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ママはサーモン貴族

  4歳の娘はまだ言葉を話せず、歩き方も覚束ない。保育園は加配付き、ハサミを持つにもバネ式の頑丈なものしか使えない。

 人のサポートがまだまだ必要な娘は、週に1回療育へ通っている。療育は、誰かの助けが必要な子どもたちが安心して過ごせるように、先生たちの支援を受けられる場所だ。

 先生は生徒ひとりひとりに目を配り、その子のために尽力する。母子通学のため、お母さんも悩みを抱えたり、不安な時は悩みを相談できる。

 療育には娘のように発達が少し遅れている子もいれば、胃や鼻から管を通している子もいる。みんなそれぞれ抱える問題に違いはあるが、教室に一歩入ったら仲間であるという連帯感を感じる。

 誰かが思い詰めた時は、変に寄り添い過ぎず、そっと

「○○ちゃん(娘の名前)、立ち姿が凛々しくなったねぇ」

と励ましの言葉を掛け合ったりもする。娘の立ち姿は毎日見ているはず。でも、凛々しくなったのか。他のお母さんに指摘されてやっと気づく。

(ふう、いけない。いけない。娘の小さな成長を危うく見逃すところだった)

 お母さんたちの何気ない台詞に気づき、時には救われることも多い。

 療育に通うと、半年に一回のペースで先生から「子どもの成長振り返り」について報告がある。報告は紙で渡され、

「褒められると、全身で嬉しさを表現します」

といった風に、娘の細やかな成長が所狭しと書かれている。療育に通わなければ、こんなに娘の成長を拾ってもらうこともなかっただろう。

 話せるようになった訳ではないけれども、娘の笑顔に自信が溢れるようになったのはひしひしと感じる。周りの人達に目を向けてもらい、気にかけてもらえるのも大きいのだろう。

 時間は有限だ。

 人生に限りがあるなら、出来る限り暗いことは考えたくない。

 娘は確かに成長した。けれども、ふと我に返った途端、先の見通しが不透明なことに気を揉むこともある。

 もし、今のまま娘が成長したら。

 1人で買い物はできるのか。財布を開いて、小銭を出すことはできるのだろうか。握力が弱く、ハサミはバネ付きじゃないと使えないし、おはじきも長く持ち続けられないのに。

 誰かの手を握らなくても、階段を登れるのだろうか。私のサポートがないと、怯えて足をすくめるのというのに。

 働く場所はあるのだろうか。トイレットペーパーを丸ごとトイレに突っ込んでダメにしてしまうし、米は床にぶち撒けるし。といっても、愛嬌だけはいいのだけれども。

 我に返ると、空気が淀んでしまう。だから私は立ち止まらない。暇になると、何か理由をつけて動こうとしてしまう。まるで、動くことで気を紛らす扇風機みたいだ。でもそんな生き方をしていたら、電源がつけられなくなった途端、どうしたらいいのだろう。

 療育にいるお母さんたちは、みんな朗らかで元気だ。

「自分が潰れると、すべてが終わる気がしますよね」
「わかりますぅ」
「私が倒れたら、この子はどうなるんだろうって」

 お母さんたちとの会話は、いつも「最悪の展開」が想定されている。けれども、暗く話すのではなく、それぞれが明るい会話を心掛けている。

 みんな冷静で穏やかに見える。きっと平常心を保ってるというより、心がけているのだろう。朗らかで過ごすことで、お母さんたち自身も自分を奮い立たせているのかもしれない。そして、私も。

 許される時間がある限り、楽しく過ごそう。

 そう考えた私は、療育に行く時のお昼時間は、なるべく美味しい料理が食べられるお店を選んでいる。

 療育では娘の給食時間が終わると、1時間ほど「お昼休み」を貰える。その時間は、先生に娘を預けることができる。

 お昼の時間は、まさに私のテンションを上げるために大切な時間だ。

——今日は、どこでお昼を食べようか。

 いつもフラフラとした足取りで最寄りの珈琲店に足を運んでいたが、少し飽きていたのでお店の新規開拓もしたくなった。

 携帯で「地名 ランチ」と検索すると、療育施設の近くにオシャレなフランス料理店があるのを発見する。

 お店を見つけたら、気になるのは顧客の評価だ。そこで私は、さっそくお店の「食べログ評価」を確認することにした。

 食べログ情報によると、どうやらそのお店は京都三つ星フレンチなどで学んだ技術を駆使した料理を提供するカフェ&フレンチ料理店らしい。

 ランチ料金は、最低1,600円から。安すぎず、高すぎずちょうどいい値段だと思った。

 食べログのページには、宝石のように艶やかな薄橙色のジュレや、厚めのステーキなど、美味しそうな料理の写真がずらりと並んでおり、見ているだけでじゅるりと涎が零れた。

 お店の中央には、真っ赤に染められた扉があり、金色のドアノブがついていた。

——まるで、異世界への入り口みたい。

 お店の雰囲気に魅せられ、私はドアノブをそっと握る。

 ドアを開けると、店内にはオシャレなテーブル、椅子や飾りがセッティングされていた。

「いらっしゃいませ」

 店内の奥から、色が白くて目の大きなウェイトレスがそそくさとした足取りであらわれた。店内はがらんとしており、他にお客はいない。アポなしで訪問しただけなのに、まるで貸し切りみたい。

 ウェイトレスに招かれ、私はふかふかした椅子に座る。テーブルの中央にはガラス製の小瓶が置かれており、一凛の花が添えられていた。

「メニューは、何にされますか」

 ウェイトレスは穏やかな笑みを浮かべて、私に告げた。

「あっ……あの……何がおすすめでしょうか」

「プレート式のランチメニューであればすぐに出せますし、1,650円程なので注文される方も多いです」

 こういう時は、お店の人のアドバイス通りに注文した方が失敗は少ないはず。そう感じた私は、ウェイトレスのアドバイスに合わせて、プレート式のランチメニューを注文した。

 メニューを注文すると、20分ほどで料理がテーブルに届く。お皿の中央には、ワイングラスに入った人参のムースに、コンソメ味のジュレがかけられていた。

コンソメのジュレが美味しい

 口に入れると、ふわっとまろやかな人参の甘みが口いっぱいに広がり、その美味しさに驚く。料理の味は確かだと感じた私は、それから定期的にお店へ通うようになった。

 お店に通い続けてから、2ヶ月ほど経過した頃だろうか。いつものようにメニューを注文すると、お店のマスターが厨房から落ち着いた足どりで近づいて来る。

 普段、マスターがテーブルの方に来ることはほとんどない。この日は、いつもと違う気がした。

「今日は、いつも手に入らない食材が手に入ったので、特別メニューを出せそうです」

 マスターは小声でぼそりと呟く。

 その日提供された料理は、鮮やかな色をしたサーモンと丁寧に切り刻まれた野菜が薄い皮に包まれていた。

実際の料理。まるで絵画のよう


 絵画のように美しい見た目に、私は思わず息を飲む。

「こちらの料理は、食材を全て用意するのが困難なものでして、必ずしもお客様にお出しできるメニューではなく……。料理にも時間もかかるので、常連のお客様向けの特別メニューとなります」

 マスターは、そう言って私にふっと微笑みかける。

 料理を口に運ぶと、上品なサーモンと、野菜の旨味が口に広がる。

「こんなに美味しい料理、はじめて食べました」

 マスターにそう伝えると、私に「それは、よかったです」と微笑みかけてくれた。

 お店へ足を運ぶことで顔を覚えてもらい、そして自分のためだけにオリジナリティの溢れる料理を提供してもらえる。そんな経験をしたのは、人生で初だった。

━━なんだかまるで、貴族みたい。

 料理には、気分を盛り上げる魔法効果もあるのだな、と私は感心した。

 これからも、素晴らしい料理と、特別な体験をさせてくれるマスターに出会うために。自分の気分を高揚させるために。

 そして、自分を大切にするために。

 今は月に1〜2回ほど、あのお店に通っている。美味しい料理、オシャレなドアを開けた時の高揚感は、あのお店でしか得られない。

 マスターやウェイトレスからは、顔を見た瞬間に「いつも、ご来店ありがとうございます」と、声をかけてもらえる。

 顔を覚えてくれるのは嬉しい。あくまで「顔を出しているだけ」ではあるが、なんだか自分を認めてもらえたような気持ちになる。優しい声をかけてもらう度に、私の顔が綻ぶ。

 私は普段穏やかだ。でも、娘の前でも穏やかに過ごせるのは、当たり前なんかじゃなくて。ひょっとすると、自分に「労いの時間」を定期的に設けているからなのかもしれない。

 自分のために、自分を労る。そして、娘の前でも穏やかになれる。娘の安心は、これから先の「自信」にも繋がる。

 自分が穏やかであり続けるために——私はこれから先も、あのお店へと足を運び続けるのだろう。

【完】

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