結婚記念日に「秘密の扉」を叩く
「今年は、結婚記念日のお祝いでもしようか」
背中を少し丸めた夫がぼそりと呟く。夫からその言葉を聞いたのは、4年ぶり。娘が生まれる前だ。思いもよらない夫からの誘いに、私は目を見開く。
「い、行く」
嬉しかったし、もっと気の利いた言葉を本当はかけたかった。けれど咄嗟の出来事だったあまり、反射的な言葉しか返せない。まるで鎖に繋がれたパブロフの犬みたいだ。
娘を出産してからというもの、結婚記念日のお祝いからはすっかり足が遠のいていた私たち。お宮参り、ひな祭り、七五三、入園式。子どもが産まれる前までは、どのイベントも眩いものばかり。
Instagramで誰かの「今日は、娘の七五三。フォトスタジオで記念撮影しました」という投稿に、一体なんど指を加えたことだろうか。
いざ娘が生まれると、今度は夫婦の時間をゆっくり過ごしている人が羨ましくなる。隣の芝生はいつどんな時も塗り潰せないくらいに真っ青だ。娘が生まれてからは、家族でご飯を食べにいくにしても「子連れOK」の店にしか足を運べなくなった。
やがてイオンのフードコートや回転寿司、餃子の王将のテイクアウトで手短で済ますことも増えていく。ご飯に色気を求めるよりも、子連れでも食べられるお店であるかどうか。お店選びで重要視するポイントが180度変わった。
そもそも子どもが生まれてからは、夫婦ふたりで出かけること自体が難しかった気もする。子供を預けようにも、義実家と実家はそう近くない場所にある。結婚した当初は、自分たちだけでも何とかなると思っていた。
私たちはもういい大人なのだし、親に甘えるなんて邪道だと。あの頃の私は、37才。若くない癖に甘かった。自分はもっとできると思っていたが、いざとなると想像以上に何も出来ないことに気づく。いや、できるできないという問題ではなく、頑張ってしまうと育児は詰む。
何事においても、当事者にならないと見えない景色がある。子どもが生まれ、少しずつ育っていくうちに猫の手でもいいから借りたくなるのだ。
◇
昨年の4月から、娘は保育園に入園した。夫が私を誘った日は、平日のお昼。娘は保育園に預けており、夫は有休を取っていた。久しぶりの結婚記念日に、私の胸は高鳴る。
夫が予約したお店は、JRセントラルタワーズ51階にある天空のフレンチレストラン「Cepages(セパージュ)」。
レストランは最上階にあり、ロケーションからは名古屋の街並みを一望できる。快晴で、なおかつ白昼の明るい時間帯なら、養老山脈から伊勢湾まで眺めることもできるらしい。
51階に行くには、12階にあるエレベーターへ乗り換える必要がある。そのエレベーターは12階の中央にひっそりと佇んでいる。利用する人は51階のお店を利用する人のみなので、閑散としている。多くのレストランは12〜13階にあるため、その前を通ることはあるが、「51階行き」のエレベーターを利用することはまずない。
——知る人ぞ知る、秘密の扉。
51階行きのエレベーターを、私はそう呼んでいた。夫と私は、そわそわしながら51階行きのエレベーターへと足を運ぶ。エレベーターを降りて角を曲がり、奥を突き進むと、私たちの行くお店「セパージュ」が隠れ家のように聳えていた。

渋い焦茶色の壁は重厚感があり、天井も高くて開放感がある。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
スーツ姿の男性が、上着や荷物を預かりましょうかと声をかける。私は慌てて剥ぎ取るように上着を脱ぎ、不慣れな手つきでスタッフに渡す。
席はこちらですとスタッフに案内された瞬間、窓から見える景色に、私は目を丸くする。電気屋、モーニングのお店、いつも通う総合病院。見慣れた建物たちが豆粒みたいに小さくて、まるでミニチュアのよう。

お店では三河湾で獲れた魚介類、知多半島の農家より届くオーガニック野菜など、良質な地元食材を楽しめるコース料理が楽しめる。
圧巻の景色を見下ろしながら、極上のグルメを堪能できるなんて。そして、私の隣には結婚記念日のお祝いをしてくれる人がいる。ああ私、幸せだ。
◇
まずテーブルに登場したのが「シューサレ 菊芋 マッシュルーム」というフィンガーフード。こちらは指で摘んでそのまま食べるらしい。

フィンガーフードの下に「丸い木のコースターのようなもの」があり、私は思わず首を傾げる。これは飾りなのか、それとも。
「料理の下にある、丸い木のコースターみたいなものも食べられるのかしら」
「当たり前じゃん!だって、お皿に盛り付けられているんだから。食べられるに決まってるでしょ」
夫の言葉を信じ、「丸い木のようなもの」を口に入れる。かちりと歯の当たる音がした。薄々察していたが、硬い。やはり食べ物ではなく、飾りのようだ。

「これ、食べられないよ」
「嘘っ。食べ物じゃないの?どれどれ」
夫も私に倣って「丸い木のようなもの」を口にした途端「硬っ!!」と声を上げる。やっぱり食べられなかったねと、私たちは目を合わせて笑みを浮かべる。
次に出てきた料理は「鰆 黒大根 レモネーディア」。スタッフによると、完全無農薬のレモンを料理に使用しているらしい。

そもそも家でレモンを使って料理すらしていないので、完全無農薬とそうじゃないレモンの違いがわからない。ここで普段から料理を嗜んでいる方なら、口に含むだけでソムリエみたいにその違いがわかったりするのだろうか。
鰆を口元に運び、香りをティスティングする。レモンのツンとした爽やかな酸味が、鼻を伝う。口に含むと、とろけるように柔らかい鰆とレモンの酸っぱさが絶妙に絡みあっていくのを感じる。噛むほどにレモンの旨味がジュワッと溢れ出し、あまりの美味しさに舌鼓を打つ。
レモンの旨味を堪能した後に、ブロッコリーのヴィーガン料理がテーブルに届く。こちらのお店では遊び心溢れる創作フレンチの他にも、多様化したライフスタイルに寄り添うためにヴィーガン料理の提供も行っているらしい。

綺麗に盛り付けされた姿を見て、ブロッコリーの可能性に驚く。もしかしたら普段スーパーで見かけるブロッコリーでさえ、盛り付け次第でいくらでも見栄えが良くなるのかも。
ブロッコリーを口に含むと、想像していたコリコリした歯応えの「ブロッコリー」と異なり、しっとりした食感。火入れもちょうど良く、ほどよい柔らかさもあり食べやすい。驚いたのは、噛めば噛むほど甘さを感じたこと。へえ、ブロッコリーって甘味もあるんだ。なんだか、私の知っているブロッコリーじゃないみたい。
素材の良さを把握した上で、旨みを出せるように工夫して調理されているのだろうか。なにはともあれ、ブロッコリーってこんなに美味しい食材なのだと思える素晴らしい一皿だった。
ブロッコリー料理の後は、金目鯛のポワレがテーブルに届く。料理は鯛と備中蓮根に、あさりを凝縮したスープで作られているらしい。

魚料理といえば、そのものを焼くか煮るかしか思い浮かばない私。魚に蓮根や、あさりを組み合わせるだなんて。斬新だ。
普段行かないお店に行くと、意外な組み合わせの料理に遭遇することもしばしば。同じ素材を揃えるのは難しいけれど。似た組み合わせで今度料理を作ってみようと思えるのも、外食の醍醐味かもしれない。
魚料理が続いた後、ラストは知多牛。お肉は柔らかくて、口に入れるとほろりととろける。

「うわぁ、ふんわりしてる。なにこれ、美味しい!」
夫が感嘆の声を上げる。私は夫の美味しい時は素直に「美味しい」というところが好きだ。私は照れくさいので、普段はなかなか素直に慣れないけれど。この日ばかりは特別。「美味しいね」と、口を合わせた。
肉料理の後には、お口直しのデザートが登場。デザートは、清五郎農園みかんを使用したシェーブルチーズ。

他にも、セントラルタワーズで開催かれるバレンタインのチョコレートイベント「アムールデュショコラ」とのコラボで、「フォンダンショコラ」を選ぶこともできた。せっかくの機会だからと、両方食べたい私たち。
「僕がシェーブルチーズで、妻がフォンダンショコラでもいいですか」
夫がそう答えると、スタッフは「いいですよ」と慣れた口調で回答する。高級なお店であれ、毎回常連の客が来る訳でもない。私たち夫婦のように、とっておきの記念日に奮発しようと運ぶ客だって訪れるのだろう。
夫が「そういったお客さんもいますよね?」と念を押すと、スタッフは「うーん、そうですねぇ……」と言葉を濁しながら、一瞬宙を仰ぐ。その後、すぐさま「デザートは別々でも全然大丈夫ですから、ご安心ください」と、落ち着いた口調で切り返す。実に神業的なキャッチだった。
夫婦で別々のデザートを、結婚記念日に食べる。そして、少しずつ分け合う。珍しいタイプの夫婦かもしれないけれど、そんな2人がたまにはいてもいいだろう。

お会計をすると、その料金に目が止まる。白昼から2人で3万円。高いだろうなとは思っていたけど、いざ金額を目にすると面食らう。そんな妻の心配を他所に、夫はスマートに会計を済ませる。
「せっかくだから、お店の前で記念撮影をしよう」
高級なお店に昼から訪れる人たちの中に、店の前で記念撮影する人っているのだろうか。

けれど私たち2人は、今度いつ来れるかわからない。
夫は「また来たいね」と言っている。けれど、そう気楽に行けるお店でもないし。もしかしたら、今日この日にお店の前で撮ってもらった写真も、いつかの記念になるのかも。
「予算オーバーじゃない?」
「ちょっと高かったけど、なかなか行けないからね。行ける時に行かなきゃ」
「うーん、そうだね。でも……」
「普段子どもがいると、お世話でなかなか自分たちが食べることに集中できないし。それに2人でゆっくりご飯が食べられたのって、久しぶりじゃない?」
「うん。なんか4年ぶりに、ゆっくり話せた気がする」
そういえば、夫の顔をまじまじと見て話すのも久しぶりかも。そして、夫から目を向けられることも。私たちの目の矛先には、いつもたどたどしくフォークを握る娘の姿がある。
お互いの目を見て話し、ケラケラと笑い合う。いつも、当たり前のように私たちはできていたと思っていた。けれど、慌ただしい日々の中で、ずっと見逃してきた気もする。
私たちが求めていた幸せは、決して大きなものではなくて。もしかすると、側にずっと眠っていたのかもしれない。ただ、気づかなかっただけなんだ。私たちは一体、これから隣の小さな幸せをいくつ見つけられるのだろう。
「今日の僕たちは、充実した時間を買ったんだよ」
夫の言葉に目をぱちくりさせる。充実した時間を、お金で買う。その発想はなかった。毎日顔を合わせる人とのお出かけであっても、普段行かない場所へ足を運ぶと新たな発見があるのかも。
深く理解していると思っていた夫でさえ、まだ私の知らない引き出しがたくさん眠っているのかもしれない。長く共に過ごす中で、少しずつその扉を開けていけたらいいなと思う。

【完】
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