双月の森 【第8話】
出発を翌日に控えた夜、小屋はいつもと変わらず静まり返っていた。
ベッドのそばにある暖炉の前ではルシが、奥の部屋ではヴォルマノスが眠っている。
ふたりの穏やかな寝息に混じり、暖炉の熾火からチリリ……と炭の割れる微かな音が聞こえた。
これまで当たり前だと思っていた、愛おしい毎日。
わたしはヴォルマノスと一緒に過ごした日々を思い出していた。
◇◇◇
「お前は優しい子だのう」
手伝いをするたび、いつも目を細めながら頭を撫でてくれた。
「ヴォルマノス大好き!」
そう言って抱きつくと、時々涙ぐむことがあった。
よくわたしを ”泣き虫な子” って言ってたけど、本当はヴォルマノスのほうが泣き虫だったね。
ヴォルマノスは森の鹿たちと友だちで、よく手をつないで会いに行った。
わたしも触らせてもらったことがある。
温かくて、瞳が澄んでいてきれいだった。
魔法を教えてもらう時間も大好きだった。
ヴォルマノスには、知らない魔法も使えない魔法もなくて、わたしは大人になるにつれてそれがどれほど凄いことなのかを知ったんだ。
攻撃魔法がちょっと苦手だったわたしに何度も言ってくれたよね。
「この魔法はお前が守りたい誰かのために覚えるものじゃ」
この言葉があったから、ヴォルマノスのためって思ってがんばれた。
治癒魔法はわたしが本来持っている能力だったから、魔導書も解剖学も小屋にあるすべての本を夢中で覚えた。
それだって、ヴォルマノスが嬉しそうに笑ってくれたからだったんだ。
勉強も同じで、外国語も古代語も、喜んでくれるからわたしは覚えられたの。
ヴォルマノスが町へ出かけるときは、ひとりで留守番をしていた。
小さい小屋がすごく広くて、いつも泣きながら待っていたっけ。
だけど褒められたくて、掃除をして、薬草茶を作って、帰りを待った。
ヴォルマノスはいつもお土産を買ってきてくれてた。
お菓子のこともあったし、本やかわいい服のこともあった。
もらった物は今でも大切に宝箱に仕舞ってあるよ。
泉も丘もおやつを持ってたくさん一緒に出かけたね。
どの季節の、どの天気でもヴォルマノスとの思い出が詰まってる。
離れる日が来るなんて、一度も考えたことがなかった。
最近は恥ずかしくて言えなくなっていたけど、大好きだよ。
わたしは、ずっとずっと子どものままでいたかった……。

翌朝、アリスが目を覚ますと、ヴォルマノスはすでに起きてお茶を沸かしていた。
「起きたか」
「……うん」
「ルシはもう荷を整えておる。お前も支度をしなさい」
アリスはうなずき、ベッドから下りると、部屋を見渡した。
古い本がたくさん詰まった本棚、乾燥した薬草の束、天窓の向こうの薄明るい空。十年以上、毎朝見てきた景色。
アリスはじっと部屋を見つめ、胸に両手を当てる。
「ヴォルマノス」
「何じゃ」
「すぐに帰ってくるから、わたし……」
ヴォルマノスは振り返らなかった。深い皺の刻まれた手が静かにお茶を注ぐ。
アリスは静かに席に着き、差し出されたお茶を飲む。
「そりゃここは、お前の家だからの」
その声は、いつもと変わらなかった。
いつも頭を撫でてくれた、皺のある手を見つめながら温かさを思い出す。
「ヴォルマノス……頭撫でて」
ヴォルマノスはポットを机に置くと、そっとアリスの頭を撫でる。
その目は慈しむように細められていた。
「お前は昔から変わらないのう……」
「変わりたくないよ……」
言葉の続きは声にならなかった。
また今までのように暮らそうね。
待っていてね。
アリスは気づけば泣いていた。
ヴォルマノスはアリスが落ち着くまで、何も言わずに頭を撫で続けた。
お茶を飲み、支度を終えて外へ出ると、ルシが庭の切り株に腰掛けて待っている。
「待たせてごめん」
「気にするな」
「ふたりとも、気を付けていくんじゃぞ」
ヴォルマノスは微笑みながらふたりへ手を差し出す。
その手の上には小さな木でできたアミュレットが二つ乗っている。
「これは連理の枝から作られたものだ。それぞれ持っていれば、離れてもいつか必ず再会できるじゃろう。持っていくといい」
「うん、ありがとう」
アリスは受け取るとそのアミュレットを首から下げ、無くさないように服の中にそっと仕舞った。
ルシも無言でそれに倣う。
森の方へ少し進んだところで、アリスは長年住んでいた小屋を振り返った。
ヴォルマノスがまだ入口に立っていた。白い顎鬚を風になびかせ、微笑んでいる。
「行ってきます」
アリスは深く頭を下げた。
ルシも頭を下げた。
そしてふたりはまた歩き始めた。
霧が世界を幻想的に包み込んでいる。
光はきらきらと景色を輝かせて、木々はふたりを見送るように静かに揺れた。どこかで小鳥が鳴いている。
森の境に差し掛かった時、アリスはほんの少しだけ躊躇った。
この一歩で、すべてが変わってしまう気がした。
隣でルシが言った。
「行くか」
「……はい」
ふたりは外の世界への一歩を同時に踏み出した。
遠く、王都への道が目の前に伸びていた。
アリスが想像していたよりもその道は眩しく、夏の光に輝いていた。


はじめの一歩。
何事も0から1にするのが一番難しいですよね。
アリスはよくがんばりました。
AIに作成してもらった画像には無いですが、アリスは杖と斜め掛けの革のかばんを、ルシも革のかばんを持っています。
アリスのかばんには茶葉の小瓶や鏡や櫛が入ってます。
ルシはアストロラーベや本が入っています。
あとは各々旅に必要そうなものが入ってるイメージです。
宿場町を経由して向かうので、大荷物ではなさそう。
ん?旅をなめてますか?ごめんなさい。
BGMはColdplayさんを聴いていました。
聴きすぎて、家族に「音鳴ってないのに聴こえてくる」と言われました。
全部好きですが、In My PlaceやThe Scientistが好きです。
The Chainsmokersさんとのコラボ曲のSomething Just Like Thisも好きです。
それではまたどこかで。
