真の願いは、私に「報い」を求めなかった
未知の領域へと一歩を踏み出す瞬間、希望と不安が入り混じる。
幸せか、不自由か。何事も踏み込んでみないと理解できない。
この世には絶対も、普遍もない。だからこそ、私は未開拓の場に、小さな好奇心を抱くのかもしれない。
私にとって、それは出産と育児だった。かつて肩を並べ、他愛ない話で盛り上がっていた同級生たちが次々と結婚し、母親になっていく。
久しぶりに同級生と顔を合わせれば、青春時代を過ごしたあの頃と同じように他愛ない話題で笑い合う。けれども、話題が子どものことに移った途端、彼女たちは少し落ち着いた表情を浮かべ始める。
友達がお母さんの顔になった瞬間、いつも小さな壁を感じていた。私にその感覚がないのは、守るものがないからだ。守ってきたのは他の誰かではなく、あくまで自分のプライドや存在だけ。
親になった友達には、自分よりも大切にしたい存在がいる。そして、子どもを守るための覚悟が瞳、言葉の節々に滲み出ていく。
「お母さん」になると、どんな景色が瞳に映るのだろう。私には到底想像できなかったし、理解できないからこそ、たまらなく羨ましかった。
もちろん隣の芝生が青いだけとは百も承知の上で、私は知りたかった。ずっと。
——誰かの母親になるということを。
◇
私は40歳で不妊治療を始め、体外受精に約100万円以上の費用を投じた。
昔からドライな性格の私は、「投資=回収可能か否か」を常に意識している。経験が学びや話のネタになるなら投資、ならないならただの消費。
けれど、出産と育児は違った。
親になる友達の幸せそうな眼差しを見るたびに、私は心底羨ましくて仕方なかった。
親になった友達はみな、
「子育ては大変よ」
と、口々に囁く。それと同時に、目尻を緩め、頬が綻ぶ。
お母さんになるって、幸せなのか。嬉しいことなのか。報いを求める前に、とにかく知りたかった。
——私も、子どもが欲しい。
◇
35歳を過ぎた頃から、妊娠適齢期への焦りを感じ始めた。周囲からも、
「早く結婚しないと」
とか。
「今子どもを産むとなると、高齢出産になるから」
とか。
私は何も聞いてない。むしろ頭では、うっすら理解しているつもりだ。それでも35歳になるまで、臭い現実には蓋をしてきた。
相手を選んで一緒になる契約——「結婚」をするのが面倒だった。親にはなりたいし、子どもはずっと欲しかった癖に。
結婚よりも、恋愛をしたかった。
好きな人と一緒になりたかった。
35歳というのは、魔鏡との境界線なのか。その年齢を超えた途端、周りの人たちが血相を変えて、私に口酸っぱくなるほど忠告をし始めるようになった。結婚しなさいと。
この人には「現実」を理解させないと、何もしないだろうと。周囲の人たちも、本気で私のことを心配し始めたのだろう。
蓋をしていた現実が一気に押し寄せてきた。
焦らなければ。
けれども、どう焦ったらいいかもわからない。
当時、私は独身で婚活まっしぐら。……と言っても、合コンや婚活パーティーに足を運んでは
「婚活をしている素振り」
をただ見せていただけ。本気で目の前の相手と、向き合う気はなかった。
婚活に出かけても、男性たちはどこか呑気だ。男性は、私に年齢を尋ねては「若く見えますね」と言い残し、次の瞬間には目の奥が翳っていく。
女は損だ。時限爆弾みたいな「妊娠適齢期」を抱えて、迫り来る現実に怯えながら婚活をしなければならない。
本当は、年齢なんて気にせず恋をしたかった。結婚のタイミングに悩みたくなかった。けれど、女の体は嘘をつかない。生理周期が年々短くなり、月経の終わりが近づいているのを肌で感じていく。
月経が終わる前に、子どもを産みたい。終わりを感じたからこそ、私は始めたかった。出産と育児を。そう、まだ結婚もしていないというのに。
◇
36歳で夫と出会い、1年後に結婚。出会ってすぐ妊娠したが、小さな卵の段階で流産した。
妊娠に喜んだのも束の間、腹部に激痛が走り、自宅のトイレに駆け込むと大量の血が便器に流れ込んでいくのを感じた。
便器には、オレンジ色の小さな球体がこびりついていて、まるでイクラのようだった。球体は血と共に流れることはなく、懸命に便器へしがみついているようにも感じた。
私はその球体をそっと拾い、プラスチック製のケースに入れて保管することにした。ひょっとするとあの体験が、私にとって初めての「出産」だったのかもしれない。
「一度妊娠したなら、またすぐできるよ」
周囲はそう囁いたが、妊娠の兆しは一向に訪れなかった。そして41歳、不妊治療クリニックの門を叩く。
不妊治療の体外受精では、まず卵子を採取(採卵)する。取り出された卵子は、医師の管理のもとで夫の精子と受精される。採卵の際には、脚の付け根から針をぶすっと刺し、卵巣から卵を取り出す作業を行う。
採卵の際には、私は局所麻酔をしていたのに、激痛を感じたため「刺してくれ!」と大声で叫んだ。そもそも、すでに刺されているというのに。これ以上の痛みを受けることで、私はその痛みを誤魔化そうとしていた。
そして半年後、体外受精は成功し、私は妊娠する。
喜んだのも束の間、採卵への痛みと恐怖が脳裏を過る。あんな痛みは、もうこりごりだ。
二度と、採卵をしたくなかった。だからこそ、無事に妊娠期間を終え、出産したい——妊娠中はずっとそう願い続けた。
私は妊娠して半年が経過した頃、妊娠糖尿病と診断され、2ヶ月間病室に隔離された。その頃、世間はちょうどコロナ禍の最中だった。
すれ違う人すべてがウイルスの保有者に見えて、毎日震えが止まらなかった。今思えば、あの過剰な恐怖は「時代」のせいだったのか、それとも——。
◇
入院中は、週に一回エコーで胎児の様子を見せてもらえた。ある時は、エコーで赤ちゃんが舌をチラチラと見せることもあった。

「口に指を入れて、ペロペロする姿が確認できました。このような仕草がエコーで見れるのは、かなり珍しいですね」
医師が珍しそうにモニターを眺めていたあの日を、5年経過した今でも鮮明に覚えている。
お腹の中に、もう一つの命が育まれていく。胎動が日に日に少しずつ激しくなる。
私が私じゃないみたい。
自分はこれからどうなるのか。
未知なる出産への不安に怯えつつも、私は西瓜のように膨らんだ腹を優しく撫で下ろす。大丈夫、大丈夫。そう心の中で呟きながら。
◇
出産予定日の1週間前に、私は無事退院。実家に戻ったものの、病院生活が長かったせいで、家族さえも感染者に見えてしまい、無駄にバリアを張ってしまった。
そして予定日当日、破水。床がバケツの水をぶちまけたように濡れ、私はその光景を目にするなり、どうしていいのかわからず、その場に呆然と立ち尽くした。母は震える手で雑巾を握りながら、
「大丈夫だから」
と、譫言(うわごと)のように繰り返した。母が雑巾を持つ手は震えていた。
車で病院へ向かう道中、母はハンドルを握りながら
「大丈夫、大丈夫……でも事故を起こしたらどうしよう。ううん、大丈夫だから」
と呟く。
病院に着くと、看護師さんが車椅子で迎えてくれた。
「じゃあ、行ってくる」
そう言う私に、母は「大丈夫だからね。頑張って」と、か細い声で返した。
◇
看護婦さんに案内され、私はベッドへ横になる。
これから何が起こるのか。自分の時間はどう変わるのか。仕事は続けられるのか。子育ては、私にできるのか。ようやく出産を迎えられる「安堵」と、先の見えない不安が交錯する。
陣痛が始まると、数分おきに腹部を貫くような痛みが襲う。
「腹を切ってください!」
耐えきれず叫ぶ私に、医師と看護師は「大丈夫ですから」と落ち着いた口調で諭した。
そして半日かけて、私は娘を無事出産。あれから5年。あの痛みも、不安も、すっかり忘れてしまった。

◇
5歳になった娘は、まだ言葉を話せない。
その分、機嫌がいい時は舌をペロペロと出す癖がある。
娘は他の子と少し違う。すぐに舌を出すにも関わらず、何も話そうとしない。
舌は、話すためのものではないのか。
今も今で、それなりに不安はある。けれども、昔より幾分か冷静だ。それは病院、保健所、療育——多くの機関と繋がりながら、ここまで娘と二人三脚で奮闘してきたからだろうか。
最近の娘は、運動会に向けて保育園で練習を重ねている。帰宅すると、疲れ果ててベッドに倒れ込み、夜まで爆睡する始末。成長の遅れも関係しているのか、他の子より娘はどうやら疲れやすいらしい。
保育園の迎えの時間、輪の中心で踊る子どもたちの後ろに、控えめに、ぎこちなく体を動かす娘の姿があった。
娘は、みんなより少しだけ発達がゆっくりだけれど、自分なりのペースで懸命に頑張っている。娘の姿を見ていると、母が不安を抱えている場合じゃないのかもしれない——むしろ、信じて見守る時なのかもしれない。

◇
5年前、破水をしたあの頃の私へ。
陣痛の痛みは数分単位で続くけれど、その分あなたが想定する以上に強い子が生まれるから。あなたは、ただ「今」に集中して、不安に飲み込まれずに、どうか安心して出産を迎えてほしい。
でもね、これから出会うことになる「娘」は、一見強く見えるかもしれないけれども。自分なりの精一杯を重ねて、ほんの少し無理をして……懸命に頑張っているだけかもしれない。
あなたがそれに気づいた時は、どうか迷わず。そっと、あの子に手を差し伸べてあげて欲しい。
【完】
