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夫には内緒ですよ

夫に内緒でエステに通っている。課金額は10万円。そして、そのきっかけをくれたのは他でもない夫だ。

家族で車を走らせていた帰り道だった。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、夫がふいに、独り言のように小さく呟いた。

「あんた、太ったなぁ。前は綺麗だったのにさ」

その瞳は潤んでいた。嫌味ではなく哀れみと、彼の願望。そんな複雑な想いが絡んでいるのを感じた。それから、夫の発言で気づいたことがある。

私は夫から「昔は綺麗」と思われていたのか。なら、あの頃に一言言ってほしかった。「みくさんって、綺麗だね」と。

「痩せて見返してやろう」とか「もう一度惚れ直させてやる」とか。

世の奥様方は、夫の心無い一言に発奮し、そんな乙女な決意を胸にダイエットに励むものだと思っていた。けれど、鏡の前で自分の腹をさすりながら、ふと思う。私の中に、そんな気持ちは微塵も存在していないことに。

私にとって、夫はもはや「見返すべき対象」ですらないのかもしれない。では、夫は一体何なのだろうか。結婚して10年が経つ。こう感じてしまうことは、夫婦としてマズイのか。

今の私は、もはや「惚れ直してほしい」どころか、「視界の端で健やかに生きていてくれればそれでいい」という、もはや盆栽を愛でるような枯れた境地に達している。

夫婦としてこの冷めっぷりはマズイのだろうか。バチェロレッテを見ている時は、あんなに胸がドキドキハラハラしていると言うのに。

そんな哲学に近い悩みよりも、今、私の目の前にはもっと切実な問題がある。

夫が、年々、確実に。膨らんでいるのだ。腹が。

そんな夫から「最近、また腹が出てきたんじゃない?」と言われることも増えた。

どの口が言う。そう指摘する夫のお腹は、私から見れば「出ている」なんて生易しいものではない。私の倍はあろうかという見事な「ぶくぶく」具合である。

人の腹を指差す前に、まずは自分の腹を見てほしい。まさに「人のふり見て我が腹を直せ」だ。

愛だの恋だのというフィルターが剥がれ落ちた後に残ったのは、相手を「異性」として意識する緊張感よりも、互いのだらしない体型を認めあうことなのか。

結婚当初は、お互いに高め合っていけたらいいねとか言っていた。ずっとこんな関係が続くと思っていた。けれども。育児がはじまると自分達より子どもがとりあえず健やかに生きてくれて。笑っていたらいいやと思ってしまう。同時に、このままじゃ自分がどんどんダメになる気がして怖い。

そんな中、夫はチョコザップ(chocoZAP)に通って体を鍛えているのに何も変わっていない。ジムに通ったとしても、ラーメン食べたりビール飲んだりしているからかもしれない。私は何もしてないから、年々年輪みたいに太り続けている。どうしよう。


ダイエットしたいと思った。



別に誰にどう思われたいとかではなくて、自分のために。

「エステ行きたいなぁ」と夫の前でぼそりと呟く。痩せることから、もはや他力本願。ダイエットにストイックな人ならここで腹筋とか運動するんじゃないだろうか。

すると夫は「エステ行きたいんか。ホットペッパーで予約したるわ」と言ってくれた。優しい。

美容院、エステ。いつもお店を検索したり、予約をしてくれるのは夫だ。少しでも安くて、お得なお店を探したるわな。あんたが予約すると、とんでもなく高い店を選びがちで心配や。そんなことは、もちろん言わないけど。


でも彼が血眼になって「クーポンのお得なお店を探したるわな!!」と言いながらネット検索している姿を見た時。

そして、私が「ファスティングをすると決めた」といって一万円の酵素ドリンクを自腹で買ったら、夫より

「なんでそんな勿体無いことをするんや!!一万円の酵素とか、高っ!えっ、1日で飲み干すの?それで痩せると思ってるの?アホちゃうか!!」

って、ガンガンに詰められた日に思う。

君は、少しでもお得で、安いエステに行って欲しいんだよね、嫁に。

私に「お得」への情熱は薄いので、ここは君に任せた。


夫に予約してもらったエステは、8000円ほど。筋膜リリースというエステらしい。

「筋膜を剥がしていきます」
「角膜ですか」
「いいえ、筋膜です。角膜を剥がしちゃダメですよねぇ」
「私もびっくりしました」
「もしかして、天然さんですか?ウフフ」

そんな緩いやり取りをスタッフさんとしていた。エステも一回で終わらせるつもりだった。

ところが、施術を受けながら「継続しないと、なかなか効果って出ないものでしてぇ〜」と口説かれていくうちに、私の心も少しずつほぐされていく。

その頃の私は、紙パンツ一丁でベッドに横たわり、スタッフに全身オイルを塗られながらマッサージを受けていた。だから服を着て生きているのかな、人間は。

「今なら特別なコースをご案内できましてぇ~」

スタッフの優しい声が、頭上からふわりと降ってくる。

いや、待ってほしい。

服を着ていれば、「ちょっと考えます」とか、「今日は財布を持っていなくて」とか、いろいろな逃げ道がある。けれど、紙パンツ一枚では、なぜだろう。心まで丸裸になっている気がしてくる。

私は昔から押しに弱い。

街を歩けば「信じるものは救われます」と声をかけられ、化粧品のキャッチには「お肌だけでも見せてください」と呼び止められ、そのたびに愛想笑いを浮かべながら「急いでいるので……」と逃げてきた。

断るのは苦手だ。相手が親切そうであればあるほど、なおさらである。

そんな人間が今、逃げ場のないベッドの上で、全身オイルまみれの状態で高額コースを勧められている。心理戦としては、圧倒的に不利だった。

「うーん……。そうですね……」

本当は断りたい。けれど、きっぱり断る勇気もない。紙パンツ一丁で寝そべりながら思う。とりあえず言葉を濁そう――そう思った、その時だった。施術の後半、スタッフがさらりと言った。

「体験で契約してくださると、2万円分のクーポンがついてぇ〜」

その言葉を聞いた瞬間、私の体がぴくりと反応した。

お得だ。


私は、お得に食いつかない人間だと思っていた。夫からのお得サブリミナル効果がてきめんだったのか、このタイミングで「いいですね」と不覚にも呟いてしまう自分がいた。

そこからは、「30万円コースと、20万円コース、10万円コースがあってぇ〜。30万円コースが一番お得なんですヨォー」みたいな話がはじまったら、あとは最後。つい数分前まで、「高いので結構です」と断るつもりだった人間が、いつの間にか「10万円ならお得ですね」などと言い始めていた。

オイルでほぐされていたのは、どうやら肩や背中だけではなかったらしい。警戒心も、そして財布の紐も、すっかり柔らかくなっていたのである。改めて思う。紙パンツ一丁の時に口説かれるのは、実に怖いことだ、と。

***

6ヶ月10万コースを契約してしまった。だから私は今、夫に内緒で細々とエステに通っている。

現時点ではバレていない。多分。たまにエステへ行く最中に、夫から「今何してる?」と連絡がくるとドキッとする。「ご飯食べてる」とか「さっきまで打ち合わせ」とか、息をするように嘘をつく自分が怖い。

上手く逃れたらミッション成立とか、アリバイをどうするか、とか。内心ほくそ笑んでる自分が恐ろしい。


けれども。もし本当に、痩せて綺麗になったら。
夫は何て言うだろうか。綺麗になったねと言うのか。それとも、あんた一体何をしたのかとか。またお高い酵素を買ったんかとか言うのだろうか。

いずれにしても、エステに通うきっかけを作ったのも、第一回目(お試し価格)のエステ体験も、全部。夫のおかげだ。

だからもし突っ込まれたら、こう言うと決めている。君のおかげですよ、と。ふふふとほくそ笑みながら、ぼそりと呟くのだ。

【完】


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