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『ベニスに死す』を観て、書簡体


なぜ書簡体か?ランボーを読んだだけ。


はじめから

 ひとつ、古い映画を観て多大なる霊感を得ました。とはいっても、この詩は少し古いものです。

 トルソー

我々がトルソーでないというところから始めなければならない トルソーは浮いている どれほどに青銅が大理石と摩擦しようとも わたしたちはトルソーになっても みっちりと その肉をリノリウムに吸着させる いま わたしは 脚を以て聳えている 手を以て梁となす 千代田線の中で それを断、切っ-たところでなにも浮けるわけじゃないこと われわれは耽美の役どころには合わないということ

わたしは蛙のように舌で鍵を解いた。


 これと言って意味もない、卑劣な詩です。あるいは宣言のようで、エッセイ程度のものでもある。詩人はやたらとトルソーを愛しているから、わたしも愛しているのか、果たして形而上学的な欲望がそうさせているのかわからない、もはや。ところで、先日の高円寺での貸しはいつ返してもらおうか。いや、あのときは上機嫌だったから、小銭程度わたしてやろうかと思ってきみにやってしまったのだけど、よく考えてみればきみもご存知の事情で金が無いのだ。
 ぼくは近ごろ、竹橋の、当世流の牢獄とも言うべき、無限に不連続で、破れなく、一酸化炭素で満ちたパソコン・ルームで、気狂いじみた、知恵足らずのランボーみたいな連中が震える手で書いた文をひたすらに読んで、校正してやっているわけだが、幸いノルマなんてないものだから、どれだけ意識を浮遊させられるかのたたかいをしているために、ここのところ、いつも意識が連中の語彙みたいに茫漠としている。そんな具合だから、いつも竹橋から御茶ノ水か神保町まで歩いて呆けたり、あるいは黙示録以後みたいに人が溢れていたり、あるいは黙示録以後みたいに人が全くいなかったりする大手町まで歩いて、千代田線に乗って湯島まで行き、上野まで品性の低劣さに肌を苔むさせながらも、上機嫌になったり、レーニン帽子を買ったら、家に叫んだ後映画を見る生活をしているから、生活が苦しいんだ。これ以上この仕事を増やしたり、副業で家庭教師をしたりなんてのは、ぼくの主義に反するからできない。せっかくのきみの紹介であってもだ。だってこれ以上この仕事をしていたら、意識が茫漠としているうちにぼくは三十歳になってしまうし、きっときみもそのくらいになってしまう。家庭教師だって、わたしみたいな、ブルジョア的品性のかけらもない、下層階級出身の、品性下劣なプチ・ブル野郎にできるもんじゃない。もっと真っ当な連中に頼んでくれ。思うに、きみの大学には結構いたはずだ。

本文

 ところで、主題に入ろう。わたしがきみに手紙を書こうと思ったのは他でもない、もちろん一文の金のあるでもないぼくへの返金の催促というのも大事な用事なのだけれど、きみもきにいりそうなこの映画を紹介したかったからなのだ。
 きみはおそらく見ていないだろう、だって邦画しか観ないから。もちろん、この『ベニスに死す』も。きっと待っていればどこかの映画館で上映されようし、中古DVD屋に行けば、きっと売ってあろう、ともかく、手段は選ばず観てほしいのだ。しかし、そのためにはぼくは講釈をしなくちゃならない。というのも、そのあまりの単純さに、ぼくはひとつの詩的霊感によってフィクションを創造してしまったから。知解可能性のための。ぼくはこの作品を「美学氏」の戯画だと思うし、ヴィスコンティの美学論でもあろうと思う。それもエロティシズムにあまりにも肩入れした。まあ、こんなのは全く浅い話で、映画を見ればわかることだ。ぼくが伝えたいのはここで何が起きているのか。この世で最もエロティックな事態とはいかなるものかということだ。全人類性だとか、正義なんてものはどうでもよく、わたしはきみに向かって、つまり二者関係において書いているんだし、ぼくのポエティクな哲学釈義を、とりあえず今は聞いてほしい。
 講釈に入ろう。
 蓋し、ビョルン・アンドレセンがあんなにもエロティックで扇情的なのは、笑みを浮かべるからだ。
 それこそが現代に続くモダニティも本質であったし、これからもそうであろうと思う。きみの詩だって、さっきの詩だって、微笑んでいるのだ、おそらくは……。
 これを理解してもらうには、作品にたびたび挿入される、美学談義を理解しなくちゃならない。アッシェンバッハの友は、アッシェンバッハに向かって、嘘つき、いじけた道徳性の持ち主だとか、他人に恐怖を感じているだとか、平凡だとかとこき下ろし、感覚の抽象化やら、美的完全性とやらを讃える。さらに、この(ほんとうの意味で)腐ったカント主義者は、アッシェンバッハが芸術を人間の尊厳や道徳と結びつけることを口撃して、エピキュリズムを提唱する。この時点できみはどこからものを話しているんだと問われそうなものだが、もう少し聞いてくれ。端的に言えば、友は美を崇拝し、アッシェンバッハは崇高を崇拝している。友は自由な戯れの泥濘のうちで蕩けようとしている。アッシェンバッハは天才にすら創造不可能な、というのも天才はあくまで自然として美をあらしめるのであって崇高をあらしめるのではなかった、構想力を破裂させ理性へ導く崇高を創造しようとしているのだ。だからかれは天才なのに平凡だと言われる。当然だ! 人間には不可能なことをなそうとしているのだから。しかし、かれの美学は大きく形を変えることとなる。それは当然、かれが友人の理論に敗北し、快楽主義者になったことを示すのではない。(快楽主義者になったとしても、また異なる仕方として、だ。)
 ビョルンはいつも戯れている。そこにシラー的な美を見出すことも可能だろうが、それはjeuならざるものだ。かれの笑み、それが侵犯の示唆でなくして何であろう?アッシェンバッハは、そんなふうに笑うな、という。なぜなら、それは倫理を、道徳を、あらゆる人間学を、侵犯のための契機に変貌させてしまう、もっとも現代的で人工的でマッチポンプな挑発だからだ。例えるなら、かれの笑みからはラフマニノフのピアノ協奏曲第一番第一楽章が聞こえる。(もちろん、音楽など不要だ。)他性がエロティックであるのは、根源的に微笑をたたえているからだ。ところで、きみのくびは笑っている!
 他性の玄義を知りたければベルニーニを見よ。プロセルピナが他者である。女神の首は笑っている。しかし、「プロセルピナの略奪」(The Rape of Proserpina)それ自体のくびが笑っている。それが他者である。きみである。冥府の女王はわたしを欲情させる、詩を制作せよ、偶像を讃えよ、しかと見よ、殴れ、犯せ、そして殺せと。しかし、同時に最も強靭で狂気的な命令が表される、しかしそれは決して同時ではなく、つまりこれは同じタイミングだと言うのであって、同時ではないということで、これは太古代にすでに書き込まれていた命令だ。それは笑みよりもずっと先行しているが、そのせいでそれは予告としての使命を帯びてしまって、おお、何よりも優先されるべき命令は契機となってしまったのだ。汝殺すなかれ! 先に(後に)殺せと言ったその笑う首筋は、いまだわたしの眼を充血させつつ、その面は殺すなかれと言う。何たる矛盾! きみ、きみの詩、きみのくち、きみのくび、きみの左手首、きみのつめ、きみのかみ、きみの……。
 ベルニーニを見よ、そんなふうに笑うな。他者のために身を挺する? 馬鹿げたことだ、絶対的な他性の前で、笑みの前で、エロティシズムの前で、われわれは涙を流し、ただ立つことしか出来ない。笑みはその光でわれわれを焼き尽くす。それが太陽であれ、病める薔薇であれ、バッカスであれ、立ち尽くすことすらできない。われわれは膝をついて、身の朽ちるのを待つことしかできない、こんな記号的な、霊の切断系。これを操正しき倫理学者は、倫理の記号学的事態と取り違えたのではないか。
 きみ、そんなふうに笑うな。笑っていますね、馬鹿げた議論だと? それともわたしの顔を見て、笑っているのか、きみは。倫理がなぜ第一哲学になったのか知っているか。そう、きみのためだ。倫理はピカレスク・ロマンの飛び石となった。このエロティシズムのためだけに、こんな唯美主義なかったでしょう?このエピキュリズムよりも、何倍もエロティックな体制、それこそモダニティだ、つまるところ、きみだ。
 ところで、わたしは生まれて以来、女性を見たことがなかった。驚くべきことだろうか? わたしの臆見によれば、有史以来女性が存在したことはほとんどないし、あのミケランジェロの映画の標題もきっと、この事態を示しているんじゃないかと思う。まだ観たことはないが。われわれの世紀まで、女性に与えられた内臓、それは男性の眼にあって存在するのみであり、神はその宣告に先んじて死んでいたのだ。神の死とは同じ事態だ。そう、きみ、神が死んだとき、というより、それよりもっと前に腐臭を漂わせたとき、賢明な詩人たちはついに女性が見られるのだと喜んだものだ。しかしその歴史は廃棄されてしまった。全く困ったこと! 詩というのは常に先駆的革命であるが、詩で愛が語られるのはその謂で、われわれは女性を知らないから、天才たちを頼って、自然のうちに女性を覗き見していたのだ。しかし、いまもたいして事情は変わらない。というのも、ついに女性が見られる、女性を見られると、詩人たちが永遠の大地に接吻しつつ、土俗の踊りを踊って以来、ひとつの固定化が生じてしまったのだ。われわれは覗き魔に甘んじ、女性を顕現させる努力をやめてしまった。ドイツとロシアの偉大な詩人たちの努力も、窓をがちゃがちゃ鳴らすことしか能のない連中に台無しにされて、あんまり窓をがちゃがちゃ鳴らすものだから、女性を覗き見るのもなかなか難しくなってしまったのだ。ひとつ注意しなくてはならないことは、女性と呼ばれる者どもがいても、それは男性だということだ。いや、資格の上では女性であっても、法において男性なのである。われわれは皆で窓をがちゃがちゃしたのだし、ぼくにだけ罪を帰せられても困るから一言いっておきたかった。

ぼくの父が死んで、
空で、母を、
巨匠のように彫ろうとして、
像が見えると、光にやられて死んじまう。
霊的切断系、霊的切断系。

 ビョルン・アンドレセンはこの意味で女性だ。十全な意味で女性だ。女性でなくてはならない。スクリーンにおいて女性だ。われわれのために、ヴィスコンティのために女性だ。そして、処女だ。かれは処女でなくてはならない。パリジャンになんど犯されようとも、われわれのために、ヴィスコンティのために処女でなくてはならない。われわれの眼が何度犯そうと、処女でなくてはならない。かれは純潔だ。われわれは不純だ。きみ、きみはどうなんだ、きみは笑みにおいて爛れた純潔、腐った赤葡萄、バッカスの乱腐。
 われわれは不純だ。視線は混線して一点に向かう。わたしと、きみと、ヴィスコンティと、アッシェンバッハと。
 きみ、そんなふうに笑うな。
 純潔は禁止だ。純潔は侵犯である。われわれは笑みに体液をかけて止まない。これは規範主義者にも、エピキュリアンにも味わえない、倫理趣味の、まことの侵犯である。万物は一点に向かう。タッジオ……。ああ、きみ。そんなふうに笑うな。
 もちろん、かれだってひたすらに他者であるわけではない。かれを主体として読むことも可能だ。というよりも、そう読まないぼくはすでに笑みを汚して、ぼくは、ぼくは、赦したまえ。そこに批評的快楽以上の何がある、何がある。Jeu以上ではない、美かもしれないが崇高じゃない。倫理たり得ない、退屈だ。倫理の痕跡、古い理性との被膜によるつながり、わずかなつながり、ぼくが裂いてしまいそうな被膜。笑っている、倫理が、それより多くのことを意味したためしがあっただろうか。
 アッシェンバッハは、呆けた。古い被膜を切り裂いた。人間的尊厳や道徳との接点の喪失、あるいは極限までの接触。これ以上ないほどに! 笑っている。崇高はもはや道徳と縁を切り、理性と縁を切り、マチエールとして身体を現す。福音のように燃える、そのインクの厚み、霊的切断系。これよりビョルンを眼差すのによいところがあろうか。モダニティ、きみは福音のように燃える。

 かれが息を引き取る時、もうタッジオの顔は見えない。かれに手を伸ばす。征服者で、生涯唯一の笑みに出会ったアッシェンバッハらしい行動だ。しかし逃れさる、要請は、十分すぎるほどに実践を行いつつも、根に触れたことはない。しかしこれは映画の中の話だ。もう映らない、期待は裏切られる。われわれの、ヴィスコンティの欲望は暴かれる。表象の禁止は、表象の奨励である。士師記をこそ読め。金の子牛を讃えよ、微笑む金の牛を讃えよ。汝はεなり。崇高が道徳と縁を切った。このときモダニズムがはじまるのであり、きみも生まれたのだ。ぼくは、モダニズムが嫌いだ。しかし、心底愛しているから、この映画が好きだ。もちろんそれだけではないのだが。

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