双月の森 【第41話】【第42話】
【第41話】
『ねえヴォルマノス、知っていたの?
わたしが……エルの子だってこと』
アリスが泣いている。
ヴォルマノスは静まり返った森の中で、東の空を見上げていた。
「どうやら知ってしまったようじゃの」
ヴォルマノスはぽつりと呟く…………。
その灰色の瞳には、深い陰りが差していた。
「あの子には、人として生きてほしかったが……」
かさっと音を立て、草むらから一頭の鹿が顔を覗かせる。
「おぉ、お前さんか。心配するな、ほれお帰り」
無理に笑顔を作り向けてみるが、鹿はヴォルマノスをじっと見つめ返してくる。
濡れたような黒い瞳が夕空を映して美しい。
『約束の子を迎え、育てよ』
五十年前の大亀裂。その前で神がわしに告げた言葉だった。
神の命に従い、わしが迎えに行った時、まだ幼かったあの子は破壊の中心にぽつんと佇んでおった。
神の子。人の親から人の体を、もらい受けて生まれてきた子。
その残酷な宿星に従わせるためだけに、無慈悲に人の母は消されてしまった……。
それを神はあの子に背負わせたのだ……。
あの子は人の心で、小さな体ですべてを背負うことになった。
わしが手を差し出したとき、あの子の手は震えていた。
恐怖に、震えていたのだ。
なんと惨いことをするのだと、激しい怒りが湧き上がった。
天を仰ぎ、言葉を吐いても返ってくることはなかったが、わしは神を問い質した。
何故、これほどまでに残酷なことが出来るのかと。
だからこそ、わしはアリスを人として育てることに決めた。
「アリス……」
ヴォルマノスは顔を両手で覆う。
深く傷つき、心を閉ざしてしまったアリスが、笑えるようになるまで一年以上の歳月がかかった。
まるで人形のように無表情に過ごしていたかと思えば、突然堰を切ったように大声で泣き喚く。
人間の器には多すぎる魔力は度々制御を失って暴走し、森や小屋を破壊した。
どれだけ月日が流れ、元気な姿を見せるようになろうとも、夜中になるとうなされて飛び起きることがよくあった。
しかし、アリスは本来、どこまでも素直で優しい子どもだった。
枕元に座り、古い物語を聞かせてあげると、夕日が落ちるようにすぅと目を閉じ、眠りに落ちる。
拙い絵を描き、少し恥ずかしそうに見せてくれる時のはにかんだ笑顔。
魔法を教えている時に見せる、好奇心に満ちたきらきらとした表情。
そのすべてが愛おしかった。
ただ幸せに過ごしてほしかった。
しかし、あの子はやはり、この静かな森から旅立っていった。
神が定めたことなのだと、わかっている……。
それでも、あの子がこれから歩むであろう過酷な未来を想像するだけで、胸が張り裂けそうだった。
だから、わしはルシへ託したのだ。
彼の出現は、わしやアリスの無意識な願いが手繰り寄せたものだった。
森は彼を受け入れ、我々の元へ導いた。
連理の枝がどこまでふたりを守ってくれるのか、わしにはわからない。
互いがいなければ、立っていられないほど傷ついた者たちが、生涯離れることのないように。
ヴォルマノスは暮れゆく空に、それだけを祈った。
鹿は静かにヴォルマノスを見つめ、つられるように空を仰いだ。
【第42話】
「──アリス」
低く響く声で、ルシが私の名前を呼ぶ。
胸元に下げたアミュレットが、温かさを持つ。
そのぬくもりで、はっとアリスは気がついた。
気がつけば、周りを囲むみんなが、笑顔を浮かべて自分を称賛している。
──いま、自分は何をしていた?
アリスは手を見つめながら、すっと背筋が冷たくなる。
(やっぱりわたしは……わたしじゃなくなってしまうの……?)
ふと視線を落とすと、正面にしゃがみ込んでいるリィンと目が合う。
その瞳は震え、驚きと、少しの恐れを感じた……。
「……リィン」
「アリス……よね?」
アリスは強い眩暈を感じて、足元がふらついた。
とんっと背中が何かに当たる。ルシだった。
「アリス、しっかりしろ」
こくんとうなずき、両足をしっかりと濡れた地面につける。
そして自分の肩に置かれたルシの手をぎゅっとにぎった。
その瞬間、ルシの手の温かさに胸を突かれるほど驚く。体温だった。
アリスはそっと胸に手を当てて、自分の心臓の動きを確かめる。
生きているし、生きていく。
ルシがいれば、きっと大丈夫だ…………。
◇◇◇
山際に沿うようにして野営が張られていく。騎士たちの無駄のない動きは見事だった。
今回の作戦に携わる、国の精鋭たちが一堂に会したその光景は、実に壮観な眺めだった。
アリスはその喧騒の中で、いつもと変わらぬ献身さで負傷した騎士たちの治療を行っている。
ルシが少し離れた場所から見守る限り、特に変わった様子は見られなかった。
しかし、アリスの変化が一時的なものとは思えなかったし、どうなっていくのかルシには想像すらつかなかった。
ルシが一人、離れた場所で木箱に座って見つめていると、声をかけられた。
「……少しいいかしら?」
顔を向けると、そこに立っていたのはリィンだった。いつもの優雅な佇まいとは違い、その表情は強張っている。
「ああ」
短く答えると、リィンはぱらぱらと紙の束をめくっていく。
「……これを見てくれる?」
差し出された紙に目を落とすと、それはアリスの絵だった。
「アリスだ」
それはルシがよく知っている、アリスの表情だった。
楽しげに笑っていたり、何かを考えていたりする。
その絵の向こうからは、確かにアリスの豊かな感情も、血の通った温度も感じられた。
「これは野営の度に私が彼女の姿を描き留めていたものなの。……でも、今日のアリスは……まるで形だけを模した別人のようだわ」
「……そうだな」
「身体の形は間違いなくアリスなのに……なんだか、存在が遠い気がするの……」
「ああ……」
ルシの生返事に、リィンはたまらなくなって一歩踏み出す。
「ねぇ、あなた知っているの? アリスの耳に、正体不明の歌が聴こえているという話を」
「………………」
ルシは答えずに眉間に皺を寄せ、腕を組んで考え込む。
リィンは、一向に向き合おうとしないルシの態度に、微かな苛立ちを募らせていく。
「アリスの身に、一体何が起きているの?! あの常軌を逸した魔法の件も、ロゼが……息を吹き返したことだって……」
「……すまない。俺の口からは言えない」
ルシとリィンは、お互いの瞳を真っ直ぐと見据える。
「……そう」
リィンはそれ以上追及することを諦めたように眉を寄せ、ふいと視線を逸らした。
そして、自身の腕を自ら強く握りしめる。その指先は、困惑と恐怖で細かく震えていた。
「……私たちに、出来ることは何もないのかしら…………」
ルシはしばらく黙り、絞り出すように静かに呟く。
「──俺も考えてる」
抑え込まれた低い声だったが、その瞳には悲しみや、怒りが浮かんでいた。
リィンはルシの瞳を見て、顔を上げる。
「あなた…………」
言いかけた瞬間、「うおーい!ルシ!!」という、陽気な大声が二人の間に容赦なく割り込んできた。
ニーロが、がしっと肩を組む。しかし身長差で手首しか乗せられていない。
「リィンもお疲れさまー!!」
ニーロはにかっと人懐っこい笑みを浮かべる。
リィンは言いかけた言葉を続けようと口を開きかけたが、諦めたように手を振る。
「お疲れさま。それじゃあ、私はこれで……」
ニーロもひらひらと手を振った。
リィンが艶やかな黒髪を夜風に揺らしながら、人波の向こうへと去っていく。
その場には、彼女が纏っているバラの香りが微かに残されていた。
「お前……」
ルシは隣のニーロを見て、呆れたように息を漏らす。
「ん?愛しのルシが思い詰めてたからだろー?」
「ばーか」
悪態をつきながらも、手を振り払おうとはしなかった。
「思い詰めた同士が話しても、建設的な話し合いはできないっしょ」
ルシは横目で隣のニーロの顔を見た。
そのあまりにも的を射た言葉に、その通りだと納得し、ため息をついた。
ずいっと目の前にふたつのタンカードが差し出される。
焚き火の光を反射させて、並々と注がれた琥珀色の水滴がきらりと飛ぶ。
「ほれ!飲もうぜ!」
ルシは一瞬考えたが、差し出された酒を受け取るなり、喉を鳴らして一気にあおった。
麦芽の香ばしさと、完熟したリンゴのような香りが鼻を抜ける。
「おー!いい飲みっぷりじゃねえか!」
「……久しぶりに飲んだ」
グイっと親指で口元を拭う。
「お前、ほんっとストイックだねー」
ニーロがうひゃひゃと変な声で笑う。
この男が酔っているのか、素面なのかルシには分からなかった。
ニーロはただひたすら陽気に喋り続けている。
「オレ酒飲むために生きてるようなもんだからー!」
「……どこに入ってんだよ」
「不思議だよねー?!」
ぐいぐいと何杯もエールを飲んでいく。
ルシも注がれるまま、ぬるくなったエールを喉に流し込んでいく。
エールはとろりとした舌触りと、甘さが強くなっていた。
「ういーさいこー。あの不気味な亀裂、早く消えねえかなー」
ニーロはぐてっとだらしなく木箱に寄りかかりながら、夜空を見上げて言った。
「なぁルシ、亀裂ってアリスちゃんしか塞げないんだよな?」
「……そうだな」
「なんかあの子、特別な雰囲気してるもんなぁ」
ニーロは手元のエールをちびちびと舐めながら、何気なく口にする。
「普通だろ」
ルシは願望を込めて言う。
「おいおい!何マウント取ってんだよぉ。恋人気取りか!」
ニーロが肘でルシを小突きながら楽しそうに笑う。
「──特別視しないでくれ……」
自分から出た掠れた声に悲壮感が漂っていて、ルシは情けなくなる。
けれど、アリスが別の何かに変わっていくことがたまらなく怖かった。
俯いた視界の端で、髪がゆらゆらと揺れる。
「……うむ、りょうかいした」
ニーロは横目でルシを見ると、それ以上ふざけたりしなかった。
それからはただ、何も言わずに静かに酒を飲んでいた。
どんなに沈黙が流れようと、ルシの傍らから離れなかった。
◇◇◇
「……シ!ルシ!」
とんとん、と遠慮がちに軽く肩を叩かれる。
はっと気づくと、目の前にアリスが微笑みながらしゃがんでいる。
どうやら、負傷者たちの治療を終えたようだった。
「ルシがこんなところで眠りこんじゃうなんて珍しいね」
アリスが小さく首を傾げている。
隣ではニーロがいびきをかいて眠っていた。
周囲の騎士たちもすっかり眠りについているようで、さっきまでの喧騒が嘘のように消え失せている。
(どれぐらい時間が経ったんだろう……)
久しぶりの酒のせいか、身体が酷く怠かった。
焚き火の灯りに照らされて、アリスの白い頬がほんのりと赤く染まっている。
ルシはアリスがここにいるのか確かめるように、指先で触れてみる。
そっと撫でると、照れたようにはにかんで笑った。
それから、アリスは寄り添うように隣に座った。
「ルシはお酒が飲めたのかあ。知らなかったな」
うーんと伸びをしながら言う。
「普段は飲まないけどな」
「じゃあ……ここはルシにとって、安心できる場所なんだね?」
嬉しそうに眠るニーロに視線を向け、ルシを見上げてくる。
「……かもな」
薄い紫色の瞳が、揺らめく炎の灯りを受けてきらきらと輝く。
(あぁ、いつものアリスだ……)
ルシはほっとして、アリスを見つめる。
長い髪も、滑らかな輪郭も、微笑んでいる口元も、ずっと見つめていたかった。
(酔ってるせいかな……)
とん、と小さな重みとともに、アリスが寄りかかってくる。
ふわりとミュゲの香りがする。
「よかったね……」
アリスは微笑みながら焚き火を見つめている。
「なんか、眠たくなっちゃったな」
「……ここで?」
ルシが聞くと、ふふっと笑う。
「ここがいいんだよ」
そう言ってアリスはそっと目を閉じた。長いまつげが白い頬に影を作っている。
豪快なニーロのいびきと、アリスの小さな寝息を聞きながら、ルシは泣きそうになった。
静かな野営地の中、薪のはぜる音が心地良く響いている。
目を閉じる前に、もう一度アリスの頬を撫でた。
そして、風が吹くと香る、アリスの匂いを感じながら眠りについた。
◇◇◇
アリスは夢を見た。
果てしなく広がる海で、大きなクジラに乗る夢だった。
肌に触れる水が冷たくて、吹き抜ける潮風が気持ちよかった。
広い海をどこまでも泳いでいく。
そんな優しい夢だった。
──ふと目が覚める。
(……子どもみたいな夢をみてしまったなぁ)
そんなことを思いながら、ゆっくりと横へと視線を向けた。
そこにはまだ変わらず、ルシが静かに眠っていた。
本当にめずらしいことだった……無防備に寝顔を見せるなんて。
愛おしくて、その大きな身体に抱きついてみる。
するとルシはアリスの背中に腕を回す。
(起きては…………いないみたい?)
ルシは穏やかで深い寝息を立て続けている。
アリスはしばらく寝顔を見つめていた。
ルシの体温がすごく温かい……。
頬をつけて、そっと目を閉じる。
しあわせだな。
心からそう思うと、アリスは少しだけ涙が零れた…………。


本日もお疲れさまでした。
しあわせだと泣きたくなるのはどうしてなんでしょうね。
臆病だからでしょうか……?そんな経験はありますか?
今回のBGMは、Bon Iverさん。
透明感と温もりが感じられるアルバムです。
切ないような陰鬱なような雰囲気のファーストも好きです!
それではまたどこかで。
