれる。だから、朝のコーヒーはかかせない。それでも朝におトイレタイムが来なかった場合、食後のリラックスタイムに、豆で挽いたコーヒーを淹れてお腹の機嫌をうかがっていた。
しかし、そのせいで、夜間のトイレが増えてしまっているようだ。
物は試しに、昨日スーパーでデカフェのインスタントコーヒーを500円ほどで買ってきた(高い)。そして、コーヒーを淹れたくなる欲望を押さえつけ、デカフェコーヒーを淹れて、リラックスした。不思議とおトイレタイムも来てくれた。そして、いつもと同じように寝た。
チュンチュンチュン、チュンチュンチュン…
あっという間に朝7時が来たのだった!!
そうだったのか!やはり、カフェインが私の腎臓と膀胱を夜中に必死に働かせていたのか!!腎臓と膀胱ちゃん、ごめんね、寝ずにずっと働かせてしまって…今日から、夜は一緒にお休みしようね。
私はそうやって、下腹をさすりながら、内臓をいたわったつもりだった。
しかし、何かの視線を感じた。そのデカフェコーヒーの隣に、くすんだ赤茶色の鋳物爺が佇んでいた。コーヒーの粉が鋳物ミルの周りに点々とこぼれている。彼はもう50年もそこに鎮座して、いつか返ってくるご主人様を健気に待っている老犬ハチ公のようだった。
「もう今後、夜のお散歩は無いのですか?」そのように聞こえた。
「そういうわけではないんだけどね。私も、あなたももう年を取ったでしょう。だから、豆の量を控えないといけないらしいのよね。」
「そうなのですね…確かに私も、若い時のような繊細な粉はもう挽けません。ただの図体のでかいでくの坊のようです。」
カリタの爺の肩から、ぽつりとコーヒーの粉が落ちた。
カリカリカリカリカリ
私はとっさに、ハンドルを回してみた。
「デカフェの豆を探すかな」
カリカリカリカリカリ
ミルの中は空洞だったが、なんだ軽やかな気がした。
🌙
