苺ハウスから、走れメロス
「お、お父さん……」
夫の名前を「お父さん」と呼ぶのにも、すっかり慣れた。けれど、今日は苦しい。声を絞り出すのにも一苦労だ。きっと私は今、鬼みたいな形相をしている。
「どうした?」
夫は相変わらず、呑気だ。目尻に皺を寄せる夫の目線には、にこにことした表情で苺を頬張る4才の娘がいる。私はその声に安堵したのか、ふらふらとした様子でしゃがみ込む。
もう限界だった。
◇
先日、私たちは三重県三重郡菰野町にある「湯の山温泉 アクアイグニス」の苺狩りへと、足を運んだ。
旅行は、夫が勤めている会社の福利厚生(組合旅行)の一環のため、職場の方々と共にバスに乗り、現地へ向かう。
4歳の娘にとって、初めての苺狩り。

いつも口にするものとは違う、苺の味がする。そんな珍しそうな目で、赤い果実をうっとりと見つめる娘の瞳はビー玉みたいに煌めいている。

私は、小さくて丸い苺を手を取ったのち、切り取ってすぐさま口に頬張る。

——ふわりと柔らかくて、甘い桃の味がする。
まるで苺じゃないみたい。その不思議な味覚に、私は思わず瞬ぐ。その苺の品種は、桃薫と言うらしい。

「スタッフの人から聞いた。桃薫って品種は、桃の味がするんだって」
夫は苺を摘む前に、スタッフの方におすすめの苺の品種について色々確認していたらしい。確かに味も香りも、苺ではなく桃だった。苺なのに、他の果実の味がするなんて。
苺の酸味はどれもそう変わらないと思っていたけれども。こんなに、酸味を感じない苺の品種があるのかと。もしかしたら、苺の種類もいつもと違う品種を購入すれば、新たな発見があるのかも。
私の知らない世界は、意外と身近なところに眠っているのかもしれない。そう思うと、妙にテンションが高くなる。スーパーで苺を選ぶ瞬間も、これからより一層楽しくなりそうだ。
いつの間にやら、夫はスタッフの方から「苺の品種一覧表」を貰っていた。

夫の「抜け目のなさ」に関しては、改めて流石だと思う。
私たちは品種一覧表を眺めながら、どの苺を食べようかと話を進めた。どれにしよう。この苺も美味しそうだね。選んでいる瞬間は、心が躍る。
ずっとこの時間が続いたらいいのにと思っていた矢先、私の体に「ある事件」が起きた。
◇
娘の初めての「苺狩り」の思い出。素敵なものにしたかった。けれども。はじまりは、ASKAが歌う雨よりも突然に起きた。
——嫌な予感がする。
マジで恋する5秒前よりも早く、その予感は的中した。苺を数粒食べたら、お腹から「キュルル」と音がする。お腹を下したのた。
「なんや」
夫が飄々とした口調で答える。
「お腹が……痛いかもしれない……」
お腹を抑える手に……声に。少しずつ、力が入らなくなる。お腹に両手を当ててうずくまる私に、夫は
「まじか?嘘!なんでやねん!」
と言って目を丸くした。私だって、苺のビニールハウスでお腹を壊したくなんてないし、トイレの話だってしたくない。けれど、ここで我慢したら一大事。
そもそもこの旅行は、私たち家族だけのものではない。夫が勤める会社の「組合旅行の一環」であり、会社の人たちも一緒なのだ。
私が粗相を犯したら、夫の顔に泥を塗ることになる。妻として、夫を守るために。嘘なんてついてられない。我慢している場合ではない。
——トイレに行くのだ。
ふと、目をやると「もういっこ」と書かれた品種を目にする。

申し訳ないが、そのタイミングは今じゃない。
頼む。あと数分……いや、20分くらい待ってほしい。今からトイレに駆け込み、用を済ませたら。君の元に、もう一度訪れるから。気分はすっかり走れメロスの気持ちだ。
「気をつけてな」
そう呟く夫の表情には憂いがある。武士を見送るかのような哀愁があり、私には「達者でな」とも聞こえた。
夫の言葉を聞くなり、私は一目散にビニールハウスの出口を目指す。所が、ビニールハウスの道は想像以上に細く、険しい。


体に纏わりつくように、丸い形の蜂も蠢いている。スタッフの方の話によると、花に受粉をさせるために、人間に危害を加えない蜂がビニールハウスの中に数匹いるそうだ。
やっとの思いで、出口に辿り着く。スタッフの方に「トイレ……トイレどこですか……」と、スタッフに声をかける。スタッフは目を右往左往させたのち、
「トイレはビニールハウス内にはございません」
「は?」
私は素っ頓狂な声を上げた。スタッフは顔色ひとつ変えず、淡々とした口調で
「トイレはですね、外を出て、道をすーっとまっすぐ歩いて……。それからパン屋があるので、その中にトイレがあります」
と、説明を続けた。その説明を聞くなり、私の顔は真っ青になった。
人生には、いくつもの扉がある。出口を抜けたと思ったら、また振り出しからのスタート。新たな扉を目の当たりにした時、絶望と取るか。それとも、希望と取るのか。そこで人生の幸福度は大きく変わっていくような気もしている。
どうせなら私は、その扉に希望を見出したい。その扉を開けたら、もう一度家族の前で「明るい表情」の私に戻れるのだ。
苦しい顔をして苺を頬張っても、夫や娘が心配するだけだ。なんとか、早く用事(トイレ)を済ませなくては——そもそも、ここは苺のビニールハウス。育てられた新鮮な苺たちは、さまざまな流通を辿ったのち、商品として誰かの手に渡っていく。
私は今、メロス。走れメロスだ。
——メロスは、粗相なんて起こさない。絶対に。
グルルと鳴るお腹をぐっと抑え、歯を食いしばったのち、メロスな私はパン屋に向けて勢いよく駆け出した。
【完】
