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私たちは、信じたいものを信じているだけなのかもしれない【チ。-地球の運動について-感想】

「文字は奇跡ですよ」

 この台詞は、アニメ「チ。-地球の運動について-」に登場する女性キャラクター「ヨレンタ」の台詞である。

 この台詞を聞いた瞬間、私はスクリーンの前でただただ呆然としていた。なんて美しい台詞なのだろう。一体、どんな人生を送り、哲学を学び、どのような作品に触れたら、こんな素晴らしい台詞を思いつくのだろう。

 そもそも私にとって文字は、普遍でありそこにあるもの。そんな私にとって「文字=奇跡」という表現は衝撃だった。

 むしろ、勉強が大して好きではない私にとって、文字とは「義務教育で、嫌でも学ばざるを得ないもの」でしかない。

 その後、母親の影響により図書館で本を読む習慣ができたものの、文字を勉強することの有り難みを知るには至らず。

 あの頃は、みんな文字なんて読めて当たり前だという認識だったので、そこに感謝など微塵も感じていなかったような気がする。

 書籍、新聞、ネットニュース、街の看板などなど。世の中には美辞麗句から誰かの暴言まで、幾多もの文字で溢れている。

 文字の使い方も間違えれば、一寸先は闇。インターネットの世界では、何気なく呟いた誰かのメッセージが、嫉妬・誤解を招く、または単なる嫌がらせ、もしくは誰かの承認欲求を満たす道具としてなどなど。いろんな理由によって、激しく燃えることもしばしば。このように、文字にはいいことも、悪いこともある。

 では、文字は悪いものなのかといえば決してそうではなく。その人の使い方と、あとは相手の受け取り方ではないかと思う。

 人によっては、誰かが発したメッセージによって心を動かされたり、励まされることもあるだろう。

 そして、文字を残すことには「希望」もある。もしかすると、文字で未来に向けてメッセージを残すことで、後世に向けて知見・想いを受け継げるのかもしれない。その学びや想いが、誰かの役に立つのかも。

 その想いについて、ヨレンタはボソッと仲間たちに囁く。そのヨレンタの想いに、私は震えた。文字には希望と、可能性がある。今私たちが呟いている言葉でさえ、どこかに残しておけば数年先を生きる誰かに届くのかもしれない。

 もし誰かの心に届くのであれば、できれば響くものを。そして、その人にとって救いになるようなものを書けたらいいなぁ。そんなことを、ヨレンタの台詞を聞くなりぼんやりと思う。

 アニメを見て、ふと思ったことがある。そういえば「文字を読めない側」の気持ちや、文字の凄さについてなんて、これまで一度も考えたことがなかったかも。

 作品には、文字が読めないが故に「勉強したい」という志を持つ青年や、文字の奇跡を信じる少女が登場する。

 ところが、彼らは当時信仰されていた教えに抗うことができないなどの理由から、自らの意思で勉強することができない。

 好奇心の赴くままに、勉強できる今の世の中は幸せなのだなぁと。そして、文字や学びには世界を広げる力と、次の世代へバトンを受け継ぐ力もあるのだと。そんな大事なことを、このアニメは教えてくれたような気がする。

先日、Ameba TVにて、アニメ「チ。-地球の運動について-」を視聴した。

↑スカパーピクチャーズチャンネルより

 こちらの作品は、地動説を証明するために、自らの命や信念をかけて研究する者たちのストーリーだ。

 私が視聴したのは、第二章の途中まで。ネタバレは避けたいので、あくまで「私が見た感想」を紹介する。

 この作品を見てまず先に感じたのは、学ぶとは「知る」ことなのだと。そして、何かを知ることでひとつ世界が広がるのだと。人によっては、世界の広がりによって感動したり、希望を感じたりするのだろうか。それも、誰かにとってはすでに「当たり前」のことなのかもしれないけれど。私はそれすら、今まで気づかなかった気がする。

 思い起こせば、私にとって幼少期〜20歳まで考えていた「学ぶ」というのは、いい学校に入って、就職するために必要なものだった。

 そして先生や、親に叱られないために「やらざるを得ない」ものでしかなかった。あとは、自分が賢く生きるために必要な知識という感じだろうか。今振り返ると、なんて冷めた子どもなのだろう。

 残念ながら、真面目に勉強してきたにもかかわらず、新卒採用で入った会社からは1ヶ月でクビを宣告されてしまう。

 あんなに一生懸命、勉強してきたのに。真面目に勉強を頑張ったところで、将来が決して報われる訳じゃないんだと。項垂れるように、がっくりと私は肩を落とす。

 勉強って。真面目って。一体なんなのだろう。

 そんなことをぐるぐる考える間もなく、お金のために100均でバイトするようになった。お金が必要になったのも、その頃クビになった会社からもらったお金を全て「パソコン教室」につぎ込んだからこそ。私はまだ、未来=正社員の道を諦められなかったのだ。

 バイト先はショッピングモール内にあったため、各店舗の店員が集う「社員専用」の食堂でご飯を食べる日々が続く。

 そこにはバイト、パートとして働く者よりも、正社員として雇われている人の方が多かった。

 彼らをみて感じたのは、日々を丁寧に生きてきた上で培われた清潔感、しゃんとした背筋、綺麗な箸の持ち方、屈託のない笑顔。そして、ここにいる人はみな、目の前の誰かと楽しそうに会話をしていた。

 私のバイト先のように「あの人と会話が通じません。どうしたらいいですか」「隣の人が距離近過ぎて、困っている」というやり取りは、どうやらなさそう。みんなコミュニケーションが円滑に取れていて、嬉しそうな顔でご飯をパクついている。平和だ。

 キラキラとした彼らがあまりに眩しくて、思わず私は目を逸らす。パートやバイトの人たちだって、本来ならここで食べられるのに。なぜ、ここには正社員らしき人ばかりが座っているのか。

 というか、パートやバイトの人たちはどこで食べているのだろう。バイト仲間の中には、ショッピングモールのフードコートを利用しているという人もいれば、マクドナルドを日々利用しているという人もいた。けれど私は、緑のエプロン姿でそこで食べるのはちょっと恥ずかしくて遠慮した。

「もしかして、みくさんでは?」

 いつものように食堂でご飯を食べていると、不自然なアーチ型をした眉毛の女性から声をかけられた。目鼻立ちのくっきりした、とても綺麗な人。彼女が近づくにつれ、お化粧のいい香りがほんのり漂う。女子力200%武装みたいな女性だけれども、私の知り合いだろうか。あっ、思い出した。中学校の元同級生だ。

 私は1ミリも変わっていないのに、彼女はあの頃よりずっとスリムで美しくなっている。卒業してからまだ10年も経過していないのに、人はこんなにも変わるのかと驚く。

 彼女の話を伺うと、このモール内にある店舗で正社員として働いているらしい。彼女はあの頃と変わらず、明るくてけらけらと笑っていた。

 少し違うのはお化粧がとても上手くなっていたことと、痩せて美しくなっていたこと。幽☆遊☆白書の飛影が大好きだったあの子も、すっかり洗練された大人の女性になっていたこと。

 まあ、もともと顔立ちはアイドルのように整っていて、可愛らしかったのだけれど。当たり前のように、そこで改めて気づく。顔立ちの綺麗な人は、化粧をするとより映えるのだなぁと。

 今よりずっと根暗だったあの頃の私は、彼女と出会えて嬉しい一方で、「私の方が、勉強できたのに。なぜ私がバイトで、彼女が正社員なの」と、卑屈なことを考えてしまう。

 そもそも卑しい感情を持つのも、自分が恵まれた立場にいなかったからこそ。今の環境に満足できていなかったからだ。そして、友達に対してそんな醜い感情を持つ自分が、本当は嫌だった。腐った感情を捨てて、一刻も早くここから飛び出したかった。

 その後、当時通っていたパソコン教室のお陰で、半年後に再就職。その時に感じたのは、学ぶことは身を助けるということ。この時ようやく、学ぶことの有り難みを感じられたような気がする。

 けれど、その考えはどうやら「チ。-地球の運動について-」によって、再び大きく変わりそうだ。そもそも私は、これまで進学、再就職などなど。自らの損得勘定のために勉強してきたように思う。

 「チ。」に登場する人物たちは、その場の損得感情なんかで誰1人動いていなかった。みんな、自分の好奇心、信念、誰かの想いを繋げるために学ぼうとしていた。

 残念ながら、その時代には「信じられてきた教えに反するものは、学んではいけない」という考えがあり、反発した人たちは皆酷い拷問を受けることになる。女性は研究や自ら学ぶことを敬遠され、しようものなら「魔女」と呼ばれる始末。魔女に認定されたら最後、きつい拷問を受けなければならない。

 けれど、「チ。」に登場する人物たちは、拷問や死よりも希望や、感動、未来へ託したい想いなどを尊重して前に進んでいく。彼らは言う。知りたいことを学べないこと、理解できないことは、死や痛みよりも辛いのだと。

 これまで試験、受験や必要に応じて勉強を重ねてきたが、そんなこと一度も考えたことがない私にとって、その発想は目から鱗だった。

 自分の利益というより、想いや誰か、未来のために命を賭けて「学ぼう」という姿勢の、なんと美しくも尊いことだろうか。けれどその美しさ故に、拷問や処刑のシーンには胸にぐっとくるものがあった。

 なぜ、彼らがそんな目に遭わなければならないのか。そこまでして、守らなければならなかった「教え」は本当に正しいものなのかと……。けれど当時、その世界では「教え」がスタンダードであり、絶対に守らなければならなかったのだ。

 彼らが自分たちの学びを「その世界の教え」によって抑圧されるシーンを見るたびに思ったことがある。

はたして、私たちが今信じていることは「真理」なのかと。

 義務教育、書籍、雑誌、テレビ、家族や恋人、友人や世間といったまわりの人々によって、私たちは日々学ばされている。けれど、もしかしたらそれらの中には「そう学んでもらうことで、誰かにとって都合がよくなること」が潜んでいるのかもしれない。

 今はSNSの普及によって、私たち一人一人に意思が芽生え始めた。今まで「当たり前」とされてきたものの真実が炙り出され、私たちはそれらを知るたびに「本当はそうだったなんて……信じられない」と、叩いてゆく。

 揶揄された人物には口無しだ。本人が何を言っても「真実なのか」「本当のことを炙り出せ」と、誰かから問い詰められる。

 けれど、それらの情報も本当に真実なのだろうか。

 そもそも私たちは、自らが信じたいものを信じようとする。それらを否定された時、揶揄されたり、なじられた時。人は怒るのだ。

 世の中には、そんな人たちの心理をついて、わざと誰かの心を弄ぼうとする人もいる。人の心を煽るのが、1番「注目される=商売になる・承認欲求を満たせる」と知っているからだ。

 その先には一体何があるのか。一時的に注目を集めても、長期的な信用は失われやしないだろうか。そして、その情報は、はたして本当に「真理」なのかと。

 インターネットの世界では、批判で折れてしまう人ほど垢を消したり、更新を止めてしまう。

 その一方で、一時的に激しく燃えたとしても「気にせず、他のサービスを淡々と宣伝し続ける人」といった人ばかりが生き残っている。

 前者の人は時として繊細とか、弱いと言われることもあるが、普通は第三者に批判されたら心が折れるものではないだろうか。それとも、私が「普通」と思っていることは、私がただそう思っているだけなのか。

 インターネットの世界では、一時的に燃えたとしてもそこで謝罪など(またはスルー)を重ねた上で、継続していく人たちが、誰かの日常へと溶け込んでいく。

 もしかしたら、その人たちだって傷ついているかもしれないし。それとも、そういうものだと割り切っているのかもしれないけれど。その真実については、私もわからない。炎上についても、人によって捉え方が違うと思うから。

 そして、その炎上についても。はたして、本当に間違っているのだろうか。

 思い起こせば、私は自分の信念や好奇心のために勉強してきたことがあっただろうか。そこにはいつも、必ず「お仕事=利益が得られるかどうか」という思いがあった気がする。もちろん、それは決して悪いことではないのだけれども。

 今、私は45歳。人生の曲がり角でもある。残された人生をより充実したものにするには、自分の好奇心にもっと素直になってみてもいいのかも。これから先は、自分の「学びたい」という気持ちを尊重した上で、勉強もできたらいいなと思う。

 「チ。」は、平和な今の日本だと到底考えられない価値観でストーリーが展開していく。

 けれど、もしかしたら今日本にある平和も、長い歴史をみると「当たり前」ではないのかも。過去には日本にも戦国時代はあったし、異国と戦争をしていた時代もある。

 今の平和と自由は、長い歴史の中でさまざまな人たちが必死に紡いできたものだ。けれど、そうやって受け継がれてきたものでさえ、決して「当たり前」のように続いていく訳ではなく。

 今の自由や平和のバトンを受け継ぐために、私に何ができるだろうか。まずは、今ある平和と感謝を「文字」で伝えることなのかもしれない。

 これから先も、今感じた感動や、想いを言葉にして残していきたい。誰もが、当たり前のように感動して、学べる時代が続くようにと願いを込めながら……。

【完】

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